「あなたは確か、マリアーノか?」
「やっぱりきみか、ブチャラティ」
こちらが覚えていたことに喜びを感じたのか。マリアーノはブチャラティを抱擁し、おまけと言わんばかりに傍にいたフーゴやナランチャをも抱き締める。
彼とは以前に一度だけ会ったことがある。からデートに誘われ、アマルフィまでのレンタカーを手配してくれたのがマリアーノだった。初めて会ったときと同様、大手の支部長とは思えないほどのお気楽な格好をしている。
「どうしてあなたがここに?」
「に会いに来たのさ」
「に?」
「彼女から連絡をもらったんだ。日本へ戻るから、頼んでいた車を運んでほしいと」
マリアーノは指で電話のジェスチャーを取った。
「しかし、と連絡が取れなくてな。ブチャラティ、きみはなにか聞いているのかい」
ホテルの状況も含め、何も知らないマリアーノからの問いに、ブチャラティは言葉を詰まらせる。
言えるはずがない。は何者かに襲われ、拉致されてしまってここにはいない、などとは。
彼とが愉快に会話を弾ませていた光景は、いまでもよく覚えている。マリアーノは心底を気に入っているようであったし、もまた彼のことを楽しそうに話していた。二人の間にどんな繋がりがあるかは分からないが、親しい関係であることだけは判る。彼女が拉致されてしまったと聞けば、どんなに明るい太陽もたちまち沈んでしまうだろう。
「すまない。オレも詳しいことは知らないんだ」
「そうか……。残念だが、運んできた車は一度こちらへ持ち帰るか。がまたイタリアに戻ってくるまでにちゃあーんと整備しておかなくちゃあな」
マリアーノがポケットから取り出した車のキーを見て、ブチャラティは、はっとする。
「待ってくれ。いまここにあるのか?」
「え?」
「車だ。が買ったという車が」
マリアーノは困惑しつつ頷く。「ああ、いまはホテルの駐車場に停めているよ。こんな大雨だからな。トラックを使って運んできたんだ」
これからタクシーを呼び出しても、駅前や空港前に停車しているタクシーがホテルに到着するのは、早くて一時間後だろう。それにこの時間帯にこの大雨だ。帰り道に足元を濡らしたくない、という客も大勢いるはずだ。都合よく捕まるのかどうかさえ分からない。
しかし、いますぐ使える車が目の前にある。ブチャラティはマリアーノの両肩を掴んだ。
「マリアーノ、頼みがある。から頼まれた車をオレに貸してくれないだろうか」
こちらの希求にマリアーノは驚いている。
「もちろんあとで必ず返す。一日だけでいい」
念を押して頼み込むと、マリアーノは無言のままサングラスを掛け直した。乱れた髪を後ろにかき上げ、深く息をつく。それからゆっくりと口元に笑みを浮かべ、ブチャラティにキーを差し出した。
「駄目だなあ。いい男に見つめられると」
「え?」
「きみがあんまり眩しいんで、思わず眼鏡を掛けなおしちまったじゃあないか」
「グラッツェ、マリアーノ」ブチャラティはキーを受け取り、握りしめた。
「に会ったら、車はそのまま彼女に引き渡してくれて構わない。誰も文句は言わないさ。なんてったってこれからきみの乗る車は、がきみのことを思いながら選んだものだからな。大事に使ってくれ」
「がオレを?」
マリアーノは、すっと片手を挙げた。するとどこに隠れていたのだろうか。真っ黒なスーツを着た大柄の男が目の前にやって来た。マリアーノはイタリア語ではなく、他の言語で男になにかを伝えている。マリアーノの言伝が終わり、大柄の男が頷いた。
「車の場所は彼に案内してもらうといい」
「ああ。感謝するよ」
「ブチャラティ。きみは大変にいい男だ。わたしはきみのような男が一番好きなんだよ」
そう言うとマリアーノはブチャラティの肩を組み、艶やかな笑みを浮かべた。
「今度はわたしとドライブをしよう」
思わずブチャラティは仰け反った。傍にいたフーゴもナランチャを庇うように後ろに追いやっている。それらの反応を見たマリアーノは笑いながら去っていった。
どうやら彼には迂闊に近づかないほうがよさそうだ。今度は取って食われる。そもそも彼は妻子持ちではないのか。複雑な心境のまま、ブチャラティは彼を見送った。
その場に残された大柄の男は、こちらです、と方正な口調で駐車場まで案内した。ホテルの駐車場は地下にもあり、奥には先ほどマリアーノから聞いたとおり大きなトラックが停まっている。
男がトラックのバンボデーを開くと、中には白い車が一台だけ入っていた。
「一度乗り込んで出します。下がってください」
ブチャラティたちは言われた通りに下がった。男は車に乗り込み、エンジンをかけて車を移動させる。姿を現した車は傷ひとつなく、とても綺麗に磨かれている。この車を販売しているマリアーノと購入したの思いが反映されているような輝きだ。
「ヒエ~~~~ッ。かっちょいい~~」ナランチャの輝かしい声が駐車場内に響く。
「これは日本車ですね」
フーゴの言葉に、そうです、と男が頷く。
「こちらは日本の車種なのですが、二十一世紀初頭の時点で高嶺の花と呼ばれていたものです。現時点でイタリアに残されている車体は数えるほどでしょう」
「それほどまでに希少な車なのか」
「はい。わたくしの聞いた話によれば」
「尚更、傷を付けられないな」
ブチャラティは運転席に乗り込み、キーを差し込んだ。スポーツカーにも似たエンジン音が駐車場内に響く。右ハンドルでの運転は初めてだ。加えてが自分を思いながら選んだ車ときた。慣れるまでには少々時間がかかりそうだ。ふと車内を見渡せば、助手席と運転席のみの二人乗りだった。思わずハンドルを握る力が増す。
「フーゴ、あとはお前に頼んでもいいか」
「はい。その都度連絡を入れます」
「頼んだ」
「どうか気をつけて」
アクセルを踏み、ブチャラティは駐車場を抜けて雨が降りしきる外へ向かった。
向かう場所は決まっている。の父親を裏切り者として始末したネアポリスの郊外にある倉庫だ。ここからあの場所までは車で三十分といったところだろうか。
ブチャラティはワイパーで窓に張り付いている雨粒を消した。夜間にも関わらず、道路は渋滞していた。どうやらスリップ事故が発生したようで、唯一通行できる狭い道路に自動車たちが集中しているようだ。このまま素直に待っているわけにもいかない。ハンドルを横へきり、停車している車の隙間を縫うように走り抜ける。この車体は縦に細長い。少しの隙間さえあれば、難なく通り抜けられた。
郊外へ続く道を真っ直ぐに進む。デートスポットして人気の高い海沿いもこの雨のなかでは、一組のカップルも見当たらない。世間の若い恋人たちは雨の日はどういった風に過ごすのだろうか。ブチャラティは不思議とそんなことを考えていた。
間もなく例の倉庫が見えてきた。ブチャラティは人に見つからないように念のため、死角になる場所へ車を停めた。車から降りると、容赦ない雨がブチャラティを打ちつける。泥濘の溜まった地面を踏みしめ、倉庫内へ向かう。
がらり、と重たい音が倉庫内に響く。初めて訪れたときと同じにおいだ。今日は雨が降っているからか、少々土臭いような気もした。
扉を閉め、抜けた天井から漏れている光だけで足元を辿る。ふと壁のほうへ目を向けると、そこにはブチャラティが裏切り者――の父親の脳天をピストルで撃ち抜いたときにできた血痕が残されていた。その血痕はまるで、ブチャラティへ真実を突きつけるような忌々しさを放っていた。
お前が殺したことを、その身を持って知るといい。外で降り続けている激しい雨音が、そうブチャラティに囁いているようにも聞こえた。
スティッキィ・フィンガーズを発動させ、記憶を辿りながら地面を叩きつける。現れたジッパーを引くと、真っ暗闇の空間からあのときの遺体が見つかった。あれから数週間が経ったいまでも腐敗臭はなく、体から流れている血液も酸化していない。どうやらジッパーの空間に放り込まれたものはその状態のまま放置されるようだ。
男――の父親の遺体を持ち上げ、冷たい地面の上に寝かせる。意識は完全に失っていた。
ブチャラティは、その決して安らかとはいえない表情で眠る男の顔を見つめ、唇を強く噛んだ。こうして遺体を目の前にすると吐き気がする。遺体にではなく――自分に。
倒れている遺体の手を握り、目を閉じた。どんなに悔やんでも、どんなに目を逸らしても、この世の最後に残るのは結果だけだ。自分はの父親を殺し、の生きる手段をも殺した。これはもう変えようのない事実なのだ。
僅かな希望を胸に遺体の衣服を漁ってみるが、やはり所持品は見当たらない。恐らくフーゴに処理しておくように頼んだ物のなかに、解毒剤が入っていたのだろう。死に際に男が自分へ向けて問うた質問の真意も、いまなら理解することができる。
ブチャラティはその場に座り込み、胸に溜めていた空気を吐き出した。
が所持していた日記を読んで、分かったことはこれだけではない。両親との記憶がない彼女が、なぜ自分の生まれた日を知っていたのかが気がかりだった。それは日記に書かれている日付を見たときに、初めて自分の誕生日を知ったのだろう。そして母親が失踪宣告を受けていると話したは、母親の捜索を早々に諦めていた。父親のことを必死に捜している反面、母親のことは随分呆気ないな、と思っていたが、は日記を読んだ時点で、母親が他界していることを知っていたのだ。もしも彼女から母親は死んでいる、という話を聞けば、詳しい話を訊きだすのは、あの状況では当然の流れだっただろう。
は全てを知っていた。全てを知った上で、ここへ戻ってきた。
――後は全て、あなたに任せよう。
ふと、頭に流れ込んできた台詞に、ブチャラティは俯かせていた顔を上げた。目の前には遺体となったの父親が転がっている。死んだ人間が言葉を発するわけがない。しかし、声が聞こえたのは確かに男のほうからだった。
これは記憶だ。男が最期に残した言葉の記憶だ。の父親は、ラディーチェという男を心から信頼していた。その男が彼の娘であるを捜し、解毒剤で彼女を助けるという約束を交わしていたことも、日記の内容を読めば見て窺える。例えこの場で自分が死んでも、信頼していた男がを助けてくれる。そう信じて、彼は死を受け入れた。
つまり、彼は目の前にいたブチャラティを、信頼していた男の部下だと思っていたのか。
ここで思い出すのは、この倉庫へ向かうように命令したポルポの台詞だ。
現れた裏切り者の所有物は全て処分しろ。これは言われずとも普段から行っていることだが、なぜ今回に限ってポルポは、念を押すように命令したのだろうか。
『の父親が所有している物のなかに、組織にとって抹消しておきたいものがあった』?
ブチャラティは自分の思考に背筋が凍った。もしかすると今回の下された指令は、組織を脅かす敵の始末だけでは終わらないかもしれない。いや、寧ろ本当の敵は――。
考えるのはあとにしよう。いまはとエマを救い出すことに専念するべきだ。ブチャラティはその場から立ち上がり、携帯電話でフーゴに連絡を取った。
(ブチャラティですか?)
「ああ、オレだ。その場にナランチャはいるか?」
(いえ、いまはトイレに)
「父親の遺体を調べたが、解毒剤は見つからなかった」
そうですか、とフーゴのため息が叩かれる。
「彼女の父親の遺体は今回の件が片付き次第、オレが責任を持って埋葬する」
(さんには話すんですか? その……)
殺してしまったことを――フーゴは言葉を濁したが、こう言いたかったのだろう。
「そんなオレを労わるような声で訊かなくてもいい。もう覚悟はできてる」
(ブチャラティ……)
「ところで、アバッキオたちから連絡は来たか? オレのほうにはまだ来ていないんだが」
(僕のほうにも来てませんね。追跡した場所が特定できれば、すぐに連絡が来るはずなのに)
「もしかすると、既に敵と接触しているのかもしれない)
(その可能性はあります)
ああ、それと、とフーゴは声を遠ざけた。
(さんの父親を調べていたのですが、指紋に一致する人物はありませんでした)
「どういうことだ?」
電話の向こうから、パソコンのキーボードを素早く打ち込む音が聞こえる。
(日記に残されている指紋の二つ。一つはさんのものですが、もう一つに該当する人物がまったく挙がらないんです。てっきり、さんの父親の情報が出てくると思ったんだけどな。ここのデータに残っていないのかな)
の父親に関する情報がない。それは以前からからも聞いていたことだ。情報網として腕利きの良い彼女が二年間探し回っても、父親の情報を得ることはできなかった。そして今回、組織のシステムコードを使用しても指紋が認識されないという不思議な現象。身元を判明することができないということは、この世に生まれてきたという証拠がないということだ。
電話の向こうで、トイレから戻ってきたナランチャとフーゴの会話が始まる。ナランチャは自分に動きのない指令ではないことに退屈しているようだった。
(とにかく、別の手段で調査を進めます)
「ああ、頼んだ」
ブチャラティは通話を切り、足元で横になっている男の遺体を再びジッパーの中へ沈めた。
あとはオレに任せろ。そんなことは言わない。けれど、こう言わずにはいられなかった。
「いまのオレには、命懸けで助けたい人がいる」
それはあなたが助けたかった娘、そのものだ。
「あなたが果たせなかった思いを、こんな男が引き継いでしまうことをどうか、許してほしい」
倉庫の天井から雨粒が、ぽつりと落ちた。