ドリーム小説 79

 ブチャラティはの横顔を見つめ、は何も飾られていない真っ白な壁を見ていた。その間に長針が二度進んだが、は一向に口を開かない。頭のなかで何かを考えるように両手を口元の前で組み、瞬きを繰り返している。
「彼は、あなたの知り合いなの?」やがては落ち着いた口調でそう尋ねてきた。
 ここから先は、冗談も嘘も何も通じない。やろうとも思わない。ブチャラティは本屋の親父について包み隠さず話した。はそれを静かに聞いていた。
「きみもあの本屋に行ったんだろう」
「本屋?」
「アバッキオがきみのパスポートを拾った場所は、その彼が経営していた本屋の前だったんだ」
「そうだったんだ……」
は店主と顔を合わせていないのか」
 はかぶりを振った。「お店の中には入ったけど、新聞紙で顔が隠れていたから」
 店内へ入ることを許された、ということは、ジョエルは少なからずを気に入ったということになる。それも新聞紙で視界が覆われている状態で、だ。
「そのジョエルって人がいつからあの場所にいたのかは分からない。だけど、間違いなく言えるのは、彼はわたしたちを襲った犯人の仲間であること。犯人の一人と知り合いのようだったし、何より昔のことがどうとかって……」
 ジョエルにとって昔のことといえば、ひとつしかない。ギャングとして活動していた頃、彼は仲間を裏切って逃亡した過去がある。その仲間から逃れるためにネアポリスで本屋を経営し、老人のふりまでして仲間の視界を霧で覆おうとしていた。しかし、彼が今回の犯人と接触しているということは、少なからずジョエルの居場所はかつての仲間に気づかれていたということになる。それがいつからだったのか、今となってはそれを知る術はない。
「そのときは意識が朦朧としていたから、詳しい話は聞くことができなかったの。ごめんなさい」
「いいんだ。しかし、なぜ彼だけがあの場所に?」
 ブチャラティの問いに、は一瞬押し黙った。しかし彼女もブチャラティと同じように、これからの話は真実だけを話す他に道はない、と悟ったのか、口を開いた。
「彼は仲間から脅迫を受けていた」
「脅迫?」
「娘を助けたいのであれば、わたしを殺せと」
 娘というのは、間違いなくエマのことだろう。
「恐らくジョエルさんがあの場所にいたのは、誘拐された娘さん――エマちゃんを助け出すため。ブチャラティから聞いた話が本当であれば、きっと犯人は裏切り者である彼に落とし前をつけようとしていた。娘であるエマちゃんは彼にとって、アキレス腱のような存在だからね」
 仮にジョエルがエマという少女が自分の娘であるという確証を得ていなくとも、目の前に自分の娘と同じ齢の少女が人質にとられていれば、見ず知らずの女を殺すことを選んだかもしれない。
 しかし、今回の話には合点のいかない点がある。は本屋の親父を認知していなかったが、ジョエルは彼女のことを知っている。それはブチャラティがの誕生パーティに招いたことが動かぬ証拠だ。そしてブチャラティは彼にが自分の友人であることを話している。彼の目利きは本物だ。一度見た人物を忘れるようなことはないし、見間違えるはずもない。
 これはあくまでブチャラティの私見だが、気に入った人間が友人だと紹介したを、彼は見ず知らずの女として殺すだろうか。
「例え元ギャングであっても、あの男がわたしを殺すようなことをするだろうか」
 頭のなかで考えていた思考を言い並べられ、ブチャラティは思わずのほうを向いた。
「あなたはそう思ってるんでしょう」
「それは……」
「大丈夫、心配しないで。彼はわたしを殺すように命令はされていたけど、そうはしなかった。わたしがいま、こうしてあなたの前にいることがそれを物語ってる」
 はソファーから立ち上がった。棚の上に置いている小さな置物を軽く持ち上げたあと、それを静かに戻した。ブチャラティはその背中を、じっと見つめていた。
「彼は私が殺した」
「……何だって?」
 がブチャラティのほうへ振り返った。その顔は驚くほど無表情で、淡々としていた。
「聞こえなかった? わたしが彼を殺したの」
「……まさか」
「嘘じゃあない。本当のこと」
 あなたも見たでしょう、とは嘲笑する。
 確かに。部屋に入ったときの光景は、今でも目に焼きついている。
 部屋に入る前に聞こえた二発の銃声。急いで向かってみれば、部屋では頭から血を流している本屋の親父がぐったりと倒れており、隅には気を失っているエマの姿。そしてブチャラティの前には、片手に拳銃を握りながら死体となったジョエルを見つめるがいた。あの現場を目の当たりにすれば、どんな状況で誰がジョエルを殺したのかは一目瞭然だった。
 しかし、ブチャラティはどこまでも疑った。ジョエルを殺したのは本当になのかと。彼女が拳銃を握り締めていたとき、ブチャラティは目を疑った。子供たちに凶器を持たせることを酷く嫌っていた彼女が拳銃を握るはずがない。仕事で小さな悪事を働くことはあっても、彼女は決して人を殺めるようなことはしなかった。
 ブチャラティはのことを神のような存在として崇めているわけではない。ただ、数日前は自分の隣で笑ったり、からかったり、顔を赤らめたりと、まるでびっくり箱のように様々な表情の色を見せていた彼女が、今では無の表情を浮かべているのが恐ろしくてたまらなかった。
 彼女は本当に、殺人を犯したのか――。
「仮にきみが殺したとしよう。その動機はなんだ」
「それは考える前でもなく簡単なことよ。父親にあんな薬を作るように強要させた恨み晴らし」
「きみがそんな理由で人を殺すはずがない」
 それに、とブチャラティも立ち上がる。
「ジョエルが薬の開発の件に関わっていたとは限らない。彼は足を洗おうとしていたんだぞ」
「けれど、関わっていなかったという証拠もない」
 ブチャラティは言葉に詰まった。
「例え今回の件に関わっていなかったとしても、彼が犯人の仲間であることは事実。それならわたしには彼らを恨む権利は十分にある」
「きみは自分の親が目の前で殺されるところをエマに見せてやったって言いたいのか」
「ええ、そうよ」
「でたらめだ。オレが知っているは、そんな理由で人を殺すような女じゃあない」
 本当のことを言ってくれ、とブチャラティはに一歩近づく。しかしは後ずさりした。
「あなたが知らないだけで、わたしはあなたが思ってるほど、良い人間じゃあないッ」
 の抑揚のある声に、ブチャラティは一驚する。
「わたしだって人間よ。誰かを恨んだり、妬んだり、嫌ったりすることだってある。自分のなかにこんなどす黒いものあるんだって嫌になるくらいの感情が……。ブチャラティがそのことを知らないのは、わたしがあなたに見せないように心掛けていただけ。どんなに親しい相手でも、自分の腹の中を全て見せられるわけじゃあない」
 の言葉を聞いて、ブチャラティは後頭部を鈍器のようなもので殴られた衝撃が走った。
 自分はいま、そんな理由で人を殺したというのか、と訊いているが、自分はどうだ。今までどんな理由で人を殺してきた。どんな理由で彼女の生きる術を殺した?
 ――オレは彼女を責められるような立場ではない。
「今更許してほしいなんてことは言わない。彼があなたの知り合いだと知ったとき、わたしは覚悟を決めた。あなたから恨まれても構わないと。例え優しいあなたでも、親しい友人を殺したわたしを前と同じ人間のようには思えないだろうなって……。だからわたしは――」
「違うんだ」
「え?」
「隠し事をしていたのは、きみだけじゃない」
 果たしては、ジョエルを殺したか、殺していないか。ブチャラティはその二択だけに拘っていた。そんなは、逆にこちらからそのことを訊ねられることを予想し、答えたことによって自分が相手にどう思われようが構わないと覚悟を決めていた。
 それならばこちらも、同じ覚悟で示すべきだ。
 もしかすると真実を伝えた瞬間に、自分たちはもう後戻りができないところまで進んでしまうかもしれない。以前のように隣を歩くことさえ許されないと考え、二度と言葉を交わさないかもしれない。ジョエルの後を追うことになるかもしれない。
 それも全て覚悟の上だ。彼女は言った。自分には恨める権利を持っていると。ジョエルを殺したという供述は認めないが、自分を恨む権利だけは認めてもいい。
、きみが持ち出した日記で分かったことは、きみの身体のことだけじゃあない」
「え?」
「きみの父親がいつ、どこで、誰と会っていたか。オレはそれを明確に答えることができる」
「ど、どういうこと?」
「きみの父親がネアポリスに来たのは今年の三月一日、午前三時。場所は郊外にある古い倉庫だ」
 行った覚えがあるのか、は反応を見せた。「その倉庫ならわたしも行った。でも……」
 そこでは『なにか』を見た。そしてそれから目を逸らし、連想しないように考えたはずだ。
「実はオレも、同じ時間にその場所にいたんだ」
 の指先が痙攣したように、ぴくりと動いた。
「そしてその場所にいた男を殺した」
 は声にはしなかったが、口の動きで、嘘よ、と言っているのが見てとれた。
「そうだ。オレが殺したんだ、きみの父親を。だから捜しても見つかるわけがないんだ」
 の目が見開かれ、ブチャラティへ注がれる。
 信じられない――はそう言いたいのだろう。それはブチャラティもつい先ほど抱えた感情だ。考えもしなかった行動を、思いもしなかった人物が行っている。そんなことを言葉だけで信じろというほうが無理な話だ。
 ふざけないでよ、とは声を震わせた。「なにを馬鹿なこと言ってるの、ブチャラティ。こんなときに変な冗談を言うのはやめて」
「冗談なんかじゃあない、本当のことだ。オレはきみの父親を殺し、解毒剤を始末した」
「嘘よ」
「嘘だと思うなら会ってみるか。彼の遺体はオレしか知らない場所に隠してある。彼と血の繋がりのあるきみなら、見なくともすぐに感じ取るはずだろう。肉親だと」
「やめてって言ってるの!」
 は部屋に響き渡るほどの声を上げた。
「あなたがわたしの父親を殺した? そんな事はもっとあり得ない。あなたはわたしの父親と会ったことはない。世の中から消えている父親の動きを監視できるはずもない。あなたにわたしの父親を殺す理由なんてひとつもないッ」
 そう、ないのだ。の父親を殺す理由も動機も、最初からブチャラティには存在しない。
 けれど『できてしまった』のだ。どんな言い訳も通用しない理由が存在してしまった。本来ならばこのことをに話すことは許されない行為だ。しかし、ブチャラティは既に許されようとは思っていなかった。彼女に真実を伝えるためには、自分を許してはならない。
「きみの父親を始末することは、組織からの命令だった」
「組織からの、命令?」
「指定の時間、場所に訪れる者を始末し、その者の所持品を全て抹消する。これがオレに与えられた命令だった。きみが持っていた日記を読んだとき、気づいたんだ。オレがあのとき始末した人物が、きみの父親であることを」
「ちょ、ちょっと待ってブチャラティ。あなた、自分がなにを言っているのか解ってるのッ?」
「解っていないと思うのか?」
 の喉が、ごくりと動いたのが見えた。
「きみの父親を殺した人物がオレなら、彼をその場所へ呼び出した人物、そして解毒剤を作っていた彼と連絡を取り合っていた人物は限られてくる」
 まさか……、とは顔を青ざめた。
「そうだ。全ての黒幕はオレたち、パッショーネさ。恐らく、きみの父親が開発した薬を横流ししたのもオレたちの組織の誰かだろう。調べればすぐに判る」
 は完全に言葉を失っていた。溢れ出しそうな思いを必死に押さえ込むように、両手で口を覆っている。震えるその体を抱き締めることも、労わりの言葉をかけてあげることも、いまのブチャラティにはできない。
「オレがきみの父親と知らず殺したとしても、オレが彼を殺したという事実は変わらない。だがひとつだけ言っておきたいことがある。この命令に関して、フーゴたちは一切関与していない。あいつらは無関係だ。命令が下されたのはオレだけだ。憎むならオレを憎め」
 ブチャラティはに向かって背を向けた。
「先ほどはこう言ったな。自分はあなたが思うほど良い人間ではない、と。それはオレも同じさ。オレはギャングなんだ。きみとは最初から住む世界が違う。人を殺し、世間で悪事を働いている。そんなオレにきみは無条件な優しさで寄り添っていてくれたが、オレはそんなきみから全てを奪った。大切な家族や時間、そして唯一の生きる希望さえも。だからきみはオレを――」
 憎める権利を持っている、その言葉は背後から突然襲い掛かってきた衝撃によって遮られた。後ろから肩を引っ張られ、振り返った瞬間にから胸倉を掴まれた。そのの表情を見て、ブチャラティは酷く驚いた。命懸けで捜していた父親を殺され、怒りと憎しみで煮えたぎっているではあろうと思っていた彼女の顔は、悲しみの色で染まっていた。今にもこぼれ落ちそうな涙を目尻に溜めている。
……?」
「どうして……」
「え?」
 は更に胸倉を引っ張った。「どうしてそれをいま、わたしに言うの! あなたが黙っていればずっと分からなかったことだったじゃない!」
 そうだ。言わなければ永遠に明かされないことだった。それでも言わずにはいられなかった。
「オレだけ真実を知っておきながら、きみに隠しておくなんてことができなかった。きみも捜していた父親が見つからない理由を求めていたはずだ」
「そういうことじゃないッ。わたしが言いたいのはそういうことじゃあない……」
 は胸倉を掴む手を震わせ、俯かせた。
「父親のことなんてもう、どうでもいいの」
「どうでもいい?」
 ブチャラティには理解しがたい言葉だった。両親のことがどうでもいいと思えるはずがない。それが例え、一度も顔を合わせたことのない関係だったとしても、だ。
「どうでもいいなんて、そんなことは軽々しく言うもんじゃあないぜ」
「あなたには分からないかもしれない。でも、わたしにとっての父親は彼であって彼じゃない」
「きみは自分を助けるようとした父親を、どうでもいいなんて言えるやつだったのか?」
 はかぶりを振った。「そんなことない。でも、会ったこともない人をいきなり父親だと思えと言われても、わたしにはそれが分からないと思っただけ……」
 ブチャラティにはの考えが解らなかった。子供が両親を慕い、愛するのは当然のことだと考えていた。そして父親を捜しているも、自分と同じだと思っていた。
 しかし違った。血の繋がりがあっても、過ごした時間が皆無であれば、家族とは呼べないのか。
「ブチャラティからそんな話をされた事実が、今のわたしにとっては死ぬことより辛いの」
 辛い、という言葉に、ブチャラティは胸をナイフで突き立てられるような痛みが走った。
「あなたがわたしの父親を殺したことが本当ならば、こんなに悲しいことはない。今だって信じられない。でも、そんな……まるで、死ぬなら今のうちに言えることを言っておこうって全てを悟ったように言わないで……」
 ぽたりと、床に何かがこぼれる音がした。
「それとも『はもうすぐ死ぬから、これから何を言っても変わらない』とでも思った?」
 の台詞にブチャラティは、ぞっとした。
「違う。オレはそんなつもりで言ったわけじゃあないッ」ブチャラティはの肩を掴んだ。
「それならどうして、それをいま言ったの?」
 は俯かせていた顔を上げた。
「それはブチャラティ、あなたの自己満足よ。家族のことだろうがなんだろうが、本当のことを知ることが相手のことのためになるとは限らない。組織のことだって、さっきは話せないと言ったのに、いまは簡単に教えてくれた。それは『わたしが死ぬことによって口止めになるから』と思ったからでしょう?」
 の言い方にブチャラティは、かちんときた。「どうしてそんな言い方をするんだッ」
「否定しないってことは、そういうことね」
 嘲笑気味に笑ったは、自暴自棄に陥っていた。このままではあらぬことも言い兼ねない。
 ブチャラティは深呼吸をした。に対して思わず声を荒上げてしまった戒めのために。
、少し落ち着け。いまのきみには余裕がない。だから心にもないことを言っちまうんだ」
「余裕もくそもないに決まってるでしょう」
 ああ、もう。止めてくれ――。
「わたしはもうすぐ死ぬんだから、自分の言いたいことを言ってなにが悪いっていうの」
」ブチャラティは抑揚をつけて言った。
「知ってる? 動物は死ぬ間際になると、途端に元気になるんだって。いまのわたしみたいに」
「だから、そんな言い方をするのはやめろ!」
「じゃあどういう言い方をすればいいのか教えてよ!」
「ああ、もう喋るんじゃあない。きみも本心でそんなことを言っているわけじゃあないだろ」
「喋るな? さっさとくたばれって言いたいわけ?」
、お前……いい加減にしておけよ」
「あなたにわたしの気持ちなんて解らない。いいえ、解ってもらおうとも思ったことはない」
 互いの言葉が飛び交うたびに、見えない何かが崩れ、そして確実に壊れていくような音がする。と再会してからの記憶が、まるで嘘のように消えていく。
 肩で息をしていたは深いため息をつき、顔を歪ませながら片手で顔を覆った。「こうなると分かっていたから、あなたに本当のことを伝えるのが嫌だった。あなたが無条件に与える優しさは、わたしにとって甘い蜜であり同時に毒薬でもある。使い方を間違えれば、優しさだって簡単に刃物になるの」
――」
「そんな目で、わたしを見ないで」
 は力なくかぶりを振った。
「そんな同情するような目で見ないで。わたしのことは、普通の女として見ていてほしかった。あなたからそんな目で見られるくらいなら、死んだほうがいいッ」
 が咆哮にも似た声を上げた直後、彼女はその場に崩れ落ち、激しく咳き込んだ。体が揺れるたびに、床には赤い涙がこぼれ落ちる。苦しそうに呼吸を続け、唾液を垂らすを見ながら、ブチャラティは、これでも死なないと言えるか、と試されているようで眩暈がした。
 ブチャラティはにせめてもの救いの手を伸ばすが、触らないでッ、と、赤い手によって拒まれる。

「あ……」
 手を振り払った本人は、こちらの表情を見ながら目を見開かせた。まるで自分の行動に理解が追いついていない顔だ。そしてその顔は、あのときと同じだ。普段と様子の違うの手を掴もうとしたとき、彼女はいまと同じようにブチャラティを拒んだ。そのあとには深く傷ついたように顔を歪ませ、目の前から姿を消した。
 は、ふらりと立ち上がり、ブチャラティから距離をおくように後ずさりをする。しかし、三歩とも至らぬ場所での背は真っ白な壁についた。そこに壁があることすら認識していなかったは横目で壁を見たあと、そのままずるずるその場に座り込んだ。
 しばらく放心したように部屋の天井を見つめ、真っ赤に染まる自身の両手を見ながら、ついには声を押し殺して泣きはじめた。まるで自身を抱き締めるように体を縮ませながら忍び泣くその姿を見て、ブチャラティは考えるよりも先に、感情のままに彼女を抱き締めた。この行為がいまの彼女にとって毒薬だとしても、どんなに拒まれようとも、嫌だ嫌だ、と泣き叫ばれようとも、この腕を放すわけにはいかなかった。今この腕を放してしまえば、が壊れてしまいそうで恐ろしかった。
 腕の中で、ごめんなさい、とが言った。それは今にも消えそうな声だった。
「ごめんなさい。ごめんなさい……ブチャラティ」
 涙を交えながら何度も謝るに、ブチャラティはかぶりを振った。どうしてきみが謝る。謝らなくてはならないのはオレのほうだ。そう伝えるように。
「あなたにこんなことを言うつもりなんてなかった。でももう止められない。抑え切れない」
 怖い……、と言いながら、の震える手がブチャラティの背中に回った。彼女を押し潰そうとしている恐怖を失くすように、ブチャラティも強く抱きしめ返す。
「どうして、どうしてブチャラティなの。あなたが相手じゃあ、憎みたくても憎めない……」
「……
「信じたかった。父のことも、あなたのことも」
 背中を掴むの手の力が、一気に増した。
「分からない。どうしたらいいか、もう分からない」
 ブチャラティの腕の中で、海と化しているの瞳が揺れているのが見える。背中に回っている手が解かれ、の手がブチャラティの胸元に添えられた。自然と見つめ合う形となり、ブチャラティはの濡れている頬を親指の腹で拭った。彼女の顔をこんなに近くで見つめることは今までになかった。そしてこれほどまでに弱っているを見たのも、今回が初めてだった。
 ブチャラティはという女を、ずっと強い人間だと思っていた。彼女は出会ったときから一人だった。こちらの誘いへ簡単にはのらず、周りの意見に流されることもない。いつだって自分の欲しいものに一直線だ。組織に属している自分とは異なり、一人で行動している彼女を、その時までは強いと勝手に思い込んでいた。
 しかしそうではなかった。一人でいることが強いというわけではない。それはいま、目の前で泣いている彼女を見れば、嫌でも分かる。
 は強かったわけではない。強がっていただけだ。ただの虚勢を張っていただけだ。
「わたしはまだ、あなたといっしょにいたい。この家であなたと過ごして、おかえりって言いたい。ただいまって言いたい。海にだって行きたい。美味しい料理だってたくさん食べたい。もっと二人でいたい」
 これが、がオレに見せたくなかった本当の姿だ。
「助けて、ブチャラティ……」
 これまでの悲鳴が嘘のように、本音という名の涙をこぼしながらは呟いた。このまま朽ちていくのが怖くて堪らない。ずっと言えなかった負の感情を、ようやく絞り出したに、ブチャラティは鼻の奥がつんと痛んだ。
「わたしには、もう――」
 の言葉はここで止まり、ブチャラティの背後を見ながら静かに目を伏せた。胸元に添えられていた手を拳に変えてから、手のひらでブチャラティの胸を静かに押す。その仕草はまるで、ここから先は言ってはならない、と考えているようだった。
「……?」
 ブチャラティが名を呼んだときだった。瞼を重くさせているが、なだれるようにブチャラティの胸元へ倒れこんだ。咄嗟のところでを抱きとめたブチャラティは、慌てて彼女の名を呼んだ。静かになった部屋の中で聞こえてきたのは、寝息の音だった。胸からも鼓動が伝わり、ブチャラティは安堵の息をついた。
 まだ、生きている――。
 ブチャラティはを一度抱き締めてから、その体を抱きかかえた。眠るをベッドへ運び、肩まで布団をかける。最初にこのベッドで嬉しそうに弾んでいたときとは、まるで別人のようだ。
 時々うなされるように声を漏らすは、いったいどんな夢に苛まれているのだろうか。そのことを考えるだけで胸が痛んだ。の寝顔をよく見てみれば、輪郭はほっそりとし、頬の肉も落ちている。唇は枯れた花びらのように青ざめ、髪を撫でれば、髪の毛が抜け落ちた。
 彼女に残された時間はもう残り僅かなのだと、ブチャラティはついに頭で理解してしまった。それを決定付けるように、時計の秒針は無情にも前へ進み出す。
 日の出まであと、二時間を切った。
「――――」
 ブチャラティは唇を噛みしめ、震える拳で壁を殴った。は、ぴくりとも動かなかった。

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