ドリーム小説 63

 夜に染まったネアポリスでは、間もなく大雨が降ってきた。遅くまで営業しているバールやワインバーの看板は従業員の手によって急いでしまわれ、テラス席で一服していた者たちを大慌てで店内へ避難させている光景があった。
 その通りをブチャラティたちが乗っている車が、猛スピードで駆け抜ける。走行中にスピード違反を取り締まっている警官に呼び止められたが、助手席の窓からミスタが拳銃をちらつかせると、相手は奇声を上げて逃げていった。
 運転しているフーゴは時間を気にしているようだった。点滅している信号を振り切り、アクセルを踏む。
 ブチャラティはに電話をかけているが、何度かけても結果は変わらなかった。留守番電話にもならない。恐らく留守番電話が残せない状態のまま、電源が切られているようだ。それだけならいいのだが、この天気では前向きな気持ちは保ちきれずにいた。
「繋がらないか?」アバッキオが訊いた。
「ああ」
「最悪ですね」
 フーゴのため息が吐かれ、車内は五人分の重たい空気に満たされた。
ブチャラティたちが向かっている場所は、ホテル・ラ・ヴィータ。言わずと知れたの宿泊先だ。敵の狙いがと分かった以上、あの場で足踏みをしているわけにはいかなかった。
 車がネアポリス駅前を通過する。目の前を走る呑気な車にフーゴが舌打ちを鳴らした。それを合図に他の四人が車内の手すりや天井に手をついた。次の瞬間、車のスピードが一気に加速し、前を走っている車たちの間を縫うようにフーゴがハンドルを回す。この様子だと、あと数分でホテルに到着するだろう。
 そのときだ。ブチャラティの携帯電話が鳴った。ブチャラティは急いで電話に出た。
「ブチャラティだ」
(ブチャラティ、ブチャラティか?)
 聞こえてきたのは、埃を飲み込んだような声だった。聞き慣れない声に顔をしかめる。
(わたしだ。花屋の親父だ)
 花屋といえば、エマが働いている花屋が最初に頭に浮かんだ。店主とはエマと比べて言葉を交わした回数は少ないが、その声は確かに本人のものだった。ブチャラティは警戒心を解いた。
「どうしたんだい。こんな夜遅くに」
(エマが……)
「エマが、どうかしたのか」
(見知らぬ男に、攫われてしまった)
「なんだって?」
 告げられた内容に、ブチャラティは汗を流した。
(店仕舞いの時間になって、わたしが店の奥で片づけをしていたら、店の外からエマの叫び声が聞こえたんだ。急いで出てみれば、見たことのない男が大きな箱にエマを詰め込んでいたんだ。助けようとしたんだが、気絶させられてしまって)
 花屋の店主は、ううっ、と声を震わせた。
(情けない。わたしが傍にいたばかりに……)
 電話越しに聞こえるしのび泣く声に、ブチャラティは胸を痛めた。娘のように可愛がっていたエマを助けられなかった自分の無力さに、彼は心から悔やんでいる。
「傷のほうは?」
(え?)
「気絶させられてしまったんだろう。エマから聞いていたんだ。最近、病院に通っていると」
(そうだったのか。わたしは平気だよ。変なものを吸い込んで眠っていただけだからね)
「そうか。それならよかった。あなたが傷ついてしまっては、エマも悲しんでしまう」
(わたしのような老いぼれにまで、そんな言葉を掛けてくれるなんて。きみという男は……)
 再び声を震わせる店主に、ブチャラティは言った。
「後はオレたちに任せてくれ。助けが必要であれば、仲間を一人向かわせるが」
(いや、わたしは大丈夫だ)
 それよりもエマを助けてあげてくれ――言葉にはしなかったが、彼の声がそう言っていた。
「ちなみになんだが、その男の特徴は?」
(申し訳ない。暗がりだったから、相手の顔は分からなかったんだ。背丈はきみと同じくらいだ。体系はちょっぴり細めだったかな)
「それだけ情報があれば十分だ。グラッツェ」
(すまない、ブチャラティ……。頼んだよ)
 ブチャラティは通話を切り、携帯電話をしまった。
「どうしたんだ?」ミスタが訊いた。
「エマが何者かに攫われた」
「エマさんが?」バックミラー越しにフーゴと目が合う。
 ブチャラティは電話の内容を四人に話した。フーゴとミスタはの誕生パーティを開く際、準備のためにエマと会ったことがあるため、神妙な面持ちになっている。
 花屋の店仕舞いは大体夜の七時だ。普段通りに店を閉め始めていたとすれば、エマが男に攫われてしまったのは、今から約五時間前になる。 
「ブチャラティ。さっき言いかけたが、もうひとつ伝えなくちゃあならないことがある」
 雨音が激しくなるなか、余裕をなくしつつあるフーゴとは裏腹に、落ち着いた口調でアバッキオが言った。ブチャラティ以外の三人もアバッキオに耳を傾ける。
「これはから口止めされたんだが、状況が状況だ。まあ、オレは最初からあの女の言いつけを守る気なんて更々なかったけどよ」
「口止め?」
「オレが昼間、に会いに部屋を訪れたときだ。部屋を訪れたとき、あいつは日本へ向かう準備をしていたんだが、突然になって高熱を出してぶっ倒れた」
 普段のでは想像のつかないことだが、アバッキオの言葉にブチャラティは何かが引っ掛かった。
「本人は無意識だろうが、こうも言ったんだ。『いつかは来ると思っていた』とな」
 この意味が分かるか、と言いたそうに、アバッキオがブチャラティのほうを見つめた。
はそうなる以前から、自分の身に侵されつつある危険を知っていたということか?」
「そう考えるのが妥当だな」
 そして、とアバッキオは次のように言った。
「いま目の前で起こったことを、ブチャラティには言わないでほしい、と懇願してきた」
「喋ってるじゃあないか」フーゴが突っ込んだ。
「オレはから命令される筋合いはねえよ。それにいずれは分かることだ。あの様子だと、長い間誰にも打ち明けずに隠し通してきたって感じだったからな」
 隠し通してきた。アバッキオが何気なく言った言葉に、と過ごした記憶が再生される。
 彼女と出会って間もない頃。が契約を解消した男の仲間たちに襲われ、怪我を負ったときのことをブチャラティは思い出していた。重要なのは病院へ運んだときの症状だ。弾丸を受けた脇腹はもちろんだが、その他にも彼女には入院を余儀なくされる理由があった。
 疲労や発熱。三日眠り続けるほどの発熱に、は過去にも侵されていた。
それに彼女はこうも言っていた。
 ――普段ならなんとか切り抜けられるんだけど、今日はなんだか朝から調子が悪くて。
 あの時の症状と今回の症状になにか繋がりがあるとすれば、あのときからの身体からは既に危険信号が出ていたということになる。
 ブチャラティは今のことを四人に説明した。
「じゃあ、さんはそのときから?」車を駐車しながらフーゴが訊いた。
「医者からは疲労による発熱と聞いたんだが、今回も同じ症状とは限らない」
「ブチャラティは……」
 ナランチャが閉ざしていた口を開いた。
「ブチャラティは、からなにも聞いてないのか?」
「ああ。なにも、聞かされていない」
 五人は同時に車を出た。濡れたままロビーへ入ってからすぐ、ホテル内に漂う異様な空気を感じとった。深く気に留めなければ普段通りのホテルのように見えるが、いままで訪れてきたからこそ分かる。ロビー内では数人のホテル従業員が右往左往しており、耳に通信機のようなものを付けながら話をしている。そして普段ならば、こちらの姿を見た瞬間にフロントから笑みを浮かべてくれる女性フロントクラークの姿もいない。
 やはり、このホテルで既になにかが起きている。
 ブチャラティは一人のホテルマンを呼び止めた。
「いったいなにがあった?」
「ああッ、ブチャラティ様。スーツが汚れてしまっておりますよ。いますぐにタオルを」
 こんな状況でも客のことを考えるホテルマンに感心の念を抱くが、ブチャラティは制した。
「このホテルでいったい何が起きている?」
「それがですね……」
 問いかけにホテルマンは胸元に繋いでいる通信機の電源を切断したあと、五人に耳打ちをした。
「実は先ほどから、フロントクラークが見当たらないんです。彼女、フィオーネはこのホテルの顔のような存在ですし、無断で持ち場を放棄するような者ではなくて」
 フィオーネ、という社員は、間違いなく普段からフロントに立っている彼女のことだろう。確かに彼女の性格は真面目そのものだった。日頃からの対応はもちろん、こうして同じ職場で働く者たちから『ホテルの顔』と賞されるほどに、だ。
「防犯カメラは確認したのか?」
「はい。しかし、不可解なことに防犯カメラの通信が全て遮断されていたのです。先ほど業者を呼び出して修理を試みたのですが、過去の記録も消えてしまっていて」
「偶然の故障とは思えないな」
 ホテルマンは顔をしかめる。「ホテル内も少々混乱しております。騒ぎに感づきはじめているお客様がいらっしゃらないか、心配でなりません」
「こんな夜中だ。宿泊者はきっとまだホテルの異変には気付いていない。それに、客人に不安を煽らせないようにするのが、あなたたちの仕事ではないのか」
 ブチャラティの言葉にホテルマンは、はっとして目を見開かせた。沈んでいた表情が変わり、その通りでございます、と力強く頷いた。ホテルマンはブチャラティに頭を下げたあと、不安と焦りの顔を漏らしている従業員たちの元へ駆けて行った。
「ナランチャ」
 ブチャラティの呼びかけに四人の目つきが変わる。
「お前はエアロスミスでホテル内を回り、フィオーネという女性を捜し出せ。アバッキオは防犯室に向かい、ムーディー・ブルースで犯人の特定を。フーゴとミスタはの部屋を見に行ってくれ。部屋のキーはフロントに行けばマスターキーを借りられるだろう。部屋の番号は601号室だ。なにかあればオレの携帯にすぐ連絡を入れろ」
 四人は無言で頷き、それぞれの行動に移った。ブチャラティは既にエアロスミスを出しているナランチャと共にフィオーネを捜しはじめる。チーム内のスタンドで捜し物に長けているのはエアロスミスだが、彼女の顔を知っているのは、五人のなかでブチャラティだけだ。
 ナランチャは片目に携えているレーダーで人間の呼吸を辿っている。ロビー内には変わった呼吸はないと判断し、ナランチャに続いてブチャラティは地下階から回った。ホテルの地下は宿泊者のみが使用できるリストランテやエステティックサロンが並んでいる。しかし深夜帯ということもあり、どちらも既に閉まっているようだ。
「ここにも人の気配はないです」
「そうやってすぐに決め付けるな。彼女はこのホテル内のどこかにいるはずだ」
「でもさ、ブチャラティ。どうして先にじゃあなく、フィオーネって女を捜すんだい? オレたちがまず安全を確保しなくちゃあならないのはなんじゃあ……」
「彼女が姿を消したということは、犯人の顔を見たということだ。いや、見てしまった、と言ったほうが正しいだろうな。何せ、彼女はホテルの顔なのだから」
 それに、とブチャラティは辺りを見渡す。
「最初に集めるべきものは情報だ。敵の正体を暴くためには、彼女の証言を聞く必要がある」
地下階にも人の気配はなく、ブチャラティたちは非常階段を使って上の階へ向かった。

63-2

 ブチャラティの指示通り、アバッキオは防犯室に訪れていた。防犯室は薄暗く、壁には数台のモニターが設置されている。業者によって既に修復された防犯カメラの画面は、正常に動いているようだ。適当にキーボードを操作すると、非常階段の扉から姿を現したブチャラティとナランチャが映った。他にも画面を切り替えれば、廊下、エレベーターホール、エントランス、とホテルのあらゆる場所を観察することができるようになっている。
「ムーディー・ブルース」
 アバッキオはスタンドを発動させ、この部屋にやって来た人物を探りはじめる。シャッターを切るように軽快な音を鳴らしながら、ムーディー・ブルースは過去の時間を遡る。数秒経ったところで、スタンドに変化が訪れた。ムーディー・ブルースの体が風船のように膨れ上がり、やがて人間の形に変わっていく。
 形として現れたのは女の姿だった。ここのホテルの制服を着ており、赤茶色の髪は後ろにひとつにまとめられている。この女は見たことがある。アバッキオがの部屋を訪れた際、フロントに立っていた人物だ。女はキーボードを操作しながらモニターを眺め、時折腕時計を気にしながら人差し指でテーブルを叩いている。それは一種の貧乏ゆすりのようにも見えた。
 額の液晶には、午後九時三十分と表示されている。その時間はアバッキオが医者を呼び出し、の部屋で眠っている彼女を見守っていたときのことだ。
 午後十時二十七分を回ったとき、女に動きが見えた。ひとつのモニターを凝視したあと、ポケットからなにかを取り出した。携帯電話だ。プッシュボタンを押すとその場に呼び出し音が鳴り響く。しかし女は耳に当てることなく、四回目の呼び出し音で通話を切った。
 アバッキオは不審に思い、女を足から頭の先まで観察した。女が身に付けている制服の胸元に金属製のプレートのようなものが光っている。どうやら名札のようだ。
 フィオーネ・コーダ。名札にはそう彫られていた。

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