三月二十三日、木曜日。午前十二時。アジトのソファーには、クッションを抱き締めながら眠るナランチャ。その手前にある一人掛けの椅子にはミスタが脚を開いて座り、いびきをかいて寝ている。二人ともポルポからの連絡を受けてから休む暇なく働いていたため、スイッチが切れたのだろう。
そんな彼らを隅に、一人ノートパソコンに向かっているブチャラティがいた。彼が調べているのは、今回の事件で被害に遭った地域と盗まれた情報だ。鉄道機関や航空会社を主に、情報漏洩が起こったのはヴェネツィア。次に被害を受けたのがフィレンツェの田舎町。そしてパッショーネの構成員が襲われたのはローマである。フィレンツェとローマではギャングが襲われたが、どちらも情報が盗み取られることはなかった。もしも情報が盗み取られていれば、ハッキングなどの足跡を辿ることは難しいことではない。
しかし、敵は痕跡を残すどころか、正体すら完璧に隠し通している。
ブチャラティは椅子の背もたれに背中を預け、閉じかかっている瞼を指の腹で刺激する。
「ブチャラティ、少し休まれてはどうです?」
テーブルにカッフェの入ったマグカップが置かれた。置いたのはフーゴだ。
「オレは平気だ。お前こそ、少しは休め」
「いえ、僕もまだ平気ですよ。それに、チームがまだ僕たち二人だった頃は、こんなことが毎日のように続いていましたからね。もう慣れっこです」
「二人だった頃が懐かしいな」
フーゴは、ふっと笑った。「それと、頼まれていたものの集計が終わりました」
「内容には既に目を通したのか」
「もちろんです」
ただ……、とフーゴは鼻の上に皺を作る。
「ひとつ、気になることがありまして」
「気になること?」
フーゴは書類の束から数枚をブチャラティに差し出した。「これはヴェネツィア・テッセラ国際空港から流出した情報の一部です。ここを見てください」
フーゴが指を置いた場所には、二〇〇一年に入ってからの顧客情報が記載されている。個人情報の横には、過去に搭乗した履歴が並んでいる。フーゴは指を下へ滑らせ、とある名前の上で人差し指を止めた。そこには見慣れた名前が記されていた。
「ここにさんの名前がありました」
「時期は?」
「今年の一月の中旬です。日本の国際空港からヴェネツィア・テッセラ国際空港への直行便に搭乗している記録があります。そしてこれは組織のコードを利用して判明したことですが、実際にハッキングの被害を受けたのはヴェネツィアではなく、ミラノの系列航空会社だったそうです」
「ミラノか」
「さんの名前を見たときは驚きましたが、これが単なる偶然だと思いますか?」
フーゴからの問いかけに、ブチャラティはすぐに答えることができなかった。
単なる偶然ならいい。問題は逆だ。
ブチャラティがフーゴと考え込んでいると、アジトの扉が開いた。こんな深い夜にアジトを訪れる者は、いまこの場にいない人物しか考えられない。
「四人ともここにいたのか」アバッキオが言った。
アジトを飛び出してから随分と時間が経つが、今までどこにいたのだろうか。酒を飲みに行った様子はなく、女遊びをしてきた匂いもしない。ブチャラティがフーゴをちらりと見れば、フーゴはアバッキオの顔を見ながら表情をしかめていた。
冷蔵庫から飲み物を取り出し、椅子へ座ったアバッキオに、ブチャラティは疑問を投げる。
「どこへ行っていたんだ」
ああ、とアバッキオは視線を横へずらす。
「アバッキオ?」
「今回の事件で怪しいと思っていた人物を追っていたんだが、どうやら外れだったようだ」
「怪しいやつ?」
ブチャラティは椅子から立ち上がった。
「のところへ行ったのか」
「怪しいと思って近づいたのは認めるが、あんたの女に興味はねーよ。心配すんな」
以前ブチャラティは日記を読み上げたとき、アバッキオからなにも言われなかったことを不思議に思っていた。しかし、あれは怪しんでいなかったわけではない。その逆だった。を改めて怪しいと考えたからこそ、アバッキオはブチャラティに何も言わずにいたのだ。
この様子だと、彼女への疑いは少なからず晴れたようだ。彼女に対していったいどのように問い詰めたのか気になるが、訊いてはならないような気がした。
「は日本へ発つそうだな」アバッキオが言った。
「ああ」
「そうなんですか? 随分と急だな」フーゴが言う。
「今回は数週間ほどで戻ってくるそうだ」
「なるほど」フーゴが頷いた。
「それと、これをあんたに渡すように言われてきた」
アバッキオが取り出したのは茶封筒だ。ブチャラティは無言でそれを受け取った。手に取ってみれば茶封筒は見た目よりも、ずっしりとした質量がある。
封を切り、中身を取り出す。中から出てきたものを見て、ブチャラティは酷く驚いた。
「これは……」
「があんたの母親と会ったそうだ」
「がオレの母親と?」
アバッキオは頷く。「どういった経緯でブチャラティの母親と知り合ったか、詳しいことは聞かされなかった。ただ、父親を捜す以外にも、はそれを届けるためにネアポリスに来た、と話していたぜ」
話を聞きながらブチャラティは手元を見る。茶封筒から出てきたのは一冊の本だった。しかもただの本ではない。この本は世界に一冊しかない本なのだ。
ブチャラティの両親が離婚という形で決別する前のことだ。ブチャラティは眠る前、母親から本を読み聞かせてもらうのが、毎夜の楽しみだった。どんなに疲れていても、母親は優しい声で息子であるブチャラティの眠りを誘うように本を読んでくれていた。
しかし、毎日のように本を読み聞かせてもらっていれば、母親は同じ本を繰り返し読むようになった。当時はあまり豊かではない漁村で暮らしていたため、近くに本屋もなく、船を使って隣町の本屋に行っても、新しい本が入荷してくるのは年に一、二回あるかないかだった。結末を知っている本を繰り返し聞いても、面白いとは思わなかった。けれどもブチャラティは何も言わなかった。いや、言えなかった。ここで贅沢を言っては優しい母親を困らせてしまう。それだけは避けたかった。
そんなブチャラティの幼いながらの気遣いに母親は気がついたのか。いつものように学校から帰ってきたブチャラティにこう言ったのだ。
「ブローノ、いつも同じ本を読み聞かせてしまってごめんなさい。今日も隣町の本屋に行ってみたんだけれど、いつ新しい本が入荷するのか分からないみたいで……」
だからね、と母親は腕まくりをした。
「趣味で物語を書いている人に、新しい本を書いてもらおうと思っているの」
「新しい本を?」
「そうよ。世界に一冊だけしかない特別な本」
「へえ、そうなんだ」
「時間がかかるとは思うけれど、それでもいいかしら」
ブチャラティは頷いた。「もちろんだよ」
「よかった。楽しみにしていてね。母さんも装丁を手伝うことになっているから」
母親の言葉にブチャラティは胸を躍らせた。この世にひとつしかない本に母親の手が加わっていると聞いて、嬉しくないはずがない。その話を聞いてからブチャラティは、本の読み聞かせは必要ない、と言った。母親もそれで納得し、眠っているブチャラティを背にしながら本の装丁作業に励んでいた。ブチャラティは寝たふりをしたまま、自分のために手を動かす母親を見守っていた。
しかし、ブチャラティが七つの頃。両親は結婚十周年にして離婚を決意し、母親はブチャラティと旦那を漁村に残して都会へ出て行ってしまった。離れてしまった母親とは年に数回、顔を会わせていたが、年が重なるに連れてその頻度は減っていき、最終的にはクリスマスのみでしか母親の顔を見ることができなくなってしまった。
ブチャラティが十二になり、父親が麻薬事件に巻き込まれてからは母親と一度も会っていない。時々いまはどこで何をしているのか、と考えるときもあったが、その次に母親と交わしたあの小さな約束をよく思い返していた。
それがまさか、こんな形で手元に渡ってくるとは。それも、という存在を通じて。
本の表紙から原稿用紙まで全て手作りである。綴られた文字はどうやらワードプロセッサを使用しているようだ。昔と比べて便利な道具が普及し始めた世の中でも、手に持っている本の装丁からは、母親のぬくもりを感じる。
今すぐにでも目を通したいと思ったが、それよりも先にブチャラティの頭の中で一つの想像が浮かんだ。
「アバッキオ」
「どうした?」
「はオレの母親とどこで会ったんだ?」
「ああ、確か……ミラノだと言ってたな」
ブチャラティは頭の中で反芻した。重要なのは母親がミラノにいたことではない。ミラノで何が起きたか。そしてがネアポリスへ訪れる前に、ミラノにいた事実。
「あれえ、アバッキオ。帰ってたんだ」
眠り眼から醒めたのはナランチャだった。それと連鎖するようにミスタも目を覚ました。
「あ~~。頭いっぱい使ったから、なんか甘いもん食べたくなってきたなァ~~」ナランチャが冷蔵庫へ向かう。
「ああ、悪いナランチャ。ついでにオレにも飲みもん取ってきてくれ」ミスタが言う。
「僕にも頼む。炭酸水がいいな」フーゴも手を挙げた。
「最初に立ち上がったらコレだもんなァ」
ミスタとフーゴの注文に、ナランチャが面倒くさそうに冷蔵庫の中を漁りはじめる。
「それとブチャラティ。のことなんだが――」
アバッキオの声色が変わったときだ。
「あッ。なんか美味そうなの見いっけ」
新しい玩具を見つけたような声だった。ミスタたちに頼まれた飲み物を抱えながら、ナランチャは菓子袋を持ってきた。その菓子袋は確か、ブチャラティがと再会したあと、初めてホテルを訪れた際にもらった旅の土産物だ。食べる機会もなく、戸棚に保管しておいたのだが、どうやら鼻の利くナランチャに見つかってしまったようだ。
アジトにある個人の名前が記入されていないもの以外は、すべて皆のものだ。珍しい菓子を見つけてナランチャはもちろん、ミスタたちも少々盛り上がっている。ブチャラティは黙っていようと思ったが、菓子の存在に頭にかみなりのような衝撃が走った。
「ほらよ。ミスタ、フーゴ」
「おう、あんがとな」
「グラッツェ、ナランチャ。ところでその菓子袋はどうしたんだ?」フーゴは指差した。
「ああ、これ? 戸棚にあったんだよ。誰の名前も書いてないから食べちまおうと思ってさ」
言いながらナランチャは封を切った。
「変わった形だな。フーゴ、知ってる?」
菓子の一つを受け取りながら、フーゴは首を傾げる。「さあ、クッキーのようだけど」
ミスタも噛りつく。「んッ。ほのかに赤ワインの味だ。こいつは中々いけるぜ」
三人は長時間使った頭を回復させるように、焼き菓子と飲み物を往復させる。広げられた菓子にアバッキオも手を伸ばしている。赤ワインと聞いて興味が沸いたのだろう。
「これ、チャンベッリーネか?」アバッキオが言った。
「チャンベッリーネ?」ミスタが訊く。
「コムーネが原料の焼き菓子だ。ここいらじゃああまり見かけないが、ローマの辺りで買える」
「へえ、そうなのか。でも最近誰かローマへ行ったか? 僕は行ってないよ」フーゴが言う。
「オレも」
「右に同じ」
自然な流れでフーゴたちの顔がブチャラティに向けられる。ブチャラティは彼らの会話を聞いていただけで、参加はしていない。参加する暇などなかった。
はローマを訪れていた。ネアポリスに向かう前に。その事実がどれだけ重要で、どれだけの恐慌を来たすことなのか。彼らはまだ理解していない。
「ナランチャ。その菓子はオレがからもらったんだ」
「えッ」ナランチャが頬に汗を流す。
「食べてしまったことは咎めない。しかし確認してもらいたことがある。その焼き菓子がローマで購入されたかどうかだ。袋の後ろにシールがあるだろう。それがどこで売られ、どの店で販売されていたのかどうか確かめてくれ」
ナランチャは焦った様子で、雑に破いてしまった袋をパズルのように組み立てはじめた。ブチャラティも指示を出しながら、自分の声に余裕がないことに気がついていた。他の四人からすれば、たかが焼き菓子くらいでそんなに怒るなよ、といった心境だろう。
パズルが完成するまで、ブチャラティはふと携帯電話の存在が頭に浮かんだ。先ほどに向けてメールを送ったのだが、一向に返事がない。律儀な彼女ならば、何か一言でも返信を送ってくるはずだ。
四人に背を向け、ブチャラティは通話ボタンを押す。かける相手はもちろんだ。
――頼む、出てくれ。
しかし、ブチャラティの耳に届くのは呼び出し音だけだった。その機械的な音は、の声がまるで最初から聞こえないものかのように感じられた。
通話を切ったあと、後ろから「ブチャラティッ」と、ナランチャに呼びかけられる。
「ブチャラティ、シールを確認してみたんだけど、やっぱりローマだったよ」
「そう、か」
期待はしていなかったが、再度その都市の名前を聞くと頭が痛くなってくる。
「どうしたんですか、ブチャラティ?」察しのいいフーゴが椅子から立ち上がった。
まだはっきりとした確証はない。解けていない謎は、他にも残されている。
だが、そうとしか考えられない。考えれば考えるほど鼓動が速くなる。
ブチャラティは息をついたあと、四人に向き合った。
「敵の正体は分からんままだが、敵がこの街で狙っているものが分かった」
ブチャラティの台詞にフーゴ以外の三人が大きな音を立てながら、勢いよく立ち上がった。
「どういうことですか?」フーゴが訊いた。
「敵は何かしらの情報を集めている。それは何度も耳にしていることだ。だが、敵は情報をかき集めていただけではなく、とある人物の跡を追っているんだ」
アバッキオが小さな声で、まさか、と言った。
「敵はイタリア北部から南下し、ネアポリスを襲ってくるかと思ったが、なかなか手を出してこない。それはなぜか。この街に狙っている人物が滞在しているからさ」
今回の指令が下されたとき、こんなことを言葉にするとは微塵にも思わなかった。彼女は今回の事件とは無関係。それはアバッキオの話を聞いて、改めて考えたことだ。
だがそうではなかった。寧ろこの不可解な事件の渦の中心に、彼女の存在は常にあったのだ。