ドリーム小説 64

「三階のパーティ会場もだめです。三階は客室にもなってるけど、この時間はみんな寝てますよ」
「呼吸の乱れを追うことはできないか。もしかすると、声が出せない状況かもしれない」
「分かりました。それなら条件を絞ってみますッ」
 ナランチャはエアロスミスを一度戻し、二酸化炭素を探るレーダーの条件を変更する。
 時刻は間もなく午前一時になろうとしていた。交代の時間なのか、先ほどから廊下を歩き、仕事へ向かう従業員たちとよくすれ違う。ホテルにはこちらの素性を通しているため怪しまれはしないが、一番厄介なのは一般の宿泊客と対面することだ。派手なスーツを着た大人が少年を連れて廊下をうろついていれば確実に怪しまれてしまう。
 これからの時間は、なるべく人目のつかないように行動しなくてはならない。再度エアロスミスを出したナランチャに向かって、ブチャラティは口を動かす。声には出さなかったが、裏手から回ろう、という言葉は通じた。
 三階を抜け、次は四階へ向かう。そこからはほとんど客室のみとなっているが、他にも従業員だけが出入りすることのできる通路が存在するはずだ。
「フーゴたちから連絡、来ないな」
「気になるのか?」
 レーダーを見ながらナランチャは頷く。「もしなにかあれば連絡が来るはずだろ? でも来ないってことは、がまだ無事ってことなんじゃあねーかなって」
 ナランチャがここまで人の身を案じているのは珍しいことだった。基本的にナランチャ・ギルガという少年は、初対面の相手には強く当たる傾向にあり、他者から舐められないように見栄を張って少々背伸びをしたがる性格だ。
 フーゴから聞いた話によれば、最初こそナランチャは、に強い口調を放っていたようだ。しかし食事を共にし、勉強を教えてもらった彼女と接してからは、は少なからず悪い人ではない、と思ったのだそうだ。それは上司であるブチャラティの旧友という存在を前提にした評価なのだろうが、誕生パーティに向けて準備を進めている間も、チームの中で一番に盛り上がっていたのはナランチャだったような気がする。
「あのさ、ブチャラティ」
「どうした」
「え~~と。オレ、ずっと前から思ってたことがあるんだけど、言ってもいいかな」
「なんだ?」
 ナランチャは首の後ろを掻いた。「ブチャラティがオレたちにのことを初めて話してくれたとき、こう言ってただろ。オレはのことはなにも知らないって」
 確かにそんなことを言ったような覚えがある。覚えがあるだけで明確な台詞は覚えていないが、ナランチャが覚えているということは、そう言ったのだろう。実際、あのときのブチャラティはについて知らないことがあったことは事実だったのだから。
「それがずっと引っかかってたんだ。ブチャラティがのことを知らないのは変だよ」
「どういう意味だ?」
「オレはフーゴみたいに勉強が得意ってわけじゃあないけど、こうして人と会話をすることはできる。それでもずっと前から思ってたんだ。どーして人は言葉を使うようになったんだろうなって。話せば話すほど、相手の気持ちが分からなくなっちまうときがあるんだ」
 でもさァ、と首の後ろから手を離した。
「実はそうじゃないって、最近気がついたんだよ。今まで通り相手の気持ちがどんどん分からなくなるときだってある。フーゴとはいつもいっしょにいるけど、今だってなーに考えてんのか分からないときがあるしさァ。言葉があるから人の気持ちは読みにくくなる。だったらその逆もあるんだろうなって」
 ナランチャがブチャラティを見つめた。
「ブチャラティが知らなかったのはのことじゃあなくて、の気持ちだよ。……多分」
 話を聞きながらブチャラティは思った。この少年はなんてことを考えているんだ、と。
 ナランチャは自身に十分な学歴がないことや、知識力に乏しい面を馬鹿にされると手に負えなくなるが、自分の力でこなせる範囲を自身でしっかりと把握している。周りから見れば覚えの悪い人間のように見えるが、実はそうではない。これまでの生活の中でも、ナランチャのちょっとした一言で場の空気が変わったり、人の心を動かしたりと、本人が意識していないところでナランチャの言葉に気付かされている者は、ブチャラティだけではないはずだ。
 本人は無意識だろうが、いまの発言はブチャラティを労わるための言葉ではなく、あくまで自身の考えを訴えているだけだ。それがまた、彼の魅力の一つでもある。
「だから次にと会ったときは、思い切って訊いてみてほしいんだ。の気持ち」
「彼女の気持ち、か」
 思えば今まで心の中で唱えることばかりで、互いに互いのことをどう考え、思っているのか。それを明確な言葉で伝え、そして伝えられたことはなかった。
 が自分をどう見て、どう思っているか。そんなことを考えたことはなかった。行動を共にするようになってからは、が身近にいることが当たり前のように考えていたし、彼女が自分のことを嫌っている、という考えを持ったこともなかった。それがこれまでの自惚れに繋がってしまったわけだが。
 自分はどうだ。彼女のことをどう考えていた。彼女と恋人同士にでもなりたいのか。それともこのまま友人として付き合っていきたいのか。答えはどちらも『NO』だ。
 彼女が幸せであればそれでいい。ただ、ほんのちょっぴりだけ望みを言ってもいいのであれば、彼女にとって『少しだけ特別な男』になりたかっただけだ――。
 それだけのはずだった。けれど望んでしまった。彼女と再び出会うことができてから。食事を共にし、ネアポリスを歩き、自分に向かって様々な色を見せてくれる彼女を見るたびに。ブォーナ・ノッテと言って別れる彼女の背中を見送るたびに、その隣を並んで歩きたいと、強く思うようになってしまった。
 最初にこの思いを抱いた者は、この気持ちにいったいどんな名前を名づけたのだろう。
「ナランチャ。お前はすごいやつだな」
「えッ?」
「人の心に敏感というべきだろうか。お前は周りを見ることのできる良い目を持っている。オレはお前の言葉にいつも気付かされてばかりだ」
「ブチャラティ……」
「これからもお前を頼りにしてるよ」
 ブチャラティはナランチャの頭を撫でるように手のひらで優しく叩いた。頭を撫でられたナランチャは親から褒められた子供のように頬を紅潮させ、表情を緩ませた。
 ブチャラティの手のひらが頭から離れたときだ。ナランチャのレーダーが反応を示し、エアロスミスが長く続いている廊下の先で旋回している姿が見えた。ブチャラティとナランチャは顔を見合わせ、足音を立てずに同時に駆け出した。二人がたどり着いた場所は四階の扉の前。どうやらこの先は客室ではなく、従業員専用の部屋のようだ。
 ブチャラティは扉に耳を当ててからドアノブを捻った。しかし鍵がかかっていて開かない。
「スティッキィ・フィンガーズ」
 ブチャラティはスタンドを発動させ、扉にジッパーを作り出す。ジッパーの縫い目から部屋へ渡ると、中は真っ暗だった。ナランチャがポケットからライターを取り出し、明かりとなる火を灯す。それでも視界は悪く、何があるのかさえ把握しづらい。
 壁伝いに手を這わせていると、突起物に触れた。部屋の明かりをつけるスイッチだと判断し、ブチャラティはスイッチを押す。ぱっと明るくなった部屋は清掃道具などが並べられており、奥にはごみをまとめる黄色い箱がいくつか置いてある。入ってきた扉とは別に新たな扉があり、開いてみればその先は従業員専用の裏階段が続いていた。
 他に変わったものがないか見渡していると、エアロスミスのレーダーが再び反応を示した。
「ブチャラティ、呼吸だ。不規則だけど、この部屋に微かに人の気配があるッ」
「箱の中を探せ」
「了解ッ」
 ブチャラティとナランチャは清掃道具を掻き分け、ごみ箱の蓋を開けた。しかし箱の中は当然のようにごみ袋しか出てこない。
 ブチャラティが四つ目のごみ箱の蓋を閉めたとき、近くで呻き声が聞こえた。微かだが、女性の声のような気がした。ブチャラティは声のしたほうへ向かい、ごみ箱の蓋を開いた。中には丸めた新聞紙が詰められており、その下で何かがうごめいている。ナランチャと共に新聞紙を取り払うと、下から一人の女性が口をガムテープで塞がれている状態で丸くなっていた。視界も布で塞がれており、手首と足首は頑丈な縄で縛られている。ブチャラティは暴れる女性をなだめながら箱から出した。床に静かに下ろし、すべてを自由にした。
「大丈夫か。オレが誰なのか分かるか?」
「は、はい」
「よかった」
 箱に詰められていたのは、やはりあのフロントクラークだった。いまはフィオーネ、と呼ぶべきか。彼女の頬や額には切り傷があり、微かに出血している。
 傷の痛みよりも先に、この上ない恐怖と安心の混ざった涙を流しているフィオーネに、ブチャラティはハンカチを差し出す。震えた手でハンカチを受け取ったまま、フィオーネは糸が切れたようにブチャラティに泣きついた。ブチャラティは落ち着くまで彼女の背中を撫でた。
 程なくしてフィオーネは泣き止み、ブチャラティから身を剥がした。
「申し訳ありません。ブチャラティ様のスーツをわたくしの涙などで濡らしてしまって」
「気にするな。こんな目に遭ったんだ。無理もない」
「ブチャラティ様、どうしてわたしがここにいるとお分かりになったのですか……?」
「見つけたのはオレじゃあない。こいつだ」
 ブチャラティは親指でナランチャを指した。フィオーネの恩義の視線がそちらに向けられる。
「そうだったのですね、ありがとうございます」
「い、いやいや。そんな大したことじゃねーって」普段、他者から感謝の言葉をかけられることに慣れていないナランチャは、照れくさそうに言った。
 フィオーネを助け出すために床に散乱させたごみを片付け、ブチャラティとナランチャはフィオーネを支えながら部屋を出た。彼女の案内で近くの休憩所へ向かい、空いているソファーに腰を下ろした。ブチャラティは休憩所に設置されている自動販売機で飲み物を購入し、ミネラルウォーターのペットボトルをフィオーネに渡した。
「ありがとうございます、ブチャラティ様」
 フィオーネは水を飲み、一息ついた。
「落ち着いたところ悪いんだが、どうしてこうなってしまったのか話してもらえるだろうか」
 フィオーネはこめかみに手を当てる。「記憶が曖昧なのですが、午後九時までフロントに立っていました。交代の時間になる少し前に同僚が別のお客様に呼ばれてフロントカウンターを離れ、その間に一人のお客様が訊ねてきました」
「交代の時間は何時だ?」
「十時です。普段は仕事を片付けてから上がりますので、二十分過ぎになりますけど……」
「それで、訊ねてきた人物は?」
「このホテルにという女性が宿泊しているはずなので、会わせてほしい、と」
「男か女か判るか?」今度はナランチャが訊いた。
「それが……判らないのです」
「判らない?」
「相手は帽子を被っておられましたし、目元もサングラスで隠れておりました。ただ、とても中性的な声でした。見た目は怪しくても、ホテルまでご足労いただいた大事なお客様です。ホテルに関する情報をお伝えすることはできない、と断った瞬間、意識が薄れてしまって」
「気がついたらここにいた、ということか」
 はい、とフィオーネは力なく頷いた。
 やはり彼女は犯人と顔を合わせていたようだ。最終的な事実として、フィオーネは実際に相手の顔を見たわけではなかったが、中性的な声の持ち主という情報は手に入れることができた。そして相手の狙いがであることも明らかになったわけだ。
 しかし、敵がを狙う理由が分からない。にいったいどんな秘密があるというのか。狙いがだという他にも、花屋のエマが攫われてしまったことも気がかりだ。
「しかし、どうしてあの方は様がここに宿泊されていることをご存知だったのでしょう」
「それはきっと、誕生パーティだろうな」
「誕生パーティ?」
「ホテルのロビーに液晶パネルがあるだろう。そこにの名前が表示されていた。偶然かどうかは分からないが、特定できる手段としてはそれが一番早い」
 最も、今回の敵がそんな簡単な方法での居場所を着き止めたとは思えないが――。
「そうだ。様、さんはご無事ですかッ?」
「いま、オレの仲間が部屋の様子を見ている」
 ブチャラティはソファーから立ち上がった。
「ナランチャ。お前は彼女を医務室まで連れて行ってくれないか。医務室は一階にある」
「うん、分かったよ。ブチャラティは?」
「オレはアバッキオの元へ向かう」
 ブチャラティが休憩室を出ようとしたときだ。後ろから腕を掴まれた。ブチャラティは握っているドアノブから手を離し、自分の腕を掴んでいる手を辿っていく。やがてその先で自分と同じように立ち上がっているフィオーネの強い眼差しと目が合った。
「どうかしたのか?」
 ブチャラティが問うと、フィオーネは手を離した。
「ブチャラティ様。わたくしはいまこの場で、何が起こっているのかまるで分かりません。ですが、さんの身にただならぬ危険が迫っているのですね」
 ブチャラティは口を噤んだ。
「わたくしはお客様のためでしたら、この身を挺して皆様をお守りする所存でございます。しかしながらホテルの外で起きたことに、わたくしは手を出すことができません。こんなことを押し付けてしまうわたくしを軽蔑してくれて構いません。ブチャラティ様、どうか。どうかさんを見つけ出してください」フィオーネは深々と頭を下げた。
 嗚呼、この者はホテルの顔と呼ばれるに相応しい。ブチャラティは心からそう思った。
 頭を下げているフィオーネの肩に触れ、ブチャラティは顔を上げるように促した。
「ああ、必ず」
「ブチャラティ様……」
「どうかきみも、彼女の帰りを待っていてくれ」
「はい。心よりお待ちしております」
 ナランチャに連れ添われながら、フィオーネはこの場を後にした。二人の背中を見送ってからブチャラティは非常階段で防犯室のある一階へ向かった。防犯室では、ムーディー・ブルースを出しているアバッキオがモニターを睨みつけている姿があった。
 こちらの気配に気がついたアバッキオと目が合い、互いに状況を報告し合う。
「見つかったんだな」アバッキオが言った。
「怪我をしていたが、命の別状はない。念のためナランチャに頼んで医務室に向かわせた。そっちはどうだ。なにか収穫はあったのか」
「あんたの考えたとおり、この部屋で監視モニターを操作している姿があった」
 やはりそうか、とブチャラティは思った。
「しかし妙なんだ。その女はホテルの制服を着ていた」
「制服を?」
「名札にはフィオーネ・コーダとあった。あんたが捜していたホテルの従業員の名前と同じだ。他の従業員に訊いてみたんだが、彼女は日本人のハーフらしいぜ。本人を見つけ出したとき、彼女はここの制服を着てきたのか?」
「ああ、着ていた。間違いない」
 アバッキオは顔をしかめる。「双子ってわけでもなさそうだな。いったいどういうことだい。どうして違う場所で同じ人物が存在しているんだ?」
 とても奇妙な現象だが、この現象を解決できる可能性として挙げられるのはひとつしかない。
 二人の思考を裂くように、携帯電話が鳴った。鳴っているのはブチャラティのものだ。
「オレだ」
(ブチャラティ、至急部屋に来てください)
 かけてきた相手はフーゴだった。
「なにか分かったのか」
(部屋に来れば嫌でも分かりますよ)
 フーゴの声色は妙に落ち着いていた。
「分かった。すぐに向かう」
 通話を切り、ブチャラティはアバッキオを連れて防犯室を出た。エレベーターで最上階に向かうまでの間、ブチャラティとアバッキオは一切言葉を交わさなかった。

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