ドリーム小説 76

 雨は小降りになり、隠れていた月が出てきた。
 ブチャラティとナランチャは、サンテルモ城へ向かっているフーゴたちに連絡を入れた。たちを発見したことを伝えると、フーゴの声色が明るくなったが、目の前の光景を説明するには言葉だけでは足りなかった。
 フーゴたちが到着するまでの間、ブチャラティは部屋の中にいる三人の様子を確認していた。縄で縛られたまま倒れているエマは意識を失ってはいるものの、特に外傷は見当たらなかった。ナランチャのエアロスミスにも反応が残っているため、命に別状はなさそうだ。ブチャラティはエマの縄を解き、眠っている彼女の頬を優しく撫でた。
「おい、。しっかりしろよッ」
 ナランチャの声に呼びかけられるように、ブチャラティはの元へ向かった。ナランチャに揺さぶられながら気を失っているの顔は、非常に青白かった。服や頬に付着している鮮血はまだ新しく、片手に握っている拳銃からは微かに火薬の匂いがする。
 を揺さぶっているナランチャの肩に手を置き、ブチャラティはそれを制した。
「エアロスミスの反応は」
「微かだけど、まだ残ってるよ」
は死んでいない。大丈夫だ」
 そう、はまだ死んでいない。ブチャラティはナランチャにを任せ、倒れている男の顔を確認する。男の意識は完全に失われていた。脈を確認せずとも、死んでいることが判る。ナランチャが捉えた消えた反応は、恐らく目の前に倒れている男のものだったのだろう。
 普段から身に付けている古臭い服装とは裏腹に、真っ黒なスーツに先の尖った真っ白な皮靴。本来ならば裸眼だけで十分な視力をもっているが、老人を装うために掛けている眼鏡を、いまはしていない。
 外でナランチャが割れた眼鏡を拾い上げたとき、ブチャラティは、まさか、と思った。
 しかし間違いない。死体となった男はネアポリスで古い本屋を営んでいる、あの親父だった。

76-2

 数十分後、サンテルモ城に到着したフーゴたちと合流した。フーゴたちはたちが無事であることを想定した上でやって来たのだろう。部屋に広がっている光景を目の当たりにしたときの彼らは、最初に部屋に入ったときのブチャラティと全く同じ反応だった。
 フーゴに説明を求められたが、ブチャラティはこの場を離れることを最優先だと判断した。本屋の親父はアバッキオが運び、エマはフーゴが運んだ。ブチャラティはを横に抱き、地面に転がっている拳銃をミスタに回収させてから、その場を後にする。
 車を停めている入り口まで向かい、フーゴが走らせてきた車へ本屋の親父とエマを後部座席に寝かせた。親父の意識は既にないが、頭からの出血を止めるためにアバッキオとミスタが適当な布を使ってそれを押さえる。車内は人数でいっぱいになり、ブチャラティは抱えているを彼女の車へ移動させた。助手席に座らせ、ボックスの中に入っている毛布で彼女の身体を包む。気のせいだとは思うが、微かに顔色が良くなったように見えた。
 ブチャラティは仲間たちのいる車内へ戻った。
さんはどうするんですか?」フーゴが訊いた。
「彼女のことはオレに任せてくれ」
「エマさんと、この男は……」
「病院へ連れていってくれ。エマは気を失っているだけだが、見た目では判らない。彼の遺体は医師へ預けることにする。アバッキオ、この件をお前に任せてもいいか」
「それは構わないが、訊きたいことがある」
 この状況でアバッキオが問いたいこと。ブチャラティは何となく予想がついていた。
「この男は、ただの本屋の親父じゃあないな」
 やはりそうきたか。アバッキオは彼と一度だけ会ったことがある。それは数週間前、ブチャラティが任務の帰りに車内でアバッキオに渡した眼鏡がきっかけだった。
「ブチャラティ、彼はいったい誰なんだ」
「彼は、かつてギャングだった男だ」
「ギャング?」フーゴが訊き返した。
 二年前のことだ。ブチャラティはいつものように街へ繰り出し、人々の様子を眺めていた。様子を眺めているというよりは、人の噂話に耳を傾けていた、と言ったほうが正しいだろう。ギャングをしている身といえども、一般人の口から生まれる言葉というのは曖昧で、時に正確だ。
 気になることがあれば、それが真実なのかどうかを確かめることが、情報収集の鉄則である。これは当時、ネアポリスを離れた友人から教わった言葉だった。
 その日は中年の女たちが輪を作って談笑していた。そちらから視線と挨拶を送られれば、ブチャラティは片手を軽く挙げて挨拶を交わす。
「ブチャラティ、聞いておくれよ。この間、本屋へ寄ったんだが、そこの店主が酷いのさ」
「本屋?」
 もしかして、とブチャラティは顎に手を添える。
「港へ続く道沿いにある、古い本屋か?」
「そうそう。あそこは珍しい本はあるけど、店主があんな態度だから人が寄らないらしいよ」
「それになんだか古臭いしね」
 態度の悪い親父が経営している本屋。その存在はブチャラティも知っていた。いつからあの場所にあったかまでは覚えていないが、少なくともブチャラティがギャングの世界に入る前からは建っていたものだと思われる。目の前にいる女三人が話すように、本屋の店主はかなり無愛想で無口な性格だ。それが主な原因なのか、本屋の前には客の姿はなく、常に無人営業なのだという。客が来なければ、どんな店でも経営は続かない。
 しかし、あの本屋は無人とも限らず、今も問題なく営業を続けられている。潰れる様子もなく、取立ての騒ぎを耳にしたことも一度もなかった。
 ブチャラティは、何か裏があると考えた。
「ブチャラティもあんな男にはなりなさんな」
「肝に銘じておくよ」
 ブチャラティは女たちに別れを告げ、本屋へ向かった。本屋はちょうど開店時間だったようで、店の前ではシャッターを開いている店主の姿があった。伸ばしっぱなしの白い髭に、中腰の姿勢。外で店主の姿を見たのは初めてであったが、どこからどう見てもぽっくりいきそうな老人にしか見えない。なぜ本屋を営んでいるのだろうか、とブチャラティは思っていた。
 店主はブチャラティの存在に気がついたようで、ゆっくりと首を回した。ブチャラティは怒鳴られてしまうかと思ったが、男は何も言わずに店の中へ入っていった。
 あまり歓迎はされていないようだが、ブチャラティは店内へ足を踏み入れた。店内は埃が目立つものの、陳列されている本や雑誌は、綺麗に整頓されている。そして噂で聞いたとおり、表の本屋ではあまり見かけることのない珍しい書籍が何冊も並んでいる。絶版となった雑誌、著者が数冊しか出版しないという名目で、世に出回っているのは数冊だけだという小説。
 なかでもブチャラティの気を引いたのは、母親から読み聞かせてもらっていた絵本と、昔から好んで聴いているジャズミュージックの模範レコード付きの雑誌だった。マイクロディスクが主流になりつつある現代に、レコードが付録とされている雑誌はとても珍しい。
 ブチャラティがその雑誌に手を伸ばしたときだ。
「お前さん、若いのに随分シブい趣味してるな」
 カウンターから声が聞こえた。ブチャラティは伸ばしていた手を引っ込め、そちらを向く。新聞を広げながら煙草を吸っていた店主は、煙草を灰皿に叩き、立ち上がった。中腰になりながらブチャラティの隣へ並ぶ。
「オレはこの人の音楽が好きだったが、こっちの音楽も好きだったな。お前さんは?」
「彼のレコードなら、全部持っているが」
「結構集めてるじゃあないか。最近は持ち歩ける音楽なんていうが、音楽はレコードで聴くのが一番いい。蓄音機の針を置いたときのあの瞬間は、他では生み出せない」
 噂とはかけ離れた店主の様子に、ブチャラティは拍子抜けした。そんなこちらの反応を予想していたのか。店主は怪訝そうな表情でブチャラティを覗き込んできた。
「お前、どうせおれが無愛想で態度の悪いヘンクツジジイだと思ってたんだろ」
 図星を突かれ、ブチャラティは視線をずらした。
 やっぱりな、と店主は腕を組む。「でも、そんな噂が流れているなら好都合だ」
「好都合?」
「お前、この街のギャングだろ。見れば分かる」
 店主はカウンターのほうへ回った。
「明日から好きなときにここへ来たらいい」
「どういうことだ?」
「オレは昔から、気に入らねえヤツとは口を利かないことにしてるんだよ」
 分かったら今日は帰れ、とブチャラティを追い払うように、店主は新聞を広げて言った。
 この奇妙な会話が、本屋の親父との出会いだった。ブチャラティは次の日から、近くを通るたびにその本屋を訪れた。理由は簡単だった。珍しい本に珍しい店主。なによりこぢんまりとした店内の雰囲気は、ブチャラティの心を落ち着かせるものがあった。本屋を訪れる頻度を重ねるに連れて、店主も口数を増やしていった。
 本屋に通い詰めてから数ヶ月が経ったときのことだ。ブチャラティは、いつの間にか用意されていた椅子に座りながら本を読んでいた。カウンターでは店主が煙草に火をつけている。今日は本数が多いな、と思っていると、店主が「おい、ブチャラティ」と低い声で呼んだ。
「なんだ」ブチャラティは本を閉じた。
「お前、オレのことを街のやつらに話したか」
「無愛想で意地の悪いジジイだと?」
 店主は苦笑した。
「話してないさ。あなたにもなにか事情がある。だが、それを話したくはない。違うかい?」
「お前、これから女にモテるぞ」
「生憎だが、最近になって女に逃げられた」
「ああ? なんだそりゃ」
 店主は煙草を灰皿の縁で叩き、頬を掻いた。
「おれの名前をまだ言ってなかったと思ってな」
「ああ……考えたこともなかった」
「ずっと『あなた』なんて言われたら気色悪いだろ」
 だったら最初から名乗っておけよ、とブチャラティは口には出さずに、頭のなかで呟いた。
「ジョエルだ、ブチャラティ」
 ジョエルと名乗った店主にブチャラティは改めて握手を求めたが、相手はかぶりを振った。
「どうしていまになって自己紹介を?」
「お前はずっと知りたがっていたはずだ。おれがこの本屋を経営し続けられている理由を」
「確かにそうだが、オレがこの本屋に来るのは――」
 分かっている、というようにジョエルは手で制した。
「おれはあまり表へ顔を出せないんだ。仲間を裏切った挙げ句、金を奪ってしまったからな」
「仲間?」
 ジョエルは誰もいない店内で聞き耳を立てられていないことを確認してから、静かに言った。
「数年前まで、おれはギャングをしていた」
「ギャングだって?」
 興味のある話だ、と思い、ブチャラティは座っていた椅子をカウンターに向かって進めた。
「驚いたか」
「多少はな」
 それで、どんなギャングだったんだ。ブチャラティは興味津々に彼へ訊いた。
「主な利益は政治家への援助だ。当時の相場にしてはあまり大金とは言えなかったが、おれが所属していたボスは麻薬や人身売買のような汚い手段を嫌う人だった。おれはそんなボスの方針が正しいと思っていたんだが、とある一件で仕事以上の金が入らないことに不満を覚えて、部下が反発を起こした。簡単に言ってしまえば、ボスを殺したんだ」
 ボスを殺す。ギャングの世界の恐ろしさをようやく知り始めたブチャラティにとって、その行為は勇気にも値するものだと思っていた。
「ボスを殺したその仲間は、これまでのボスがやっていた方法とはまったく反対の手段を選ぶようになった。まさに、麻薬や人身売買さ」
「麻薬……」
 麻薬という言葉に、ブチャラティは胸のなかで目覚め出した過去の怒りを思い出していた。
「ボスが殺され、組織がなくなったとき、おれは仲間についていくしかなかった。だが次第に自分がしていることの恐ろしさに気がつき、仲間を裏切り、娘を見捨てた」
「娘?」
「おれには娘がいたんだ。女房は娘を産んだときに死んで、それからはおれが育てていたんだが、おれと二人で逃げることになれば、娘を巻き込むことになる。だからおれは、まだ赤子同然の娘をおいて逃げたのさ」
 もう解っただろう、とジョエルは頭を掻きむしる。
「おれはこの本屋で老人のふりをしながらビクビク怯えている、しょうもない男なんだ。この本屋を続けられているのも、仲間から奪った金があるからさ」
 ジョエルは突き放すような態度になったが、ブチャラティはそうとは思えなかった。
「娘を」
「え?」
「あなたは今でも、娘を捜してるんじゃあないのか」
 ブチャラティはカウンターの脇に視線を送った。そこには写真立てが飾られている。写真には腹を大きくさせている美しい女性と、若い頃のジョエルと思われる男が映っていた。二人の表情は穏やかで、天使の歌声が聞こえてくるほど幸せそうに笑っている。
 ジョエルは写真立てを静かに伏せた。図星を突かれたからなのか、表情が固い。
「お前のことはよく聴くよ。最近じゃあ、悩み相談はブチャラティに話せ、なんていう噂も立っているくらいだ」
「過大評価し過ぎた。オレはそんな……」
「おれは今まで自分の名前を教えたことも、素性を明かしたこともなかった。だが何故かな。お前になら話してみてもいいと思った。お前にはきっと、目には見えていないだけで、人を惹きつける力を持っているんだろう」
 自信を持てばいい。ジョエルからの言葉を聞いて、ブチャラティは少しだけ心の荷が減った。
 その話を聞いてから、本屋の親父――ジョエルの素性を他言するようなことを、ブチャラティは決してしなかった。ネアポリスは既にパッショーネの支配下にある。そのなかで他所のギャングが無断で経営をしていると気づかれれば、ジョエルはただでは済まされないだろう。
 見捨てた娘を捜している。ジョエルは口にこそ出しはしなかったが、彼が自分の娘を捜しているのは明白だった。ブチャラティはそんな彼を蔑ろにはできなかった。
 家族を大切に思う気持ちは、その頃のブチャラティにとっては、心を揺さぶられるこの上ない材料だったからだ。
 ブチャラティは自身の心情を除いて、この話をフーゴたちに聞かせた。
「この男の素性は分かりました。でも、そんな男がなぜこんなところにいたんだ?」
「それは分からない。ただ……」
 ブチャラティは眠っているエマを見た。
「これはあくまでオレの推理だが、恐らく彼が捜していたという娘はエマだろう」
「エマさんが?」
「パーティ会場でエマと会ったとき、彼は異常なまでに動揺していた。もしかすると彼は、自分が父親であることをエマ自身に明かしたのかもしれんが……」
「もう一人はどこへ行ったのか分からない」
 アバッキオが呟いた。
「始末したやつがそう言っていた。本屋の親父は途中で仲間から逃げ出したと言っていたな。だとすれば、逃げ出したその一人は店主だったんじゃあねえか」
「そうなると、今回の敵は……」
「オレたちと同じギャング、ということになるな」
 深い迷路は、徐々に出口に向かいつつある。しかし出口へ向かうに連れて、犠牲が生まれる。その犠牲は連鎖するように増え続け、真実を解き明かす鍵と化すのだろうか。
 他にも明かされていないことがある。なぜジョエルはあの場所にいたのか。なぜ彼は死体となったのか。彼の仲間である残りの一人はどこへ消えた。
 そしてなぜは拳銃を手にしたまま、目の前で倒れている彼を見ていたのか。その真意は、目を覚ました彼女の口から訊き出すしか方法はなかった。
「敵は残り一人。敵の正体がギャングだと分かれば、これはオレたちが得意な仕事だ。今までの情報を頼りに、ギャングチームの素性とメンバーを全て調べ出すんだ」
「了解」フーゴとナランチャが頷いた。
「エマを病院へ運んだあと、花屋の店主に連絡を入れてくれ。きっと不安で寝ていないだろう。ミスタは引き続き、アバッキオについてくれ」
「ブチャラティは?」ミスタが訊いた。
 ブチャラティは停車している白い車へ目を向けた。「を安全な場所まで連れて行く」
「分かった」
 眠っている二人を見てから、ブチャラティは背中を向けて車を出た。
「二人を……よろしく頼む」
 ブチャラティの下唇から、血が滲み出た。

戻る