激しい雨音だけが響いていた。遠くの空で青白く光った雷は、時間を経て大きな音を立てながら落ちた。それはまるで、過去と現在を繋げる音のようだった。
ブチャラティは二冊目の日記を開いたまま顔を青ざめ、その隣でフーゴは茫然としていた。二人の目の色は、淀んだネアポリスの空の色よりも深い灰色に染まっていた。
再び落雷が起こる。それと連動するように、ブチャラティの手から日記が滑り落ちる。音を立てて床へ転がった日記は、への字のように床と対面しており、表紙と背表紙には、ガラス窓に流れている雨粒の影が浮かんでいる。
「ブチャラティ」
フーゴの呼びかけにブチャラティは何も言わない。
「ブチャラ、ティ」
「ああ、聞こえている。聞こえているさ」ようやく出たブチャラティの声は震えていた。
「ちょっと待ってください。これは……」フーゴは完全に当惑している様子だった。
当惑しているのはフーゴだけではない。ブチャラティも同じだ。自身の体温が上昇しているのが分かる。心拍数が加速しているのも感じている。ただ、理解だけが追いつかない。頭では分かっているつもりでも、心が受け入れてくれない。
ブチャラティは床に落ちた日記を震えている手で拾い上げ、その手で顔を覆い隠した。
香織の身体は、生まれ落ちたときから生命のリミッターがかけられていた。香織はそのことを知らずにこれまでの人生を過ごし、両親の亡き家で自分の身に訪れる死の運命を知った。命の危機を知った香織は、実の父親が残した日記を頼りにネアポリスへやって来たに違いない。彼女が実の父親を捜していた理由は、会いたいという思いだけではなく、彼女の命を救い出せる唯一の方法である解毒剤を、実の父親が持っていたからだ。
そして香織の父親は殺人道具の開発を強要していた者から逃れるため、何者かの手を借りてその身を隠し、娘である香織を救い出すための解毒剤を作り上げていた。その後、香織の父親は何者かに呼び出され、解毒剤を握ってネアポリスへやって来た。
しかしそこに待っていたのは、ブローノ・ブチャラティとパンナコッタ・フーゴだった。
まさか、とブチャラティは言った。
「まさか、オレが裏切り者として始末したあのとき男が、香織の父親だったとは……」
「僕もまだ、信じられません」
「ネアポリス中を捜しても、見つからないわけだ」
「ま、待ってください、ブチャラティ。冷静に考えたら、組織の裏切り者ということは――」
彼女の父親は、パッショーネの構成員だった?
「いや、そんなことがあるはずが……」
ブチャラティは額に手を当て、俯く。
「しかしなぜだ。なぜポルポは、オレに香織の父親を始末するように命じたんだッ?」
立ち上がったブチャラティにフーゴは目を逸らす。
「分からない……。ただ、香織さんの父親を呼び出した者がポルポという可能性は低い。もし仮に関わりがあったとしても、ポルポは常に刑務所の中だ。日記の様子からして、香織さんの父親は買い物にすら行けていない。そんな二人が顔を合わせずに連絡を取り合うなんて、まずあり得ない。それに日記には組織のことやギャングのことなんて残されていないんだから」
もしかすると、とフーゴは日記を開く。
「僕らは何にか、大きな勘違いをしたのかもしれない。本来やって来るはずの裏切り者は、香織さんの父親ではなく、他の者だったんじゃあないですか」
「あんな人気のない倉庫が、待ち合わせの場所として偶然重なったっていうのか?」
「日記に書かれているラディーチェという人物は?」
「構成員をすべて把握しているわけじゃあないが、こんな名前は聞いたことがない」
「でも、あの男が組織と絡んでいるのは間違いない」
二人は沈黙した。あり得ないことがあり得ないことを生み、新しい謎を生み出してしまう。
香織の父親がパッショーネの構成員とすれば、彼を呼び出したラディーチェとは誰だ?
なぜポルポは、彼を始末するように命じた?
静まり返ったロビーに携帯電話が鳴る。ブチャラティのものだ。画面にはアバッキオの名前が表示されている。
「アバッキオ、か」
(ブチャラティ、犯人に動きが見えた。これから下へ降りて追跡する。ロビーで落ち合おう)
「分かった。フーゴと待っている」
(それと落し物を拾わせてもらった。どうやら香織は、昔からどこか抜けてるみてーだ)
「……昔から?」
(エレベーターだ。切るぜ)
通話は一方的に切られた。ブチャラティは携帯電話をしまい、アバッキオたちを待った。
「フーゴ、いまの話は胸に留めておいてくれ」
「三人に話さなくていいんですか?」
「香織のことはアバッキオたちにも説明しなくちゃあならないが、あの男に直接手を下したのは他ならぬオレだ。話したところで、お前たちを巻き込むことになる」
フーゴが言葉を詰まらせたあと、でも……と言った。
「でも、香織さんのことはどうするんですか。あの男が所有していた物は、僕が全て燃やしてしまった。あのなかにはきっと彼女の解毒剤も入っていたはずだ。日記には香織さんを助けだせる方法はそれしかないと書いてあった。その手段がなくなったいま、香織さんを助ける方法は――」
ない、と言い出す前に、ブチャラティは手で制した。
「頼む。いまはその言葉を口にしないでくれ」
「ブチャラティ……」
「言葉にすると、恐ろしくてな」
エレベーターの扉が開き、アバッキオたちがやって来る。ブチャラティとフーゴはソファーから腰を浮かせ、三人の元へ向かう。
「本の解読はできたのか」アバッキオが訊いた。
「ああ」
「それで、なにか手がかりは?」
ブチャラティは二冊目の日記の内容と、香織の身に潜んでいる悪について説明した。自身の口から話す行為は、まるで自供のようだった。香織の父親を殺したのは自分だ。そして彼女を助けることのできる手段を断ち切ったのも、紛れもない自分である。
オレはあのとき、同時に二人の命を奪ったのだ――。
話を聞き終えたアバッキオ、ミスタ、ナランチャは動揺した様子で頬に汗を流した。特にナランチャは一度聞いただけでは理解できなかったようで、もう一度説明するように唱えた。いや、理解できなかったわけではない。理解したくなかった、という説明のほうが正しいだろう。
当惑しているナランチャを押し退け、ミスタが、それならよォ、とフーゴの肩を掴んだ。
「香織さんの親父を捜せばいいじゃあねーかッ」
「だめなんだ。日記にはウイルスが陽動し始めてからの解毒剤は効き目がないと書かれている」
「じゃあ医者に連れて行けば……」
「香織さんの父親は長い年月をかけて、ようやくひとつの解毒剤を作り上げている。もしも医者の診断で治療できていれば、とっくに治っているはずだよ」
「他に方法はないのか?」アバッキオが訊いた。
フーゴは黙るしかなかった。参った様子でミスタが額に手を当てる。アバッキオは静かに舌打ちを鳴らし、背を向けた。ナランチャは両手で頭を抱えている。
数える程度でしか香織と触れていない彼らが、彼女の身を案じ、頭を悩ませている。その光景を眺めながら、ブチャラティは一人静かに考えていた。
香織は自身の命が危険に晒されていることを、二年ぶりに再会した時点で知っていた。そのことを知った上で、これまでの数週間をこの街で過ごしていた。実の父親を捜すも、どこにも見当たらない。徐々に迫り来る影を目の前にして、彼女はどんな思いでこれまでの時間を過ごしてきた?
――また新しい人生を創っていこうと思ってるの。
――わたしはこれまでの全てを受け入れて戻ってくる。
――必ず、ネアポリスに戻ってくる。
過去の香織を巡っても、彼女の目に絶望の影はなかった。あったのは光だけだ。誕生日を迎えた瞬間、断ち切れない死への鎖が彼女の心を縛り付けても、香織は常に前だけを見ていた。その根拠は、これまでの彼女を誰よりも近くで見ていたからこそ、分かる。
そしていまこの瞬間も。彼女は全てを受け入れた上で、自分の運命と戦っているはずだ。
「オレは、ここで香織を諦めるわけにはいかない」
ブチャラティの言葉に、四人は顔を上げた。
「オレは香織を諦めない。必ず彼女を見つけ出す」
もう迷う必要はない。ようやく伸ばした手を、ここで引っ込めるわけにはいかない。
もう二度と、彼女を見失いたくない――。
「ブチャラティ。オレはあんたがそう言ってくれるだろう、と思ってたぜ」ミスタが頷く。
「そうですね」
フーゴも背けていた顔を正し、ゆっくりと頷いた。
「香織さんにはまだ、訊きたいことが山ほどあります。このまま見殺しにはできません」
「うん、そうだよな。まだ香織が死ぬって完全に決まったわけじゃあない。もしかしたら、香織を助けられる方法が他にもあるかもしれない」ナランチャが言った。
「オレもこいつを届けなくちゃあならねーしな」
アバッキオはポケットに手を突っ込み、小さな光り物を取り出した。アバッキオはブチャラティに手を差し出すように促す。ブチャラティが手を出せば、アバッキオは光り物を手のひらの上に載せた。ロビーの明かりに反射して輝く小さな桃色の花。それは以前、ブチャラティが香織に贈った桜のピアスだ。
「これは……」
「部屋に落ちていた。恐らく香織のだろう」
「ああ、間違いない。しかし片方だけが?」
「もう片方は本人が身に付けてるんだろうよ」
なるほどな、とブチャラティは合点する。
「ブチャラティ。オレがこれから言う言葉は部下としてではなく、男として言わせてもらう」
アバッキオはブチャラティに一歩近づいた。
「香織の部屋には、いくつものアクセサリーがあった。なかには女が好んで選びそうな質の良いものもあった。そんな女の気を引くようなアクセサリーのなかで、港のバザーで売られているような安いピアスをわざわざ身に付ける女の心境ってのはなんだ? あいつは自分の命に危機が迫っていると知りながらも、呑気にあんたと出掛け、自らデートにも誘いやがった。あんたのために飯を作り、あんたの好きな音楽を聴きながら飯を共にしたいと言った。おかしいと思ったんだ。なぜ香織があんな古い本屋でジャズミュージックの本を読んでいたのか。それはブチャラティ、あんたのためだったのさ。あいつは自分がおかれている状況を知った上で、限られた時間をあんたのためだけに使ったんだ」
普段より饒舌なアバッキオに、ブチャラティ以外の三人は目を瞬かせながら聞いている。
「母親から頼まれたものをすぐに渡せなかった理由、これはもう言わなくても解るだろう」
「オレが彼女の性格を理解していれば、な」
アバッキオは息を吐いた。「どちらにしても、オレはあんたについていくだけだ。ただこれだけは言わせてもらうぜ。今日くらいはギャングとしてではなく、一人の女のためだけの男になればいい」
アバッキオの詰問にも似た言葉の数々に、ブチャラティは押し黙った。それは彼に何も言えないからではない。言い返せないからではない。あのアバッキオがここまで香織について考え、述べ、そして自分に向かって彼女への想いを確認させるような言動の真意を考えているからだ。
「アバッキオ。お前、まさか……」
「そんなんじゃあねえよ」アバッキオは素早く制した。
「なあ、オイ。さっきからなんの話してんだ?」
「さあね。僕たちは向こうへ行っていよう」
見兼ねたフーゴがミスタとナランチャの体を反転させ、車を回すようにエントランスへ出た。フーゴはブチャラティとアバッキオに流れる空気を読んで去ったのか。もしくは二人と同じようにブチャラティたちの会話が理解できていなかったのか、真意は判らない。
その場にブチャラティとアバッキオだけが残り、ブチャラティはポケットに片手を突っ込んだ。
「まさか、お前からそんな風に言われるとはな」
「どういう意味だ?」
「お前が最初から香織を深く疑っていたからさ」
「そのことに関しては謝る。悪かった」
「別に謝ってほしいわけじゃあない。オレたちと香織は歳が近いからな。馬が合えば、前から三人で酒でも飲みながら話したいと思っていたんだ」
「だったら、さっさとあいつを見つけねーとな。オレも借りたもんを貸せなくちゃあならねえ」
それに、とアバッキオはブチャラティが襟元につけているハートのブローチを指差した。
「香織にまだ言ってないことがあるんだろ」
「……ああ、そうだな」ブチャラティはブローチに触れ、頷いた。
ホテルの外から車のクラクションが聞こえた。車を回してきたフーゴたちが呼んでいるようだ。その音に誘われるようにアバッキオが先に足を進める。ブチャラティはアバッキオの背中を見送りながら一考したあと、その後を追いかけた。
外を濡らす雨は激しくなりつつあった。エントランス前に車を停めたフーゴたちが下りてくる。
「これからどうするんだ?」フーゴが訊いた。
「オレたちの今回の指令は、イタリア各地で起きている事件の犯人の始末だ。その前に、香織とエマの救出を最優先に行う。責任はオレがとろう」
ブチャラティの判断に、異論はあがらなかった。
「アバッキオはムーディー・ブルースで香織を襲った犯人の追跡を頼む。見つけ次第、必ず口を割らせろ。なぜ香織をつけ狙うのか。エマを攫った理由。他に仲間はいるのか。相手の素性を白状させるんだ。その後は好きに始末して構わない」
「了解」
「ミスタ、お前はエマの顔を知っているな。お前はアバッキオといっしょについてくれ」
「りょーかい」
「フーゴは二冊目の日記で、香織の父親の指紋解析と身元確認を頼む。そして日記に書かれている彼にまつわる人物の身元確認も同時に行ってくれ」
「分かりました」
「ブチャラティ、オレは?」ナランチャが手を挙げる。
「お前はフーゴとここに残れ。ミスタたちから情報を訊き次第、オレと合流しやすいようにな」
「了解」
「ブチャラティ、あんたはどうするんだ」アバッキオが訊いた。
「少し、気になることがある。それを調べに向かう」
ブチャラティは腕時計を見た。
「時間がない。行動に移せ」
ブチャラティの指示通り、四人は散り散りになった。アバッキオとミスタは運ばれてきた車に乗り込み、フーゴとナランチャはホテルのラウンジへ向かう。アバッキオとミスタを乗せた車は、大雨から二人を守りながらホテルから離れていった。二人が追うのは、大きなトランクケースを片手に雨のなかを歩くムーディー・ブルースが変化した男の姿だ。
車がホテルを抜けた後姿を見届けてから、ブチャラティも自分の目的を果たすために車を呼ぼうと携帯電話を取り出した。そのときだ。背後から肩を叩かれた。ブチャラティが振り返った先にいたのは、真夜中の嵐には似合わない派手なシャツに、サングラスを掛けた男。
この姿、どこかで見たことがある。
「ブチャラティか?」男は掛けていたサングラスを外し、ブチャラティの顔を凝視した。
「あんたは……」