ドリーム小説 91

 日も傾き、辺りは間もなく夜に染まろうとしていた。
 ブチャラティはポジリポの丘にある広場にいた。辺りには柵の近くで夜景を背景にしながら記念撮影をしている恋人たちや、カメラを構えている写真家の姿がある。
 ボルジュアの一件に蹴りがつき、今夜はフーゴたちに美味い飯でも食わせてやろうと、いつものピッツェリアに予約を入れている。時間は特に指定しなかったが、そろそろ店へ向かわなければ、ナランチャ辺りの腹が背中とくっついてしまうかもしれない。
「ブチャラティ」
 ふらふらしている場合ではないな、と夜景に背を向けようとしたとき、名を呼ばれた。振り返った先にいたのはフーゴだった。片手にはなにやら袋を提げている。
「フーゴか」
「やっぱりここにいたんですね」フーゴはブチャラティの隣へ並び、柵に手をかけた。
 高台ということもあり、冷たい風が二人を襲う。
「よくもこんな寒い場所に一人でいましたね」
「よくもこんな寒い場所にいると分かったな」
「分かりますよ。ここがあんたのお気に入りの場所だってことも、思い出の場所なことも」
 そうか、とブチャラティは軽く返す。そしてやはり寒いのだろうか。隣で鼻水を啜っているフーゴを見て、ブチャラティは広場の近く食べ物や飲み物などを売っているワゴンショップがあることを思い出した。フーゴへ待っているように伝え、広場を出てすぐの場所に停まっているワゴンショップでカプチーノを二つ購入する。
 言われたとおり、夜景を観ながら静かに待っているフーゴへカプチーノの容器を渡す。
「グラッツェ、ブチャラティ」
「カプチーノでよかったか」
「はい」
 ブチャラティもカプチーノを一口含んだ。温かい息を吐けば、白い息が浮かび上がる。
「あんたから言われたとおり、さんの私物は全て、指定された場所へ送りましたよ」
「グラッツェ。手間をかけたな」
「こんな事をさんの前で言ったら怒られてしまいそうですが、やっぱり女性は物が無駄に多いですね。同じ色のニットが何枚もあるし、アクセサリーは同じような模様が何十個もあるし。化粧道具だけで段ボールがいっぱいになったときは驚きましたよ」
「随分と細かく見てるんだな」
 フーゴは、しまった、という顔をする。「ご、誤解しないでください。僕はただ、ミスタが物色しているところを注意しただけで、そんなじろじろとは見ていないッ」
「おいおい。オレは別になにも訊いてないだろ。そんなに焦られると余計に怪しいぞ」
「僕が梱包したのは洋服と、あなたがさんにプレゼントしたドレスだけだッ」
 つまり下着類はミスタが梱包したわけだな、とブチャラティは頭の中で考えを巡らせた。
 必死に釈明を図るフーゴを嗜めるように、分かった分かった、と肩を軽く叩く。誤解が晴れたフーゴは安心した様子で息を吐き、カプチーノを一口飲む。落ち着きを取り戻したところで、フーゴは、そうだ、と思い出したように提げている袋を物色し始めた。
さんの荷物を整理していたら、アバッキオがこれを見つけたんです。あんたに渡そうと思って」
 フーゴは提げている袋から携帯電話を取り出した。
「それは……の携帯電話か?」
 恐らく、とフーゴは頷く。
「なぜそれをオレのところへ持ってきたんだ」
「まあ、とにかくボタンを押してみてください。僕は向こう側で夜景を観てますから」
 フーゴは半ば押し付けるように携帯電話をブチャラティへ渡し、離れた場所へ移動した。
 今日はなにかと物を押し付けられることが多いな、と思いながら、ブチャラティは携帯電話のプッシュボタンを押した。特に番号も何も入力していないが、このまま待っていればいいのだろうか。しばらく待っていると、音声が再生された。
(とても、懐かしい景色を観ているの)
 聞こえてきた声に、世界の音が消えた。ブチャラティは思わず耳から携帯電話を離した。咄嗟にボタンを押して再生を止める。一瞬にして額に浮き出た汗を拭い、携帯電話を見る。液晶には『録音されたメッセージ』と表示されていた。
 ブチャラティは一度だけゆっくりと深呼吸をしてから、再び携帯電話を耳に当てた。
(とても、懐かしい景色を観ているの)
 どうやらメッセージは最初に巻き戻されたようだ。
(いつもの場所で眺めている景色とは少しだけ違うけど、一番いいホテルがここだった)
 間違いない、の声だ。いつメッセージを残していたのかは分からないが、確かに彼女のものだ。ブチャラティは思わず携帯電話に力を込めた。
(このメッセージを聞いたとき、わたしはいったいどこにいるんだろう。海かな、空かな。それともまたネアポリスを離れて旅をしているのかな。正直なところ、いまは先のことを考える余裕なんて微塵にもなくて、あなたと過ごす時間のことで頭がいっぱい。そう……わたしは結局あなたの傍を離れてはいても、いつだってあなたのことばかり考えてた。ブチャラティ)
 彼女の声で最後に名前を呼ばれたのはいつだろう。思い出せないほど、遠い昔のようだ。
(わたしがネアポリスを離れるって言ったとき、ブチャラティはなにも言わずに背中を押してくれたよね。その気持ちはとても嬉しかったし、励みにもなった。でも、わたしってすごく面倒くさい性格をしているから、引き止めてくれなかったな、とも思ってた。ブチャラティがそんなことを言わない人だと分かっていても、やっぱり……少しだけ寂しかったの)
 でもね、との声は一層明るくなる。
(そんな気持ちを吹き飛ばしてしまうくらい、あなたはわたしに素敵な言葉を残してくれた。覚えてるかな。ブチャラティがわたしに『ここで待ってる』と言ってくれたこと。帰る場所を与えてくれたこと)
 ああ、よく覚えている。
(すごく嬉しかった……。元々わたしには帰る場所も、戻る場所もなかったから。あなたと帰る場所が同じだったらいいな、なんて夢みたいなことも考えていたけど、そんなことを言える勇気なんて、あの頃のわたしにはなかった。断られたらどうしようって、不安だったから)
 その不安な気持ちは、オレもいっしょだ。
(別れたあとにあなたのほうを振り返らなかったのは、嬉しくて涙が止まらなかったから。振り向いてしまったら、ブチャラティの傍を離れたくなくなってしまいそうだったから。あの時のことを次に会ったとき、謝らなくちゃなって思ってた。本当に、ごめんなさい)
 それと、と電話越しには唾を飲んだ。
(ネアポリスを離れた理由は、実は旅行なんかじゃあなかった。本当の目的は二つあって、一つは自分の両親を捜すため。もうひとつは……あなたには言えない)
 ネアポリスを離れた理由が二つ、という言葉にブチャラティは違和感を覚えた。から聞いた話によれば、旅に出た理由は一つだけだ。それは先ほど録音上でのが話したとおり、自分の両親の消息を確かめるため。それだけのはずだ。もう一つの理由は聞かされていない。
 それもそのはずだ。もう一つは聞いたとおり、自分には言えないようなことだったからだ。
(最初はそれだけのはずだったんだけど、途中で色々と分かったことがあって……)
 恐らくだが、色々というのは、自分の身に潜んでいる危険と、両親の過去のことだろう。
(あッ、でもね。ミラノで偶然、あなたのお母さんと会ったの。バールでお茶をしてるとき、ブチャラティさん、って女性がいたから、思わず声をかけてしまって。あなたのお母さんってとても綺麗で優しい人ね。目元と口元があなたそっくりだった。わたしがあなたと知り合いだって聞いたら、息子に渡してほしいってあるものを預かってきたの。いまはわたしの手元にあるから、あなたと会ったときに必ず渡すね)
 そう言っておきながら中々渡せなかった理由を、いまこそ彼女に問いただしたいものだ。
(あと、これは直接会って言うのは恥ずかしいから、ここに残しておくんだけど……)
 歯切れの悪いに、ブチャラティは耳を傾ける。
(二年ぶりにあなたと会ったとき、正直驚いた。背はぐんと伸びてるし、声は逆に低くなってセクシーになってたし。なにより、すごくかっこよくなってたから……)
 照れくさそうなの声色に、ブチャラティも自分の頬に熱が集まるのを感じた。
(やっぱり、恋人とかいるのかな)
 それだけ訊くと、は落ち着いた口調へ変わった。
(そんなこと、友人のわたしが気にすることじゃあない、ってあなたは言うかもしれない。でももし気になっている人がいるのなら、あなたならきっと……大丈夫よ。ブチャラティは優しいだけじゃあなくて、人の痛みが分かる男。それに人と話すときは目を見てくれるし、女の子が好きそうなお店だってたくさん知ってる。だから心配しないで)
 ただ、とは続ける。
(ただ、一つだけお願いがあるの。例えあなたに恋人がいても、気になる女性がいたとしても。一日だけでいい。あなたと二人で過ごせる時間をわたしにちょうだい)
 それだけでいい。他にはなにも望まない――とは絞り出すような声で言った。
(本当は他にも伝えたいことがたくさんあるんだけど、せっかくネアポリスでブチャラティにまた会えたんだもの。声だけじゃあなくって、ちゃんとあなたの顔を見て話をしたい。これを聞いている頃にはアマルフィでのデートが無事に終わっていたら……いいな)
 気のせいだろうか。の声が震えて聞こえる。
(わたし、ちゃんとブチャラティを喜ばせることができていた? 運転は下手じゃあなかったかな。あなたの運転に比べたらましなほうだと思うけど……。それにデートだからって緊張して手が冷たくなったりしてなかったかな。逆に手汗で濡れてたらごめんなさい)
 ネアポリスへ戻ってきたを誘って最初に食事へ出かけたとき、支えようと握った彼女の手が妙に冷たかったことを思い出す。
(どうしてこんなメッセージを残すんだ、なんてことは訊かないで。ただ聴いてほしいのは、わたしは自分の行動にひとつも後悔をしていないってこと。二年前にあなたの傍を離れたことも間違いだとは思っていない。これまでの全部は、わたしが納得して選んだことだから。どんな結果になろうとも、わたしはありのままを受け入れる)
 ブチャラティの口から白い息が漏れる。
(わたしはブチャラティ、あなたが幸せでいてくれることが何よりもの望みだったけど、どうやらそれは難しい望みだったみたい。だって……あなたといっしょにいたら、幸せになってしまうのはわたしのほうなんだもの)
 ごめんなさい、とは謝る。
(ブチャラティ。あのときのわたしを助けてくれてありがとう。あなたのお陰で探していたものもようやく見つけることができた。本当に、ありがとう。もしあなたが迷惑じゃあなければ、これからもわたしがあなたの傍にいることを許してほしい。それと……これは、わたしがずっとブチャラティに伝えたかったこと。一回しか言わないから、ちゃんと聞いてね)
 の声と混ざって、電子音が聞こえた。間もなく録音メッセージが切れる合図だ。
(わたし、あなたのことが――)
 録音はここで途絶えた。先ほどまで聞こえていたの声は消え、アナウンスの女が、これまでの録音メッセージを残すか残さないかを訊いてくる。
 ブチャラティは『残さない』を選択した。

91-2

 ブチャラティがスーツのポケットに携帯電話をしまったところを見計らって、フーゴは彼の元へ歩み寄った。足音に気がついたブチャラティと目が合うと、彼の鼻先は赤くなっていた。それは寒いからそうなってしまったのか、それとも他に理由があるのか。フーゴは特に訊き出そうとはしなかった。
 ブチャラティが、カプチーノをがぶ飲みしたら火傷をしてしまった、と言い出したからだ。
 あまりにも下手くそな嘘だと思った。鼻先が異様に赤いことも、少しだけ鼻声なことも。ここに訪れた理由も気付かれているはずなのに、それでも彼は嘘を言う。
「先に言っておきますが、録音されたメッセージはあなた以外、誰も聞いてませんよ」
「そうか」
 それでも大体の見当はつく。がブチャラティに伝えたかったことは山のようにあり、その山はたったひとつの感情で構成されているものだったのだろう、と。
 フーゴは思った。はもういない。彼女がいなくなったことによって、世の中に大きな変化が訪れるわけではない。彼女を知る者が全員、涙を流すわけでもない。けれどもブチャラティがいなくなってしまえば、フーゴを含めた彼を慕う仲間たちの人生は大きく変わってしまう。
 もしかしたらは、最初からそのことを知った上で選択したのかもしれない。
 なぜなら彼女にとってもブローノ・ブチャラティは、自分を変えてくれた男だったのだから。
「なあ、フーゴ」
「なんでしょう」
「お前はこの世界のどこかでオレが死んだと聞いたとき、涙を流すことはできるか?」
 それはとても単純で、難しい質問だと思った。
 ブチャラティのことは慕っている。上司としてもこの上なく理想の存在だ。家族のような存在であるかと訊かれると、どこか気恥ずかしいものがあるが、彼に誘われてギャングの世界に入ってから、決して悪いことばかりではなかったことも確かだ。
 時が進むに連れて、この男について行こう、という意思は強くなる一方だった。この男のためになら自分はなんだってできる。不思議な力と勇気さえ沸いてくる。それはナランチャも同じことを唱えていた。無論、アバッキオやミスタも同じ気持ちだろう。
 けれどもし、今まで指導者として自分を導いてくれたブチャラティがこの世から去ってしまったのなら。自分はいったいどうするだろう。どうなるのだろう。
「オレはと初めて会った瞬間から思っていた」
「なにをです?」
「泣けるってな」
 そう話すブチャラティは、微かに笑みを浮かべていた。その顔には一人の男が一人の女に愛を囁くような優しさが含まれているように、フーゴには見えた。
「花屋の店主から伝言です。エマさんのこと、本当にどうもありがとう、と」
「これで十二回目だな」ブチャラティは笑う。
「それとエマさんが、さんへ会いに行くのなら、とびっきりの花を待ってるから、とも」
「彼女の知り合いにも、話をつけないとな」
 遠くで教会の鐘の音が聞こえてきた。腕時計と見ると、時刻は既に七時を回っていた。
 今夜はいつものピッツェリアに集合。そう言って別れたミスタは今頃、ブチャラティの財布も気にせずにピッツァを食べているところだろう。その隣でナランチャは、本当に食べていいのかな、と思いながらも、運ばれてきた美味そうな料理に手を伸ばしているはずだ。そんな二人の隅でアバッキオがワインをグラスに注ぎ、ブチャラティが座る椅子を用意している光景も安易に想像ができる。
 彼らのことを考えていると、思わず笑いがこぼれた。それは傍にいたブチャラティも同じだったようで、自然と顔を見合わせたあと、また二人で笑った。
「行こう。あいつらがきっと待ってる」
「ブチャラティ」
 フーゴはブチャラティを呼び止めた。ブチャラティはややあってから振り返る。
「僕はこれからも、あなたの役に立ってみせます」
 ブチャラティは一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに口角を上げて微笑んで見せた。
「ああ、期待している」そしてフーゴの肩を叩いた。
 ブチャラティの横をフーゴは歩いた。そんな二人の背を押すように、海風が声を上げる。
「そういえば。さんがよく聴いていた曲のことなんですけど、なんて曲名なんですか?」
「どうしたんだ、突然」
「いや、ちょっと気になって」フーゴは頬を掻いた。
「“change the world”だよ」
 もしかすると、その風は予兆だったのかもしれない。今まで組織に対して忠実だったブチャラティが、まさかあのような行動をとり、彼の行動に対してフーゴがどんな選択をしたのか。それを知るのはもう少し後のこと。
 そして自分が選んだ道は果たして正しかったのか、正しくなかったのか。それを判断することができるのも自分だけだと思い知らされるのは、もっと先のことだった。

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