ドリーム小説 88

 午前六時二十三分、ネアポリスの日の出。まるで世界中から音が消えたように、辺りでは風の吹く音から、人の足音すら聞こえないほどの静寂に包まれていた。
 ブチャラティは胸の中に溜まっていた空気をゆっくりと吐き出した。濁った空気中に白い息が浮かぶ。それと同じように、ブチャラティの目の前で白い息を吐き出している者たちがいた。
 二人いる。一人は自分に攻撃を仕掛けようとしたボルジュアのスタンド。息絶える寸前の虫の息のような小さな呼吸だ。レイラ・セッションズはブチャラティと視線と合わせたあと、自分たちの間に挟むような形で立っている人物にゆっくりと目を向けた。
 その目の動きと同調するように、ブチャラティも自分の前に立っている人物に視線を向ける。それと同時に白い息が漏れ出した。今度は白いだけではない。血の色を交えながら吐き出された。
 ――誰かがそう呟いた瞬間に、ぼやけていたブチャラティの視界がはっきりとした。
 地面には赤い血溜まり、そして白い羽根。
 視線を上げれば、見慣れた髪色と後ろ姿。そして見慣れない白い物体が浮かんでいる。
 視線を下げれば、の腹部がレイラ・セッションズの拳に貫かれているのが見えた。その光景を見て、ブチャラティは全身の体温が一気に冷めていくのを感じた。
 の血を浴びたレイラ・セッションズの拳は、ブチャラティに触れる寸でのところで留められていた。ブチャラティに触れさせまいとしているのは、の背後に浮かんでいる彼女自身のスタンドだった。腹部を貫いた腕をこれ以上先へ進ませないように、レイラ・セッションズの腕を震える力で掴んでいる。
 のスタンドだと思われるそれは、白を基調とした人型のスタンドだった。レイラ・セッションズを引き止めている腕には羽根のような飾りがある。その羽根はブチャラティの足元に散らばっているものと同じようだった。
「なぜ、がここに」
 ブチャラティの背後で倒れているボルジュアが言った。
「お前の後ろに浮かんでいるのはスタンドなのか。お前もスタンド使い、だったのか」
 ボルジュアの問いに対して、からの返答はない。ただ呼吸を繰り返しているだけだ。
 ずるりとレイラ・セッションズの腕がの腹部から抜かれた。それと同時に彼女の傷口から大量の血が溢れ、の体がブチャラティへ向かって傾く。
「――ッ」
 ブチャラティは片腕でを支え、もう片方の手でボルジュアの身体に延びているジッパーを手前に引いた。そのジッパーは先ほど、ボルジュアの体内に埋め込んだパープル・ヘイズのカプセルの蓋をしている縫い糸のようなものだ。
 カプセルの蓋を施していたジッパーが解かれ、ボルジュアが悲鳴を上げ出す。彼の体内でパープル・ヘイズの殺人ウイルスが拡散された証明だ。
 感染の巻き沿いを食らわないように、ブチャラティはを抱き上げて距離をおいた。
「ブチャラティ!」フーゴが駆け寄ってきた。
 駆け寄ってきたフーゴの頬には汗が浮かんでいた。常に冷静に物事を判断できる彼が、これだけの汗を流しているのは珍しいことだった。
「ブチャラティ……」
 腕の中での声が聞こえ、ブチャラティは思わず彼女を支えている腕に力を込めた。
 ――ブチャラティが必死な声で呼んだ。ブチャラティの呼び声に応えるように、小さく開かれている目の奥で眼球が動いた。その動きは既に見えていない視界の中で、自分の名を呼ぶ人物を探しているようにも見えた。
 しかし、はなにも言わない。瞬きを繰り返すこともなければ、微笑みさえも浮かべない。繰り返している白い呼吸も徐々に回数が減っていく。
 とても嫌な予感がした――。
 やがて辺りに響いていた悲鳴が消えた。ブチャラティはボルジュアのほうを向いたが、そこに彼の姿は残されていなかった。遺されていたのは衣服だけだった。
 ボルジュアが死んだ。事実としていま分かっているのはこれだけだが、不安はもう一つある。
 ブチャラティが考えを巡らせていると、近くから人の話し声が聞こえてきた。声のするほうを向けば、スーツに身を包んだ若い男が携帯電話を耳に当てながら誰かと通話をしている。その傍にはブチャラティたちに怪しい視線を送っている老年の女が一人。
 今度は後ろから悲鳴が聞こえた。悲鳴を上げた若い女の傍には、弾丸を浴びた少年が横たわっている。
 ブチャラティは腕時計を睨んだ。時刻は間もなく七時になろうとしている。木曜日から休みたいと思えるほど呑気なイタリア人でも、早朝から勤務へ向かう者はいる。
 間もなく人が行き交う時間だ。これ以上この場で騒ぎを大きくするわけにはいかない。道路に遺体となって倒れている警官は、直に通行人が発見して通報するだろう。
 しかし、と遠くで倒れている少年に関しては、他人には任せられない強い思いがある。
「フーゴ」
「はい」フーゴの声には緊張の色が含まれていた。
と彼を車に乗せてこの場を離れる。急げ」
 ブチャラティの指示にフーゴは躊躇うことなく、少年の元へ駆け寄った。少年に伸ばそうとしている若い女の手を振り払い、少年の体を抱き上げる。女は当然のようにフーゴに対して罵声を浴びせる態度をとったが、フーゴは黙って女に向かって金を握らせた。これで見たことを全てなかったことにしてくれ、という脅しという名の賄賂だ。
 ブチャラティはを抱えたまま、路上に停めている車へ向かう。その時、自分たちに向かって小さな光が浴びせられた。小さな光の正体はカメラだった。カメラを構えているのは小太りな男で、を抱えているブチャラティに向かってその太い指を指す。
 その行為にブチャラティの眉が動く。「てめえ、いったいなんのつもりだ。そこを退け」
「お前、自分がなにをしているのか分かってるのかッ」
「聞こえなかったのか、豚野郎。オレはいま、誰を殺してもなにも感じないほどに余裕がない」
「い、いい遺体を車で搬送して、どこかに捨てる気なんだろうッ。遺体を運ぶことは――」
 その先を黙らせたのは、他でもないスティッキィ・フィンガーズの拳だ。カメラもろとも粉砕された男はその場に泡を吹いて気絶した。
 ブチャラティは先を急いだ。を助手席に座らせ、フーゴが少年と共に来るのを待つ。
 程なくしてフーゴと少年が後部席についた。無論、少年もと同様ぐったりとしている。
 フーゴが乗り込んだ瞬間に、ブチャラティはアクセルを踏んだ。後部席から、どこへ向かうんですか、というフーゴの問いかけが聞こえたが、ブチャラティは何も答えなかった。答える余裕がなかった。
 ハンドルを握る手が情けないほどに震えているのは寒さのせいだと、自分に言い聞かせながら、ブチャラティはただひたすらに車を走らせた。

88-2

 ブチャラティの荒っぽい運転でたどり着いた場所はネアポリス市内にある病院だった。フーゴは普段からあまり医者の世話になることはないが、ここの病院は来たことがある。それは組織の仕事で怪我をしたナランチャが手当てできない状況になったとき、ブチャラティに紹介された病院がここだったからだ。
 病院にたどり着いた時点で、フーゴはブチャラティの考えを瞬時に察した。ぐったりとしたを抱えて車を降りるブチャラティに続くように、フーゴも力を失っている少年を抱えて彼の後を追いかける。
 早朝にも関わらず、表玄関は開いていた。待合室には数人の看護師が既に待機しており、と少年の状態を一目見てからすぐに動き出した。フーゴたちは一人の看護師に案内され、長く続いている廊下を進んでいく。
 フーゴは廊下を走りながら、ブチャラティの背中をちらりと見た。車に乗り込んでからというものの、ブチャラティは依然として無言を保っている。それも無理のないことだった。彼の心境はまさに言葉では表しきれないことだろう。他のメンバーと比べてフーゴはブチャラティと長い関係にあるが、いまの彼がなにを考えているのか、全く分からない。
 長い廊下を歩いた先で、フーゴも顔馴染みである医者がやって来た。彼は自分たちが訪れることを分かっていたのか、運んできたストレッチャーにを寝かせるように命じた。フーゴももう一台のストレッチャーに少年を寝かせ、大きな扉の奥へ消えていく二人を見送る。
 騒がしかった廊下が一気に静まり返り、フーゴは大きく息を吐いた。その後ろから一人分の足音が聞こえた。振り返った先には看護師が立っていた。
「さあ、二人はこっちに来て」
「いえ、僕たちはここで待っています」
 看護師はかぶりを振った。「だめよ。あなたたちも怪我をしているんだから」
 そういえばそうだったな、とフーゴは今になって自分が負っている傷の痛みを思い出した。
 看護師の案内で、フーゴとブチャラティは待合室へ向かった。待合室には既に治療用道具が揃っており、フーゴ、ブチャラティの順番でそれぞれ手当てを受けた。
 フーゴたちの手当てはほんの数分で終わった。と少年に比べれば、自分たちの傷は大した怪我ではない。寧ろこんな傷は日常茶飯事だ。それでも病院というのは、怪我人を放っておくわけにはいかない。例え助かる余地のない――フーゴはここで考えるのを止めた。
「それじゃあ、あなたたちはここにいてね」
「あの、いまの患者の前に運ばれてきた二人は?」
 フーゴの言う二人とは、エマとジョエルのことだ。
 看護師は道具を片付けている手を止め、フーゴに向き合う。「女の子のほうは大丈夫。いまは点滴を打って眠っているけれど、早ければ明日にも退院できるわ。でも……」
 分かりやすい答えだった。
 フーゴたちは何も言わなかった。看護師は片付けた道具を持って、待合室から去っていく。
 看護師が去ったあとも、二人は無駄な言葉を交わすこともなく、ただひたすらに待ち続けた。待合室に設置されている時計だけが音を刻み、重たい空気を換えるように空調が回りだす。それでも場の空気は変わらず、フーゴは思わずネクタイを緩めた。
 数十分後、喉の渇きを覚えたフーゴは、部屋の隅に置かれているウォーターサーバーを見て立ち上がった。自分とブチャラティの分にと、二つの紙コップに水を注ぐ。
「どうぞ」フーゴはブチャラティに紙コップを差し出す。
「置いておいてくれ」
「分かりました」
 フーゴは言われたとおり、ブチャラティの前にあるテーブルの上に紙コップを置いた。
 水を一口飲み、ため息を吐く。俯けば、紙コップの水に血色の悪い自分の顔が映っている。
 ブチャラティはソファーに腰を深く沈めたまま、腕を組んで目を閉じている。その行為はまるで神への祈りのようにも見え、フーゴは何も言わずに目をそらした。
 こんなことはあまり考えたくないが、二人の意識は完全に途切れていた。少年は胸を銃で撃たれ、は腹部が貫通するほどの致命傷を負っている。こうして待っている間にも、彼女たちは医師から懸命な治療を受けているのかもしれないが、フーゴは病院の裏側を知っている。
 これはギャングになる前、医師として活躍していた親戚から聞いた話だが、搬送された患者を受け入れはするが、既に助かる余地のない者になにをしても意味がない。だからといってなにもしないまま、残念です、と頭を下げるわけにもいかない。
 ならばなにをするのか。
 時間稼ぎだ。命を助けるために手を尽くしているかのように見せかけ、何もしない。そして時間が経過すれば、医師は全力を出したことを装って遺族たちに死を伝える。なにもしないという言い方は語弊があるが、なにもできないのだ、と当時、親戚の男は話した。
 ブチャラティからはよく、フーゴはなんでも知っているな、と言われてきたが、全てを知ることが良いことだとは思わなかった。知識はもちろん役に立つが、知らなければよかったことはそれと同等のほどにある。親戚から聞いたその話も聞いていなければ、ブチャラティのように純粋な気持ちで彼女たちの無事を祈れたかもしれない。
 短針がひとつ進んだ頃、いままで黙り込んでいたブチャラティが顔を上げた。テーブルの上に置かれている紙コップの水を飲み干し、はあ、と息を吐く。
「フーゴ」
「はい」フーゴは丸めていた背中を正した。
「任務は完了した。ポルポにはオレが報告へ向かう。後始末は任せてもいいだろうか」
 こんな状況でも、この男は頭の中で仕事のことを考えているのか、とフーゴは正直怒りを通り越して呆れることすら忘れてしまった。
 ブチャラティからの注文にフーゴは、分かりました、と答える。自分でも分かるほどぶっきらぼうな声だと分かっていたが、言い直すことはしなかった。
 それと、とブチャラティは続ける。「お前はオレの前にが現れた瞬間を見ていたか?」
「え?」
はオレの家で寝ていたんだ。とても一人で動ける状態じゃあなかった。それなのに彼女はオレをボルジュアからの攻撃を庇うように目の前にいた」
「それは……」
「彼女は二年前、こんなことを言っていた」
 ――ああ、あれね……。その人に会いたいだとか、その人のことを思った心だとかに反応して、その人の元へ一気に飛んでいける魔法があればいいのに。
 フーゴはブチャラティから、そのときの話を詳しく聞いた。そしてその日がフーゴとブチャラティが出会う前日の出来事であったことも聞いた。
「それじゃあ、さんのスタンド能力は……」
「特定の場所や人物の元へ瞬間的に移動できる能力かもしれない。オレの単なる憶測だがな」
 いや、とフーゴがかぶりを振る。「あなたの考えは合っているかもしれない。ムーディー・ブルースが追っていたさんの姿が消えたことを覚えていますか? 彼のスタンドはどこまでも追跡を続けられますが、瞬間移動のようなものには対応できない。もしもさんがあの時点で無意識にスタンド能力を発揮していたのであれば、辻褄が合います」
「仮にそうだったとして、そのときはなにを思って、そしてどこへ移動したんだ?」
「そこまでは……」僕にも分かりません、とフーゴは語尾に連れて声を落としていく。
 ブチャラティの背後からボルジュアのスタンドが攻撃を繰り出したとき、フーゴは数十メートル離れた場所でその光景を見ていた。瞬きをしたあとに見えたのは、危険を察知して振り返ったブチャラティの前に現れたの姿。彼女の背後に浮かぶ白い彫刻像のようなスタンド。断末魔にも似た鳥のような鳴き声を聞いたのは、彼女が現れてすぐのことだった。
「それと、これを見てくれ」
 ブチャラティがポケットから取り出したのは、白い羽根だった。所々に血痕が残っている。
「これはのスタンドの一部だ。少し欠けてはいるが、完全には消滅していない」
「ということは……」
 ブチャラティは黙って頷いた。まだ望みはある――彼はそう伝えたいのだろう。
 その時だ。待合室の扉が軽く叩かれた。その音にフーゴとブチャラティは立ち上がる。
 待合室に入ってきたのは先ほどの看護師だった。彼女は二人に、着いてきて、とだけ言う。
 フーゴとブチャラティは互いに顔を見合わせたあと、先にブチャラティが部屋を出た。二人が案内されたのは、と少年が運ばれた部屋の前だった。そこには手術に居合わせた看護師たちとなにやら会話を交わしている医師の姿があった。医師はフーゴたちの姿を捉えると会話を止め、看護師たちはその場から離れていった。
「ブチャラティ――」
「状況を教えてくれ」医師の言葉を遮る勢いで、ブチャラティは掴みかかるように言った。
 医師は唇を舐めたあと、息を吐いた。「きみには言葉で説明するよりも、見せたほうが早い」
 着いてきてくれ、と医師は奥の部屋ではなく、その隣の部屋へ二人を案内した。医師が先に部屋へ入り、フーゴはブチャラティのために扉を押さえた。しかしブチャラティは入ろうとしない。ただ部屋の奥を見つめている。
「ブチャラティ?」
 フーゴの呼びかけに、ブチャラティは反応しない
「ブチャラティ、どうしたんです?」
 ようやく、といった様子でブチャラティは反応を示した。「……いや、なんでもないんだ」
 ブチャラティは目を逸らし、中へ入った。フーゴは疑問に思ったが、すぐに二人の後に続く。
 部屋には一台のベッドが置かれていた。奥の空間は大きなカーテンで仕切られており、もう一台ベッドが置かれているのが確認できる。
 手前のベッドには、身体に点滴の管が巻かれている状態の少年が眠っていた。彼の傍には、心臓の動きや心拍数を計るモニターが設置されている。
「生きているのか?」ブチャラティが訊いた。
「ああ、生きている」
 医師は少年が眠っているベッドの柵を掴んだ。
「この子はとても頑丈な子だと思ったが、実はそうじゃあなかった。銃弾は確かに急所に当たってはいたが、この子が胸ポケットに入れていたあるものが防いでくれたんだ」
「あるもの?」
 医師は白衣のポケットに手を突っ込み、あるものを二人に向かって広げて見せてきた。
 それはが少年に譲っていた日本のお守りだった。弾丸を受けた衝撃で原型を失ってはいるが、ブチャラティとフーゴだけにしか分からないものだった。
 しかし、こんな薄い布が弾丸を急所から防いだこという話には少々無理がある。そんなこちら側の考えを見通していたのか、医師はポケットからもう一つ取り出した。ブチャラティの手のひらに置かれたのは、歪な形をした鉛のようなものだった。
「これは?」
「日本の硬貨だよ。それが三枚ほど重なって入っていたんだ。本当に奇跡のようにね」
 フーゴはブチャラティからかろうじて形を留めている一枚をもらい、表と裏を見る。どちらが表裏なのかは分からないが、フーゴは数字ではないほうに彫られているとあるものを見て、思わず目を凝らした。
「ブチャラティ、これ」
「なんだ?」
「この花、さんが誕生パーティにくれた焼き菓子と同じ形をしています。確か……」
 桜の花、とブチャラティが呟いた。
「それだ。桜の花だ」
 形を留めていれば綺麗な桜が咲いていたはずなのだが、現在は散らすように崩れている。
 その瞬間、ブチャラティの指先から硬貨が落ちた。それは硝子が割れるような音だった。
 フーゴは床へ落ちてしまった硬貨を拾い上げようと、視線と姿勢を下に落とした。そこでフーゴは、はっとした。いや、全てを察したといったほうが正しいかもしれない。
 床には落ちた衝撃で欠けた桜の硬貨の他にも、ひとつの白い羽根が落ちていた。それは先ほどブチャラティが手に持っていたものだ。フーゴは硬貨を拾い上げ、羽根を掴もうとするが、そこにあるはずの存在を手にすることができない。何度も何度も手を伸ばすが、フーゴの指先は冷たい床を殴るだけだ。
 それを止めるように部屋の隙間風が窓辺のカーテンを揺らし、一筋の太陽の光が注がれた。その一線は白い羽根を照らし、まるで光の中へ誘い込むように朽ち果てていく。
 まさか――フーゴが言った。吉兆を投げるように医師を見れば、相手は視線を落としたあと、すぐに視線を持ち上げてブチャラティのほうを向いた。
「ブチャラティ、彼女に家族は?」
「いない。既に他界している」
「親戚もか?」
「それは分からない」
「それじゃあ、さんには他に身内はいないのか……」医師はため息混じりに訊いた。
「……いや」
 ブチャラティは一歩、前へ進んだ。
「オレがいる」
 ブチャラティの言葉に対し、フーゴは驚くこともなければ違和感を抱くこともなかった。それは医師も同じで、驚き顔を浮かべはしたが、それは一瞬のことだった。
 そうか、と医師は頷き、ブチャラティを奥のベッドへ促すようにそちらに視線を送った。
「フーゴ」
「はい」
「すぐに戻る。お前は先に戻っていてくれ」淡々とした口調でブチャラティは言った。
「分かりました」
 返事をした瞬間、ブチャラティは奥のベッドに向かってゆっくりと歩き出した。フーゴは最後までその姿を見届けることもなく、医師と共に部屋を出た。
 静かに扉を閉め、フーゴは自然と隣に立っている医師と目が合う。医師は部屋を出た廊下に設置されているソファーに腰を下ろした。フーゴも少し間をあけて隣に座る。
「これは偶然なのだろうか」
「え?」
 医師は語り出すように話し出した。「彼、ブチャラティが初めてここへやって来たときのことは、今でもよく覚えているよ。あの時の彼はまだ十二歳だったかな。あんまりしっかりしているものだから、どちらが大人でどちらが子供かも分からなかった。けれどギャングになって再び病院に現れたとき、わたしは改めて彼のことをとんでもない子だと思った。まさか、父親を守るためにギャングになるだなんて思わないじゃあないか」
「ブチャラティから聞いたんですか?」
 まさか、と医師は苦笑する。「彼がそんなことをわざわざ口にするような男ではないことは、きみが一番よく知っているんじゃあないのかい。ブチャラティはわたしに何も教えてはくれなかったが、彼は優しい子だ。訊かなくてもすぐに分かったよ」
 でも……、と医師は広げた脚の上で固めている拳に力を入れた。それは微かに震えている。
「結局、彼の父親は後遺症を残したまま死んでしまった。そしてこれはわたしも無意識のことだった。図ってやったなんてことじゃあ決してない。彼の父親が最期にいた場所は、まさにいまさんが眠っているあの一室だったんだよ。ベッドもあの時と同じだ。場所も変わっていない。ブチャラティはあの部屋に入る前から、もう気づいていたのかもしれないな」
 フーゴは部屋へ入る前のブチャラティの様子を思い出していた。そういうことだったのか。
「不幸な子だと思った。ブチャラティは街の人々に寄り添っているというのに、彼自身がいっしょにいたいと願う人ほど、彼の傍から離れていってしまうのだから」
 背中を丸くさせて涙を流す医師に、フーゴはかけられる言葉が浮かばなかった。
 病院の外に出ると、太陽の光がフーゴに向かって注がれる。見上げれば目の前には快晴の空が広がっている。雨上がりの空は明るく高いとは聞くが、これだけ清々しい景色を目にしても、フーゴは笑うことができなかった。
 その時、フーゴの携帯電話が震えた。画面にはナランチャの名前が表示されている。
「ナランチャかい」
(あッ、フーゴ! お前、やっと出たな。さっきからかけてんのに全然出ないからさァ~~)
「ごめん。電源を切っていたから」
(なあなあ、ブチャラティは?)
「ブチャラティはいま外せない用事があるんだ。きっとすぐに戻ってきますよ。大丈夫」
 そっかあ、とナランチャの安堵の息が吹く。
(それじゃあ、任務は無事に終わったんだな)
「ああ、終わったよ」
 フーゴは携帯電話を握り締め、空を仰いだ。
「終わったんだ」

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