目を覚ますと、最初に見えたのは天井だ。天井にあるシャンデリアの明かりは暖色に灯り、目を覚ましたばかりのの目を優しく包み込む。
はゆっくりと上半身を起こした。起き上がったのと同時に膝にタオルが落ちる。触れてみればタオルはほとんど乾いており、ほのかに熱を持っていた。
壁にかかっている時計を見れば、短針は十時を指している。開いていたはずのカーテンは締め切られ、隙間から漏れている光は月明かりのようだ。
――昼から夜まで、眠っていたのか。
痛む頭を押さえながら記憶を巡らせる。昼間に空港へ向かい、日本への航空券を購入した。帰りに少年の運転するタクシーでホテルへ向かったあと、レオーネ・アバッキオが突然に部屋を訪れたのだ。ブチャラティの仲間ということもあり、は快く彼を招きいれたが、アバッキオの目的はこちらの本来の目的を暴き出すことだった。
それからの記憶は曖昧で覚えていないが、アバッキオに惨めな姿を見せてしまったことは嫌でも覚えている。しかし、自らの力でベッドに移動した記憶がない。それにベッドには自分が吐血した跡も残っていない。
ふと辺りを見渡せば、部屋はすっかり片付いていた。箱に詰めようと思っていた服も見当たらず、ドレッサーの前に並べていた化粧品も綺麗にまとめられている。
いったい誰が――そう考えているときだった。部屋の扉を軽い音で三回叩かれた。身構える暇もなく部屋の扉は開かれ、リビングルームからの明かりが差し込む。
「目が覚めましたか」
の前に立っていたのは、一人の男だった。それも過去にどこかで見たことのある顔だ。
男の手には木製のトレーがあり、その上には水の入ったコップとタオルが載っている。男はが横になっているベッドの傍に椅子を置き、そこへ腰を掛けた。
「お久しぶりです、さん。覚えていますか」男は穏やかな笑みを浮かべて訊いた。
は目を擦り、男の顔を凝視する。しばらく顔を観察したあと、は、はっとした。
「もしかして、数年前に怪我の治療をしてくれた……」
「よかった。覚えていてくれていたんですね」
その男はが数年前、それこそブチャラティと出会った頃に怪我を負った際、世話になった担当医だった。数年前と比べて顔回りの皺が増えたが、穏やかな笑みは昔と変わらない。格好が当時の白衣とは違って私服だったため、すぐには気づくことができなかった。
「あの、どうして先生がここに?」が訊いた。
「アバッキオから連絡をもらったんだ。頑固な患者がいるから、出張診断してくれないか、と」
「アバッキオさんから?」
医者は、にこりと笑う。「彼は真面目だからね。病院には定期的に足を運んでいるんだよ」
しかし、と医者はシャツの裾をまくる。
「アバッキオからきみの名前を聞いたときは驚いた。まさか、彼と知り合いだったとは」
それは自分にも新しい感情だ、とは思った。
「症状は彼から聞きました。眠っている間に診察させてもらいましたが、もう一度診させてください」
は胸元や背中に聴診器を当てられた。ペンライトで目や口内、鼻の奥を診て終わり、医者は道具をしまった。
「さん。最近、なにか悩んでいることは?」
「いえ、特にありません」
「本当に?」
は口を結んだあと、視線を横へずらした。
その反応に医者は苦笑する。「あまり詮索はしないが、過剰なストレスは胃への負担へ繋がります。大きな病気ではありませんが、きみの胃はかなり弱りきっている」
「原因は?」
「え?」
「主な原因は判るんですか」
の質問に、今度は医者のほうが黙り込んだ。口の前で手を結び、考える素振りをとる。
しばらくして、医者は口を開いた。「きみの症状とは異なるが、最近になってから妙な患者が増えている。いや、彼らを患者と呼んでも良かったのだろうか。病院へ運ばれたときには既に遺体だったからな」
医者は結んでいた手を解いた。
「数週間前、五歳の少年が突然死したんだ。表向きでは脳死と判断させたんだが……」
「死因を判別することはできなかった?」
が医者のほうを見ると、彼は、どうしてそれを知っているんだ、という顔を向けてきた。
「ちょっとした裏情報ってやつです」
「驚かせないでくれ。さんがこの件に絡んでいると思ってびっくりしたじゃあないか」
は一笑する。「そんな危ないことはしませんよ」
「感染症の可能性は低いが、きみも用心することだ。数年前も高熱で倒れたことを忘れていないだろう?」
「そうですね」
医者は椅子から腰を浮かせた。「きみの飲み薬はここに置いているからね。食後に水と含めて飲んでおくように。症状が治まってきても最後まで飲み続けるんだよ」
「はい、分かりました」
「それじゃあ、わたしはこれで」
部屋から出て行く医者を見送り、もベッドから身を出した。床に並べられているスリッパを履いてリビングルームへ向かうと、ソファーに黒い塊が見えた。ソファーには腕を組みながらアバッキオが目を閉じている。どうやら眠っているようだ。
音を立てないように近づけば、女が羨むほどの長い睫毛が震えた。ゆっくりと目を覚ましたアバッキオと目が合うと、彼は目を擦ったあとに立ち上がった。
「もういいのか?」
はい、とは頷く。
アバッキオは、そうか、と呟くと、息をつきながら再びソファーにその身を沈めた。
気のせいだろうか。ソファーが沈んだ分、アバッキオが安堵したように見えたのは。
「アバッキオさん、どうしてここに?」が訊いた。
「あんたはオレが倒れた病人を放っておくような半端な男に見えるって言うのか」
「そ、そういう意味で言ったわけじゃあ……」
気まずい空気が流れ、は頬を掻いた。
目の前にいる男は、数年前にパスポートを拾ってくれた親切な警官でもあり、ブチャラティの仲間でもある。そして数時間前までは諍いを交えた相手でもある。密室で二人きりとなった今、彼を相手にどのような話題を振ればいいのだろう。
その場で立ち尽くして考えた末、はアバッキオが座っているソファーの向かいへ回った。
「あの、ありがとうございます」
アバッキオの眉が、ぴくりと上を向いた。
「わたしが無駄だと言っておきながら、わざわざホテルまで先生を呼んでくれて」
「嫌味のように聞こえるな」
はかぶりを振る。「そんなことありません。個人的に確認したいこともありましたから」
「そうか」
アバッキオは深い詮索を入れることはなかった。それがにとっては好都合だった。
そんなときだ。まるでおとぎ話の魔法使いが杖を一振りしたように、どこからか美味そうな匂いが漂ってきた。匂いに誘われるようにキッチンルームへ向かうと、コンロには小さな料理鍋がひとつ置かれている。鍋の蓋を開けてみれば、中身はミネストローネだった。
いったい誰が――その答えはすぐに分かった。
「それを食ったら、薬を飲んで寝とけ」アバッキオはソファーから立ち、玄関先へ向かう。
「アバッキオさんは食べていかれないんですか?」
「オレはいい。そろそろ戻らねえと」
食事を共にすれば、少しは相手の気持ちが見えると思ったのだが、簡単にはいかないようだ。
部屋から出ようとするアバッキオの背中を追い、はその後ろ姿に、あの、と声をかけた。
「ありがとうございました。傍にいてくれて」
アバッキオは何も言わずにのほうへ振り返った。
「不謹慎ですが、すごく嬉しかったです。警官の頃のアバッキオさんと、いまのアバッキオさんではどこか変わってしまったのかな、と少し寂しい気持ちになっていたから。でも、そんなことありませんでした。優しいところはやっぱり変わらない」
アバッキオの口から放たれる言葉たちは、確かにどれも厳しいものばかりだ。しかし、その言葉の本質を見抜くことができれば、彼の優しさに触れることができる。
いつ目が覚めるかどうかも分からない相手を、何も言わずに待ってくれているところや、その間に病人のために料理を用意してくれているところ。どれも言葉を持たない彼なりの優しさなのだろう。
「訊かないのか」
「え?」
「オレが警官を辞めて、こうしてブチャラティの部下としてギャングになった経緯をだよ」
本音を言ってしまえば気になる。しかし、真実を訊けない理由がにもある。
はかぶりを振った。「わたしもあなたに訊かれたくないことがありますから」
「そういうところは節制するんだな」
「撤回。少しだけ意地悪になった気がします」
最後にはアバッキオに鼻で笑われ、手に携えている茶封筒を手の代わりにし、それを左右に振りながら彼は部屋を後にした。
閉ざされた扉にオートロックがかかる。扉を背にしながらは床に、ずるりと座り込んだ。
60-2
アバッキオは降下するエレベーターに乗っていた。一階に到着したエレベーターから降り、ロビーへ出る。午後十時を過ぎたホテルのロビーは、とても静かだった。フロントには宿泊客の列はなく、手の空いているフロントクラークも作業に勤しんでいる。
エントランスへ出る前に、アバッキオはラウンジのソファーに腰を下ろした。が宿泊している部屋ほどではないが、さすがは四つ星ホテルといったところか。アジトのソファーとは比べ物にならないほど座り心地が良い。
自然とローテーブルへ置いた茶封筒と目が合う。腕を伸ばして手に取って見る。茶封筒は主に書類等を入れるために用いられているが、どうやら中に入っているのは束ねられた書類ではなさそうだ。何か、分厚いものが入っている。
ブチャラティに手渡すまで開封は認められない。最初から開けるつもりは微塵にもないが。
アバッキオは数時間前のことを思い返す。の突然変異を前にし、戸惑ったことは事実だ。最初はこのまま目の前で死ぬのではないか、という不安に襲われたが、連絡を取ってやって来た医者の話によれば、ストレスによる一時的な発作だったという。
もしかすると、は元々病弱だったのではないか、とも思ったが、昔から彼女を知るブチャラティから、が病弱だった、という話を耳にしたことはない。それに、ネアポリス駅で会ったときや、パーティ会場で会ったときのは間違いなく健康そのものだった。自分は彼女の性格を完全に把握しているわけではないが、知らず知らずに溜めていたものが、溢れ出した可能性も大いにありえる。
そしてなにより――彼女はまだ、何かを隠している。
気になるのはの台詞だ。一体これから何か『始まる』というのだろうか。
一人で考え悩んでいても仕方がない。アバッキオは茶封筒を手に取り、腰を浮かせた。からは決して言うな、と釘を刺されたばかりだが、アバッキオが命令を聞くのは彼女ではなく、これから全てを話そうとする男と、パッショーネという自らが属している組織だけだ。
――訂正。少しだけ意地悪になった気がします。
鼻の上に皺を作りながら言ったの台詞を思い出して、アバッキオは小さく吹き出した。
ホテルの外へ向かう途中、アバッキオの視線はフロントへ向かれる。最初に訪れた際、そして先ほどまでフロントクラークとして勤務していた女の姿が見当たらない。
休憩にでも行ったのだろうか。気にしないまま、アバッキオはアジトへの帰路を踏み出す。前方から誰かが歩いてくる気配があり、アバッキオは自然と横へ避けた。
「グラッツェ、お兄さん」
帽子を被った男が、すれ違い際に呟いた。振り返ってその男を見れば、彼は大きなトランクケースを引いてフロントへ向かっていった。
随分と大きなトランクケースだな。アバッキオはそう思いながら今度こそホテルを出た。