ドリーム小説 61

 はミネストローネが入っている鍋を温め、冷蔵庫の扉を開けた。冷蔵庫にはグロッサリーストアで購入したミネラルウォーターのペットボトルと、見覚えのないサラダボウルがある。冷蔵庫から取り出してみれば、中身はサラダだった。蓋代わりにクリングフィルムが付けられている。
 これもアバッキオが用意してくれたのだろうか。考えながらクリングフィルムを剥がし、ポットで湯を沸かす。そしてこれもいま気がついたことだが、ローテーブルに出しっぱなしにしていたティーカップも既に洗われており、食器棚に綺麗にしまわれている。
 そういえば。部屋に訪れたとき、彼は几帳面なほうだと自負していた。部屋の荷物が整頓されているところや、血で汚れてしまったシーツを取り替えたところを見れば、彼がいかに綺麗好きで几帳面なのかが分かる。きっとアジトでも定物定位を怠らない性格なのだろう。
 考えている間にミネストローネが温まった。スープ皿とサラダボウルを両手に持ち、ローテーブルへ向かう。食後に薬を飲む際の常温水を並べ、は手を合わせた。
「いただきます」
 常温水を一口飲み、サラダ、ミネストローネの順に口へ運んでいく。素朴だが、とても優しい味がする。思えば店以外の場所で他人の作った料理を食べるのはいつ以来だろうか。思い返すよりも先に、はこんな下品に食べたことはない、というほどに目の前の料理に夢中で喰らいついた。それほどまでに、彼の作った料理は美味かった。
 ふと、目の前の空席を見る。当たり前だが、向かいの席には誰も座っていない。少し前まではアバッキオが腕を組みながら眠っていたが、いまはいない。
 スープ皿をそっと置き、は片手で顔を覆った。
 そんなときだ。部屋のチャイムが鳴らされた。は体勢を直して立ち上がり、部屋の鍵を開けた。扉の向こう側にいたのはハウスキーパーと思われる男だった。
 ルームサービスを頼んだ覚えがないは、何かご用でしょうか、と首を傾げる。
「突然に押しかけてしまい、申し訳ございません。その後の体調のほうはいかがでしょうか」
「体調?」
 ハウスキーパーに訊いたあと、は一人納得した。これもアバッキオの計らいだろう、と。
 は頷いた。「問題ありません」
「左様でございますか。何か必要なものがあれば、なんなりとお申し付けください」
「それは平気なのですが、ベッドのシーツを汚してしまったので弁償させてください」
「その件はどうかお気遣いなく」
 それよりも、とハウスキーパーは次のよう続けた。
「温かい紅茶をご用意いたしました。ぜひ、淹れたてをお飲みになっていただきたいのですが」
 確かに。ハウスキーパーの者がやって来てから良い香りが漂っているとは思っていた。男が引いてきたワゴンの上には豪華な装飾のポットと、同じ柄のティーカップが並んでいる。どうやら香りの正体は彼が運んできたようだ。
 ちょうど温かい紅茶を飲みたいと思っていたところだ。は快く頷き、ワゴンが入るように部屋の扉を大きく開けた。ハウスキーパーは穏やかな笑みを浮かべて会釈をしてから、がらがらとワゴンを引いてリビングルームへ進んでいく。
様はどうか、お座りになってください」
「グラッツェ。そうさせていただきます」
 はソファーに腰掛け、紅茶の準備を進めているハウスキーパーの動きを見ていた。
「以前からこんなサービスがあったんですね」
様のようなお客様には特別ですよ」男は口元に人差し指を当てながら言った。
 でも、とは顎に手を添える。「わたしの部屋へ来てくれるハウスキーパーさんは、いつも若い女性の方だったと思うのですが、今日はお休みなんでしょうか」
「はい。本日はお休みです」
「そうですか」
「男のわたくしでは、何かご不満でしょうか」
 は慌てて釈明した。「すみません。そういう意味で言ったわけじゃないんです。ただ、普段とは違う方だったので少し戸惑ってしまって」
 男は胸を撫で下ろした。「左様でしたか。しかし、わたくしも彼女に劣らず優秀なのですよ」
 自分で言うのもおかしいですが、と男は頬を掻きながら苦笑した。それには一笑する。
 話している間にどうやら紅茶が入ったようだ。彼は慣れた手つきで、ポットからティーカップへ紅茶を注いでいく。注がれた瞬間に花の良い香りが部屋にほんのりと漂い、の心を落ち着かせていく。
 どうぞ、とティーカップを差し出され、は小さく頭を下げる。縁起のいいことに、紅茶には一つの茶柱が立っていた。手のひらで香りを楽しんでから、はティーカップを持ち上げた。
「いただきます」
「熱くなっておりますので、お気をつけて」
 ふう、と息を吹きかけてから紅茶を一口飲む。少量を含んだだけで、は驚き顔になる。
「わあ、とっても美味しい」
「ディ・モールトグラッツェ」
「あの、こちらの紅茶はどこで買えますか?」
 男は申し訳なさそうに眉を下げた。「申し訳ありませんが、市場には出回っていないのです」
 その返事に今度はの眉が下がった。
「その紅茶は、わたくしが作ったものなので」
「へえ、そう――」
 なんですか、という言葉の前に、胸に痛みが走った。は思わず胸を強く掴む。徐々に全身の力が抜けていき、手に持っていたティーカップが床に落ちた。
 悶え苦しむに、ハウスキーパーは駆け寄るわけでもなく、かといって部屋に設置されている電話を使って助け呼ぼうとする素振りを見せることはない。
 がハウスキーパーの顔を見上げると、相手と目が合った。その男の顔を見て、は、ぞっとした。先ほどまでの穏やかな表情とは一変し、男は鋭い目でを見下ろしている。まさに蛇に睨まれた蛙のような気持ちだった。目を逸らした瞬間に、頭から鋭い歯と大きな口で食いちぎられてしまいそうな恐怖に、体が上手いように動かない。
 不気味な目でこちらを見下ろしている男は、の胸倉を掴み、勢いよく引っ張り上げた。
「意外とすんなり飲んでくれたな」
 まるで変声器でも使っていたのか、と疑ってしまうほど、男の声は低く、そして冷たかった。
「まるでグリム童話の毒りんごのように飲んでくれちゃって。まあ、オレはどちらかというと人魚姫のほうが好きだけどな。あのくびれがよォ、たまらないだろう」
 は体の奥から力を振り絞り、胸倉を掴んでいる男の手を振り払った。
「まだそんな力が残ってたのか。さすがに一人で生き延びてきたってのは伊達じゃあないな」
「あなたは、いったい誰」
「覚えてないか? まあ、覚えてるわけないか。お前はまだ母親の腹の中にいたんだからな」
 男から母親の存在を聞かされ、は動揺する。
「随分と探したぞ、。大きくなったな」
「知らない人とは口を利かないようにしているの」
「あまりいい成長はしなかったようだな。お前を育ててくれた親代わりでもいたのか?」
「黙って」
「それならお前も黙ってオレについて来い」
 男の手が伸び、は振り払った。その反動で視界がサイケ柄のように歪み、片膝をつく。
「ふらふらじゃあないか。手を貸そうか?」
「断る、と言ったら?」
 男はがそう返してくるのを予想していたのか、口角を上げて怪しい笑みを浮かべた。男がから離れ、引いてきたワゴンに掛かっている白いクロスを外した。ワゴンの下には大きなトランクケースが置いてあった。旅行一週間分が十分に入る大きさのものだ。そのトランクケースを床に置き、鍵をかけていた蓋を開いた。中身を見た瞬間、は喉の奥で声を出した。
 トランクケースに入っていたのは物ではない――人間だ。それも若い女の子が入っている。両手と足首を太い縄で結ばれ、口はガムテープで塞がれている。
 まさか死んでいるのか。の脳内に一抹の不安と恐怖がよぎったが、男がかぶりを振った。
「安心しろ。睡眠薬で眠っているだけだ」
「いったい何をするつもりなの」は声を震わせた。
「お前が要求を断れば、この娘を今からネアポリスの海に放り投げようと考えているだけだ」
「そんなこと、絶対に許さないッ」
「だったら、答えはひとつしかないな」
 は言葉に詰まった。トランクケースに入っている女の子は確かにまだ息をしている。彼女を助ける方法が男に着いていくことだとしても、見知らぬ男の条件を素直にのむのも癪だ。
 いまこの場の状況で打開策はないか――考えを巡らせていると、再び腹に激痛が入った。まるで拳で殴られたような痛みだ。男は一切手を出していない。かといって変なものを飲まされたわけでもなかった。
 いまの一瞬でいったい何が起こったのか。思考の渦に呑まれながら、はやがて意識をなくした。が最後に見えたのは、悪魔のような男の顔と、男の背後に浮かんでいる人体模型のような存在だった。

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