ドリーム小説 59

「疑いのある者は徹底的に調べる。警察は調べた結果が例え無駄だったとしても、可能性があるのならそれを追及し、そしてしつこいように何度も確認するもの。あなたのこれまでの言動を見て、まさかとは思いましたが……」
 アバッキオはを圧したまま、黙り込む。
「あのときの親切なおまわりさんが、いまはギャングをしているとは微塵にも思わなかった。しかもあのブチャラティの部下だったなんて」
「オレも今のいままで考えもしなかったぜ。まさかあんたがあのときの女だったなんてよ」
「ハンカチ、ずっと持っていてくれていたんですね」
 アバッキオはベッドの上に落ちたハンカチを見やった。受け取ったあと、結局捨てきれずにポケットに忍ばせていたもの。特に思い出深かったわけではない。捨てるには惜しいと思っていたから手元に残していただけだ。それ以外に理由はない。
 それでも警官としての思い出を明るくさせてくれた出来事に変わりはない。このハンカチは、いつか再会するときまで持っていようと考えていたのだから。
 結局警官を辞め、こうしてギャングとしての生き方を歩んでいるわけだが、こんな形で再会するとは思ってもみなかった。どうやらその思いは相手も同じのようだ。
「一時はあんたを疑うのを止めたんだ。だが、どうしても拭いきれなくってな。決定的な言動があれば単独でも動けると思ったのさ」
「教えてください。あなたはいったいいつからわたしを盗聴していたんですか」
「あんたが通話を始めたときさ。盗聴器は電波を感じると起動する仕組みになっているからな。ただ、ここに向かう途中は聞いていなかった。オレが最後に聞いた言葉は、ブチャラティが狙い、というものさ」
「そのあとのことは?」
「聞いていない」
「聞いていた会話は、あなただけが聞いていたんですね」
「ああ。オレが独断でやったことだからな」
 正しくは、フーゴの協力を得て――だが。
 フーゴからの誕生パーティを提案されたとき、アバッキオはすぐには頷かなかった。いや、頷けなかった、といったほうが正しいだろう。それはフーゴも最初から分かっていたようで、どうしたら協力してくれるか、と問われた質問に対して、アバッキオは逆にひとつの条件をフーゴに挙げた。
 それは、『の潔白を証明するために、プレゼントに細工をする』ということだ。
 フーゴはその条件を呑み、ブチャラティには決して教えてはならない、という密約を交わした上で、へ贈ったプレゼント袋の中に盗聴器を仕掛けた。その盗聴器はアバッキオのヘッドフォンを通じて聞こえるようになっており、あの場でを盗聴していることを知っていたのは、もちろんアバッキオとフーゴしか存在しない。
「ブチャラティはあんたに手を下さない。それはあんたも分かってることだろうよ」
「彼は優しいですからね」
 互いの記憶を思い出したところで、アバッキオの気持ちが変わることはない。例え目の前の女が警官時代の思い出だとしても。ブチャラティの大切な友人だとしても。自分の上司を狙っていることに変わりはないのだから。
 アバッキオは仰向けになったの首を絞め殺さない程度に掴む。先ほどまでの抵抗をなくしたはただ、じっとこちらを見つめている。
「思い出話はここまでだ。正直に話してもらおうか。なぜブチャラティを狙うのかを。態度次第によっちゃあ、ちょいと痛い目に遭ってもらうぜ」
 を見下ろしながら、アバッキオは心の中でブチャラティに詫びた。例え上司を守るためとはいえ、大切な旧友が強制尋問を受けていると知れば、心の優しい彼はきっと激昂するだろう。
 昔からそうだ。ブローノ・ブチャラティという人間は他者に対してあまりにも優しすぎるのだ。だからこそ彼に悟られないように、昔からフーゴと陰で警察沙汰にさせてはならないような事件を解決したり、組織から汚い仕事を請け負ったり。なるべくブチャラティの罪悪感の淵が深くならないように努めてきた。
「語弊がある、とはよく言ったものですね」
「なに?」
「あなたが聞いた会話は本物です。確かにわたしは二人の男性と電話をしていた。ブチャラティが狙いと言ったのも一語一句正しい。けれど、捉え方が違う」
 アバッキオに首を掴まれたまま、は顔を横へ倒した。その際に髪の隙間から耳たぶが見えた。耳には桃色の花が咲いている。それは昨晩、の誕生パーティで本人からもらった焼き菓子と同じ形をしていた。
「ひとつだけ答えます。わたしはあなたたちが突き止めようとしている敵ではない」
「いったいなんの話だ」
「とぼけても無駄です。ブチャラティやあなたたちが何を探っているのかは、見当がつきます」
「証拠はあるのか?」
 は顔をアバッキオのほうへ戻した。「証拠はありません。けれど、町を襲う動機もない」
 アバッキオは顎を引いた。
「イタリア各地で起きている情報漏洩の被害や銃撃戦のことは、わたしも知っています。自分は確かに情報屋をしていますが、何でもかんでも知っているというわけではありません。そんなわたしが突然ネアポリスへ戻り、ギャングであるブチャラティの知り合いとして疑われてしまうのは無理もないことだと思います。しかし、情報は機密なほど大切な商売道具になるもの。わざわざ騒動を起こしてまで手に入れる必要もない」
 襲われた町には、の両親が暮らしていた家もあった。彼女が今回の事件の黒幕だとしても、自分の両親が暮らしていた場所を襲う動機は確かにない。
「あんたが直接手を出したとも限らねえ。仲間か誰かと組んでいた――そうじゃあないのか」
「わたしの仲間はブチャラティだけ――」
 そう言ったあと、はかぶりを振った。
「いや、いまの彼の仲間はあなたたちでしたね」
 ごめんなさい、と視線を横へ逸らす。
「何度も言うようですが、今回の事件にわたしは一切関係ないと断言します。お気の毒ですが、自白剤や何を飲まされたって、わたしはそれしか答えられません」
 これがあなたに話せるすべてのこと――こちらを見つめるの目が、そう訴えていた。
 そうだとすれば、なぜ彼女はブチャラティを狙っているのだろうか。そもそも彼女がブチャラティを狙う理由と動機は何だ。
 それに、電話で話をしていた内容も引っ掛かる。
 『一つ目は父親と探し出すこと。二つ目はとある人から頼まれたことを実行すること。そして三つ目はあなたから頼まれた依頼をこなすこと』。
 一つ目は既に明白になっていることだ。しかし、残り二つが分からない。ネアポリスでがやるべきことはいったい何なのか。アバッキオたちが追っている敵は別として、あんなことを聞かされて気にしないほうが難しい。
、あんたがオレたちの追っている敵ではないと仮定しよう。それならば、あんたの目的は何だ。父親を捜すためだけではなく、この街でブチャラティを狙う理由は。第三者から頼まれたこととはいったい何だ。それを聞かせてくれたら、オレはあんたを信じてやる」
 アバッキオは自分で言いながら、頭の中では半分、のことを信じたいと思っていた。いや、最初からそうだったのかもしれない。ブチャラティの旧友として改めて彼女の存在を知ったアバッキオは、彼女が今回の事件に関係のない人物であることを心のどこかで願っていた。願うばかりに、彼女の身元や情報に敏感になってしまい、疑いの念を抱かずにはいられなくなった。
 警官の心から生まれたものなのだろうか。人を疑うことが仕事の警官にとって、人と信じるという行為は紙一重なのかもしれない。
「それは――」は結んでいた口を開いた。
 そのときだ。アバッキオの視界が、ぐらりと揺らいだ。眩暈を起こしたわけではない。首を押さえつけていたが、突然激しく咳き込みはじめたのだ。
 アバッキオは慌てて首を開放する。そこまで強く掴んでいたつもりではなかったのだが――。
 手を離すと、はベッドのシーツを強く掴み、うっうう……、とまるで獲物を食らう肉食動物のように小さな唸り声をあげる。体を丸くさせ、溢れ出しそうな何かを押さえ込むように胸を強く掴んでいる。
、お前――」
 どうしたんだ、とアバッキオが声をかけようとした瞬間、視界が真っ赤な海に染まった。
 いまの一瞬でなにが起こったのか。アバッキオの思考を急停止させ、理解まで一気に運んでくれたのは、口から鮮血を垂れ流しているの姿だった。
 ――アバッキオがそう呼ぶ前に、は再び血を吐き出す。その量は先ほどと比べて微量だが、確実に真っ白なシーツを赤く染めていく材料となる。
「……始まった」
 吐き出した血が付着した手を見ながら、青白い顔のが言った。まるでこの世の終わりを悟ったようなの声に、アバッキオは思わず身震いする。
「いつかは来ると思っていたけど、まさか、こんな早く」
 は、ぱくぱくと口を動かしたが言葉にならず、糸が切れたように赤い海に倒れこんだ。
 アバッキオは、はっとしての体を支える。気絶しているの体は小刻みに震えており、みるみる内に体温が上昇している。嫌な予感を頼りに額に手を当ててみれば、思わず手のひらを離してしまうほどに熱かった。
 あり得ないほどの高熱を持っている。アバッキオはが汚れないようにベッドに寝かせ、携帯電話を取り出す。救急車を呼び出すが、なぜか繋がらない。おかしいと思って電波を確認すれば、画面には『圏外』の文字が表示されていた。
 ――が電波を遮断させる道具を使っているのか?
 本人に訊こうにも、今は訊けるような状態ではない。諦めてフロントへ向かおうと部屋を出て行こうと駆け出したとき、後ろからロングジャケットの裾を掴まれた。
 勢いよく振り返ると、不規則な呼吸を繰り返していると目が合った。
 アバッキオが自分のほうへ注意を向けてくれたことに安心した様子で、は首を横へ振った。
「行かないで」
 子供が駄々をこねるなんてものではない。助けを乞うなんてものでもない。これほどまでに悲痛な叫びを、アバッキオは今までの人生の中で聞いたことがなかった。
 掴まれていた手が離れ、重力にしたがって床に落ちていく。真っ赤なシーツを地面にして倒れこんでいるの姿を見て、警官時代の出来事がフラッシュバックした。
 悪夢を払うようにかぶりを振り、アバッキオはの体を静かに抱き上げた。閉めていた扉を足の先を使って大きく開き、リビングルームのソファーにを寝かせる。
 水をきつく絞ったタオルを額に乗せると、の表情が微かに和らいだように見えた。
 しかし、ただの高熱なら吐血はしない。一刻も早く医者に診てもらわなくてはならない。
 こちらの考えを察知したが再び止めに入る。これにはアバッキオも憤怒してしまう。
「なんで止めんだ」
 はかぶりを振る。「医者を呼んでも無駄です」
「無駄?」
 は上体を起こし、深呼吸を繰り返す。
「お願いします。いま目の前で見たことを、ブチャラティには決して言わないでください」
 お願いします――激しく乞うように、がアバッキオの服を掴んだ。服を掴むその力は、決して言わないで、という思いの強さに比例しているようだった。
 頭に載せていたタオルを手に取り、は呼吸を整えながらアバッキオを見上げた。
「あなたになら、任せてもいいかもしれない」
 先ほどからの発言と言っている意味が分からず、アバッキオは顔をしかめる。
「さっきの部屋にわたしの鞄があります。そのなかにある茶封筒を取ってきてくれませんか」 
 の言葉は途切れ途切れだが、正確に伝えようとしている努力が垣間見える。
 アバッキオは言われた通りに鞄を探しに部屋へ向かった。鞄はすぐに見つかり、中に茶封筒が入っていることを確認する。手に取って見ると、確かにそれは分厚いものだった。
 茶封筒を手にしたまま、の元へ戻る。はアバッキオが手にしている茶封筒を見て、それです、と言わんばかりに頷いた。言葉を発するのがやっとのようだ。
「それをブチャラティに渡してください」
「ブチャラティに?」
「わたしが実の父を捜している途中、ミラノで偶然会ったんです。彼の母親に」
 アバッキオは思わず茶封筒を見つめた。
「わたしがここへ来たもう一つの理由は、それをブチャラティに渡すことです。わたしがどうやってブチャラティの母親かどうかを知ったのかは、想像にお任せします。けれど、せめてそれだけでもブチャラティの手元に渡しておきたいんです」
 血が滲むほど唇を噛みしめるの目には、激しい感情が浮かんでいた。それはアバッキオがブチャラティや信頼している上司から命令を下されたとき、絶対的な使命感を抱いているときと同じ目だ。
 必ずやり遂げなくてはならない――そういった思いが滲み出ている。
「ごめんなさい、アバッキオさん。もう一つだけ、わたしのお願いを聞いてください」
「あんたの願いだって?」
「それをブチャラティに渡したら、わたしはこれから日本へ向かうと、彼に伝えてください」
 なにを馬鹿なことを言い出すんだ。口には出さなかったが、アバッキオは心の中で叫んだ。
「そんな状態のまま、日本へ行けるわけねーだろ」
「大丈夫ですよ。こんな状態ですが、見た目以上に身体はまだいうことを利いてくれます」は自分に言い聞かせているように言った。
 アバッキオは託された茶封筒を握りながら、思わずを睨みつける。彼女が電話で話をしていた二つ目の目的は、ミラノで偶然出会ったブチャラティの母親から託されたものを、息子であるブチャラティに手渡すこと。これで二つの目的が判明した。
 残るは二つだ。だが、いまはそれらを無理やりに暴露させるわけにもいかない。当の本人がこんな状態で尋問をさせるほど、アバッキオも悪魔ではない。
「わたしは大丈夫です。フロントにはあとでちゃんと電話をしておきますから」
「あんたは――」
「お願い。早く行って」
 一刻も早くここから出て行ってほしい。その言葉をは柔和に伝えようとしている。
 アバッキオはこれ以上この場にいても会話にならないと判断し、に背を向ける。しかし扉を開く前にもう一度だけ、のほうへ振り返った。
「どうしてブチャラティには話さないんだ?」
 少なくともにとってブローノ・ブチャラティという人物は信頼のおける人間のはずだ。あの男ならば、彼女が苦しんでいると一報を入れた瞬間にここへやって来るだろう。
 その質問には顔を背け、沈黙する。何も答えたくない。無言の圧がアバッキオに伝わる。
「あんたはブチャラティをどう思っている?」
 訊きつづけても、は無言を貫いている。
 アバッキオは落ち着いた口調で言った。「オレの口から言うことじゃあねーが、ブチャラティは心の底からあんたを大切に思っている。あんたを全てのものから守ろうと思っているだろう。いまこの瞬間も、誰よりもあんたのことを考えているはずだ」
 ブローノ・ブチャラティという男は、言葉よりも前に行動で示す人間だ。既に後ろを振り返ることを忘れ、立ち止まることさえ忘れかけている。
 そんな男を一瞬でも躊躇いの壁で行き詰まらせた人間が、いまアバッキオの目の前にいる。その事実が、こんなにも悔しいと思ってしまう。そんな自分をアバッキオは嘲笑したくなった。
「これ以上、ブチャラティの気持ちを踏みにじるようなことだけはしないでくれ」
 アバッキオは今度こそ部屋を後にした。扉を閉め、エレベーターのほうへ足を進める。廊下をしばらく歩いたところで、アバッキオの歩幅は段々と小さくなっていく。たどり着いたエレベーターのボタンへ指を伸ばしても、指先に力が入らない。
 伸ばした手をそのまま拳に変え、アバッキオは早歩きで来た道を戻った。フロントで預かった部屋のキーを取り出す。女の部屋に無断で入ることに躊躇はしなかった。
 再び戻ってきたの部屋。出て行ったばかりの部屋にはソファーの上で、ぐったりとしている彼女の姿がある。どうやら気絶してしまっているようだ。
 ――なにがフロントに電話をしておく、だ。
 血で汚れたシーツを剥ぎ、クローゼットに予備として準備されている新たなシーツを敷く。床に散乱した洋服やドレスをかき集め、先ほど言われたとおりにダンボール箱に詰める。閉ざしたダンボールには伝票が貼り付けられていた。記されている住所は、ブローノ・ブチャラティが住んでいる郊外に存在している家のものだった。
 リビングルームで眠っているをベッドルームに運び、皺ひとつないベッドの上に寝かせる。一人になれた安心感か。それとも一人になってしまった孤独感か。それともどちらにも当てはまるのだろうか。眠っている彼女の表情は、アバッキオの胸に刺さるものがあった。
 そんなの目尻から、ひとつの涙がこぼれ落ちた。
「ブチャラティ」
 静まり返った部屋で囁かれた男の名前。それは眠っているの口から出てきたものだ。
 流れ落ちたその涙を、アバッキオはハンカチで拭う。
 最初から分かっていたことだった。がブローノ・ブチャラティをどう思っているか。そんなことは確認するまでもない。
 あの男といっしょにいれば分かる。彼の近くにいれば不思議と安堵感に包まれるのだから。
「オレもあんたも、素直じゃあないな」

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