ネアポリスにはポジリポの丘という場所が存在する。その丘には小さな広場があり、その広場から眺めるネアポリスの景色は世界三大夜景のうちの一つとも呼ばれている。旅行雑誌や写真などでよく見かけるネアポリスの美しい景色は、ほとんどポジリポの丘から撮影されたものといっても間違いはないだろう。
そのポリジポの丘へ向かうまでの道をフェリーチェ・ミヌチョ通りという。その傾斜道をブチャラティは一人歩いていた。この通りを歩くのは久しぶりのことだった。
その理由は二つある。まず一つはポリジポの丘はネアポリス中央駅から一時間ほどかかる距離にあるからだ。ネアポリスの景色に見飽きることは一生ないだろうが、景色を観るために一人でケーブルカーを乗り継いでいくには他に何かが足りない。
それは残された理由にある。ブチャラティも二年前まではこの通りをよく歩いていた。というのにもさらに理由がある。
たどり着いた場所は一軒の建物だ。建てつけは古いが、それがまた味を出していて懐かしい。
ここは二年前、の退院祝いで連れてきたブラッスリーでもあり、ネアポリスを離れる以前まで彼女との待ち合わせ場所として活用していた店もある――のだが、ブチャラティはすぐに店の違和感に気がついた。
明かりがついていない。それに二年前ならば聞こえていたはずの賑やかな声もしない。
ブチャラティは頬に汗を流し、不安な面持ちで階段に足をかけた。ぎい、と古い木材が軋む音は、まるでブチャラティの心を表しているかのようだった。
階段を上り、店の入り口を確認する。普段は開かれている扉は固く閉ざされており、客を招き入れるウエイターの姿も見えない。扉の隙間から店内の様子を窺うが、テーブルや椅子などといった家具はひとつも見当たらない。
「ブチャラティさん?」
その時だ。階段の下から名を呼ばれ、ブチャラティは振り返って見下ろす。そこにいたのは、知り合いの若い男だった。それこそ彼は二年前、走らせてきた車でを待っているときに声をかけてきた人物だった。
「ああ、やっぱりブチャラティさんだ」男はブチャラティに向かって手を振った。
男の隣には若い女が立っている。彼と手を繋いでいるということは恋人だろうか。彼女はブチャラティと目が合うと上目遣い気味で挨拶をし、軽く頭を下げた。
とにかくブチャラティは階段を下りた。そして上からでは分からなかったが、男は二年前と比べてブチャラティよりも背が伸びていた。アバッキオと同じくらいだろうか。
「久しぶりだな。二年ぶりか?」
「そうですね。僕の記憶が正しければ、彼女と最後に喧嘩したのが二年前でしたから」
ああ、そのときの彼女が隣の女性か――。
「ブチャラティさん、ここになにかご用ですか?」
「ちょいと訊ねたいんだが、ここにブラッスリーがあったと思うんだ。知らないか?」
ああ、と男は店の外観を眺めた。「その店なら、つい最近無くなっちゃいましたよ」
追い討ちをかける台詞に、ブチャラティの中で何かが大きな音を立てて崩れ落ちた。
「……なんだって?」
「えっと、無くなっちゃいました。潰れたんです」
「いつだ? いつ無くなった」
「えっと……いつだっけ」男は彼女に問いかける。
「確か三日前じゃあないかな。詳しい理由は分からないけど、噂じゃあこのお店のオーナーさんが麻薬事件に巻き込まれたことが原因らしいけど……」
「麻薬?」ブチャラティは思わず反応した。
はい、と彼女は頷く。「わたしの父がお店のオーナーさんと仲がよかったんです。確かウエイターをしていたんじゃあなかったかな。お店の前によくいた男の方です」
話を聞きながらブチャラティの頭には、初めて店を訪れたときから決まって注文を訊ねてくるウエイターの顔が浮かび上がった。その顔はすぐに消え、ブチャラティの頭の中は白い霧で埋め尽くされていく。
「麻薬か。最近、ほんとうに多いな。僕の友達もついに手を出しちまったし……」
「この辺りもどんどん治安が悪くなっていくから、なんだか怖いな。わたしの友達も麻薬をやるようになってからは酷くなっていく一方だし……」
ブチャラティは慌てて。「きみたちは若い。いや、年をとっているとっていないに関わらず、麻薬なんてものはしちゃあいけない。分かったな?」
「はい、分かってます」
それに、と男は口角を上げて穏やか笑みを作る。
「麻薬のことも含めて、ブチャラティさんがなんとかしてくれるって信じてますから」
ブチャラティは思わず男から目を逸らしてしまいそうになったが、必死に微苦笑を浮かべた。
周りが自分へ向ける視線は温かく、時に厳しい。それは以前から感じている事実だった。
そんな目で見つめないでくれ。オレはお前が思っているほどの人間じゃあない――。
「そうだ。良かったらこれを……」
彼女はハンドバッグから財布を取り出し、その中のポケットから鍵を見せてみせた。
「これは?」
「このお店の鍵です。もう使っていませんから、あなたに差し上げても誰も文句は言いません」
「なぜオレに譲ってくれるんだ」
彼女はしばらく考える素振りをとったあと、ブチャラティに向かって笑みを浮かべた。「ブチャラティさん。あなたのことは彼からよく聞いてます。とても頼りになる方だと。二年前、わたしは彼と大喧嘩をして別れるところまでいったのですが、彼が素敵な仲直りをしてくれたのをきっかけに、随分と仲良くなりました」
当時のことを思い出したのか、彼女の隣で男が照れくさそうに鼻の下を掻いている。
「あんな素敵な方法、彼が思いつくはずがないって気づいていました。でもすごく嬉しかったんです。あのときブチャラティさんが彼にアドバイスをしてくれなかったら、わたしはこうして彼と手を繋いでいなかったかもしれない。くだらないって笑うかもしれませんが、わたしたちはあなたに感謝しているんです」
「そんな。オレはただ……」
「はい、分かってます。だからこそこの鍵はブチャラティさんが持っていてください。もしかしたらあなたの役に立つものかもしれない」
ブチャラティは彼女の手に握られている鍵を見つめる。
「もらってください、ブチャラティさん。見て分かるように彼女はかなり頑固なので」
確かに。彼女は分厚いムートンコートの上からでも分かるほどに華奢な体をしているが、今は鍵を受け取ってもらえるまでここを離れない、という強い態度に見える。
ブチャラティは彼女から鍵を受け取った。実際、譲ってもらえてとても助かった。
鍵を渡すことのできた彼女は満足げに頷いた。
「グラッツェ」ブチャラティは鍵を握り締めた。
「それじゃあ、わたしたちはこれで」
「ああ、引き止めて悪かったな」
「いえ、気にしないでください。これからこの先にある教会に向かう途中だったので」
「教会?」
ブチャラティは奥へと続く坂道を見た。静かに耳をすませていると、全ての罪を洗い流すようなソプラノの声と、教会の鐘の鳴り響く音が海風とともに運ばれてくる。
「僕たち、再来週に結婚するんです。今日はその下見というかなんというか……」
「再来週まで待ちきれなくて」
互いに顔を見合わせて微笑む二人の様子を見て、ブチャラティも自然と顔がほころんだ。
「そうだったのか。そいつはめでたいな」
「ありがとうございます」二人は頭を下げた。
「これからは夫婦喧嘩をしないようにな」
「そうですね。あ、そうだ。よければブチャラティさんもいらっしゃいませんか? ブチャラティさんならお仲間さんもいっしょに席をご用意できますよ」
「気持ちはありがたいが、せっかくの結婚式にチンピラがきたら周りがびびっちまうだろう。代わりに式場へ花を贈るよ。良い花屋を知ってるんだ」
二人は残念そうに肩を落としたが、ブチャラティの言葉に、分かりました、と頷いた。
恋人たちとはそこで別れた。結婚式場である教会に向かって身を寄せ合いながら歩く二人を見届けてから、ブチャラティは再び店の階段を上がった。
握り締めたままの鍵を鍵口へ差し込み、扉を手前に引いて開く。当然だが、店内からウエイターが現れることはなかった。三日前に畳まれたということもあり、店内はそこまで荒れてはいないようだ。厨房として使われていた場所には若干の痛みが残っている。調理中に落としたのか分からないが、油が床に滲みこんでいる跡がある。ブチャラティの足音に反応して、小さな虫が暗闇の中を歩いている姿も見えた。
ブチャラティが向かう場所は決まっていた。例え店内に道が残されていなくとも、足だけは覚えている。
ネアポリスの景色を一望できるテーブル席。初めてを店へ連れてきたとき、気に入ってくれることを期待しながら招待した場所。いまは景色を眺められる窓枠しか残されていないが、海から運ばれてくる風は、あの頃とまったく変わらない。
ふと辺りを見渡すと、赤色の張地が特徴的な椅子がひとつだけ残っていた。近くでよく見てみれば、それは店内に並んでいた椅子に間違いなかった。
ひとつだけ椅子が残されていることに対して、ブチャラティは思わず鼻で笑ってしまう。
椅子を片手で持ち上げ、窓辺のほうへ移動させる。二年前と同じ場所へ椅子を置き、そこへ腰を下ろす。テーブルがないことに違和感を覚えたが、なぜかすぐに慣れた。
慣れないのは向かいに誰も座っていないことと、静かな店内の空気だけだった。
ブチャラティは景色に視線を移した。間もなく夕暮れに染まるネアポリスが広がっている。
そういえば、最後にとこの店へ訪れたときも、こんな景色だったような気がする――。
。その名前を何度呼んだだろうか。いや、決して声に出して呼んでいたわけではない。ただ心の中で呼び続けているだけだ。
病院のベッドで彼女に別れを告げてから一日が経った今でも、まだ実感が持てない。いまでもひょっこり現れそうではあるし、いつもの調子で、ブチャラティ、と呼んでくれそうな気さえする。
しかし、彼女はどこにもいない。携帯電話を鳴らせば、彼女の声が聞けるのではないかとも思ったが、電話を鳴らしても聞こえるのは電子音だけだった。
それは二つの意味での『二度目の別れ』であった。
ブチャラティはポケットに手を入れた。取り出したのは桜のピアスだ。がホテルで襲われたとき、落としたといってアバッキオから預かったものだったが、結局本人に返すことができず、ずっとポケットの中に入れたままであった。恐らく、もう片方はの耳につけられたままだろう。最期に彼女を見たとき、耳たぶに花が咲いていたことはよく覚えている。
のことだ。きっと失くしたと思って今頃、空の上で焦っているかもしれない。
届けたいのは山々なのだが、生憎彼女の後を追いかけるほどの勇気もなければ、考えもない。
ブチャラティが椅子から立ち上がり、そろそろ店を出ようとした時だ。どこからか、せかせかと鉛筆を走らせるような音が聞こえてきた。
ブチャラティが注意を向けたのは、柱の裏だ。そこに何かがいるのは分かるのだが、不思議なことに人の気配を全く感じられないのだ。どんなに息を潜めていても、人間は少なからず気配を発している。しかしブチャラティが店に入ったとき、そんな気配は一切感じられなかった。
「そこに誰かいるのか」
聞こえていた鉛筆の音が止み、柱の裏から出てきたのは小さな少年だった。
「子供?」
「あ……あの、あの。ごめんなさい。覗き見をしていたわけじゃあ、ないんです……」
少年はこちらの様子を窺いながら、スケッチブックと鉛筆を背中に隠して歩み寄ってくる。
「あの、あの。絵を描いていたんです」
「こんなところで絵を?」
少年は、こくこくと頷く。その証拠といわんばかりに背中に隠していた道具を見せてきた。
確かに絵を描いていたようだが、なぜこのような場所で絵を描いていたのだろうか。ネアポリスの美しい景色を描くには絶好の場所ではあるが、少年が出てきた柱の裏からでは、まともに景色を描くことはできないはずだ。
その違和感と同時に、ブチャラティは新たな異変に気がつく。太陽が顔を出しているのにも関わらず、少年の背後には影がないのだ。ブチャラティの髪を揺らす風さえも、少年には影響を及ぼしていない。
ブチャラティは先ほどまで自分が座っていた椅子に少年を座らせ、その前で膝をたたんだ。
「きみはここでなにを描いていたんだ?」
「あの、あの。お兄さんがあまりにも綺麗な顔で座っていたから、その……」
少年はスケッチブックの表紙を捲り、そのなかの一枚を千切って見せてきた。
手渡された絵を見て、ブチャラティは驚いた。画用紙には椅子に座りながら景色を眺めているブチャラティの横顔が描かれている。そして人物だけではなく、ブチャラティが座っている椅子から窓から差し込む夕焼けの光まで丁寧に表現されている。
しかし驚いたのはそれだけではない。画用紙に描かれている絵は、小さな少年が描いたとは思えないほど良くできているのだ。これだけの絵を描けるまで、どれだけの才能を持っていたとしても最低でも十年はかかるだろう。まさに玄人跣の腕前だ。
「すごいな。オレが椅子に座ってからまだ三十分もかかっていないのにこの上手さか」
「あ、あ……ありがとう……」
少年は柔らかそうな頬を緩ませる。
「あの、僕、絵を描くことが好きなんだ。いろんな場所でいろんな人の絵を描くのが」
「そうなのか――」
ここでブチャラティの頭の中で、小さな雷が落ちた。
少年が描いた絵。ブチャラティは何かを思い出し、スーツのポケットを探った。ポケットから出てきたのは、既に皺となっている紙切れだ。その紙切れには以前、フーゴとアバッキオから預かったものだ。紙切れにはフィレンツェの田舎町に家から、たったいま出ようとしているに似た女性が描かれている。
「あ、それ。いちごのネクタイをした人に渡した絵だ」
「やはり、きみが描いた絵だったのか」
「あの、そうだよ。この絵も今日描いたんだ」
「……なんだって?」
おかしなことを言い出した少年に、ブチャラティ思わず抑揚をつけてしまった。
フーゴとアバッキオがフィレンツェへ向かったのは、今日から約一週間前。その日に目の前にいる少年から情報として当時の状況を絵に描いてもらったことまではいい。ただ、同じ日に絵を描いた、という発現には大きな矛盾がある。今日はあれから一週間経った土曜日だ。忘れやすい老人ならまだしも、少年が時間の概念を忘れるはずがない。
もしかすると――ブチャラティはさらに少年へ訊ねる。
「きみ、名前は?」
「あ、あの……クリフだよ」
「クリフ、今日は何月何日だ」
「えっと、今日は何日だっけ」
カレンダーを探しているのか、クリフはなにもない店内を、きょろきょろと見渡している。勿論、この場所にカレンダーなんてものはない。
「こんなものを見たことはあるかな」
ブチャラティはポケットから自分の携帯電話をクリフに向かって見せた。今となっては少し古い機種になってしまうが、いまの時代で携帯電話を持ち歩いていない大人も少ない。子供が持つにはまだ早すぎるが、自分の両親が使っているところくらいは見たことがあるだろう。
クリフは携帯電話を物珍しそうに眺め、ややあってから小さくかぶりを振った。
そうか、と携帯電話をしまい、ブチャラティはフーゴたちから聞いた話を思い出した。
に似た女性は何度もあの家を行き来していた。しかし、ムーディー・ブルースではがあの家を訪れたのは一度きり。目の前にいる少年は二十年前に、あの家の前にある坂道で転倒して帰らぬ者となってしまった人物。
二十年前。によく似た女性。まるで長年経験を積んできたような巧みな絵――。
「今年の一月にどんなニュースを見た?」
「えっと……確か、ギリシャが欧州諸共同体に加盟したんだっけ。パパが新聞で読んでたよ」
違う。ギリシャが欧州諸共同体に加盟したのは今年ではなく、今から二十年前の一九八一年の一月一日のことだ。
やはり間違いない。少年が生きている時間と、ブチャラティたちが現在過ごしている時間には、二十年分の大きなずれがある。少年が事故で亡くなったのはいまから二十年前。そして少年は二十年前に起こった出来事を『今年』のことだと考えて答えた。
「グラッツェ。よくお父さんの話を覚えていたな」
「あの、あの……ありがとう……」
「質問ばかりして申し訳ないな。きみがこの絵を描いたのは二週間前で合ってるだろうか」
「うん。そうだよ」
「この女性はきみの町に住んでいたんだが、どんな人だったのかは覚えているのかな」
少年は考える素振りを見せる。「あの、とても優しい人だったよ。怒ると怖かったけど……。それに去年、赤ちゃんができた、って僕のところにも挨拶に来たんだ。確か赤ちゃんが生まれたのは二週間前だったかなあ。そのすぐ後だったよ。この人がこんな風に家から出て行ったのは。僕が描いたのはそのときの絵なんだ」
少年が坂道で亡くなったのは、その二週間後。の誕生日が三月二十一日であるのなら、少年は約二十年もの間、四月四日を永遠に繰り返し生きていることになる。これをミスタに聞かせたら、彼にとって地獄のような人生になるだろう。あの男が『四』という数字に恐怖を抱くのも分かるような気がしてきた。
つまり――。
クリフが描いたのはではなく、彼女の母親だった。家に何度も訪れている、というクリフの証言にの行動が合致しなかった理由もそれにある。クリフの言う『二週間前』を、フーゴとアバッキオは事件の起きた『二週間前』だと捉え、そこへ現れたへ疑いが向いてしまったのだ。無理もない。ブチャラティから見ても、絵に描かれている女性はどこから見てもにしか見えない。
そういうことだったのか。いままで忘れていた靄が少しだけ晴れたような気持ちになった。
そして、どうりで絵が上手いはずだ。誰にだってできることではないが、毎日好きなことをやり続ける難しさは、二十を越えたブチャラティには思い当たるものもある。
「あの、今日会ったお兄さん二人と同じで、お兄さんも綺麗なものをつけているんだね」
「綺麗なもの?」
「ほら、これだよ」
クリフはブチャラティのスーツの襟元を指差した。彼が言っていたのは、から贈られたハートのブローチのことだった。
は恩人から託された宝物を、何よりも大切にしていたブローチをブチャラティへ贈った。最初はそんな大切なものを簡単に手放そうとするの考えが理解できなかったが、その行為にどんな意味が込められていたのか、今なら少しだけ分かるような気がする。
ブチャラティは、そっとハートのブローチに触れた。
自分の鼓動、この世界で生きている証、そして微かではあるが、の心をも感じる。
「まさか、心をそのまま託されるとはな」
「お兄さん?」
「大人になると独り言が増えるんだ。子供の頃と比べて、一人の時間が多いからな」
「いや、違うんだ。そうじゃあない」
クリフは椅子から立ち上がり、ブチャラティのスーツの裾を掴んで窓際へ引っ張った。
「どうした?」
「お兄さん、ここに立って。早く」
言われるがまま、ブチャラティは窓際に立った。クリフは椅子に座りなおし、スケッチブックを睨みながら既に鉛筆を走らせている。どうやら自分の世界に没頭しているようだった。先ほどまで浮かべていた柔らかな表情が、いまでは真剣そのものの顔つきになっている。
数分後、クリフは走らせていた鉛筆を止めた。頬に流れた汗を拭い、消しゴムのカスを手のひらで集めている。そのカスは携えている缶のなかに捨てていた。
「もういいのか?」
「あ、あの、うん。もう大丈夫。突然引っ張ったりしてごめんね。どうしても描きたくて」
クリフはスケッチブックの一部を千切り、裏返しのままブチャラティへ差し出した。
「あの、これ……お兄さんにあげる」
「二枚ももらっちまっていいのかい」
「もちろんだよ」
ブチャラティはクリフから画用紙を受け取った。それとほぼ同時だったのだろうか。改めてクリフへ礼を伝えようとしたときには、彼の姿は既になかった。クリフがいなくなったと分かった瞬間、店内の様子が元に戻ったような気もした。
間もなく日が暮れる。ブチャラティは椅子に座り、クリフから受け取った画用紙を裏返した。
そこに描かれていたのは、窓からネアポリスの絶景を眺めるブチャラティと、そんな自分に寄り添いながら同じように景色を見つめているの姿があった。