ドリーム小説 65

 601号室の扉は開かれていた。部屋には既にフーゴとミスタの姿があり、ってきたブチャラティとアバッキオの姿に二人が振り返る。
「女性は見つかったんですか?」フーゴが訊いた。
「ああ、心配するな。いまはナランチャが彼女を医務室に連れて行ってくれている」
「それなら良かった」
 と言いたいところですが、とフーゴは部屋を見渡す。
「見ての通りだ。さんの姿はありません」
 ブチャラティは全ての部屋を確認する。キッチンスペース、ベッドルーム。これまで入ったことのない場所の奥まで探したが、の姿は見当たらなかった。
「全ての部屋を確認しましたが、さんの姿はありませんでした。手荷物がベッドルームに置きっぱなしのところをみると、何者かに拉致された可能性が高いです」
「他に調べて分かったことは?」
「これを見てください」
 床にしゃがみ込み、ハンカチを包んだ手でフーゴが持ち上げたのはティーカップだった。豪華な装飾で塗られたティーカップの側面には、ホテル・ラ・ヴィータの名前が彫られており、底には微かだが水滴が残っている。ティーカップの他にも、絨毯やソファーには液体のようなものがぶちまけられた跡があり、現在も染みが残っている。ソファーの傍には銀色のワゴンが置かれており、上には水の入っているピッチャーがある。最初からどこまで入っていたのかは分からないが、中身は半分まで減っている。
「この絨毯は吸収性に優れていますが、まだほんのり冷たい。ということは、さんは僕たちが来る少し前までこの部屋にいたことになります」
「なるほど」ブチャラティが頷く。
「キッチンルームには料理の済んだ皿があった。食べ終わったのは約一時間前ってところだな。アバッキオがこの部屋を出るとき、さんは既に起きていたのか?」
「ああ。オレが出て行ったあとに飯を食ったはずだ」
「それなら料理にありつけたのは、十時三十分から十一時の間だろうな」ミスタが時計を見ながら言った。
 ミスタの言葉を聞いたあと、ブチャラティも自身の腕時計を確認した。ホテルに到着し、行動を始めてから間もなく一時間が経とうとしている。
「ティーカップの中身を飲んだのがさんであれば、飛び散った液体は吐き出したときにできた。もしくは零してしまったときにできたか。僕の考えではそう思います」
「前者の場合、がカップを手にしたとき、なぜ液体が絨毯に飛び散ったか。人はどんなときにカップの中身を零してしまうと思う?」ブチャラティが訊いた。
「そりゃあ、手が滑ったときとか」ミスタが答える。
「他には?」
「尋常じゃないほど不味かったとか」
「おいおい、さんは女性だぞ。不味くてもお前みたいに吹き出したりはしないだろ」
「だろうなァ」フーゴの突っ込みにミスタは苦笑した。
「よく見てみろ。コップの縁に口を付けた跡がある」
 コップの縁を見ると、アバッキオの言うように縁には口を付けた跡があった。
「仮にがミスタのように下品に吐き出したとすれば、ここから数メートル先にまでぶちまけられているだろうよ。だが濡れていたのは絨毯やソファーだけだ」
「つまり中身を飲んだあと、さんはカップから手を離したというわけか」ミスタが合点する。
 ここまで考えがまとまれば、答えは見えている。はティーカップの中身を口に含み、飲み込んだあとにカップから手を離した。あまりの美味さに驚いて手を離してしまった。そんなことはまずないだろう。真っ先に浮かび上がる光景は、ただ一つだ。
が飲み込んだ液体は、ただの飲み物ではなかった」ブチャラティが呟く。
「そう考えるのが妥当だな」アバッキオも頷く。
「でもよォ。ワゴンを運んできたのはホテルの従業員のはずだろ? それならさんに変なもんを飲ませたのはホテル側ってことになるんじゃあねーか」ミスタが言う。
にカップの中身を飲ませたのが、果たしてホテルの従業員だったのか。それはアバッキオに確かめてもらうとしよう。何分でできる?」
「五分もあれば十分だ」
「三分で終わらせろ」
 ブチャラティはフーゴとミスタと向き合う。
「オレたちは部屋の中を調べてみよう。何か手がかりが残されているかもしれない」
 ブチャラティの指示にフーゴとミスタは散った。ミスタはバスルームへ。フーゴはキッチンルームへ向かう。アバッキオは既にムーディー・ブルースでリビングルームを調べ始めていた。数時間前の出来事ならば、すぐに再生が終わりそうだ。
 様々な場所を歩き回るアバッキオを見てから、ブチャラティも開放されている部屋を観察する。足を踏み入れたのはベッドルームだ。つい先ほどまでがベッドの上で眠っていた跡があり、床にはスリッパが綺麗に整頓されている。部屋の隅にはダンボールが積まれていた。箱に貼り付けている伝票には、見慣れた住所が記載されている。が書いたものだろうか。住所はネアポリスの郊外にあるブチャラティの家のものだった。きっと日本へ向かう前に荷物をすべて運ぶつもりだったのだろう。
 ――筆跡を指でなぞりながら、彼女の名を呼んだ。ブチャラティは彼女の名前を撫でる手を拳に変え、強く握り締めた。様々な感情が胸の中を交差していく。もう二度と離れないでくれ、と願うだけではいけなかった。彼女ならば大丈夫だろう、と決めつけてはいけなかった。
 もうの笑顔を見ることができない。そんな未来が一瞬でもよぎれば、自分はきっと冷静でいられなくなるだろう。ブチャラティは深呼吸をし、拳を開放させた。
 そういえば――。
 ブチャラティはふと思い出す。がネアポリスにやってきた理由。それは実の父親を探し出すためだ。彼女は父親が残していた日記を見つけ出し、その日記だけを頼りにネアポリスへ向かったのだ。
 漠然とした考えだが、その日記はが敵に狙われている秘密を握っているかもしれない。
 その日記がいま、この部屋のどこかにある可能性は高い。ブチャラティは心の中でに謝ってから、彼女の鞄をまさぐった。そこに入っているのは財布やハンカチ。ティッシュケースと化粧直し。サイドポケットからは先日ブチャラティが渡した家の鍵が出てきた。
 鞄に日記のようなものは見当たらないが、財布とハンカチの間に何かが挟まっている。出てきたのは本人のパスポートと航空券だった。

『ITARY_NAPORI → JAPAN_TOKYO_HND
 DATE 2001/03/23 1250
 GATE FA7 SEAT 047A
 BOUGHT DAY 2001/03/22』

 今日は既に日付が変わった三月二十三日。搭乗日は本日の午後となっている。ブチャラティがから聞いた話では、今週の土曜日にイタリアを発つと言っていた。しかし航空券には聞いた話とは違う日付が記されている。これはいったいどういうことなのか。
 部屋の扉を開く音がした。振り返るとフーゴとミスタと目が合う。二人は首を横へ振った。どうやら他の部屋に収穫はなかったようだ。
「なにか見つかりましたか?」
「日本行きの航空券が出てきた」
 ブチャラティはフーゴに航空券を渡して見せた。
「日付は今日になっていますね。さんが日本へ向かうのは明日だったはずでは?」
「一日早めた理由はなんだ?」
「それはオレにも分からない。それよりもの父親が書き残した日記を探してくれ。この部屋のどこかにあるはずだ」
「日記ですか?」
「ああ。がオレたちの追っている敵と既に接触している以上、彼女の小さな手がかりも見逃せない。これは個人的な感情になるが、のことが気になるんだ。彼女がオレに知られたくないことが、いったい何なのか」
 これまでと過ごしてきた日々の中で、彼女がこちらに何か隠し事しているという気配を感じ取ってはいた。しかしそれは、アマルフィでの出来事を最後に消えたものだと思っていた。
 はもう隠していることはないと言った。果たしてそれは優しい嘘だったのか。それとも悪戯な嘘だったのか。今は分からない。
 ブチャラティにも言えないことがあった。がチーム内で疑いの眼差しを向けられたとき、ブチャラティはから騙されているとは微塵にも思わなかった。
 なぜなら、彼女を騙しているのは己自身だったからだ。と初めて出会ったとき、彼女は路地裏を寝床にしている子供たちに注意を呼びかけていた。
 麻薬を売りさばいている悪い大人に近づいていけない、と。
 ネアポリスで小さな子供たちに麻薬を売りつけているのが、自分が所属しているギャングチーム・パッショーネだと知れば、はブチャラティに殴りかかる勢いで激怒するだろう。どうして今まで見過ごしてきたのか。この二年であなたは変わってしまったのか、と。言えるはずがない。自分で言葉にするのも苦しいくらいだ。
 だからこそブチャラティは、これまで言葉を濁してきたに無理な詮索を入れることはなかった。自分が彼女からそうされたくなかったからだ。
 しかしそれ以上に恐ろしいことが一つあった。それはが既にその裏側を知った上で、これまでの自分と付き合ってきたのではないかということだった。今では繁華街や路地裏に一歩出れば、子供に麻薬を売りつけている大人の姿は嫌でも見かける。はその光景を目のあたりにしながら、どう思ったのだろう。どんな気持ちで自分と向き合っていたのだろう。
「ブチャラティ、ブチャラティ」
 フーゴに呼びかけられ、ブチャラティは思考を止めた。
「大丈夫ですか?」
「ああ、問題ない。少し考えごとをしていた」
さんの私物を漁ることになるので、あんたの許可をいただいたほうが良いと思って」
「許可だって?」
「だって、これからいっしょに暮らすんでしょう?」
 ほら、これ。とフーゴは積まれたダンボールに貼られている伝票を指差した。
「女性の私物を漁るなんて少々気が引けますが、そうも言っていられませんからね」
「大丈夫だ、フーゴ。さんからのお咎めはオレたちにとっちゃあご褒美みたいなもんさ」
「それなら僕も試しに怒ってもらおうかな。さんの怒った顔、実はちょっと気になるんだ」
「ああいう人ほど怒ったら怖いんだぜ。もしかするとお前以上かもなァ、フーゴ」
「おいおい、やめろよ。ブチャラティの前で」
 ブチャラティとは裏腹に、フーゴとミスタの二人は興味津々にの私物を漁り出した。
「フーゴお前、下着見つけても声あげるなよ」
「だから、ブチャラティの前でそういうこと言うなよッ」
「でもちょ~~っとは期待してんだろ?」ミスタは恨めしそうな顔をフーゴに向けた。
「ミスタお前、あとでほんとに殴って――あッ」
 ベッド付近を探していたフーゴが小さく声を発した。その声にブチャラティとミスタの動きが止まり、フーゴのほうへ顔を向ける。フーゴの手には一冊の本があった。
「これかな」
「どこにあったんだ?」ブチャラティが近づく。
「枕の下です。どうしてこんなところに……」
 フーゴが首を捻ると、ミスタが、もしかして、と呟く。
「もしかして、オレが子供の頃によくやってたおまじないをさんもやってたとか?」
「おまじない?」
「いや、枕元に写真や本を置いて眠ると、夢の中で会えるっていう話があるんです。オレもガキの頃はサッカー選手のブロマイドをよく枕元に置いてたんすよ。さんが父親を捜してるってことは会いたいってことだから、そうなんじゃあねーかなあ、と」
 実の父親を捜しているという行動は、そんな彼に会いたいという思いから来ている。それは道理にかなっている。ミスタの言うおまじないに効果があるなしに関わらず、も同じようにそのおまじないを頼りにしていたという説は、あながち間違っていないかもしれない。
「結局まだ会えていないんですよね。さんがネアポリスにやって来てから」フーゴが言う。
「オレも手を貸そうと思ったんだが、彼女の話を聞いたらそうもできなくなってな」
「とにかく日記を見てみようぜ」ミスタが言う。
「それが……」
 フーゴは言葉を濁したあと、日記を開いた。
「この日記も全部日本語で書かれているんだ。これじゃあまともに読めないよ」
 ミスタが思わず手のひらで顔を覆った。新たな壁が生まれたが、同時に過去の謎も解けた。
「ということは、オレたちが持ち出した日記もの父親が残したものということになるな」
「はい。筆跡も一致しています」
「フーゴ、悪いんだが……」
「ええ、分かってますよ。アジトから日記を取ってくればいいんでしょう。五分で戻ります」
 フーゴは日記をブチャラティに預け、部屋から出て行った。アジトからホテルまでは車を使っても片道で十分はかかるのだが、フーゴが五分と言えば、五分で戻ってくるのだろう。
「ブチャラティ、来てくれ」
 リビングルームからアバッキオの声が聞こえ、ブチャラティとミスタも部屋を出た。

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