「裏切り者、ですか」
刑務所内でブチャラティが呟いた。
間もなく二月が終わる頃。ブチャラティはいつものように組織から下された仕事をフーゴとこなしていた。その帰りにポルポから連絡が入り、仕事で共にいたフーゴを連れてポルポのいる刑務所を訪れていた。
呼び出された理由は、組織内に裏切り者が現れた、というものだった。裏切りが発覚した原因や主な理由は内密にされたが、パッショーネに限らず、この世界での裏切りという行為は、同時に死を意味する。当然の報いだろう、とブチャラティは思っていた。
裏切り者は自身が組織を裏切ったことには、まだ気付かれていないと思っており、そこを挟み撃ちして始末することが下された指令だった。ギャングの世界ではよくあることだ。ブチャラティたちの主な仕事は街の用心棒のようなことだが、汚い仕事をしないわけでもない。家庭を持っている男も殺す。個人の感情を捨てて全てに制裁を下さなくてはならない。
「裏切り者の所有物は全て処分しろとの命令だ」
いつもと変わらないな、とブチャラティは思った。
「それじゃあ、あとは頼んだよ」
「わかりました」
ポルポから下された指令内容を反芻し、ブチャラティはフーゴと共に刑務所を後にした。
「裏切り者の始末なんて、これから幹部になるあんたがする仕事じゃあない」
フーゴが苛立ちを隠せずに壁を蹴る。
「しかし、よくも組織を裏切るなんて恐ろしいことをしましたね。僕には理解できない」
「余程の理由があった、ということか」
「どんな理由ですか」
「そんなことをオレに訊かれても困る」
裏切り者は現在ネアポリスにはおらず、別の場所で逃亡を続けているのだという。幹部が裏切り者と連絡を取り合い、とある場所へ来るように既に話を持ちかけている。
例え組織を裏切った身といえども、組織からの指令に背けば絶対的な死が待っている。相手は自身の裏切りが気づかれていないと考え、必ず指定の場所へやって来るだろう。ブチャラティたちは指定された場所と時間にその場所へ行き、その裏切り者を始末する――という流れだ。
「場所は郊外にある倉庫だ。目印として付近にはデートスポットになっている海があります」
「そこに午前三時か」
ブチャラティは腕時計を見た。
「あと五時間ほどある。フーゴ、お前は疲れただろう。先にアジトへ戻っていていいぞ」
「いえ、僕も行きます。ブチャラティこそ少し休んでください。最近寝不足でしょう?」
乗り込んだ車内でフーゴが母親のように言った。
「僕なら平気です。ゆっくり休んでください」
きっと目を閉じるまで、フーゴは頑なにこちらを見続けるだろう。ブチャラティは厚意を受け取り、助手席の背もたれを倒して一眠りすることにした。
疲労が溜まっていたせいか、ブチャラティはすぐに眠りについた。その眠りのなかでとても穏やかな夢を見た。二年ほど前に離れていったが、ネアポリスに戻ってくる夢だ。連絡先を交換していないはずの携帯電話にからの連絡が入り、夢のなかのブチャラティは連絡が来たことに疑いを持たないまま、車を飛ばして空港へ迎えにいった。
到着出口付近で待っていると、キャリーケースを引きながらゲートを通るの姿が見えた。彼女はこちらに気がつくと笑顔になり、ブチャラティは彼女を抱き締めた。
二年ぶりだな、と言えば、は微笑んだ。耳元に唇を落とすと、はくすぐったそうに身を捩じらせる。そんな彼女をもう一度抱き寄せようとしたときだ。
「ブチャラティ」
はっと、目を覚ませば、目の前にはフーゴの顔。
「休んでるところすみません。間もなく三十分前です。先回りしたほうがいいのでは?」
「ああ。そうだな」
もうしばらく寝ていたかった欲を抑え、ブチャラティとフーゴを乗せた車は裏切り者が待っている場所へ向かう。倉庫前は閑散としており、辺りに人が住んでいる家はおろか、人の気配がまったく感じられない場所だった。
ブチャラティとフーゴは車から降りた。倉庫の扉を開くと、錆び付いた臭いが充満していた。
「ターゲットはまだ来ていないみたいだな」
「はい。あと十分後です」
「相手の名前や面を確かめる必要はないと言われている。姿を現した瞬間にオレがやる。フーゴは後始末を頼む」
「分かりました。何かあれば呼んでください」
背後から地面を踏みしめる音がした。ブチャラティが振り返ると、そこには一人の男が立っていた。黒色のスーツに身を包み、灰色のハット帽を被っている。同じギャングとして身のこなしはそっくりだが、何故だろう。彼からはギャングとしての気迫が感じられなかった。
男が一歩、ブチャラティのほうへ歩み寄る。
「それ以上動くな」
男は兵隊のように、ぴたりと足を止めた。
「オレはあんたを始末するよう命じられている。楽な死に方を望むなら、この場に座るんだ」
「始末だって?」
「すっとぼけるなよ。あんたが組織を裏切ったことは既知の事実だ。言うとおりにしろ」
「それじゃあ、わたしは……」
「二度はないぜ」
男は必死に何かを言おうと口を開いたが、声が出なかったのか、やがて沈黙し、その場に座り込んだ。イタリアではあまり見ない珍しい座り方だ。ブチャラティは男に歩み寄り、懐から忍び込ませていたピストルを取り出した。男の額に銃口を当て、命の幕切れのようにセーフティーバーを外す。
引き金を引こうとしたとき。男は言った。
「あなたには、助けたいと思える人がいるか?」
死に際に妙なことを言うやつだな、と思った。この状況であれば普通は逆だろう。
しかしどうしてだろうか。男からは、この場から逃げ出そうとする策略も勇気が微塵にも感じられない。ただ純粋に、ブチャラティに向かって問いかけているように見えた。
「助けたかった人は、もうここにはいない」
「そうだったのか。それは……失礼した」
無駄話を続けているからか、陰に隠れているフーゴから、ブチャラティッ、と催促の声が送られる。
「オレはあんたに何の恨みもないが、組織からの指令だ。あんたの命をとらせてもらう」
「ああ。後は全て、あなたに任せよう」
含みのある言葉を最期に残し、男は後頭部の後ろで手を組み、死を覚悟して目を閉じた。
「さよならだ」
ブチャラティは引き金を引いた。脳天を貫かれた男はその場に倒れ、目から光を失った。
今、世界の人口がひとり減った。それを聞いてどんな状況を想像するだろうか。遺体を発見したとき。人を殺したとき。感覚は人それぞれだろうが、この場に該当するのは後者だった。
「裏切り者は助からない。それはお前がよく知っていることだ。そうだろう、フーゴ」
「まるで僕が裏切ったような言い方ですね」
「戒めみたいなもんだ。組織を裏切った者は決して助からない。この世界にいる限り、な」
遺体となった男の身体にジッパーを縫いつけ、ブチャラティは身体を二つに割った。微かに鼓動を刻んでいる心臓にもジッパーの縫い目を施し、その律動を止める。
「ブチャラティ。遺留品を回収しました」
「見せてくれ」胸ポケットからハンカチを取り出し、付着した血液を拭き取る。
フーゴは男の遺体から抜き取った遺留品をブチャラティへ見せた。遺留品は三つ。既に封が開いている煙草が二箱。ビニール生地のポケット灰皿。控えめに刺繍が施されたシルク生地のハンカチが一枚。男にしては、随分と女性らしいデザインだった。
特に変わったものはない。どれもがらくたのようなものばかりだ。ブチャラティは遺留品のすべてを処理しておくようにフーゴへ命ずる。遺体を破棄するため、スティッキィ・フィンガーズで地面を叩いた。異空間にも似た地面に男の遺体を放り込み、ジッパーを閉じた。
「任務は完了した。幹部のポルポへは後日、オレから報告へ向かう。車を出してくれ」
「わかりました」
遠くの空で雷が低く唸っている。その音を聞き、今朝の天気予報で朝方にかけて大雨が降ると報道していたことを思い出す。そう、三月初旬は出だしの悪い雨が続くのだ。これから暖かい春がやってくるというのに、幸先の良くない空模様だった。
その二日後、ブチャラティはと再会した。二年ぶりに会った彼女は実の父親を捜しにネアポリスへやって来たと話した。しかし情報網の彼女をもしても、彼の消息は未だ分かっていない。