ドリーム小説 74

 ブチャラティは車内にいた。雨は弱まることを知らず、今も尚、車の窓を叩いている。
 ホテルへ戻ろうと、車のキーを取り出したときだ。何かの拍子で開いたのかは分からないが、助手席のグローブボックスの蓋が外れた。不思議に思い、ブチャラティはキーを差し込まずにグローブボックスを確認する。中には小銭入れ、カメラ、トランシーバーが入っており、どれもかなり使い古されているものばかりだった。なかにはネアポリスの詳しい地図が載っている本もあり、開いてみると、黒いと赤いペンで殴り書きされた跡が残されていた。それも、ほとんどがネアポリス郊外に集中している。無論、車を停めている倉庫にも印が残されている。
 しかし、どれも『×』の印ばかりだ。その印が何を意味しているのか、いまなら嫌でも解る。
 ブチャラティは地図を閉じた。元へ戻したとき、足元に何かが転がった。ごみ箱だった。横たわるそれを立て直したとき、足元に茶色く染み込んだちり紙があった。その染みは既に酸化している血だった。
 ブチャラティは何も言わず、それをごみ箱へ捨てた。
 ワイパーで掃っていない雨粒と目が合い、そこにブチャラティの顔が映っていた。ガラス窓に張りついている雨粒はまるで、己の頬に流れる涙のように見えた。
 ブチャラティは今度こそ、キーを差し込んだ。エンジンをかけ、アクセルを踏む。
 午前三時現在、大雨は次第に止むだろう。車内で流れるラジオ番組が単調な口調で言った。

74-2

 アバッキオとミスタの前――いや、足元には二人のブチャラティが、ぐったりと倒れていた。
 アバッキオは煙が立っている銃口に息を吹きかけ、そのままミスタの額に銃口を向ける。アバッキオから銃を突きつけられたミスタは、抵抗するわけでもなく、かといって驚くわけでもなく、自らのピストルを同じようにアバッキオのこめかみに添えた。
 真っ白な空間で、かちりと音が鳴った。どうやら制限時間の一時間が経ったようだ。
「時間だ。答えを訊かせてもらおうか」
 目の前に再び、オドーレが現れた。アバッキオとミスタは依然、互いに銃口を向けたまま動いていない。まるでこれが答えだ、といわんばかりの佇まいだ。
「どうした。お互いに銃なんて向け合って」
「これが答えだ」アバッキオが言った。
「なんだって?」
 オドーレは、こいつらは何を言っているんだ、という表情で聞き返した。
「本物はいない、ここにはいない。それだけだ」
「本物がいないだって?」
 嘲笑気味にオドーレが笑った。
「馬鹿なことを言うな。本物がいないということは、まさか全員を撃ち殺したっていうのか」
「そうだ。もしも間違っていたのならば、オレたちはここでブチャラティと共に死ぬまでだ」
「これがオレたちなりのけじめだ」
 さっさとしろ。アバッキオが抑揚をつけて言うと、オドーレは顔を真っ青に染め上げた。先ほどまでの勝ち誇っていた顔とは裏腹に、濡れた紙のようにくたびれた表情になる。ははは、と気味の悪い笑いをこぼしながら、鼻から透明の液体を垂れ流した。
「本当に、本当にいいのかッ。ここで選択を間違えれば、お前たちはここから――」
「おい、聞こえなかったのか。オレたちは覚悟を決めてんだ。てめえも男なら、覚悟決めろ」
 アバッキオが引き金に手を掛けた。ミスタは更にこめかみに銃口を押し付ける。
「ほれ、てめえの好きな二者択一だ。合ってるのか、間違ってるのか。さっさと答えろ!」
 ううおおあッ、とオドーレが頭を抱えて叫んだ瞬間、これまでアバッキオとミスタが気絶させたブチャラティの分身たちが音を立てながら一気に消えた。足元で倒れている二人も消え、アバッキオとミスタの体から黒い帯が徐々に解かれていく。
 オドーレは左右によろめいた。その瞬間を狙ってミスタはセックス・ピストルズを放った。血しぶきをあげながらオドーレはその場に倒れる。
 やがて二人は意識を取り戻し、元の場所であるサンタルチア港に立っていた。目の前には雨と血の色を混ぜた泥濘に体を伏せているオドーレの姿がある。
「スタンドがどういうものか知らねーようだから、親切で教えてやる。スタンドっつーのは、その者の精神を具現化した魂の塊みてーなもんだ。お前のようなゲス野郎になんざ、本物のブチャラティなんて作れるわけがねえ」アバッキオがオドーレを見下しながら言った。
「オレたちはギャングなんだ。あんな脅しに屈してたら、命がいくらあっても足りやしない」
「ぎッ、ギャングだとッ?」
 アバッキオたちの台詞に、オドーレは更に青ざめた。隙を見て逃げ出そうとするオドーレであったが、二人がそれを許さない。背後から容赦なくスタンド攻撃を仕掛け、再び泥濘の地面に沈める。
 ぐえッ、と潰れた蛙のような声を上げたオドーレ。立ち上がろうとするも、アバッキオの靴の裏で顔面と熱い接吻を交わすように打ちつけられる。
「そんな声でしか鳴けねえのか、お前は」
 アバッキオはオドーレの髪を掴んだ。
「ほら、こっち来い」
 髪をリードのよう掴んだまま、波を打っている海沿いの堤防までオドーレを引きずっていく。目の前がネアポリスの海というところで、髪を掴んでいる手を離した。ミスタへ目配せを送り、コンテナ付近に転がっているロープを手に取るように命ずる。
「ここで跪け。両脚を地面につけて座りやがれ」
 アバッキオはオドーレの背中に蹴りを入れ、所謂、正座の体勢を強要する。
「お、オレはこれからどうなるんだ?」
「オレたちの質問にしょ~~じきに答えてもらうぜ」ミスタは身を屈めながら言った。
「し、質問……」
「デタラメ言ってみろ。一発ずつ弾をぶち込むぜ」
 アバッキオからの脅しに、オドーレは恐怖のあまり呼吸困難に陥っているようだった。それでも二人が彼に同情の念を抱くことはない。
 ミスタは持ってきたロープを使い、オドーレが背中に回されている両腕と足首をいっしょに結びつけた。余ったロープは首輪のように首に巻きつけ、腕を拘束している部分に巻きつける。完全に身動きの取れなくなったオドーレは思わず目に涙を浮かべ、必死に助けを乞う。
「た、頼む。助けてくれッ」
「お前はオレたちからの質問に答えるだけでいい。解ったらさっさと吐いてもらうぜ」
 アバッキオはしゃがみ込み、オドーレの前髪を掴む。
「なぜたちを狙った? あいつはいまどこにいる」
「それは……」
 僅かな時間でも押し黙ったオドーレに対し、ミスタが後ろから発砲して威嚇を示す。
「く、薬の開発を頼んだの父親が、オレたちとの契約を破り、逃走したからだ。しかし、逃亡したやつの行方を掴むことが今までできなかった。そこで浮かんだのが、娘であるの存在さ。父親が見つからなくとも、彼女さえあればオレたちには十分だった」
「あれば?」
「い、いればッ」
「彼女の父親に薬の開発を強要した理由は」
「それは言えない。言えないんだ」
 ミスタは無言で引き金を引いた。発砲した弾丸はオドーレの足首を貫く。悲痛の叫びを上げるオドーレに、今度はアバッキオが頭部に拳を入れた。オドーレは横へ倒れ込むが、自身の力では起き上がることができず、まるで芋虫のように体を揺すっている。その動きがまたアバッキオの癇に障り、顔を靴先で蹴り上げた。
 相手は既に瀕死状態だが、ここで気絶されては困る。吐かせていないことが他にもあるのだ。
「続けろ」
を拉致したのは、彼女の体内に残っている薬品の成分を取り出すためだ。直接薬品を投与された人間には残されないが、胎内感染した赤子には残るケースがある」
 オドーレは咳き込みながら途切れ途切れに話す。
「本来なら、二年前にを捕まえることはできたはずなんだ。しかし失敗した。今年に入ってから日本人の女がこの街にいると訊いて、オレはネアポリスへ戻っていた。そうさ。元々オレはネアポリスに家を持ってたんだ。まさかこんな近くにいたとはな」
「お前の家がネアポリスに?」
「ああ。やつの娘がここにいる。それなら無闇に動く必要はない。そう思ったのさ」
「ローマの襲撃から何も手を出してこなかったのは、ネアポリスに滞在しているさんを拉致する機会を窺ってたってことかい」ミスタが言った。
の目撃情報は誰から訊いたんだ」
 オドーレは口を結んだ。先ほどの沈黙は裏腹に、固い決意の目を向けて黙り込んだのだ。ミスタが片足を撃ち抜こうが、アバッキオが何度蹴りを入れようが、彼は一言も言葉を漏らすことはなかった。既に気絶しているとも思ったが、目にはまだ光がある。
「花屋の娘を拉致した理由も訊かせてもらおうか」
「彼女のことは知らないッ。あの娘に関しては、オレは頼まれたからやったんだッ」
 必死で自供するその声は、本当にそれだけなんだ、と言い張っている声だった。
「彼女たちは今どこにいる」
 これまで白状したのにも関わらず、オドーレは顔を地面に擦り付けて口を結んだ。どうやらたちの居場所の口を割らせるのには、更に脅す必要があるようだ。
 アバッキオはオドーレを海に落ちる寸前の場所で正座させた。普段は穏やかなネアポリスの海も、大雨ということもあり大きく荒れている。まるでオドーレへ向かって手招きするように、海の波が押し寄せているではないか。
 ミスタがオドーレの背中に足裏をつける。「話さねーと、このまま海に放り込むぜ」
「待ってくれッ。教える、教えるから待ってくれ。オレは泳げないんだ。こんな状態で海へ放り込まれたらどうなるか分かるだろうッ」
 オドーレはついに小便を垂らした。目の前に広がる恐怖の海に体を震わせている。体を濡らしている水滴は汗なのか、それとも雨なのか。それは判らない。
はここにはいない。別の場所で遺体になってから、成分を採取するつもりだったんだ」
「だから、それがどこなのかさっさと吐きやがれッ!」アバッキオは声を張り上げた。
「さッ、サンテルモ城だ。あの城には屋上がある。そこに隠したのさ。本当だッ!」
 サンテルモ城といえば、ネアポリス・ヴェメロの丘に立つ巨大要塞だ。ネアポリスの景色を一望したいという観光客には、まず紹介する場所の一つだ。現在アバッキオたちのいるサンタルチア港から見て、サンテルモ城は北西に位置している。車を走らせればそう遠くない距離だが、先にブチャラティに連絡をしたほうがいいだろう。傍では既にミスタが、ブチャラティやホテルで待機しているフーゴたちに連絡を入れていた。それでも彼は、オドーレの背中を押さえつける足の力は緩めずにいる。
「仲間は他に何人いる?」
「元々は四人だったが、一人は二年前に死んだ。もう一人はどこへ行ったのか分からない」
「ということは、残るは二人か。そいつらはサンテルモ城にいる。間違いないな」
「計画に間違いがなければ……」
 ミスタが通話を終え、親指を立てた。どうやら既にブチャラティが動いているようだ。
 さて、問題はここからだ。ここまで口を割らせたのはいいが、目の前にいる男は組織から指令の下されたターゲットの一人だ。このまま生かしておくわけにはいかない。
「ディ・モールトグラッツェ。正直に白状してくれた礼をしなくちゃあな」アバッキオが言った。
「嗚呼、早く縄を解いてくれッ」
「いいや、駄目だね」ミスタが足の裏に力を込める。
 オドーレの体はあと数センチ前へ進めば、海の底へ真っ逆さまというところだ。
「そういえばよォ。おまえ言っていたよな。グリム童話の中で好きなのは人魚姫だってよ」
 こんな状況で何を言っているんだ。オドーレは口にはしなかったが、表情で伝わった。
「ああ、オレもガキの頃に読んだことがある。最期の結末にはそりゃあ心が痛んだもんさ。お前はその結末を知ってる上であんなことが言えたわけだ」
 アバッキオは前髪を掴んでいる手を離した。
「それならお前にも彼女と同じ結末を与えてやる」
 アバッキオとミスタは拳銃を構え、あるだけの銃弾をオドーレに撃ち込んだ。アバッキオが構えている拳銃の弾倉がなくなり、懐から取り出した新たな弾倉を補充して、更に連続で撃ち込む。オドーレの返り血が飛び散り、二人の服や顔にも赤い液体が、べっとりと張り付く。
 銃弾によって体中が孔だらけになったオドーレは、白目を剥いたまま既に気を失っていた。
 ミスタがオドーレの背中を前へ押した。海の波へ浚われるように死体は飲み込まれていく。体中にできた孔から泡が吹き出し、オドーレはネアポリスの海に姿を消した。
「ブォン・ヴィアッジョ(よい旅を)」
 死体を始末したあと、二人は車内へ戻った。濡れた体を頼りない空調で乾かす。後部座席で足を大きく開きながらアバッキオはため息をついた。
「どうした、アバッキオ。疲れたのか」
「疲れはしてねえ。ただ、敵が何のために薬の開発を強要させたのか。敵はどんな集団なのか、完璧に吐かせることができなかった」
さんたちの居場所は分かったんだ。とりあえずはそれでよしとしようぜ」
「本当にお前は気楽でいいな……」アバッキオは車内の天井を仰ぎ見た。
「そう言うなよ。思えば、こうしてお前とコンビ組んだのって初めてだったんじゃあねーか?」
 言われてみればそうだな、とアバッキオは思った。
「しかし、あの能力はもう二度とかかりたくねえな。例え偽者だったとしても、ブチャラティの死体がごろごろ転がってる光景ってーのは、さすがに応えるぜ」
 けど、とミスタは頭の後ろで腕を組んだ。
「最後の答えは、先に聞いちまったって感じだったな」
「いや、それはまだ分からないぜ」
 のことをどう思っているか。その質問に対して、二人のブチャラティは『彼女をことが好きだ』と答えた。答えた結果、どちらも偽者であることが判明した今、『彼女のことが好きだ』という感情が、果たしてブローノ・ブチャラティの真意であるのかどうか。それは正直アバッキオにも分からなかった。
 ただ分かっていたのは――。
 もしものことをそう思っているとすれば、あの男は自分たちよりも先に、彼女本人に伝えるだろうと思った。あの場で聞いた時点で、アバッキオは心で感じ取った。ブチャラティは『好き』などという言葉では言い表せないほど、彼女を想っているだろう、と。
 彼自身はと再会したことによって、ようやく自分の思いに正直になれたといったところだろうか。にも同じことがいえるが、あの二人は少々じれったいところがある。端から見れば気が気じゃない心境だが、当の本人同士は常に真剣なのだろう。
 ブチャラティはいま、どんな気持ちでを助け出そうと考えているのだろう。いつ死んでもおかしくない彼女を前にして、彼は彼女に何と声をかけるのだろう。
 考えてもこの答えだけは導き出せなかった。諦めて体勢を戻したとき、ミスタが訊いてきた。
「なあ、おい。アバッキオ」
「なんだよ」
「……オレ、そんなに臭いか?」
 そんなに臭わねーと思うんだが、とミスタが首を捻る。彼が自身の体臭に気付かされるのは、もう少し先の話だ。

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