午前五時三十七分。ブチャラティはの車を使い、フーゴと落ち合う場所へ向かっていた。郊外から市内へ入ると、貨物トラックやタクシーという、出勤時間の早い車たちが走行していた。歩道には欠伸をこぼしながらシャッターを開いているバールの従業員、自転車をこぎながら見せ掛けだけの見回りをしている警官がいる。
左右に分かれた道で、ハンドルを左へ切る。街並みは変わりつつあり、閑散とした住宅街へ変わっていく。遠くにはたちが閉じ込められていたサンテルモ城が見える。
この辺りはヴォメロ地区に位置する。サンテルモ城のあるヴォメロ地区は、ネアポリスのなかでも住宅街と呼ばれる地域だ。高級住宅もあり、市内でも比較的治安の良い場所といわれている。
住宅街を抜け、大きな通りへ出る。しばらく走らせた先で、まだ開店していないトラットリアのテラス席に座っている金髪が見えた。フーゴだ。ブチャラティはヘッドライトを点滅させ、道沿いに停車させる。助手席側の窓を、こんこんとフーゴが叩き、扉を開けた。
「待たせたか」ブチャラティが訊いた。
「いえ、もうすぐ昇りそうな朝日を見ていたので退屈していませんでしたよ」
フーゴは扉を閉め、片手に携えているノートパソコンを開いた。画面には既に小さな文字で集められた情報たちが並んでいる。
「時間をとらせてすまなかった」
「いいんです。あんただって人間なんだ。仕事よりも誰かを優先したくなるときだってある」
「誰かにそんなことを言われたのか?」
「まあね」
ブチャラティは頭上に疑問符を浮かべたが、フーゴは、気にしないでください、と笑った。
「それで、残る一人の身元は?」
「目的の場所へ向かいながら話しますよ」
「それじゃあ、車を出そう」
ブチャラティは再びエンジンを入れた。それと連動するようにカーオーディオから音楽が車内に流れる。液晶画面に浮かんでいるのは、が以前から聴いているスローバンドだった。特に消す理由もないので、ブチャラティはそのまま音楽を流すことにした。車を出し、フーゴから渡された地図を頼りに目的の場所へ向かう。
「いま入れた音楽はブチャラティの好みですか? いつもと少しだけ雰囲気が違いますね」
「そりゃあ、こいつはの車だからな」
「本当にそれだけかな。僕の記憶が正しければ、いま流れている曲は……確か僕がさんと初めて会った帰りに、あんたが車内で流していた音楽だったような」
一度聴いただけの曲をよく覚えているな、とブチャラティはフーゴを横目で見やる。
フーゴはおかしそうに笑った。「やっぱり、あのときからそうだったんですね」
「だから、さっきから何の話をしている」
「いいや、いいんだ。こっちの話だから」
誤魔化すように微笑んだフーゴは、膝の上に置かれているノートパソコンへ視線を変える。
「敵の一人であったオドーレという男は、ネアポリスに家を置いていた。そこが彼らのアジトなのかは分かりませんが、他にもう一人住んでいる人物がいる。名前はボルジュア。略歴を見てみましたが、どれも慄然とするものばかりだ。四歳の頃に兄を毒殺し、両親は手足を切断された状態で遺体として発見された。通っていた学校の水道水に毒薬を忍ばせて集団毒殺。それをきっかけに刑務所へぶち込まれたそうですが、その三年後に脱獄してその身を隠していたそうですよ」
「生まれながらのいかれ野郎ということか」
「そういうことになりますね」フーゴはノートパソコンの電源を落とした。
「の父親に薬の開発を強要させたのも、そのボルジュアってやつが発端だろうな。麻薬と比べて、そういった特別な道具は高く取引できる。それに死因が特定できず、現代の医療技術では完全に治すことはできないといった機能も、裏の連中は目が眩むだろう」
「しかし、そんな薬を開発できたさんの父親は、いったい何者だったんでしょうか」
「化学者、あるいは日本からイタリアへ派遣された優秀な研究者だったのかもしれん」
フーゴは座席の背もたれに体重をかけた。「昔、通っていた学校で聞いたことがある。何かを作り出すときは、良いものばかりではなく、時には悪いものを作り出さなくてはならないと。良いものばかりを作っていれば、見えない陰から悪いものが生まれると」
ブチャラティはまともに学校にも通わず、十分な勉学も蓄えているわけではなかった。しかしフーゴの話を聞いていると、それは研究者に限った話ではなく、この世界に存在しているもの全てに当たるものなのではないか、と考えていた。人間は完璧ではない。完璧ではないからこそ、他人や物、金を使ってそれを補おうとしている。
「あの、ブチャラティ」
「なんだ」
「SSという薬が横流しされ、いまでもどこかでそれが利用されているのは事実です。その薬を利用しているのは、やっぱり僕らの組織なんでしょうか」
「オレはそう考えている」
「それなら、さんの父親を始末するように命令した理由はなんだと思いますか。彼自身ならまだしも、所有物まで処分するように命じたことも気になります」
パッショーネが『SS』という薬を所有し、それを裏社会に流れないように食い止めている可能性は十分に考えられる。もしも裏側の世界でそんな危険な薬が出回っているとすれば、既に話題になっているはずだからだ。
今回の薬を入手した主な目的は商売道具だろうが、それ以外にパッショーネが所有する理由はあったのだろうか。フーゴが言ったように、薬を開発した本人を始末する理由と、解毒剤を処分させた理由も明らかにはなっていない。ブチャラティの漠然とした考えとしては、組織にとって解毒剤は不要だと考えた。しかしそれでは、ラディーチェという人物が、解毒剤を作っていた彼女の父親に協力していたことに辻褄が合わなくなってしまう。
そしてこれらはあくまで、ブチャラティの立てた仮説に過ぎない、ということが重要だ。
「そういえば、敵が所属していたギャングチームの元ボスの名前なんですが、随分と変わった名前なんです」
「変わった名前?」
「えっと、確か……」
フーゴがノートパソコンを座席の脇にしまおうとしたときだ。間もなく交差点に差しかかろうとしたところで、ブチャラティは道路の端に倒れている人影を見て、ブレーキを踏んだ。その衝撃でフーゴの体が前へ浮かんだ。
車の窓を開けて見てみると、倒れていたのは警官だった。うつ伏せのまま白目を剥いており、腹には果物ナイフが深々と刺さっている。
降りよう、とブチャラティが言うと、フーゴも車から降りた。ブチャラティは倒れている警官に歩み寄り、傍に座り込んで観察する。既に呼吸はなく、ナイフの刺さっている場所を見ても、即死だと判る。しかし死後硬直はまだ始まっていないようで、胸から流れ落ちている血もまだ新しい。警官服に染み込んでいる血が、その証拠だ。
なぜこんな場所で――ふと、辺りを見渡したとき、ブチャラティは、はっとした。
この場所には見覚えがある。いや、ネアポリスの街並みは既に見慣れているのだが、記憶に新しいといったほうが正しいかもしれない。
ここは数週間前、ドルチェリアの前で男が暴れていた通りだ。そしてその男から暴行を受けていた少年を助けようとしたと再会を果たした場所でもある。
通り魔にでもやられたか、とブチャラティは警官から離れた。すると、暗がりとなっている路地裏から一匹の犬がやって来た。野良犬だろうか。首輪やリードはなく、その代わりにこの街で生き抜いてきた証のように額に傷を負っている。
犬は警官の血をぺろりと舐め、まるで人間が唾を吐くように、口周りについた血を拭った。
死臭につられてやって来たのだろうか。鋭い嗅覚を持つ犬にとっては、血反吐のような臭いを放っているネアポリスは辛いものがあるな、と思いながらブチャラティはフーゴと共に車の中へ戻ろうとした。
「貴様ら、遺体をこのまま放置するのか」
どこからか人の声が聞こえ、ブチャラティは辺りを見渡した。しかし早朝の町に、自分を含めたフーゴ以外の人影は見当たらない。いるのは自分たちと――犬だけだ。
まさか、と思い、ブチャラティはゆっくりと後ろへ振り返った。先ほどまで遺体の臭いを嗅いでいた犬はおらず、逆に足元から違和感を覚えた。視線を下へやれば、そこにはスーツのにおいを嗅いでいる犬の姿があった。
「の匂いを追ってみれば、お前の身体から彼女の匂いがする。なんだお前、抱いたのか?」
まともな睡眠を取っていないせいか、幻覚を見てしまったのかと疑ってしまった。
――いま、犬が喋ったのか?
ブチャラティとフーゴが当惑していると、犬は今度こそ人間であるかのように笑い出した。
「おいおい、ションベンを垂らしたような顔をするんじゃあない。犬が人間の言葉を喋ることがそんなに珍しいか。人間っていうのは我が儘な生き物だ。動物の言葉が解りたいと言いながら、いざこうして会話を交わした途端、まるで気持ち悪いというような顔をする」
犬はブチャラティから離れ、体を伸ばした。
「アイデンティティを忘れちゃあいけないな」
口の動きに合わせて人間の言葉を喋る犬は、四足歩行から一変し、二足歩行の人間の姿に変わった。変わり果てた姿を見て、ブチャラティは愕然とした。変貌を遂げたその姿は、たったいま目の前で遺体となって倒れていた警官だったからだ。
ブチャラティとフーゴの喉が動いた瞬間、犬から姿を変えた警官は携えていた拳銃を素早く構え、ブチャラティに向かって発砲した。弾はブチャラティの頬をかすり、遠くの窓ガラスを割った。
「少し外したか」
淡々とした口調で警官が言った。
「腕が鈍ったな。老いには勝てないか」
「まさか、お前がボルジュアか?」フーゴが言った。
「さすがによく調べてるな、パッショーネ。国内一のギャングチームは伊達じゃあない」
やはりそうか、とブチャラティは合点する。
「それなら、わたしの能力も知っているのかな」
自らの存在を肯定したボルジュアは、足元に転がっている警官を蹴り飛ばし、背後にスタンドを浮かばせた。これまでの情報を頼りにすれば、相手のスタンドは恐らく『自由自在に姿を変化させることができる』能力。そしていま目の前で目撃したことが夢でなければ、対象は人間に限らず、犬などの動物にも変化させることができる。
ボルジュアから凄まじい殺気を感じ、ブチャラティは地面を殴りつけ、ジッパーで間合いをとった。傍にいたフーゴも同様に、自身のスタンドであるパープル・ヘイズを既に出している。
「お前、の匂いを辿ってきたと言ったな」
「ああ。誰かさんが檻から逃がしたせいだ」
しかし、とボルジュアは舌打ちを鳴らす。
「ジョエルのやつ、最後までわたしを裏切ったな。やはりあの場でわたしが事を進めておけばよかったのかもしれない。これはわたしのミスだ。オドーレともしばらく連絡が取れないことや、わたしの名前を知っているということは、連中をやったのは貴様たちか」
「答える義理はない」
「身内に泥を塗られた落とし前か。それなら、わたしにもお前たちを始末する道理があるな」
警官に化けているボルジュアの身体に変化が訪れた。まるでさなぎが脱皮するように、警官の身体が剥がれ落ちていく。中から出てきたのは美しい蝶々のようで、その中性的な声色に合ったロシア系の白人の姿だった。
「レイラ・セッションズ」
ボルジュアが呪文のように唱えたあと、彼の背後に浮かんでいるスタンドの腕が勢いよく飛び出した。
ブチャラティはすかさずスティッキィ・フィンガーズで抗戦する。連発して繰り出されるボルジュアのスタンドの打撃は力強く、そして素早い。スピード力に長けるスティッキィ・フィンガーズとほぼ互角だ。スティッキィ・フィンガーズの最後の一撃が相手の拳をかすり、頬を殴りつける。その勢いで吹き飛ばされたボルジュアは、地面に片手を着き、裂けた口から流れる血を舐めた。
「こいつはすごい。ジッパーか」
ボルジュアは殴られた頬のジッパーを締めようとしているが、それができずにいる。諦めてジッパーの引き手から手を離した瞬間、吹っ飛ばされた距離を一気に詰め、ブチャラティに向かってスタンドの攻撃を繰り出した。
――こいつ、戦い慣れている。
「そこを通してもらおうか。わたしは貴様らと遊んでいる場合じゃあないんだ」
「お前もギャングなら解ってるはずだ。ただの話し合いで済むとは思っちゃあいないだろう」
「殺したほうが勝ち、というわけか」
「お前を彼女の元へ行かせるわけにはいかない」
「ちょっと、こんな朝早くからいったい何の騒ぎッ?」
大きな物音に目を覚まされたのか。パジャマ姿の若い女が窓から顔を出す。ブチャラティはそちらに目を向けはしなかったが、女が途端に、きゃああッ、と悲鳴を上げ、その悲鳴と共に窓の向こう側へ倒れこんだのは認識できた。いまの女の視点から見れば、腹にナイフが刺さったまま血を流して倒れている警官、派手なスーツを着たギャングらしきもの。そしてボルジュアの溢れる殺気といった光景だろう。一般人が気絶してしまうのも無理はない。
「まったく、いつ来てもこの通りは騒がしいな」
「人が集まってくる前に片付けないと、面倒なことになりそうですね」フーゴが言った。
「この時間でよかったと喜ぶべきかな」
日の出まであと、一時間を切った。