彼女が車を見つけやすいように外で待っていようか、と考えているときだった。助手席側の窓がこんこん、と叩かれ、ブチャラティは音のしたほうへ向く。窓の向こうには顔見知りの若い男がいた。視線が合うと、相手は、ブチャラティさん、と笑顔で手を振ってきた。
ブチャラティは車から身を出し、反対側へ回って男と向き合う。「どうした?」
「突然すみません、ブチャラティさん。以前のお礼をしようと思ったんです」
「礼?」
「ほら。僕が彼女と喧嘩をしちゃったとき、どうやって仲直りをしたらいいかって話ですよ」
ああ、そのことか、とブチャラティは過去に男から受けた相談事を思い出す。
「ブチャラティさんのアドバイス通りに実行してみたら、彼女も機嫌を直してくれました。それに今後からは喧嘩を起こさないように互いに決まりごとも作ったんです」
「そうか」
「こんな言い方をするのも変ですが、お互いに良い機会で喧嘩ができたのかもしれません」
「そう考えられるのも立派な前進だよ。その分だと、今度からオレの手助けがなくても平気だな」
「努力します」
男は若干弱腰な様子で苦笑を浮かべたあと、ブチャラティの背後を見て、体の向きを変えた。
「お邪魔してすみません。それじゃあ、僕はこれで」
失礼します、と軽く頭を下げた男を見送ったあと、ブチャラティは車に乗り込もうとした。振り返った先で見えたのは、こちらに向かって控えめに手を振るだった。どうやら男と話をしている間、こちらに気を遣って距離をおいていたらしい。
ブチャラティは助手席側の扉を開け、に座席へ座るように促した。は、グラッツェ、と言いながら座席に腰を沈める。ブチャラティも運転席に着いた。
「待たせてすまなかった」
「気にしないで。わたしのほうこそ、なんだか催促させてしまったみたいでごめんなさい」
「平気だ。簡単な話だったからな」
ブチャラティは車のエンジンをかけた。
「寒くないか」
「うん、平気。ありがとう」
「ならいいんだ」
ブチャラティは空調を入れるボタンから指を離した。
「今日もいつものホテルでいいな?」
「え……あ、うん」
歯切れの悪いに対して、ブチャラティは頭上に疑問符を浮かばせる。「どうした?」
「ううん、なんでも」
なんでもないと言われて気にはなったが、深く詮索するのもよくない。ブチャラティは何も言わずにが宿泊しているホテルに向かって車を走らせた。
「さっきの人はブチャラティの知り合い?」
「まあ、そんなところだ」
「またブチャラティ相談所でも開いてたんでしょう」
なんだそれは、とブチャラティは鼻で笑う。
「この間だって、おばあさんから相談事を受けていたじゃあない。その前は若い女の子」
「たまたまそこに暇そうな男がいただけだろう」
「ブチャラティが優しいから、色んな人があなたを頼ってやって来る。それはこの二年で、わたしがあなたといっしょにいたから分かる」
だけど、とは次のように続ける。
「あなたの話を聞いてくれるような人はいるの?」
「オレの話?」
「個人的な悩みとか、仕事の愚痴とか」
「悩みがないわけじゃあないが、仕事の愚痴を口に出すのは苦手なんだ。というのも、オレのようなギャングは陰口を叩いたやつほど、始末の対象になりやすいからな」
「わたしには言ってもくれてもいいのに……」
「きみが相手なら、尚更だよ」
「え?」
「せめてといるときくらいは――」
ギャングとしてではなく、ただ一人の男として接していたいと思えるんだ――ブチャラティはそう口にしようとしたが、なぜか途中でその言葉を呑んだ。
隣でが不思議そうに首を傾げている。
ブチャラティは、なんでもない、と言った。気を紛らわすように、カーオーディオの電源を入れる。の機嫌取りのつもりではなかったのだが、自然と指先は彼女が気に入っているアーティストのアルバム名を選択していた。
車内に音楽が流れはじめる。気に入っている楽曲を聴いて、が嬉しそうに反応を示した。
この曲は元々、違うアーティストが最初に作った楽曲なのだが、スローバンドとして名前を上げたアーティストがカバーしたことによって再び人気を浴びた曲である。ブチャラティはカバーされる前も好きだったが、いま流れているカバー後の歌声も気に入っている。それはきっとがよく聴き流していたからだろう。親しい友人が聴いている音楽を好きになる、というのは決して珍しい話ではない。
珍しいといえば、の様子だ。普段ならば曲に合わせて鼻歌や歌詞を口ずさむのだが、今回は窓の外を眺めてその口を閉ざしている。彼女がこういった態度をとるのは、機嫌が悪いからではない、とブチャラティは解っている。
それならばなぜか――。
「」
「なに?」は視線をこちらに向けた。
「オレになにか言いたいことでもあるのか」
横目でも分かるほどに、の顔は強張った。出会ったときから顔に出やすいのだろうな、と思っていたが、今回に関しては包み隠す余裕すら感じられなかった。
どうやら図星のようで、は沈むように黙り込んだ。走り続ける車とは反対に、は膝の上で重ねている手を見ながら、ぼうっとしている。
それほどまでに言い難いことなのだろうか、と胸の中で小さな不安がよぎったとき、が俯かせていた顔を上げた。そして顔をこちらへ向けた。
「どうして分かったの? わたしがあなたに話したいことがあるってこと……」
「どうしてって……」
分かるさ、とブチャラティは言った。
「オレたちはずっと二人でいたじゃあないか。同じ時間を多く共有していれば、自然と分かる」
の目が、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「話してみろよ。それとも、怒らないから言ってみろ、とでも言ってほしいか?」
は目を丸くさせたあと、ぷっと吹き出した。肩を震わせて笑ったあと、息をつく。
「こういう話をする相手が今までいなかったから、どうしたらいいか分からなくってね」
「こういう話?」
「わたし、しばらくネアポリスを離れようと思ってるの」
怒らないとは言ったが、予想もしていなかった言葉にブチャラティは正直なところ当惑した。
車が赤信号に捕まり、ブチャラティはゆっくりとブレーキを踏んだ。慣性の法則で、ふわりと浮かんだ身体は、たったいま告げられた言葉に弾んだ心臓の動きと似ていた。
「……随分と急だな」
「でも、わたしのなかでは、ずっと前から考えていたことだったの。もう航空券も手配してる」
その証拠にといわんばかりに、はハンドバッグから航空券を取り出して見せた。
「いつ発つんだ?」
「今日これからって言ったら、あなたは怒る?」はこちらの顔を覗きこんだ。
には微笑みがあったが、微かに不安が含まれているようにブチャラティには見えた。
車内では車のエンジンと、次に曲がる方向を示すウインカーの音が持続して鳴っている。その音ですら、自分の心拍数を数えるタイマーのように聞こえる。
「怒りはしない。きみは思い立ったらすぐに行動する人だからな。止めても行くんだろう」
「うん。もう決めたことだから」
「ただ、ひとつ訊ねたい。どうしてそう思った? 何か気になることでも見つかったのか」
二年前に仕事を組んでからのは、どこにいくときも、何をすることも。いつだって自分に行き先や詳しい目的を告げてからその場所へ向かっていた。
だからこそ今回もあっさり答えてくれると思ったが、はただ笑ってこう言った。
「色んな場所を回って、旅行がしたいと思っただけ」
旅行か――。
自分と出会う前、がどんな場所でどんな生活を送っていたのかは聞かされていない。それでもは自分と出会ってから、ネアポリスを拠点として彼女自身の仕事を進め、そしてブチャラティの手助けをしてくれた。言ってしまえば、彼女をネアポリスに閉じ込めていたのはブチャラティ自身といっても過言ではない。
それでも旅行、という言葉を聞いてブチャラティはらしいな、と思った。旅行をしながら情報を集め、自分の好きなことをするのだろう、と。
「いいんじゃあないか」
「ほんとう?」
「ああ。自由なきみはネアポリスだけに留まっているのは似合わない」
ブチャラティがそう言うと、は、ぱっと顔を明るくさせてから胸を撫で下ろした。
「よかった。ブチャラティならそう言ってくれるんじゃないかなって思ってたの」
「背中を押してほしかったのか?」
は、うーん、と人差し指を顎に添えた。「それもあるけど、言葉で聴きたくって」
「旅行が終わったら、ネアポリスに戻ってくるんだろう」
は、もちろん、と頷いた。「いまの拠点地はここだからね。それに、あなたにはあのときの医療費を返さなくちゃあならないでしょう?」
「そういえばそうだったな」
「このまま黙って逃げたりしないから安心して。落ち着いたらまたここへ帰ってくるから」
正直なところ、医療費なんてものはただの口実だ、とは口が裂けても言えなかった。
「きみは義理堅いからな」
「それが仕事のモットーだからね」
信号はまだ青にはならない。前方の車が我慢を切らしてクラクションを鳴らしている。
短気な野郎だ。ブチャラティが心の中でそう呟く。
胸の内を明かせたことで荷が下りたのか、は座席の背もたれに背中を深く沈めた。
「やっと話せたという様子だな」
「あなたが相手だから、余計に緊張しちゃって」
でも、とは背もたれから背中を離す。
「ブチャラティ、あなたはやっぱり優しい人ね」
「どうしてそう思った?」
「わたしが欲しいと思っていた言葉をくれたから」
「相手が望む言葉を送ることが優しさとは限らない」
「それってどういう意味?」
「本当に優しい人間っていうのは、自分から優しさを与えるやつのことをいうんじゃあない。相手に優しさを感じさせたとき、初めて人間は優しくなれる」
例えそれが偽善行為だったとしても、相手に優しさを感じさせることができれば、それだけで人間は優しさを手に入れることができる、とブチャラティは思った。
「それじゃあ、やっぱりブチャラティは優しい人ね」
「え?」
「だって、わたしがあなたを優しいと思えたんだから」
微笑むを見て、ブチャラティは、やはりきみには適わないな、と心の中で苦笑した。
「でも、しばらくブチャラティに会えなくなるのは、ちょっぴり寂しいかな」
「おいおい。それが友人に相談もせず、これから出発すると決めた人間の言う台詞か?」
は微苦笑を浮かべ、ごめんなさい、と謝る。
寂しい。まさかからそんな感情を口にされるとは思わず、ブチャラティは心に一輪の花を咲かせる。彼女が弱気な態度を見せることが珍しいからだった。
「飛行機に乗ったりするのは嫌いじゃあないんだけど、どうしても移動に時間がかかるから」
「肩も凝るしな」
「空港の空気は大好き」
「同感だな」ブチャラティは小さく笑った。
「ああ、あれね……。その人に会いたいだとか、その人のことを思った心だとかに反応して、その人の元へ一気に飛んでいける魔法があればいいのに」
「そいつはまた随分、ロマンティックな魔法だな」ブチャラティは軽い笑いをこぼす。
「あッ。いま馬鹿にしたでしょう」
「そんなことはない。きみらしくて可愛らしい発想さ。ただ、そんな魔法を使えたとしても、オレはそんな魔法には頼らずにに会いに行くだろうと思っただけだ」
「どうして? そこまで向かうまでの移動が全部なくなるから楽に感じるけど……」
首を傾げるに、ブチャラティはかぶりを振る。
「きみに会える。そう思った瞬間から、オレはのことを考えることができる」
互いに携帯電話を持っていながら、ブチャラティはの連絡先を知らない。逆もまた然りだ。連絡先を知らない状態でと会うためには、彼女と会ったときに次の約束を決めなくてはならない。だからこそ、初めて彼女と食事をしたあの店を待ち合わせ場所として選んだ。
次はいつ、どこで会おうか。そう訊ければ彼女はいつだって笑顔で答えてくれる。
いつもの場所で待っている。と
その場所に行けばに会える。向かう途中で考えるのはその先で待っている彼女のことだ。と目が合い、会話を交わしてからが彼女との時間ではない。そこに到達するまでの時間も含めて、自分は彼女の心にも会いに行っているのだから。
「……ブチャラティは」
「うん?」
「やっぱり、ずるい」
「ずるいだって?」
「こうやって言っても、どうせわたしの気持ちなんて全然解らないんでしょうね」
「よく解らんが、いまのはオレに非があるのか?」
のほうを向いた瞬間、後ろの車からクラクションが鳴らされた。ふと上を見れば信号は既に赤から青に切り替わっていた。そりゃあ鳴らすわけだ。
ブチャラティはアクセルを踏み、道を曲がる。曲がった先にの宿泊しているホテルが見えてきた。自分たちを乗せている車があのホテルに近づいてくるのに連れて、との別れの時が近づいてくる。それでもブチャラティはスピードを緩めることなく、一定の速さで車を走らせた。
程なくしてホテルに到着し、付近で停車させる。隣ではが車を降りようと準備している。
ブチャラティはシートベルトを外し、ハンドバッグへ伸ばした彼女の手を掴んだ。無意識の行動だった。
「ブチャラティ?」
が戸惑った様子でこちらを見ている。しかしブチャラティは手を緩めなかった。
「、オレはここできみを待っている」
「え?」
「だから安心して行ってくればいい」
そのときまでに、オレがきみの帰る場所を用意して待っていよう。きみが帰るべき場所を。
「またネアポリスへ戻ってきてくれ。そしてオレの元へ帰ってくると約束してほしい」
頼む――ブチャラティは乞うようにの手を握る力を増した。優しく、そして強く。
は浮かせていた腰を座席に沈ませ、ブチャラティと向かい合う。掴まれている自分の手を見てから、彼女は指先を動かしながら自分たちの指と指を絡め合わせる。その動きはとてもたどたどしく、それでも繋がれた手には強い意思が込められているように見えた。
「わたしからもひとつ、お願いを言ってもいい?」
「お願い?」
「わたしがあなたのところへ戻ってきたら、そのときは『おかえり』と言ってほしい」
おかえり。互いに両親がいないブチャラティとにとっては、もう無縁だった言葉。その言葉を言える相手も言ってくれるような相手もいなかった。
それならばわたしたちで交わそう。そんなの思いが言葉と手を通じて伝わってきた。
ブチャラティは頷いた。「とびきりの花束を持って、きみに会いに行くと約束するよ」
「うん。楽しみにしてる」
繋がれている手を、ぎゅっと握ってから、ブチャラティはの手を離した。
はハンドバッグを手に取り、車から降りた。ブチャラティは車を背にしながら、ホテルのエントランスに向かって歩き出したを見送る。
普段のならば、別れ際に二度は振り返り、こちらの名前を呼びながら笑顔で手を振ってくる。しかし今回に限っては、は一度も振り返ることはなかった。
このときのブチャラティは、そんな彼女に小さな違和感を抱いていたが、進むべき道を見定めた彼女なりの考えなのだろう、と思っていた。だからこその姿が見えなくなるまで、ブチャラティは彼女の後ろ姿を眺めていた。
「あの場所で、オレはきみを待っている」
またいつか会える――そう心のなかで願って。
黒色に染まりつつある空に、ひときわ目立つひとつの星が輝いている。そんな夜だった。