ドリーム小説 87

 ブチャラティは身動きのとれないボルジュアを殴り、そして蹴り続けていた。
 ボルジュアからこれまでの経緯を吐き出そうと試みたのだが、彼は一考に口を開かない。既に事が切れているのではないか、とも思ったが、ボルジュアの背後には本体同様にぼろぼろになったスタンドの姿が確認できる。
 今回の指令は、パッショーネの構成員を襲った犯人を始末すること。犯人であるボルジュアから襲った理由を吐き出せ、とは特に命じられてはいない。
 しかしブチャラティは知りたかった。なぜの家族が被害に遭わなければならなかったか。そしてボルジュアがそこまでして薬にこだわる理由を。
 ブチャラティが再び拳を振り上げたときだ。自分が追い込まれている状況だというのに、ボルジュアは面白いものを見たときのような笑いをこぼしたのだ。その気味の悪さに、ブチャラティは振り上げた拳をボルジュアの鼻の先で止めた。
「なにがおかしい」
「お前はその行動がいまの自分にとって正しいのかどうか、判断できているのか?」
「どういう意味だ」
「怒りで頭に血が上って忘れているな。を狙っていたわたしがなぜ、ローマにいるお前の仲間を襲ったのか。その理由を知りたいと思っているんじゃあないのか」
 ブチャラティは鼻の先で止めていた拳を離し、ボルジュアに話すようへ促す。
「まず、お前たちは大きな勘違いをしている」
「勘違いだって?」
の父親が家を抜け出したのは、娘であるが生まれてから四、五年経ってからだ。そして当時のわたしはそれを追おうとはしなかった」
「なぜだ?」
 ボルジュアはブチャラティから視線を逸らす。「それをお前に話す義理はない」
 これまでのボルジュアの態度を見ると、やはり死んでも口にしたくないことがあるのだろう。
 ボルジュアの表情を見下ろしながら、ブチャラティは日記の内容を思い出していた。
  ――妻が娘を連れて家を出て行った。
 最初は危険な薬を作り始めた夫に絶望し、妻が娘を連れて出て行ったものだと思っていた。しかし、ボルジュアが夫妻におこなった所業を考えると、の母親は怒りと共に家を出て行ったのではなく、自らの意思で逃げ出したと考えたほうが自然だ。
 恐らくだが、娘であるを抱えて逃げるように言ったのは彼女の父親だろう。ボルジュアのような悪人に、家族をこれ以上巻き込むわけにはいかない。そう思った父親が残り少ない命の母親に自分たちの遺産である娘の未来を託し、二人が安全な場所に身を隠せるまで父親は家に残っていた。自分が二人と共に逃げ出せば、早い段階でボルジュアに見つかってしまうかもしれない。当時のボルジュアが所属していたギャングが、どれほどの情報網と繋がっていたかは分からないが、裏社会となれば、表の世界の情報はある程度把握することができる。
 の父親はそのことを恐れていたのだろう、とブチャラティは一人考えた。
「だが、お前たちはこうしての身元を探りながら、薬のありかを探していただろう。なにか薬を手に入れるだけの理由ができたはずだ」
「確かにそれはそうだ」
 だが、とボルジュアは目を閉じる。
「悪いが、それも言えない」
「なぜだ? お前たちの組織は既に消滅したんだろう。口を割れない理由がどこにある」
「お前に話したところで、わたしの気持ちなんて分からないだろうさ。いや、最初から分かってもらおうなんて微塵にも思っちゃあいない。思っちゃあいないんだ」
 ただ……、とボルジュアはブチャラティを見つめる。
の父親が消えたことには驚いた。どこを捜しても見つからなければ、情報もまるでない。元々存在していなかったかのように、彼はこの世から正体を消した」
 薬の開発をしていたの父親は、このボルジュアから逃れるため、そしての解毒剤を作るためにこれまでその身を隠していた。例えそうだったとしても、世間から自分の身元や情報を完全に包み隠すことは可能だったのだろうか。
 情報網であるでも見つけられなかった。かつてギャングとして裏社会を生きていたボルジュアでさえも見つけることができなかった。ブチャラティが組織のシステムコードを使用しても身元を判明させることはできなかった。
 なにか大きな力が働いていることは明らかだった。
「おかしいと思い、仲間と共に深いところまで調べることになったんだ。そのときわたしはの父親が開発した『SS』 についても調べた。そのときに判明したんだ。胎内感染した胎児の症状を。長期にわたって体内にウイスルが潜伏していることを。お前、白鳥の寿命を知っているか? 白鳥は餌付けされれば最高でも二十年は生きられるらしい。白鳥の細胞を利用した、という話は本人から聞いていたからな」
 今回の『SS』に、白鳥の細胞が利用されていることは、の父親が残した日記と、彼が自室として利用していた本棚に並んでいた図鑑を見たことで把握している。
「それだけ薬の内容を分かっていながら、自分で作り出そうは思わなかったのか」
「可能ならとっくにしているさ。しかしあの薬はとても巧妙に作られている。わたしが持っているような浅はかな知識では、到底作り出せない代物だ」
 その薬をの父親は一年足らずで作り上げた。日本からイタリアへやって来たのは、その高度な技術と腕を見込まれてのことだったのだろうか。彼亡き今では、その真実を聞き出すことはほぼ不可能だ。
「もうひとつ、お前に良いことを教えてやろう」
「良いこと?」
「イタリアの裏社会が大きく動き始めた頃の話だ。あれはいまから十四、五年前だったかな。ローマやネアポリスを中心に、国内で起こる麻薬事件が何十倍にもなったんだ。その驚異的な数字は当時、わたしたちの世界でも大きな騒ぎになった。イタリアに縄を張っていたギャングたちが、次々と潰されていったくらいだからな」
「麻薬事件……」
 ブチャラティの人生を大きく変えてしまった忌々しい言葉だ。その頃から既に国内で麻薬事件が増大に拡がっていたということは、パッショーネが麻薬に手を染めるのも時間の問題だったのだろう。実際、パッショーネが麻薬を商売道具として利用していることが発覚したのは、ちょうど二、三年前のことだ。
「被害者のほとんどは若年層。被害のほとんどに麻薬が関わっていた。しかしだ。表沙汰には決して出ることのなかったとある噂を耳にしたとき、わたしのなかで複雑に絡み合っていた糸が解けていくような感覚を覚えた」
 ボルジュアは仰向けになり、既に視覚として働いていない目を明るい空へと向けた。
「増加しつつある麻薬犯罪のなかで、死因不明の遺体で発見される事件も起きている、と」
「死因不明の事件だって?」
「おかしいと思うだろう。十年以上前とはいえ、医療技術が発達しているこの世の中で、死因が不明だったんだ。可能性として考えられたのはひとつだけだ」
 ブチャラティが頭に浮かんだ想像と、ボルジュアから告げられた言葉は一致した。
 試作段階だった薬が完成され、その時点で既に何者かによって利用されていた――。
 の父親が開発した『SS』という薬は、現時点での医療技術では死因が特定できないように作られていた。その薬を作るように強要したのは、他ならぬボルジュアだ。
 しかし開発の依頼を受けていたの父親は、その年を境に謎の失踪を遂げた。
 ブチャラティの考えはこうだった。いま現在『SS』を所持し、利用し続けているのはパッショーネ。そしての父親を特定の日時、場所に呼び寄せたのもパッショーネ。ボルジュアの言うとおり、二年前のアパルトメントでの事件が発端でないのであれば、パッショーネはそれよりも前から『SS』を利用していたと考えられる。
「突然動き出した大きな力に感づき、わたしは思った。の父親の情報を握りながら、且つ彼を匿っているのは、裏の世界で生きている者なんじゃあないかってな」
 ここでブチャラティは再び、の父親が書き残した日記のページを頭の中で素早く捲る。
 いまとなっては書き残した日付が分からないが、の父親はボルジュア以外にももう一人の人物について書き残していた文章があった。
 彼――ラディーチェ。顔も名前も分からない人物が、ここにきてなぜか思い浮かんだ。
 の父親はボルジュアの魔の手から逃げ出したあと、ラディーチェという人物と何度も連絡を取り合っているようだった。彼はその身を隠している間に、自分の娘であるが生きている、という報告をラディーチェという人物から受けていた。
 そして完成した解毒剤を娘へ安全に引き渡すため、の父親はネアポリスにやってきた。これは真実を知ってから何度も頭の中で考えていることだ。
「お前、パッショーネが何年前に組織として立ち上がったのかは知っているのか?」
 ブチャラティは沈黙を続けた。それを、知らない、と捉えたボルジュアが静かに口を開く。
「いまから十四、五年前。麻薬事件が増加しはじめた時期と、当時の国内に存在していたギャングチームが一掃された時期。そしての父親が失踪した時期と同じだ」
 ブチャラティは思わず固唾を飲み込んだ。
「分かるか? お前たちがいま、目に見えない犠牲の上で過ごせているということを。わたしたちの全てを、お前たちパッショーネに食われたんだ」
 身体中から力が抜けそうだった。ボルジュアの話を聞きながら、ブチャラティは本屋の親父であるジョエルから聞いた話を思い出していた。
 ジョエルは娘であるエマを見捨てた、と言ったが、それは果たしてかつての仲間であったボルジュアを恐れてのことだったのだろうか。彼の目の前にはブチャラティがいた。仇ともいえるほどの存在を前に、ジョエルはいったいどんな気持ちを抱いていたのだろうか。
 ――彼は、オレを恨んでいたんじゃあないのか?
 当惑するブチャラティを他所に、話を戻そう、とボルジュアはどこかを見つめる。
「わたしはの身元を追いながら、彼女の父親の居場所を隠し、薬を横取りした者を探していたんだ。あの薬は表向きには決して姿を現さないからな。だから使っているのはギャングしかあり得ない。そう、国内の裏社会を束ねているパッショーネこそが、全ての情報を握っているに違いないと思ったのさ。だからわたしはローマを襲い、情報を奪おうとしたんだ。まあ……結局見つからなかったんだがな」
 ブチャラティは頬に汗を流した。
「ブチャラティといったな。お前が所属しているパッショーネには、絶対にしてはならない反逆行為があると、小耳に挟んだことがある」
 ボルジュアの話を聞きながら、ブチャラティは他人事とは思えない恐怖に襲われた。
 何故だろうか。先ほどからボルジュアの話を聞き進めるたびに、胸の中で渦巻いていた黒い靄が加速していく。その動きはまるで、いままで不思議に思っていた謎や疑惑を払いのけていく、勢いのある風のように感じられた。
 そして、もう一つのことを想像してしまった。
 ボルジュアの言うとおり、パッショーネには決して干渉してはならない領域が存在する。その領域にまつわる情報を調べようとした者には、絶対的な制裁が待っている。それは圧倒的な死という制裁だ。
「自分たちのボスに関わることを調べ、そして知る者には決まった結末が用意される。それは例え過去に関わっていた人間だとしても、同等の対象に値する――らしいな」
 麻薬事件が増加した年に消えたの父親。
 誰の手にも渡るはずのない薬が、何者かによって既に利用されている。その入手ルートを知ることができるのは、裏の世界で生きている者だけ。
 しかし、薬の開発者であるの父親の情報が出てくることは決してなかった。そんな彼と唯一連絡を取り合っていた人物、ラディーチェ。
 その人物からの連絡を受け、娘のためにネアポリスにやってきたの父親。
 そして彼はそこで死んだ。組織の裏切り者として。所持していた解毒剤を抹消されて。
を追い込んだのは、わたしだけじゃあない。の父親を利用したのは、なにもわたしだけじゃあなかった。の父親を匿っていた人物。そんなことを調べたら、恐らくわたしもお前も殺されてしまうだろうな」
 ボルジュアは両腕のない状態で起き上がり、歯を使って懐から錠剤の入った袋を取り出す。
 自害する気か――。もし死ぬのならば、自分の愛する毒薬で死にたい、ということなのだろうか。そんな心境を、いまのブチャラティは考える余裕がなかった。
「ブチャラティ。今一度、お前に聞こう。お前は自分の行っていることが正しいか、正しくないかの判断をすることができる、と胸を張って言えるか」
 彼女に――に何と話せばいい。
 彼女の父親はただ殺されたわけではない。組織拡大のために薬を利用された挙げ句、とある人物の過去を知る一人として殺されたのだ。
「いまのわたしにはできる。わたしがいま正しいと思うことは……ただひとつだけだ」
 そのとき、ブチャラティは背後から大きな違和感と今までにない殺意を覚えた。
 不思議なことに、その一瞬がとても長く感じた。
 失ったボルジュアの片腕が再生していくことも、遠くで自分の名を呼ぶフーゴの鋭い声も。 
「いまここで、お前を殺してやる。それはわたしが最期にできる、仲間への土産だ」
 肩越しに背後に見えたのは、こちらへ目掛けて腕を大きく振り上げるボルジュアのスタンドの姿。まさに死に際の局面で、最期の力を振り絞る拳のように見えた。
 しかし何故だろう。その振り上げられた腕は、とてもゆっくりと動いて見えたのだ。
 どこかで聞いたことがある。交通事故に遭った者の時間が何分、何時間にも感じられるという不思議な現象を。ブチャラティはそのような危険な状況に陥ったことはないのだが、いま目の前で起きている現象は、それに近いものだと、心で感じ取った。
 ボルジュアのスタンドの拳が背中に触れた。こんな至近距離でスタンドの攻撃を受けては、例えスピード力のあるスティッキィ・フィンガーズをしても避けることは愚か、手に触れることさえもできない。
 死ぬ――。
 ボルジュアのスタンドの拳が、ブチャラティの腹を背中から打ち貫く寸前。それは突然現れた。
「スワンソング」
 聞き覚えのある声だった。見覚えのある髪色だった。
 その後ろ姿をブチャラティは何度も――いや、ちょうど二年前に見たことがあった。
 それはまるで全ての黒を一瞬にして染め上げるような色を持つ、白鳥のように。

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