ドリーム小説 83

 一瞬、目の前でなにが起こったのか。フーゴは全てを理解するまで時間がかかった。
 目の前に現れた少年の顔と今の自分の顔は、まったく同じ表情を浮かべているのだろう。その理解が徐々にフーゴの気持ちを切り替えさせていった。
 お兄さん、と少年が声には出さず、口の動きだけでブチャラティに向かって言った。
「やっぱりあのときのお兄さんだ」
「なぜ、きみがここに?」ブチャラティが訊いた。
 少年は口を結んだあと、ぎこちなさそうに口を開いた。「お、大きな音が聞こえたから……」
 そういうことを訊いているんじゃあない、とブチャラティが聞き返そうとしていた。
 しかし、ブチャラティよりも先に少年へ近付いて行ったのはボルジュアだった。いつの間に元の姿に戻ったのだろうか。フーゴは少年に歩み寄ろうとするボルジュアを引き離すために駆け出そうとしたが、ブチャラティがそれを制した。フーゴは一瞬ブチャラティに反論しようとしたが、彼の横顔を見たときにはそんなことをする気は失せ、改めてこの男の優しさの深さに歯がゆさを覚えた。
 なにより――先ほどの言葉が引っ掛かる。
 ボルジュアが履いているハイヒールの、こつこつとした音が静かな朝の道路に響く。その軽快な音と引かれ合うように、少年はボルジュアの脚にしがみついた。
「母さんッ」
 少年の台詞にフーゴは息を呑んだ。そして少年の台詞は同時に、自分とブチャラティを更なる罪悪感へ追い込む材料になることを意味する。
 母さん、と嬉々たる様子で抱きついた少年の表情は明るく、そんな彼の頭を撫でるボルジュアはその呼び名に相応しい様子で少年の顔を見つめている。
「バンビーノ、学校の時間にはまだ早いでしょう。家で寝ていなくちゃだめじゃない」
「ごめんなさい、母さん。でも昨日から父さんも帰ってこないし、母さんも僕が寝ているときに離れるなんて珍しいから気になっちゃって……」
「心配してくれていたの?」
「もちろんだよ」
 我が子に思われて嬉しくない親はいない。それを象徴するかのようにボルジュアは少年を優しく抱き締めた。その姿はどこから見ても睦ましい光景だった。
「母さんはどうしてここに?」
「ちょっと用事があってね」
「そうだ、母さん。前に僕を助けてくれたお兄さんたちがいたって話をしたでしょう?」
 少年はボルジュアの腕から離れ、フーゴたちのほうへ小走りで駆け寄る。
「実にはここにいるお兄さんたちがそうなんだ。他にももう一人、女の人がいたんだけどね。そのお姉さんが僕を家まで送ってくれたんだよ。ね? お兄さん」
「あ、ああ」
 ブチャラティにしては、なんともぎこちない返事だな、とフーゴは思った。
 この状況で戸惑わないほうが難しい。ボルジュアは自分たちが始末するべき相手で、こちらに向かって無邪気な笑みを浮かべている少年は、その始末すべき人物の息子だという事実が、いまブチャラティのなかで混乱を招いているだろう。
 数週間前、少年と食事を交わしたときの会話をフーゴは思い出していた。彼の父親と母親は普段から仕事の帰りも遅く、テーブルを囲んででの食事の機会も少ないと聞いていた。しかし少年はそんな両親に文句を言う素振りは見せず、大切な母親のために誕生日ケーキを用意しようと考えていた。これほどまでに育ちのいい少年ならば、父親と母親も安易に想像ができると思っていたが、とんだ見当違いだった。
 そう、自分たちにとっては――。
 フーゴ、いやブチャラティにとって、ボルジュアは組織からの指令とは関係なく、の家族を絶望に陥れた憎むべき相手だが、少年にとってはただの母親でしかない。自分を産み、自分のためを思ってくれているであろう母親であることに変わりはないのだ。例え相手が悪人であっても、子供の前で親を殺すなんてことは、フーゴにはできてもブチャラティにはできない。少年がボルジュアの正体を知っている、知っていないに限らず、今ここでボルジュアを相手にするのは難しい。恐らくボルジュアは、こちらがそう思うことを分かった上で、少年の前でわざと母親としての仮面を被ったに違いない。
 ボルジュアは、そういう人間だ。
「そういえば、さっきここに動物がいたような気がするんだけど……」少年が辺りを見渡す。
「気のせいだ。それよりもきみは早く家へ戻れ」
「でも、目が覚めちゃったよ」
「学校までまだ時間がある。子供は寝るもんだ」
「でも……」
「聞こえなかったのか。餓鬼はさっさと家に帰れ」
 ブチャラティを見上げる少年の肩が、ぶるりと震えたように見えたが、ブチャラティは特に気にかけるようなことはしなかった。少年は年齢以上に聞き分けのいい性格をしているが、根はまだ子供だ。大人にわがままを言いたくなるときだってある。
 少年は傷ついたように眉を下げ、ごめんなさい、と言いながらブチャラティに背を向ける。振り返った先で少年はどんな顔をしているのだろう。きっと彼にとってブチャラティという男は、窮地を救ってくれたヒーローのように構成されていたはずだ。しかし、いまの会話でそれが完全に崩れ落ちる音が聞こえた。それは恐らく、ブチャラティの耳にも届いていたはずだ。
 なんて、素っ気のない優しさだろうか――。
 あの少年とは成り行きで食事を共にしただけで、特別な関わりがあるわけでもない。しかし少年と食事をしているときのブチャラティは、とても嬉しそうだった。それはきっと、自分の両親のこと、そして日常生活での出来事を楽しそうに話す彼の顔が、幸せに満ち溢れていたからだろう。麻薬にまみれているネアポリスにも、こんな笑顔を咲かせている花がある事実が嬉しかったに違いない。
 この街には、ブチャラティ以上に子供に対して優しく接するギャングはいない。きっと国中を探しても見つからないだろう。そう言い切れる自信がフーゴにはある。そんな男が唯一、子供に強く当たるときは、決まって自分という危険から遠ざけるときだけだ。
 ブチャラティに強い言葉を浴びせられた少年は傷ついたように背中を向けたが、そんな少年を見つめる彼の目は、更に深く傷ついているようにフーゴには見えていた。
「お兄さんの言う通りよ。子供はまだ起き上がる時間じゃあないわ」ボルジュアが言った。
「ごめんなさい……」
「お礼は母さんが伝えておくから」
「うん、分かった」
 少年は頷き、ブチャラティのほうを一見してから目を背けるように背中を向けた。
「待ちなさい、バンビーノ」
 そのときだ。家まで戻ろうとする少年をボルジュアが呼び止めた。母親に呼び止められた少年はその場で立ち止まり、ボルジュアのほうへ振り返る。
「わたしとの約束を守れなかった罰」
「え?」
 次の瞬間、少年の身体が後ろへ吹っ飛んだ。それと同時に聞こえたのは一発の銃声。
 息子に向かって銃口を向ける母親。母親に向かって小さな手を伸ばす息子。しかし少年が伸ばした手を掴むものはなく、ただ重力に従って落ちていく。風に吹かれた枯葉のように吹き飛んだ少年は胸から血を吹き出し、鈍い音を立てながら地面に倒れた。
 その一瞬であるはずの出来事が、フーゴの目にはまるでスローモーションのように見えた。
「――――」
 フーゴの眼球が揺れた。震えか。違う。怒りという感情で決めるにはあまりにも乏しい。
 言葉では表現できない感情、名も知らない少年を呼びかけようとしたフーゴ。その視界の端で見えたのは、ボルジュアのほうへ駆け出すブチャラティの後ろ姿だった。

83-2

 ブチャラティはフーゴを半ば押し切るような形で、ボルジュアのほうへ駆け出した。考えるよりも先に体が動いていた。怒りが拍車をかけているような感覚だった。
 地面に倒れている少年を見つめるボルジュアの顔は、先ほどまで浮かべていた母親としての穏やかな笑みは消え去り、愛情の欠片もない哀れみを含んだ表情をしている。地面に伏した少年をまるでごみのように足蹴りにし、歩道の隅へ追いやる。
 ブチャラティがボルジュアの胸倉を掴んだ。ブチャラティと目が合ったボルジュアは、自分に向けられる目がどのような色をしているか分かっているようだった。
 ブチャラティはスティッキィ・フィンガーズの拳をボルジュアに目掛けて放つ。ボルジュアは寸でのところで拳を避けたが、かすっただけで打撃部にジッパーが施された。
「パワーが、増している」
 ボルジュアが驚き戸惑っている隙に、先ほど殴りかかった腕とは反対の腕で素早く顔を殴りつける。スティッキィ・フィンガーズのジッパーを縫い付けられながら、勢いのままボルジュアはドルチェリアの窓ガラスに向かって吹き飛ばされた。その店は例のドルチェリアだった。
「おい、しっかりしろッ」
 ブチャラティは倒れている少年を抱き起こした。しかし必死に呼びかけるも、少年の体は力なく揺れるだけで自立的な反応はない。頭はまるで首の座っていない赤子のようだ。閉ざされている目をこじ開けて見れば、瞳孔は徐々に開きかかっている。
「ブチャラティッ」フーゴの声だった。
 少年を地面に寝かせ、ブチャラティは立ち上がる。
「迂闊だった」
「え?」
「守れるはずの距離にいたというのに、手を伸ばしたときには助けられないところにいる」
 ブチャラティは唇を噛んだ。
「母親が自分の息子を殺すなど、考えもしなかった」
 吹き飛ばした方向を見れば、腕や足に刺さっているガラスの破片を抜いているボルジュアの姿があった。だらだらと流れている血を見ては、自分の服を裂き、ガーゼ代わりにそれを傷口に巻きつけて止血させている。その手捌きに無駄はなく、腕利きの良い医師のようだった
 ボルジュアはブチャラティの心境など、まったく興味をしめさない様子で歩み寄ってくる。
「なにをそんなに怒っている」
「お前……自分がいま、いったいどんなことをしたのか分からないとは言わせんぞ」
「わたしがあの子供を撃ち殺したことか?」
 わざとらしく考える素振りをボルジュアに対し、ブチャラティは心の底から殺意が芽生えた。
「あの少年は、お前が根の腐りきった野郎だったとしても、純粋にお前を自分の母親だと心から信じていた。だからオレは一瞬、お前を始末することに対して躊躇した。しかしお前は自分の息子を躊躇いなく撃ち殺した。その所業はこの世のクソ以下だ。お前は決してやってはならない領域に足を踏み入れやがった」
 あの少年は他に欲しいものがありながらもその欲求を抑え、自宅から離れたドルチェリアまで一人で向かい、母親のためにケーキを購入しようと考えた。乱暴な男に蹴られ、どんなに殴られようが涙を見せずにいた少年。そんな気高い少年を生んだ母親ならば、きっと立派な女性なのだろう、と思っていた。
「勘違いしないでほしいな」
 ボルジュアはため息をこぼす。
「あの子供は、わたしと血の繋がりのある子供ではない」
「なんだって?」
「彼の本当の親は二年前に死んでいる。覚えてないか。アパルトメントで遺体となって発見された事件を。そいつはわたしの仲間であり、あの子供の本当の父親だ。ここからが面倒くさい話なんだが、子供に憧れを抱いていたオドーレが、あの餓鬼を育てようと言い出したんだ。これは残された者に託された思いだと。だからあいつが父親を、そしてわたしが適当に殺した女の仮面を被りながら母親の役をしていた。子供はいつか始末しようと思っていたが、オドーレが中々懲りなくてな。あいつが死んだいま、口うるさいやつもいない。だから殺した。それだけだ」
 ボルジュアに思いつきで話している様子はなかった。事実だけを述べている。そういう顔だ。
「お前の仲間が聞いた目撃情報というのは……」
「あの餓鬼が聞かせてくれたんだ。日本人の女と男二人が自分を助けてくれたんだと。の名前は事前に調べ上げていたからな。本人だとすぐに分かった」
 オドーレという人物は、仲間の残した子供を育てようと提案した。アバッキオとミスタは、の目撃情報を誰から聞いたのかをオドーレから訊き出そうと試みたが、どれだけ痛みつけても吐かなかった――いや、いまの話を聞いた限りでは、吐けなかった、といったほうが正しいだろう。オドーレという男は例え血の繋がりはなくとも、少年のことを我が子のように思っていたことに間違いはない。吐いてしまえば、目の前にいる男たちは少年でさえも始末するに違いない。そう思ったオドーレは口を結んだ。少年を守るために。
 しかし、目の前にいる人物にオドーレのような慈愛は微塵にも感じられない。寧ろ仲間たちが殺されても尚、平気な面で自分のやり方を全うしようとしている。
 ブチャラティは倒れている少年を横目で見やる。血の繋がりはなかったとはいえ、母親から銃を突きつけられた少年の心境を思うと、胸が痛む。彼は最初から最後まで、自分の母親が他人を利用しながら殺人を犯しているなどとは微塵も思わなかったはずだ。
「確かに、お前に子供を持つ資格はないな」
「さっきから貴様は家族だの子供だの、と同じようなことでこだわりを持つ男だな」
「その口から彼女の名前を吐くんじゃあない」
の傍にいながら、彼女の異変に気づかなかったのはどこのどいつだ。あいつも可哀相なやつだ。嘘さえも本当のことのように話す術を覚えてしまったらしい。いったいどんな親に育てられたら……ああ、あいつの親はいないんだったな。いや、すまん」
 挑発だと頭では解っていた。解っていても、心だけは正直に動いてしまう。ブチャラティはスティッキィ・フィンガーズでボルジュアの足元を狙った。ボルジュアの靴先に拳が当たったが、殴りつけるよりも先にボルジュアは靴を素早く脱ぎ捨てた。
 ブチャラティが瞬きをしている間に、ボルジュアは仮初めの母親から少年の姿へ変化する。どうやら先ほどの一瞬で、少年の血液をスタンドの注射器の一部に注入したようだ。これまで変化した動物や人間たちを見ても、相手の手つきはとても器用且つ敏捷だ。さすがは長年、可笑しなものを追い求めてきた人物といったところだろうか。
「優しいお兄さん、僕が相手になるよ」少年の姿でボルジュアが穏やかに笑った。
 ブチャラティが先行する前に、フーゴがボルジュアに向かって駆け出した。ボルジュアは地面に着地したあと、自らのスタンドを発現させる。ボルジュアが着地する場所に狙いを定め、フーゴはパープル・ヘイズの拳を相手の肩に叩き込む。一つ目のカプセルを破壊し、殺人ウイルスを充満させた。
 ボルジュアは充満していくウイルスから一時逃れたが、すかさずその背後にブチャラティが先回りする。スティッキィ・フィンガーズの手には、パープル・ヘイズのカプセルが握られていた。これは先ほど駆け出したフーゴが、後ろ手にブチャラティに向かって投げたカプセルの一つだ。
 ブチャラティの意思に合わせて、スティッキィ・フィンガーズがカプセルと同時に己の拳をボルジュアに向かって振りかざす。
 音を立てて破裂したカプセル。漂う紫色の煙の中で、細長いものがうごめいた。煙から距離をとっていたフーゴの足元に、素早くなにかが忍び寄る。フーゴの足首に巻きついたのは蛇だ。その白い蛇は開かれた口でフーゴの脚に食らいついた。
「免疫力のある蛇に変化したか……!」
「同じ手が何度も通用するか」
 蛇が顎に力を入れた。毒を入れようとしている――。
「フーゴ、そのまま動くな!」
 ブチャラティはスティッキィ・フィンガーズの腕を伸ばし、フーゴの脚を叩いた。フーゴは痛みのあまり声をあげたが、素早くブチャラティがジッパーで切断面を結合させる。地面には蛇がフーゴの体内に送り込もうとしていた毒液が飛び散っていた。
 しかしだ。毒から逃れたフーゴは痙攣したように体を震わせ、その場に倒れこんでしまう。
 違和感を覚えたブチャラティがフーゴに触れようとした瞬間、地面に何かが落ちた。それは中身が空になった注射器であり、スタンド特有のオーラのようなものを纏っている。このオーラの色はボルジュアのスタンドのものだ。
 まさか――ブチャラティが感づいたときには既に遅く、フーゴの体はみるみる小さくなる。その姿は徐々に人間から小さな犬の姿へ変わってしまった。
 目を覚ました犬は、ブチャラティと目が合うとその大きな目を瞬かせる。そして本人も視線の高さや自身の違和感に気付いたのか、ふさふさとした毛を見て奇声を上げた。その奇声は間違いなくフーゴのものだった。
「な、なんだこれはッ!」犬の姿のフーゴが叫ぶ。
「動物になるのは本体だけじゃあなく、注射針を仕込まれた者、全員が変化してしまうのかッ」
 突然の出来事にブチャラティとフーゴが困惑している中、どん、と鈍い音を立てながら、道路の排水溝の蓋が回転しながら宙を舞った。
 ブチャラティは背後から感じ取った殺気から逃れようとするが、犬の姿になったフーゴは自分の手足を上手く動かせず、身動きが取れずにいた。自由の利かないフーゴを脇に抱き、ブチャラティは距離をおく。排水溝の蓋から出てきたのは、人間の姿になったボルジュアだ。
「……時間切れだったか」
「なんだって?」
「犬のしつけは大変だろう。散歩に出たいと鳴いて出てみれば、一向に動かないんだからな。躾がなっていなければ適当な場所で糞もすれば、飼い主にだって噛み付く。貴様も肝に銘じておくんだな。一度拾った犬は、最後まできっちり面倒を見ろよ」
 そう話すボルジュアは、信じていた飼い主に捨てられてしまった犬のような目をしていた。

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