イタリア半島の先には、とても小さな島がある。間もなくアフリカ大陸の先が見えてくるという地中海の真ん中にマルタ島は浮かんでいる。
都市建築、地中海の景色、料理、芸術、文化。多彩な色を携えているマルタ島。イタリア南部に位置するマルタ島はカトリック信仰に非常に厚く、町にはそれらを象ったレリーフなどが多く存在している。治安はネアポリスとは比較にならないほど穏やかな世界を保ち続けているのだという。長年マルタで暮らしていると、島から出た瞬間に時差呆けになってしまう、と言われてしまうほど、生涯のんびりとした生活が送れると、現地の者は語る。
そのマルタ島に一人の小さな少年がいた。彼の名前はボルジュアといった。
ボルジュアは未熟児で生まれ、生まれてから三年半が経っても、立って歩くことさえできないほどに弱っていた。当時、ボルジュアの母親は『自分の子供は、このまま一生歩けないのではないか』という不安を抱いていたが、四歳の誕生日を前にして、ボルジュアはようやく家の柱を支えにして前進することに成功した。
ボルジュアが歩けるようになってからの成長は凄まじかった。まるでこれまでの成長の遅れが蓄積されていたかのように、急速な成長を遂げた。
ボルジュアには二つ上の兄がいた。兄は成長に乏しい弟を子馬鹿にした態度をとっていたが、ボルジュアの急成長に歯がゆい思いを抱いていたことを、弟は知らない。
ある日のことだ。ボルジュアは自分が四歳の誕生日を迎えることを母親から聞かされ、市場へ繰り出した。自分のために様々な食材を選んでいる母親の目を盗み、ボルジュアはよく一人で町を探索していた。マルタ伝統の木造ボートを造っている家を通り抜け、道束の狭い路地裏へ出た。野良猫たちがたむろしているが、ボルジュアは怖いとは思わなかった。寧ろ猫を飼うことに憧れすら抱いていた。
ボルジュアがいつものように人懐っこい猫たちと遊んでいると、一匹の猫がなにかを嗅ぎつけたように鼻を動かした。地面の下を、くんくん、と嗅ぎ回り、穴を掘る要領でその場を掘り返す。穴の下から、なにか光り輝くものが見えた。
ボルジュアが手に取ったのは、指先で持てるほどの小さな小瓶だった。コルクの蓋を開け、中身の匂いを嗅いでみるが、無臭だ。やはり人間と猫とでは嗅覚が違うのだな、と幼子のボルジュアはひとり学んだ。
「ねえ、舐めてみてよ」ボルジュアは小瓶の蓋口を一匹の猫に向かって差し出した。
猫は警戒するように鼻を動かし、やがて蓋口についている微量の液体を舐めとった。
途端――猫は苦しそうにもがき始め、胃液を大量に吐き出しはじめた。突然のことにボルジュアはもちろん、周りにいる猫たちも動揺している。
ばたばた、と砂埃を出しながら暴れる猫。やがてその動きはおさまっていき、完全に動かなくなった。
ボルジュアは目の前で起きた出来事に、しばらく理解が追いつかなかった。
無理もなかった。間もなく四歳になろうとしている子供に『毒薬』なんてものを理解できるはずがない。
そのはずだった。
ボルジュアは動かなくなった猫を埋め、手にしている小瓶を自身のポケットに忍ばせた。来た道を戻り、恐らく自分を探しているではあろう母親の元へ向かう。
母親はボルジュアの姿を見つけると、安心したように強張っていた表情を解いた。
「どこへ行っていたの? ボルジュア」
「ごめんなさい、母さん。ちょっと面白いものがあって」
「面白いものってなあに?」
「ないしょだよ」
ボルジュアは母親の手を取り、家路を歩いた。その日の夕食は豪勢なものだった。これまでも三度、同じような料理とケーキを用意していたと母親は語るが、ボルジュアがしっかりと誕生日の料理を認識できたのは、これが最初のことだった。
父親からは絵本を。母親からは洋服を。二つ上の兄からは、お下がりではあるが、ボルジュアが日頃から兄に貸してほしいとねだっていたパズルゲームだった。
その日は夜遅くまで家族で過ごし、最後はマルタから見える偉大なる海を眺めて幕を閉じた。
月が隠れ、部屋のカーテンが太陽の光を浴びた翌朝。ボルジュアはいつものように起床した。洗面所で顔を洗い、用を足しながら歯を磨く。朝食が並べられているリビングルームには、朝刊を片手にカッフェを飲んでいる父親と、エプロン姿の母親がいた。
「おはよう、ボルジュア。あれ、お兄ちゃんは?」
「まだ寝てるんじゃあないの?」
「珍しいわね。ねえ、起こしてきてくれる?」
「いいよ」
兄の部屋は、ボルジュアと同じ部屋だ。ノックを鳴らす必要もなく、ボルジュアは部屋の扉を開けて兄が寝ている二段ベッドの梯子を上った。
兄は寝ていた。しかしその寝相は酷いものだった。寝巻きのボタンを全て解き、胸元には自分の爪で引っ掻いたのだろうか。無数の赤細い線が残されていた。
ボルジュアは、兄ちゃん、と兄の頬を突いた。
反応がなかった。
ボルジュアは考えるよりも先に梯子を折り、母親のいるリビングルームへ戻っていた。
「ねえ、母さん。兄ちゃん、起きないよ」
「ええ? もう、しょうがないわね」母親はため息をつきながらエプロンの紐を解いた。
ボルジュアは母親の背を見届けたあと、父親の隣の椅子へ座って朝食に手をつけた。
母親の悲鳴が聞こえたのは、そのあとすぐだった。母親の悲鳴を聞いた父親は読んでいた朝刊を放り投げ、一目散に声のしたほうへ向かった。ボルジュアも牛乳を飲み干してから父親の後を追いかけた。
死んでる――誰がそう言ったのかは覚えていない。ただボルジュアが覚えているのは、眠っている兄の手を握りながら涙を流している母親の姿だけだった。
それから後で分かったことが、三つあった。
まずひとつは、ボルジュアの兄の死因は明確に特定することができなかった。というのも、ボルジュアの兄は短時間で脳神経が壊され、心臓に穴を開けて死亡している状態だった。どんな理由でそうなったのか。大まかな原因を判別することができなかったのだ。
ふたつは、治安の良いマルタ島といえども、その場をヤサにしているギャングがいないわけではない。そのギャングが所持していた毒薬が、何者かによって盗まれたという話だった。もちろんギャングの裏話が報道されるはずはなく、この話は兄の葬儀が終わったあと、ボルジュアがたまたま耳にした情報だった。
最後のひとつはボルジュアしか知らない事実。ボルジュアの兄が突然死した原因は掴めないままだったが、兄が動かなくなった原因をボルジュアだけが知っている。
兄は自分が動かない状態にした――当時四歳のボルジュアは、死という概念をまだ理解していなかった。
そこからボルジュアの関心は加速を続けていく。兄を死に追いやった毒薬(当時のボルジュアにとってはただの透明の液体)以外に人間が動かなくなる方法はあるのか、という疑問を毎日のように頭の中で考えていた。
ボルジュアが小学校へ上がったときのことだ。兄が亡くなってから約二年の年月が流れ、悲しみに暮れていた母親も調子を戻しつつあった。ボルジュアがいつものように学校から戻り、仕事を終えて帰ってくる父親を待ちながら、テレビのニュースを見ていた。
テレビの画面に映ったのは、暗い夜道を歩いている女の背後から、ナイフを握り締めた男が忍び寄る、という所謂サスペンスドラマのワンシーンであった。
ボルジュアはナイフで刺された女の悲鳴を聞いて、過去の出来事を思い出していた。声色は違うが、テレビの中で叫ぶ女の悲鳴は、あのときの野良猫とよく似ている。
食い入るようにテレビを眺めていると、途端にチャンネルを変えられた。ボルジュアの傍にはテレビのリモコンを片手に苦笑を浮かべている母親の姿があった。
「サスペンスなんて、あなたにはまだ早いわよ」
「さすぺんす?」
「誰が犯人なのかを見つけるおはなし」
さあ、と母親はボルジュアの肩を抱く。
「ご飯の支度をするから、手伝ってくれる?」
「うん、いいよ。その前にトイレ」
トイレに向かう途中、ボルジュアはテレビで観たものと同じものをまな板の上で見つけた。
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がくん、と自身の頭の重さで、ボルジュアは眠りから覚めた。痒い頭を掻きむしり、後ろから聞こえてくるベッドスプリングが軋む音を聞きながら、欠伸をこぼす。
部屋の様子は一変していた。窓ひとつない閉鎖空間。よどんだ空気。後ろから聞こえてくる男同士の喘ぎ声には随分と慣れたが、いつ見ても不快なものだった。
ボルジュアは刑務所にいた。ボルジュアが捕まった理由はふたつ。正しくはひとつなのだが、結果的にふたつというべきなのだろうか。
まず、ボルジュアは両親を早くに亡くした。両親の死因は兄のときとは異なり、両手足を切断されたことでの失血死が主な死因となった。最初に異変に気づいたのは、ボルジュアの母親が通っていた市場の店主だった。毎日のように市場へ顔を見せる彼女が、一週間経っても姿を現さないことに違和感を覚えたのだという。
家へ訪れてみれば、そこには二人の死体と、遺体の傍で眠っているボルジュアの姿だった。遺体の傍にはボルジュア以外にも、両手足を切断したときに使用されたと思われる凶器があり、その凶器にはボルジュアの指紋がくっきりと残されていたのだ。
しかし、まだ子供であるボルジュアが自分の両親を殺したとは考えにくく、当時の捜査では、ボルジュアに濡れ衣を着させるために、犯人がナイフの持ち手部分にボルジュアの指紋を意図的に残したのではないか、という考えで、再度捜査が行われていた。
しかし犯人は見つからなかった。見つからないまま、ボルジュアは施設学校へ送られた。その施設学校で起こった事件で、最初の事件の犯人も同時に特定された。
集団殺人が行われたのだ。施設内で唯一の生存者だったボルジュアを見て、一人の警官が言った。
――また、君なのか。いや、寧ろ君だったのか。
その男は、ボルジュアの両親を殺した犯人を追っている警官でもあった。疑念を抱きはじめた警官がボルジュアの身体検査を試みたところ、懐から小さな小瓶を見つけた。その小瓶はボルジュアが幼い頃見つけた小瓶でもあり、それと同時に数年前、裏組織のギャングたちが隠し持っていた暗殺用の毒薬であると、後の調査で判明した。
そのときになって初めてボルジュアは毒薬というものを知り、死という概念を知った。
刑務所に入ってから三年が経つ今でも、ボルジュアの毒薬へ対する関心は治まらなかった。それは男が車や飛行機などに関心を抱くのと同じ感覚だった。
ボルジュアが収容されている刑務所は、生活に不自由のない設備が整っており、その中でも図書室をよく気に入って利用していた。ルームメイトである二人の男がセックスを楽しんでいる間は、逃げるようにそこへ向かっていた。読む本は決まって医学の本だった。ボルジュアが興味を示しているのは毒薬であるが、その中でも最も魅力を感じているものがあった。
それは、かつてのギャングが所持していた暗殺用の毒薬だ。死因が特定できず、一切の痕跡を起こさない完璧な毒薬にボルジュアは憧れすら抱いていた。
ギャングがあのような毒薬を用いる理由は、気に入らない人間を始末するためと、商売道具に利用するためのふたつがある。ボルジュアはどちらかといえば後者派だった。金さえあれば、それ以上の毒薬を作り出せるかもしれない、と思ったからだ。
そのためには知識と技術がいる。世界のどこかで病にかかっている人を助けたいと願う若者がいる中で、閉鎖的な刑務所内でボルジュアは自身の夢を抱くようになった。
「ボルジュア、ボルジュアはいるか」
とある日の午後、ボルジュアが収容されている牢屋へ一人の刑務官が現れた。ルームメイトの視線がボルジュアに集まり、ボルジュアは、オレだ、と言った。
「出ろ。釈放だ」
「釈放だって?」
ボルジュアは耳を疑った。故意でなかったとはいえ、両親を殺し、集団毒殺をした男を五年足らずで釈放する刑務所が他にあるだろうか。
状況が分からないままボルジュアは半ば無理やり刑務官に連れられ、約三年間を過ごした牢屋に別れを告げた。一度も通ったことのない道を歩き、長い廊下を進む。扉を開けた先で見えたのは太陽の光だ。浴びようと思えば浴びられた太陽の光を浴びなかったのは、毒素は高温に弱い、と本に書いているのを知っていたからだった。
手錠を外され、刑務官に背中を押される。
「この男で間違いないな」刑務官が言った。
「ああ、間違いない」
「こちらでは逃亡、ということでいいんだな」
「そうしてくれ。約束のものはいまここで渡そう」
ボルジュアの目の前には、真っ黒なスーツに身を包んだ長身の男がいた。その男の後ろには彼と同じ格好をしている二人の男が並んでおり、そのうちの一人が刑務官に向かって分厚い封筒を引き渡している。
封筒の隙間から見えたのは――金だった。
その様子を見て、ボルジュアは目の前にいる男たちがギャングであると理解した。ギャングの男はボルジュアのほうを見ると、ついて来い、と手招きをする。
刑務所の外には小さな車が一台停まっていた。ボルジュアは後部席に座るように言われ、言われたとおりにした。運転席には先ほど金を渡していた男が座り、助手席にはもう一人の男が座る。自然とボルジュアの隣には長身の男が乗り込んだ。言葉を交わさずとも肌で感じる威圧感に、ボルジュアは初めて恐怖というものを覚える。
「そんなに固くなるな」男が言った。
「えッ」
「それとも、腹でも空いてるのか? ここの刑務所はリストランテがあるって噂だけどな」
「ボス、それは別の刑務所ですよ」
「そうだったか」
とりあえず、と、ボスと呼ばれた男が手を叩く。
「いつもの場所へ戻ってくれ」
「分かりました」
ボスと思われる男の指示で、車は動き出す。ボルジュアは揺れる車内で必死に考えた。
自分はいったいどこへ連れて行かれるのか。なぜ男は金を払ってまで、自分を釈放させたのか。
「ボルジュア。お前にはギャングになってもらう」
隣から聞こえた台詞に、ボルジュアは目を丸くさせた。
「お前みたいなやつは、あの刑務所で一生を終えるのが落ちだろう。だが、おれはそうは思わない。お前はまだ若いからな。いくらでもやり直せる」
「オレがギャングだって?」
考えている間に車は止まった。ボルジュアは操り人形のように男たちの後をついていく。
たどり着いたのは古い事務所のような場所だった。中には強面の男たちがソファーに座っており、戻ってきた男たちに向かって、お疲れ様です、と頭を下げた。
そして自然と男たちの視線はボルジュアへ集まる。刑務所内にも気迫のある男たちはいたが、目の前にいる男たちは違う。獣道以上の道を歩んできた者たちだ。
震えるボルジュアの肩を、ボスと呼ばれた男が叩く。
「今日から新しい仲間になるボルジュアだ。お前たち、こいつの世話をしてやってくれ」
ほら、とボスがボルジュアの背中を押す。自己紹介でもしろ、と言いたいのだろう。
ボルジュアは自分を見つめる男たちの鋭い視線を受けながら、口を開いた。「ボルジュアです。喧嘩は強くありませんが、勉強はそれなりにできます」
唾を飲み込んでから、ボルジュアは頭を下げる。
「よ、よろしくお願いします」
これでよかっただろうか。もう少し丁寧な言い方をすればよかっただろうか。後悔しても口に出してしまったものを取り戻すことはできない。
否――取り戻す必要はなかったのだ。
上げようと思った頭の上に、大きな手のひらが載った。恐る恐る顔を上げてみれば、先ほどまで警戒の眼差しを送っていた男たちの目つきが穏やかになっていた。
「よろしくな、ボルジュア」
「分からないことがあれば、なんでも聞いてくれ」
「まずはオレたちのシマについて、あとはここいらでのルールなんてものも教えなくちゃあな」
次々と交わされる握手と挨拶に、ボルジュアは拍子抜けになった。ギャングといえば、もう少し緊迫とした雰囲気をイメージしていたのだが、これでは学校生活と変わらない。いつの間にかくしゃくしゃになっていた自分の頭を鏡で見ていると、背後にボスが現れた。
「気のいい連中だろう。刑務所にいたやつらよりはずっといいと思わないか? いや、おれは別にゲイを否定してるわけじゃあないぜ。おれの友人にもゲイはいるからな」
でもマリアーノはいいゲイだぜ、とボスは語る。
「あなたは、どうしてオレを?」
「どうしてって、なにがだ?」
ボスはボルジュアが言っている意味が本当に解っていない様子だった。
「どうしてオレを仲間に引き入れたんだ。オレは両親を殺してるんだぜ」
「そうか、そいつはすごい。おれは昨日十人殺したぞ」指で拳銃を作りながら、ボスが言う。
どんな自慢だ、とボルジュアは心の中で突っ込む。
「お前が人を殺していようが、おれはお前を気に入って引き入れた。それだけだ」
ボスがボルジュアの頭を、ぽんっと撫でる。
「とにかくいまは、おれの下で働け。それでも嫌だと感じれば、好きなところに行けばいい」
ボスはそれだけ言うと、仲間たちが集まっている輪のほうへ歩いていく。先ほどまで騒がしかった男たちであったが、ボスが近づいたことによって静まり返る。ボルジュアのほうからでは会話の内容は聞こえなかったが、部下たちになにか指示を出しているのは様子で分かった。
ボスの静かな掛け声で、仲間たちはそれぞれの持ち場へ向かっていく。その動きをボルジュアは借りてきた猫のように眺めることしかできない。
そんなボルジュアに、ほら、と肩を叩く者がいた。
「お前は今日からオレのチームだ」
「は、はい」
声をかけてきたのは、ボスと比べて一回り老け顔の男だった。顎に生えている白いひげが特徴的である。
「おれの名前はジョエル。呼び捨てでいいぞ。ここで分からないことがあれば、おれに聞け」
「わかり、ました」