ドリーム小説 89

 三月二十四日、土曜日。ネアポリス内で起きた一連の騒動から丸一日が経った。大通りで起きた事件は目撃者たちからの証言で『動物たちが暴れまわっていた』というところまで転がり、ブチャラティの元へ厄介ごとが訪れることはなかった。無論、この件の裏には組織の圧力がかかっていることは明白である。
 ブチャラティたちの手によって病院へ運ばれた四名のうち、意識を取り戻したのはエマと少年だけだった。エマは看護師の言葉通り、軽い捻挫で済んだため、休養をとってすぐに退院することができた。
 少年は最低でも一ヶ月以上の入院を余儀なくされ、ブチャラティは彼が目を覚ますまで面倒を見ることを医師に約束した。そして血の繋がりがなかったとはいえ、両親を失った彼を子供に恵まれなかった夫婦に引き渡すか、それとも施設に入れるべきかで医師と相談した結果、それは少年が決めるべきだ、という結論に至り、現在は彼の意識が戻ることを期待している。
 近年のイタリア各地で起きていた事件は、ボルジュアを初めとしたギャングチームの企みだったことがブチャラティたちの働きで判明した。今回の任務を機縁にブチャラティを初め、彼の下についているフーゴたちも幹部から更なる厚い信頼を寄せられた。くわえて報酬は大きく、ネアポリスの港に泊まっている一隻の船が、ブチャラティに贈呈されるものとなった。
 しかし、今回の事件の火種となった『SS』について組織側からの言葉はなく、その話題に触れられることもなかった。薬を開発したの父親についての情報も得ることはできず、ポルポに聞いても、そんな男の名前は知らない、と告げられ、さらにはこんな台詞をぼやいた。
 それ以上、首を突っ込んではいけない――。
 組織に属する者ならば、誰にでも分かる暗示だった。の父親について詳しい人物像が明らかになったわけではないが、少なくとも彼が過去のパッショーネと関わりがあったことは確かである。
 それでも未だに分からないことがいくつか残されていることも、また事実なのだった。
 果たしてパッショーネは、ボルジュアが欲していた『SS』を所持しているのか。もしも所持しているのであれば、その目的はどこに存在するのか。果たして組織内の誰が持っているのか。
 薬の開発者であるの父親との関係性は、いったいどこから生まれたのか。いつからパッショーネと関わりを持ち始めたのか。
 そして娘であるを救うため、解毒剤を作っていた父親に手を貸していた人物の真意だ。過去を知る人物として父親を始末する動機には頷けないものがあるが、理由には合点がいく。父親のみならず、なぜ解毒剤までをも抹消する必要があったのだろうか。
 ラディーチェという名は、決して耳にしてはならなかった人物の名だったのだろうか。
 それら全てを知るためには、もう一人の人物が必要であることを、彼らはまだ知らない。

89-2

 フーゴはネアポリス市内の花屋を訪れた。花屋の前では、花壇に水を与えているエマの姿があった。以前訪ねたときとは違い、彼女の腕や脚には痛々しく包帯が巻かれている。それでもジョウロを握る姿は立派なもので、フーゴは酷く感心を受けた。
 花壇を見れば、エマから水を与えられた花たちが洗い立てのシーツのように爽やかな笑顔を咲かせている。今日は昨日の朝に続いて雲ひとつもない快晴だ。花たちも日光浴をすることができて気持ちよさそうに見える。
 どうやらジョウロの水がなくなったようで、エマが俯きながらフーゴのほうへ歩いてくる。しばらく歩いたところでフーゴの存在に気がつくと、エマは一瞬小突かれたような顔をした。しかしすぐに柔らかな笑みを浮かべる。
 ブオンジョールノ。彼女から挨拶をかけられたのち、フーゴも軽くだが頭を下げた。
「お花ですか? フーゴさん」エマが訊いた。
「いえ、ブチャラティから頼まれたんです。エマの様子を見に行ってやってくれないか、と」
「そう、だったんですか」
「エマさん、お身体の方はもう?」
 はい、とエマは頷く。「まだ少し痛みますけど、仕事に支障はありませんので。ご心配なく」
「仕事熱心ですね。誰かさんのように」
「そうでしょうか」
 エマはおかしそうに笑ったあと、持っているジョウロを地面に置き、フーゴの手を取った。
「そうだ。良ければお茶でも飲んでいかれませんか」
「え?」
「お昼時だからお客さんも誰も来なくて」
「そういうことでしたら」
 誘われるがまま、フーゴはエマの後を追う。店に入る前に、フーゴ、と誰かに呼び止められた。声のしたほうを向けば、そこには花屋の店主の姿があった。
「ブオンジョールノ」フーゴは軽く手を挙げる。
「ブオンジョールノ、フーゴ。もう何度も聞いたかもしれんが、エマのことは感謝しているよ」
 いえ、とフーゴはかぶりを振る。「お礼ならばブチャラティとナランチャに伝えてください。エマさんの居場所を突き止めてくれたのは彼らでしたから」
「それでもだよ。ブチャラティは何かと忙しそうだし、直接伝えきれないからね」
「それなら、僕から彼に伝えておきますね」
「グラッツェ。頼んだよ」店主は被っている帽子を軽く持ち上げながら頭を下げた。
 こちらです、とエマに促され、フーゴは店の奥へ入る。入った先には以前、誕生パーティの際に秘密会議のようにミスタと三人で集まったテーブルが置かれている。フーゴはそのときと同じ場所へ座り、さらに奥で紅茶の準備を進めているエマを待った。
 程なくしてティーポットと二つのティーカップをトレーに載せたエマがやって来る。ティーカップには既に湯気が立っており、エマはフーゴに持ち手部分を向けてそれを差し出した。
「グラッツェ、エマさん」
「いいえ」エマはフーゴの向かいへ座った。
 フーゴは冷めないうちに紅茶を飲んだ。フレーバーティーだろうか。とてもいい香りがする。
「美味しいでしょう?」エマは、にこにこと笑いながらフーゴの反応を窺っている。
「はい。とっても」
「滅多にあけないお気に入りのお茶なんです。偶然目が合ったから、開けてみようかなって」
「良かったんですか? そんな大切なもの」
「いいんです。いつまでも大事に置いていたら、せっかくの風味がなくってしまいますから」
 それも確かにそうだな、とフーゴは心の中で頷く。
 それからしばらく二人の間に沈黙が続いた。フーゴの前ではエマが紅茶を飲んでいるが、やはり二日前のことをまだ引きずっているのだろうか、どこか元気がない。
 なにか明るい話題を振るべきかと思ったが、生憎フーゴにはそんな話題は思いつかなかった。
「あの、フーゴさん」
「は、はい。なんでしょうか」 
「ブチャラティは……」
 エマはティーカップを置いた。
「彼はいま、どうしているんですか?」
 彼女の表情を見て、フーゴは思った。きっとエマは自分が花屋に現れてからずっと、ブチャラティのことを訊き出す機会を窺っていたのだと。昼時だから客が少ない、ということは事実なのだろうが、自分に茶を出したのにはこういった思いがあったのだろう。
 フーゴは口付けようとしていたティーカップを音の立てないように置いた。それと同時に部屋の壁に飾られている時計の長針が進む音がした。
 そう。時間はそんな風に、人の気持ちなど知らずに心を置き去りにして進んでいる。
「ブチャラティはいま、騒ぎになった通りを見て回っています。彼は慕われていますからね。街の人たちから呼ばれたら、行かずにはいられない人なんだ」
「どんな理由で?」
「そりゃあもう、説明するのが面倒なくらいに」
 今回の任務を終えてからというものの、ブチャラティはネアポリスで被害に遭った住人たちの様子を見て周っている。それは勿論、ポルポから下された命令ではなく、ブチャラティの意見や言葉、優しさを求めて周りが巻き起こしている風のようなものだった。その風が理由でポルポへ報告を済ませたあとのブチャラティは、他人ばかりに注意を向けている。
 そんなブチャラティに対し、フーゴはほとほと呆れていた。怒りさえもあった。上司と知りながらもフーゴはそんな彼を構わず叱咤してやろうと考えていたが、事を終えてアジトへ戻ってきたブチャラティを前にすると、何も言えなくなった。
 ブチャラティの顔は死んでいた。それは昏睡状態で入院していた父親の命日を迎えるとき。パッショーネが麻薬取引の主力を握っている事実が発覚したときと、まったく同じ顔だった。目は底無し穴のように黒く染まり、その目からこぼれるはずの光の雨はまだ一度も見ていない。
 ブチャラティはいま、暗闇を彷徨っている。大切だった友人を、大切にしていこうと決めた女性を失った虚無の空間を一人で彷徨っている。どこへ向かえばいいのか分からない両足は、ただ誰かに引っ張られているように、フーゴには見えた。
「ブチャラティは昔からそうですね」エマが言った。
「え?」
「自分のことは後回しで、いつだって他人優先。もう少し自分を大切にしたらいいのに」
「そうですね」
 本当にその通りだ、とフーゴは嘲笑気味に笑う。
 それが彼の性格、いやそれは最早変えることのできない性分といったほうが正しいだろう。いつだって他人に目を配らせ、助けを必要としている者には無条件に手を差し伸べる。厳しい口調からは想像もできないような深い優しさでできているような人間だ。
 考えてみれば、ブチャラティはこの世界に入ってから、誰かと二人で寄り添って歩く、という行為をとったことがあるのだろうか。ブローノ・ブチャラティという男と出会ってから、フーゴ自身はもちろんのこと、ナランチャや表の世界で生きていけなくなったミスタ、アバッキオは常に彼の背中を見ながら歩いてきた。
 しかしブチャラティはいったい誰に導かれて歩いていたのだろうか。組織か。ポルポか。麻薬事件に巻き込まれ、亡くなってしまった父親の背中、だったのだろうか。
「それとひとつだけ気がかりなことあって……」
「なんですか?」
「わたしといっしょに病院へ運ばれた男の人は、いったい誰だったんですか?」
 エマの言葉を聞いて、フーゴは一瞬思考が停止した。
 まさか彼女は聞いていないのか。それとも彼が自分の実の父親だと気づいていないのか。
 フーゴは慎重に言葉を選ぶことにした。「どうしてあの男のことが気がかりだと?」
「意識を取り戻す前に、夢を見たんです。顔も名前も知らないわたしの父に呼ばれる夢を」
 それはまた不思議な夢だな、とフーゴは思った。
「顔も名前も知らないのに、どうして父だと判ったのか、なんてことはどうか訊かないでください。わたしには分かるんです。あの声が父のものだったと……」
 エマは手のひらを胸の前に当てた。そして懐かしいものを語るような口調で続ける。
「既にお気づきかもしれませんが、わたしは小さい頃、ネアポリスの路地裏で孤児として過ごしていたんです。両親がいなければ帰る場所もない。自分がこんな目に遭ったのは両親のせいだと、昔から二人を憎んで生きてきました。でも、どうしてでしょうね。初めてだったんです。夢に父が出てきたのは。声のしたほうへ向かえば向かうほど遠ざかっていって、夢から覚めたときにはわたしの手を握りながら眠っている男の人がいた」
 二人の手を繋がせたのは、ミスタだろうか。それともアバッキオだろうか。
「その人にはもう意識がなかった。顔も名前も知らないのに、その人の寝顔を見た瞬間、涙が止まらなくて。もしわたしに父がいるのなら、こんな優しい手をしている人がいいなって。そう思ったんです」
 目尻からあふれ出す涙を拭うエマに、フーゴはポケットティッシュを渡そうとしたが、彼女に制された。エマは涙声で、ごめんなさい、と言いながら手の甲で涙を拭う。
 エマと話すのはこれで数えるほどだが、彼女の性格はブチャラティからよく聞いていた。
 花屋の花が埋もれてしまうほどの笑顔を持っている少女がいる。そんな明明とした性格の持ち主であるエマに孤児の過去があったとは思わず、フーゴは驚いた。
「フーゴさんはご存知なんですか?」
「なにがですか?」
「だから、その……。亡くなった男の方を……」
 亡くなった男――ジョエルがエマの実の父親であることを、フーゴは結局、エマには伝えなかった。ブチャラティからジョエルが娘であるエマを危険に巻き込まないよう、苦渋の決断で見放した、という話を聞いていなければ、もしかしたら話していたかもしれない。
「エマさんには確か、恋人がいらっしゃるんですよね」
「え? あ……は、はい」
「大切な人といっしょにいる。それ以上に大切で幸せなことはないと、僕は思います。ただブチャラティの台詞を代弁させてもらうとするならば、どうか父親を憎まないでください。いまはどこにいるのか分かりませんが、こうしてエマさんがいるのは、両親の愛から生まれたことに変わりはないのだから」
「そう、ですよね……」
 フーゴの言葉を噛みしめるように、エマは目を閉じながら何度も頷き、やがて微笑んだ。
「ありがとうございます、フーゴさん。本当にブチャラティと話しているみたいでした」
「僕が彼と一番長いですからね」
 あ、いや……、とフーゴは首を振る。
「彼と長い時間を過ごした人は、他にもいました」
さん、ですね」
「はい」
 その大切な人がいなくなったとき。心にできた穴を埋めるまでには時間がかかってしまう。心にできた大きな穴は傷み、やがて記憶になる。記憶は非情にも時を選ばず、優しく人間に寄り添ってしまい、時にはさらに心を傷つける材料にもなる。
 一度感じた痛みは消えない。成長しない。どれだけ時間が経っても癒えることのない厄介な傷は、どんなに優しい記憶をしてでも治すことはできないのかもしれない。
「ブチャラティがお花を選びに来たら、うんと素敵な花を用意してあげなくっちゃ」
「エマさんは、もう会いに行かれたんですか?」
「いえ、わたしはまだ」
 それに、とエマは部屋に飾られている花に触れる。
さんにいま一番会いたいのはわたしたちじゃあなくて、ブチャラティのはずだから」
 フーゴは小さく笑った。「やっぱり、エマさんはブチャラティのことをよく解っていますね」
「わたしも昔はブチャラティに憧れていて、よく彼のことを眺めていたからだと思います」
「諦めたんですか?」
「諦めるもなにも、二年前にブチャラティがここを訪れたとき、普段より元気がなかったから訊ねたんです。どうしてそんなに落ち込んでいるのかって。そうしたら彼、なんて答えたと思います? オレの元から天使が離れちまったんだ、なんて言ったんですよ」
「なるほど」
 ブチャラティが天使と呼べるほどの女性は、フーゴの記憶では一人しか存在しない。
「だからブチャラティがここへ花束を買いにきたとき、嬉しかったんです。見失っていた人をようやく見つけたんだなって。でもまさか、こんなことになるなんて……」
「それもこれも、全部運命だったのかもしれない」
「え?」
「いえ、なんでも」
 それでは、とフーゴは残った紅茶を飲み干して椅子から立ち上がり、花屋を後にした。
 アジトへ着くと、ブチャラティ以外の三人が普段通りの生活を送っていた。ナランチャは電化製品屋で購入したばかりのラジカセでお気に入りの音楽をヘッドフォンで聴き、ミスタはテレビでスポーツ観戦をしている。その向かいのソファーでは、アバッキオが一眠りから覚めたというところだった。
 普段通りの生活に見えるが、フーゴを含めた四人には僅かだが覇気は感じられない。それはこの場にいる全員が、自分以外のことを同じように見ているはずだろう。
「ブチャラティは?」フーゴが訊いた。
「さっき一度戻ってきて、今日も夜には戻るって言ってたぜ。今晩はいつものピッツェリアに集合だってよォ。多分ブチャラティの奢りじゃあねーか」ミスタが答える。
「そうか。夜には戻る、か」
 フーゴは腕時計を見た。時刻はまもなく午後二時。三月下旬では外がまだ明るい時間だ。
 ラジカセで音楽を聴いているナランチャは、聴き入るように目を閉じているようだが、どうやら眠ってはいないようだった。彼の手には公園で咲いているようなタンポポの綿毛があり、それを駒のようにくるくると回している。
 フーゴはナランチャの隣に座った。
 ナランチャはタンポポの綿毛を下にしてふう、と息を吹きかける。辺りに舞った綿毛は部屋に流れている隙間風に乗せられて飛んでいく。ふわふわと飛んでいく白い綿毛を眺めてから、ナランチャは小さなため息をこぼす。
「ナランチャ?」フーゴは首を傾げる。
「なんかさァ。オレはのことを別に嫌いだとは思ってなかったし、どちらかといえば好きだったよ。でもオレはのことを全然知らないから、実感が沸かないんだ」
 ここにブチャラティがいないからこそ、ナランチャは本心が言えるのだろう。
「でも、ブチャラティが悲しいっていうのはオレも悲しいわけでさ。そーしたら段々とブチャラティの気持ちを通じて、がいないことが悲しいと思えるようになった」
 さっきからここがすごく痛いんだよ。ナランチャは自分の胸を掴み、ぎゅうと目を閉じた。
 ナランチャの言動もあってか。真意は分からないが、アバッキオがゆっくりと席を立った。彼の足はアジトの扉へ向かっていく。
 どこへ行くんだ、というフーゴの問いにアバッキオは何も言わずにアジトを去っていった。彼も最初はを深く疑っていたが、色々と思うところはあるのだろう。
「まったくよォ。せっかくブチャラティと良い感じになったっていうのに、こんなのってあるか? だからあれほど四つ星ホテルはやめろって言ったんだ」
 ミスタは、どんっとテーブルの上に足を置いた。
「好きな男を想いながら死ぬなんて、どんだけブチャラティのことを想ってたんだ。どんだけあの人のことを考えながら生きていたんだ。ドが三つ付くほどに一途じゃあねーか。勿体なさすぎるぜ、ほんとによ。ああ、やっぱり四は駄目だ。駄目だぜ、ほんと」
 ミスタはテレビを眺めていた。テレビで行われているサッカーの試合では、イタリアのチームがペナルティーキックを入れ、ゴールを決めているところだった。
「ミスタ。悪いけど、僕もちょっと出てくる」
「ああ。ピッツェリアで会おうぜ」
 ミスタは片手を挙げ、リモコンを手に取った。
「ああ、そうだ。フーゴ」
「なんだ?」
「ブチャラティもちゃんと連れて来いよ。あの人がいなくちゃあ、オレたちは腹いっぱい飯が食えないんだからな」言いながらミスタは後ろ手を振った。
 フーゴは無言で頷き、アジトを出た。今までどこへ行っていたんだ。そうブチャラティへ訊ねる者は誰もいない。彼も訊かれるのを待っているわけでもないはずだ。
 それでも彼は誰かを待っている。心を共にしたいと思える者を。自分を導いてくれる者を。
 彼はいつだって、待ち人なのだから。

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