乗り込んだ車内は無音だった。ブチャラティは助手席で座っている――いや、眠っているを見た。小さな傷だけで済んだエマとは裏腹に、彼女の顔には無数の傷痕が残されている。鋭利なもので切りつけられたような細い線、紫色に染まっている頬は、指先で触れただけで眠っている彼女の目が覚めてしまいそうなほど痛々しかった。
こんなことを考えたくはないが、この状況で呼吸があるのが不思議だった。の底無しの生命力か、それともなにか特別な力が彼女の命を引き延ばしているのか。
考えながら車を出そうとしたときだ。視界の隅での肩が、ぴくりと揺れたのが見えた。
ブチャラティはブレーキを踏み、のほうを見た。勢いよく止まった反動で、の体が前へ投げ出される。ブチャラティは咄嗟に彼女の体を支え、顔を覗きこんだ。閉ざされていた瞼の奥から、ブチャラティの顔が映りこむ瞳が見えた。
「ブチャラティ……?」
この世にこんな幸福の音楽があっただろうか。目の覚めたと目が合い、ブチャラティはしばらくの間、電池の切れた時計のように停止した。
の目が覚めることがそんなに驚くことか。いいや、当然のことだ。水の入ったコップを逆さまにしたとき、水が床にこぼれ落ちることのように当たり前のことだ。
当たり前であるはず、なのに。
ブチャラティ――の口からその名が呼ばれる前に、ブチャラティは彼女を抱き締めた。突然抱き締められたは、驚いたように小さく声を発する。
は生きている――ナランチャに言い聞かせた言葉は、己へ言い聞かせていたものだった。目の前でが倒れたとき、ブチャラティの中で何かが止まったような気がした。それは自身の心臓ではなく、から贈られたブローチが砕けるような感覚だった。
こちらの心境が伝わったのか、の両手がブチャラティの背中へゆっくりと回り、何度も聞いてきたその声で、ブチャラティ、と名を呼んだ。それはいままで聞いてきたなかで最も優しく、憂いを含んでいた。その彼女の声が更にブチャラティの心を震わせ、冷たい炎が燃え上がっていくのを感じた。
「やっと呼んでくれたな」
「なんだか、随分と待たせてしまったみたいね」
「気にするな。きみを待つことには慣れている」
抱き締めている腕を解放し、の様子を窺う。
「気分はどうだ。身体になにか違和感は?」
「大丈夫。心配してくれてありがとう」
は頷いたあと、ブチャラティから目を逸らした。
「……あの、どうしてブチャラティがここに?」
「きみと連絡が取れなくなったことと、オレの知り合いが何者かに拉致られたことが機縁でな」
「知り合いって、もしかしてわたしといっしょに閉じ込められていた……あの女の子?」
「彼女はエマといってな。きみの誕生パーティで花束を用意してくれたのも彼女だったんだ」
そうだったの、とは合点する。
「それと、には悪い知らせになるが」
「え?」
「きみの行方を捜す過程で、の身体に潜む影についてもこちらで調べさせてもらった」
はまるで痙攣したように体を震わせた。今まで閉ざされていたとは思えないほど目を大きく見開かせ、ふるふるっと頭を左右に振っている。
その様子は明らかに動揺し、混乱していた。ブチャラティは今すぐにでも暴れ出しそうなを宥め、再び彼女を腕のなかに閉じ込める。獲物を閉じ込める檻のように。
「やだ、やめて。ブチャラティッ」
「落ち着け、」
落ち着くんだ、の髪を撫でる。
「が言い出せなかった理由や、隠し通しておきたかった気持ちは、オレにも分かる」
「ブチャラティ……」
「オレも同じなんだ。に隠していることがある」
「あなたがわたしに、隠していること?」
そのときだ。が苦しそうに咳込んだ。ブチャラティは体を離し、彼女の背中を撫でた。は目尻に涙を溜めながら肩を震わせている。
「、しっかりしろッ」ブチャラティは自分の声に余裕がないという自覚があった。
は肩で呼吸したあと、口を抑えていた手を離した。手のひらには血が付着していた。それを見て、ブチャラティは背筋が凍った。アバッキオから聞いていたが、こうして現実を目の当たりすると目を背けたくなる。
「ブチャラティ、心配かけてごめんなさい」
は血を握り締め、拳で口周りを拭った。
「わたしはまだ大丈夫。そんな顔しないで」
が言うと、全てが嘘に聞こえるのは何故だろうか。
「不思議と動ける力は残ってるの。さっきまで見えていた幻覚も今は見えていなくって」
けれど、とは目を伏せたあと、そっと開いた。
「分かるの。わたしにはもう、時間がない」
「――」
「お願い、ブチャラティ。わたしを連れていって」
が先に前を見た。ブチャラティはのその横顔を見つめてから、ハンドルを握った。
彼女はもう、覚悟を決めている。諦めではない、諦観しているわけでもない。追いつめられているこの状況でも、前を見据えられる彼女をつき動かしているものはなんだ。目に見えず、名前も知らない不思議な力に、ブチャラティは嫉妬心を抱いた。しかし、それはすぐに払った。
それならオレは、その覚悟に最後まで付き合おう。
その思いを伝えるように、ブチャラティは空いているほうの手で、赤く染まったの手を握りしめた。
言葉はなかった。もまた、その手を静かに握り返してきた。
77-2
ブチャラティとを乗せた車は、ホテル・ラ・ヴィータに到着した。駐車場に車を停め、エンジンを切る。助手席に座っているが、おぼつかない動きでシートベルトを外している。ブチャラティは先に車から下り、助手席側の扉を開いた。
「大丈夫か?」
「グラッツェ、ブチャラティ」
「オレを飽きさせるほど、頼ってくれたらいい」
拙い腕ではあるが、が濡れないように庇いながらホテルのロビーへ向かう。中へ入ると最初に目が合ったのは、ホテルマンと会話を交わしているフィオだった。
フィオはホテルへ入ってきたブチャラティとの姿を見るや否や、歓喜に満ち溢れた表情で駆け寄ってくる。ヒールの音が鳴ることも構わずに駆け寄ってくるその姿は、フロントクラークとしてではなく、ブチャラティやを思う一人の友人のように窺えた。
「さん!」
フィオはに抱きついた。
「お帰りなさいませ。ご無事でなによりでしたッ」
「はなさん、ありがとうございます」
は涙を浮かべているフィオの手を優しく取り、相手もまたの手を両手で包み込んだ。
「ああ、顔にお怪我を。すぐに医務室へ――」
「ど、どうか落ち着いてください、はなさん。見た目は派手ですけど、大したことありませんから」
フィオはかぶりを振った。「大したことがなくとも、女性が顔に傷を残してはなりませんッ」
普段より勢いのあるフィオの態度にはもちろん、ブチャラティも一驚する。
さあ、こちらへ。フィオの半ば強引な案内で、はホテルの医務室へと連行される。ブチャラティは応急手当を受けるを廊下の壁に寄りかかりながら待った。
数分後、傷が残っていた場所にガーゼや包帯を巻かれたが医務室から出てきた。見た目だけならば、ただの怪我のように見えるが、彼女の身体は確実に蝕まれつつあるとは、誰も想像できないだろう。
ブチャラティは試しに訊いてみた。「、医師から身体のことは何か言われたのか」
はかぶりを振った。「あの日記にも残されていた通り、SSという薬はとても巧妙に作られている。今までにも似たような事件を聞いたことがあったでしょう?」
死因不明の遺体発見事件。二年前にとアパルトメントを訪れたときに発見した遺体もまた、今回の薬に飲まれてしまった被害者とも言えるだろう。
あのときの遺体を発見したときの状況を思い出し、ブチャラティは心の中で落胆した。
そのとき、あのう、とフィオが顔を覗きこませた。
「はなさん?」
「先ほどは興奮していたとはいえ、お客様の腕を掴むようなことをしてしまって……。誠に申し訳ありませんでした。ご無礼をお許しください」フィオは頭を下げた。
「謝らないでください。こんなことを言うのは不謹慎ですけど、とても嬉しかったです」
「え?」
「お客様としてだけではなく、友人のようにわたしのことを気にかけてくれたんだな、と」
いつの間にか親しい関係になっている二人を見ながら、ブチャラティは違和感を覚えた。彼女は確かフィオという名前のはずだったが、はいま、ブチャラティの耳では聞き取りにくい名前で彼女を呼んだように思えた。
「、彼女の名前はフィオのはずでは?」
ああ、と思い出したようにが言う。「フィオさんは日本とヨーロッパのハーフなの」
そのことは知っている、とブチャラティは頷く。
「ここイタリアではフィオだけど、日本ではフィオーネのことを『はな』って言うの」
普段から日本語に親しみのないブチャラティにとって、『は』という発音は口にするのが難しい。ブチャラティは試しに日本名で呼ぼうとしたが、どうしても『あな』となってしまう。うまく呼べないブチャラティに、とフィオはおかしそうに笑っている。
苦笑を浮かべたブチャラティに、フィオは慌てて、すみません、と小さく頭を下げる。彼女も最初はただのホテルの案内人だったが、すっかりこの関係に馴染んだようだ。
「そうだ。実は先ほど、さんのお部屋の清掃が終わったところだったんです」
「そうだったんですか」が頷く。
「ホテルのことはどうかご心配なく。日本へ渡るまでの残り短い期間ではありますが、どうぞ最後までごゆっくりお過ごしくださいね」
残り短い期間、か――。
「はい、そうさせていただきます」
フィオはブチャラティのほうを見ると、笑みを浮かべてから会釈をし、この場を去っていった。彼女も今回の事件に巻き込まれ、まだ本調子ではないはずなのだが、自分の使命を捨て切れず、仕事の場に立っている姿は、誰かに似ているな、とブチャラティは思った。
「、今からオレたちの家へ行こう」
「え?」
「きみに話したいことがあるんだ」
は一考した様子を見せたあと、無言で頷いた。
ブチャラティはホテルの時計台を見た。時刻は四時を過ぎていた。アバッキオたちは病院へ向かい、フーゴたちはそろそろ敵の情報を見つけている頃だろうか。
しかし今だけは、仲間たちからの連絡が来ないことを願った。こんなことを願ってはいけないと解ってはいても、いまここで繋いでいる手を離せば、もう一生触れることができない気がした。
再び駐車場へ戻り、ロックを外して車に乗り込む。
「そういえばこの車、どうしてあなたが?」
「マリアーノから借りたんだ」
ブチャラティはそのときの出来事をに話した。
「そうだったんだ……。じゃあ、この車のことも?」
「オレのことを思いながら選んでくれたらしいな」
「もう、マリアーノったら。余計なことばっかり」は頬を赤く染めながらそっぽを向いた。
その様子にブチャラティは一笑する。「いい車だな。きみの好みが垣間見える」
「グラッツェ。でも、あなたがこの車は褒めるということは、自分自身を褒めてるのと同じよ」
「でも、嫌いじゃあないんだろう」
「この車は喋ることしかできないの?」
口達者なにブチャラティは鼻で笑った。それが不思議と安堵感を招いていてくれた。
隣にいるは自分の知っているのままだ。そんな当たり前が、いまはこんなにも嬉しく思える。
ブチャラティは車を自宅へ向けて走らせた。深夜のネアポリスは車数も少なく、誰もいない道を走っていると、まるでこの世界に自分たちだけしかいないようだった。
隣で外の景色を眺めているは窓から顔を離し、ブチャラティのほうを見た。
「ブチャラティ、フーゴくんたちは?」
「フーゴたちはいま、別の場所で仕事中だ」
「部下に仕事を任せて、上司は呑気に女とドライブ?」
ブチャラティには言い返せる言葉がなかった。
「わたしを捜す過程で父の日記を読んだと言ったけど、もしかしてブチャラティたちの仕事は、父に薬の開発を強要させた人物たちを始末すること?」
正確に言えば、パッショーネの構成員を襲った者の始末だが、答えはひとつではない。
しかし、組織から下された指令を含め、組織内部の情報を他言することはタブーである。
「そのことに関しては、例え相手がであったとしても話すことはできない」
は息をついた。「なら諦めるしかないか。わたしにはわたしの仕事があるし、あなたにはあなたなりの仕事がある。お互いの仕事に首を突っ込むのはいけないからね」
「随分と潔いんだな」
「パッショーネの噂はよく耳に入るから」
あなたの噂といっしょにね、とは微笑んだ。
間もなく二人を乗せた車はネアポリス郊外、海沿いの家へ到着した。ブチャラティは自分の鍵をつかって家の扉を開き、を中に入るように促す。
ブチャラティはの手を掴んだ。突然に掴まれた手を見て、が家に入る前に振り返る。
「ブチャラティ?」
「、今度こそ全てを聞かせてもらうからな」
覚えがあるのか、は気まずそうに視線を逸らした。
「オレは本気だ。二度はない」
「それなら、嘘発見器でも持ってきましょうか」
「きみの顔を見たら、すぐに判るさ」
は困ったように笑い、家へ入った。ブチャラティもその後を追い、家の鍵を閉めた。