ドリーム小説 58

(ブローノ・ブチャラティ?)
「そうです。わたしがあなたからの任を受けてネアポリスへ来た理由は、全て彼にあります」
(きみはその男をどうするつもりだ)
 その質問には口を結んだ。
(だんまりか)
「……すみません。言葉にすると、辛いので」
 落ち着いた口調でが言うと、電話の向こうで椅子から立ち上がる音が微かに聞こえた。相手はティーカップかなにかに飲み物を注いでいるようだ。
(これはわたしの印象だが、きみがそんな風に自分の感情を素直に言葉にするのは珍しいな)
 は電話越しに苦笑した。「あなたの前では嘘を吐けないんです。こうして電話越しに話していても、わたしの心が全て見透かされているような気がして」
(そんなことはない)
 よく言うな、とは心の中で呟いた。
「あなたには感謝しています。母についてはわたしの力だけでは判明できなかったものですから」
 しかし、とは抑揚をつける。
「どうして母の死亡届をわざわざ? あなたにはまったく関係のないことなのに」
 が打っているキーボードの音が止まったのと同時に、電話の向こうでため息が叩かれた。
(そこんとこだが、わたしにも分からないんだ)
 それを聞いては小さく笑った。ソファーから立ち上がり、締め切っているカーテンの隙間からネアポリスの海辺を何となく眺めた。先ほどまで曇っていた空は明るくなり、海が太陽の光に反射して、きらきらと輝いている。遠くにあるはずだというのに、思わず目を細めてしまうほどの輝きだ。
 この感想は以前にも心に宿したことがある。そのときにも丁度、彼と電話をしていたはずだ。
「日本であなたと出会ったのは、偶然ではなかったのかもしれません。本当に感謝しています」
(礼を言われるほどのことじゃあない)
「これでわたしの仕事は終わりです。またなにかあったときには留守番電話に入れてください」
(ああ。そうさせてもらおう)
「アメリカの娘さんにもたまには顔を見せてあげてくださいね。わたしは両親が傍にいなかったから分かります。小さい頃の記憶は成長しても変わりません」
 相手は無言を貫いている。は相手の心中を悟り、プッシュボタンに指を添えた。
「それでは、またお会いしましょう」

 まるで手首を掴まれたかのような声だった。
(きみは全て分かった上で、決めたんだな)
「……もちろんです」
(分かった。それだけ訊きたかった)
 通話が切られ、は電話を切った。閉ざしていたカーテンを開き、部屋の鍵も全て開錠する。
 ――少しだけ、変な汗をかいた。
 額に触れれば、確かに汗をかいていた。体を綺麗にしてから荷造りの準備を始めよう。そう考えたあと、部屋の扉を叩く音に、の肩が、びくりと動いた。
 ルームサービスだろうか。いや、そんなはずはない。このホテルに宿泊して三週間になるが、こんな日の高い時間にルームサービスが運ばれてきたことは一度もない。
 ブチャラティか? いや、ブチャラティであれば、必ずフロントを通してやってくるはずだ。
 該当しない訪問者に、一瞬だけ不安がよぎる。息を呑んだあと、は玄関口へ向かった。覗き窓から外にいる人物を確かめる。は一度覗き窓から顔を離し、考え込んだ末に二重にかけていた鍵を開けた。
「よォ。ちょっと中へ入れてくれねーかな」
 扉の向こうにいたのは、レオーネ・アバッキオだった。

58-2

 ブチャラティたちの集まるアジトから出て行ったアバッキオの表情は、非常に険しかった。普段ならば気さくに声をかけてくる街の者たちも、いまのアバッキオに無闇に声をかければ、問答無用で殴られる。そう悟ってしまうほどの空気に包まれていた。
 身体から黒い靄を発しているアバッキオが向かった先は、ホテル・ラ・ヴィータ。昨夜、の誕生パーティで賑わったのが、彼の新しい記憶だ。
「ようこそ、ホテル・ラ・ヴィータへ」
 顔立ちのはっきりとした女性が、にこりと微笑む。
の部屋を教えてくれ」
 フロントクラークに言うと、彼女は顔を歪めることなく、まずは頭を下げた。この場に来るまでに誰もがアバッキオの様子に恐れていたが、四つ星ホテルのプロフェッショナルとなると、やはり簡単には動揺を見せない。
「大変申し訳ございません。当ホテルに関する個人情報をお客様にお話しすることはできません」
「なるほど」
 一考したあと、アバッキオは切り札を出した。
「ブローノ・ブチャラティの伝だ、と言ったら?」
 そう言うとフロントクラークは目を丸くし、再び頭を下げてから近くの電話を手に取った。
 しかし、アバッキオがそれを制する。の部屋に連絡を入れようとする彼女の腕を掴み、かぶりを振った。フロントクラークは戸惑いながらも、無言で受話器を置いた。たとえギャングの申し出だとしても、客のことを第一に考えているホテル側からすればすっきりしない気分だろう。
 アバッキオはキーを手に取り、エレベーターに乗り込んだ。静まり返ったエレベーター内では、首に提げているヘッドフォンから漏れる音だけが聞こえる。それは激しいロックミュージックでもなければ、優しいヴァラードでもない。
 人の話し声だ――。
 エレベーターが最上階に到着した。アバッキオはパーティ会場の立て看板とは逆の道を行く。
 目指すべき場所はただひとつ。601号室。迷うことなくやって来た部屋の前で扉を叩く前に、ヘッドフォンの電源を切る。そしてようやく扉を拳で叩いた。
 部屋の奥から人の気配を感じた。それはかつて警察官として街のために働いていたときに培ったものだ。
 相手はゆっくりとこちらへ向かってくる。しばらくすると足音が消えた。どうやら覗き窓でこちらの顔を確認しているようだ。いまここで覗き窓を見れば、相手と目が合うことになるが、アバッキオは目線を横にずらす。
 鍵が開く音がした。中から出てきたがアバッキオの姿を見て、驚き顔を浮かべている。
「よォ。ちょっと中へ入れてくれねーかな」
 驚いていたの表情が元に戻る。
「取り込み中か?」
「いえ、そんなことはありません」
「じゃあ、中へ入ってもいいな」アバッキオは扉との隙間に靴の先を差し込んだ。
 は唇を舐めたあとに頷いた。部屋へ招かれ、アバッキオは部屋の中を見渡す。太陽の光が差し込んでいるリビングルーム。開放された部屋の扉たち。バスルームからは微かに湯の匂いがする。これからシャワーでも浴びるつもりだったのだろうか。
 はキッチンスペースで紅茶を淹れている。二人分のティーカップをトレーに載せ、ローテーブルへ並べた。そこには蓋の閉まったノートパソコンがある。はティーカップを置いたあと、それを脇に抱えて部屋に持って行った。その動きを目で追い、アバッキオは一人掛けソファーに腰を下ろす。
「随分と部屋が片付いているな」アバッキオが訊いた。
「はい。土曜日にはここを離れるんです。ブチャラティから聞いていませんか?」
「なるほど。また離ればなれってことかい」
 は紅茶を飲み、小さく笑う。「いいえ、今回はすぐに戻ってきますよ。そのときはブチャラティやアバッキオさんたちといっしょに美味しい料理を食べたいと思っているんです。アバッキオさんは苦手なものとかありますか?」
「いや、食い物に好き嫌いはねえよ」
「そうなんですね。そういえば、わたしも最近知ったのですが、ブチャラティは豆類が嫌いなんだそうです。わたしも彼とは数年いっしょにいましたが、そんなことはまったく知らなくて。アバッキオさんたちといっしょにいたときは食べていたんでしょうか」
 楽しそうに話をしているをアバッキオは見つめる。手に取ったティーカップを置き、立ち上がった。突然立ち上がったアバッキオにが目を瞬かせている。その様子は先ほどアジトを出て行く前に見たブチャラティとまったく同じだった。
「片付けが進んでないなら、手伝ってやろうか」
「え?」
「女物は避けてやるよ。心配するな。こう見えて几帳面なほうなんだ。あんたの言うとおりに動いてやる」
 が静かにソファーから立ち上がる。「もしかして、そのためにここへ?」
「いや、あんたがネアポリスを離れることはいまさっき知っただろう。オレがここに来たのは茶々入れに来たのさ。昨日ブチャラティとなにがあったのか、ってな」
 こう言えばはどのような反応を見せるだろうか。赤くなった頬を隠そうと俯くか。それとも図星だと肯定するように分かりやすい反応を見せるのか。
「彼とは何もありませんでしたよ」
 しかしの表情は、まさに透明色だった。どんな感情の色に染まっているのか分からない。喜んでいるのか。怒っているのか。どれにも属していない顔で答えた。
「そうか。そいつは失礼した」
「いいえ、お気になさらず」
 お部屋はこちらです、とがアバッキオを奥の部屋へ案内する。そこはさきほどがノートパソコンを片付けに向かった場所だ。部屋の真ん中には二人の男女が寝てもまだ余裕があるほどの大きなベッド。傍にはドレッサーが置かれており、床には彼女の私物が並んでいる。
 部屋に入り、アバッキオは後ろ手に扉を閉めた。はベッドの上に洋服を並べている。そのなかにはパーティのときに着ているドレスもある。透明の袋に入れられ、他の洋服と比べてもとても丁寧に扱われているのが分かる。
「この服を箱に詰めてくれませんか?」
「ああ。お安い御用だ」
「片付けは嫌いじゃあないけれど、こうも物が多いと色々と大変で……。あ、そうだ。このお礼は日本からのお土産でいいでしょうか。それとも――」
「いいや。あんたを日本には行かせないさ」
「え?」
 窓辺のほうを見ていたが振り返り、アバッキオと目が合う。いつの間にか閉まっている扉と、神妙な面持ちで詰め寄ってくるアバッキオに、彼女の頬に汗が流れた。
「……アバッキオさん?」の声色が忽然と変わる。
「どうした。片付けをするんじゃあないのかい」
 が後ろに一歩引く。
「まどろっこしいことは苦手なんでな。手っ取り早くあんたの尻尾を掴ませてもらうぜ」
 アバッキオは床を蹴り、に掴みかかる。突然体を捕まれたは戸惑うどころか、頭に走ったではあろう危険信号に従って強い抵抗を示した。
 彼女が一筋縄ではいかないことは、ムーディー・ブルースでの記録で既に承知のことだ。しかし、アバッキオも伊達に警官を目指していたわけではない。相手は女だ。脚を曲げ、こちらの後ろをとろうとしている動きを封じる。そのまま足の裏を捕らえ、ベッドにねじ伏せる。その衝撃でベッドに並んでいた洋服たちが宙を舞い、床に無造作に散らばった。
 は苦しそうに悶え、どう暴れても無理だ、と悟ったのか。これまで見てきた言動に似合わぬ舌打ちを鳴らしてこちらを睨みつけてくる。
「そんな目で睨むな。せっかくの美人が台無しだぜ」アバッキオは鼻で笑った。
「いったいなんのつもりですか?」
「洗いざらい吐いてもらうぜ。あんたがこの街で狙ってるのは、ブチャラティなんだろう?」
 の目が大きく見開かれた。どうしてそのことをあなたが知っているんだ――そんな目だ。
「どうして知っているか? そんなもんあんたならすぐに解ることだろうよ」
「まさか……」
 アバッキオは開封したばかりと思われるプレゼントの山に目をやる。「オレたちがやったプレゼント、ようやく開けてくれたんだな」
「はい。昨日は疲れて寝てしまいましたから。ミスタくんのものはまだ開けていませんけど」
「やつらはあんたの喜ぶ顔が見たくて真剣にプレゼントを選んだろうよ。……オレ以外な」
 は考えるように目を閉じた。自分がおかれている状況がこんな形でも冷静なのだな、とアバッキオは思う。
「そうですか」
 閉ざされていた瞼が、そっと開かれる。その目を見て、アバッキオは一瞬だけ圧している力を緩めそうになった。
 さきほどまで強い抵抗を示していた熱い彼女の目が、いまでは底無し穴のようになっていたからだ。
「ブチャラティの命令ですか?」
「いいや。これはオレが勝手にやったことだ」
「でも、少なからず心のどこかでわたしを疑っているんでしょう? だからあなたはワインボトルが入っている袋に細工をし、盗聴器を仕掛けた。これ以上ブチャラティの手を汚さないように。彼を守るために」
 アバッキオは無言を続ける。は嘲笑し、緩んだ隙を狙ってうつ伏せから仰向けになる。
「――やっぱり」
「なんだ?」
「あなたとは、以前に会ったことがある」
「なんだって?」
 の台詞に、アバッキオの心臓が大きく跳ねた。
「昔……それこそわたしがブチャラティと行動を共にし始めたときのことです。わたしはバイクの運転免許更新のためにパスポートを持ってネアポリスを歩いていました。けれど、パスポートをどこかで落としてしまったんです」
 アバッキオは閉ざしていた口を微かに開いた。
「慌てているわたしに声をかけてくれた一人の警官がいました。彼の手にはわたしのパスポートがあった。暑いなか、汗をかきながら必死で持ち主を捜してくれていたんです」
 の話を聞きながら、アバッキオも自然と自分の記憶を巡らせていた。
 がブローノ・ブチャラティと行動を共にしていたのは、いまから数年前のこと。ブチャラティがパッショーネに入団してから間もない頃だ。そのときアバッキオはもちろん、彼以外のメンバーもまだギャングになる前の生活を送っていたはずだ。
 アバッキオは警官だった。高校を卒業したあとに警察学校に入り、念願の警官帽を被ったときの気持ちはいまでも忘れられない。これから自分が街の人々を守るのだ。そう心に決めた正義も忘れていない。
 ある日のことだ。その日はとても暑く、自動販売機の飲み物が空になってしまうほどの猛暑日だった。
 いつものようにアバッキオがネアポリスを巡回していたとき、道端で何かを拾い上げている若い男の姿を見かけた。その男は拾い上げたものを見つめてから辺りを警戒するように周囲を見回したのだ。
 その行動は明らかに怪しかった。アバッキオは男に近づき、いまなにを拾ったのか、と訊ねた。男は慌てて拾い上げたものをポケットのなかに忍ばせ、瞞着する。
 その後も穏和に問い詰めたが、男はポケットに突っ込んだままだ。諦めたアバッキオは男を羽交い絞めにし、ポケットから物を奪い取った。男は舌打ちをし、地面に唾を吐き捨ててその場から去っていった。
 一息ついてからアバッキオは奪い取ったものにようやく目を向ける。男が拾い上げ、そのままどこかへ持ち去ろうとしたのはパスポートだった。身元を確認するために中身を開く。最初に目が合ったのは女の顔だ。しかもまだ若い。生年月日を見ると、アバッキオより一つ年下だった。
「……。日本人か」
 アバッキオは辺りを見渡す。パスポートを落としてしまったとなっては、失くした本人の気持ちを考えると、不安で溢れ返っているだろう。
 しかし、辺りにはパスポートを捜しているような日本人女性は見当たらない。
 巡回に使用していたパトカーに乗り込み、アバッキオは手当たり次第に写真と一致する女性を捜した。
 ネアポリス駅前まで車を走らせた頃。駅前で地面に向かって声をかけている日本人女性の姿が見えた。周りからすれば頭のおかしい行動に見えるが、その行動こそアバッキオが捜していたものだった。
 どうやら彼女がパスポートの持ち主のようだ。パスポートの写真とも一致している。
 車から降り、今も尚地面と睨めっこをしている彼女の肩を後ろから、ぽん、と叩いた。相手は目に涙を浮かべており、こちらの姿を見ると瞬きを繰り返した。
「失礼。あなたはさんですか?」
「は、はい?」
 突然警官に声をかけられたからなのか。は身構えるようにハンドバッグで自らの顔を隠す。その様子にアバッキオは思わず微苦笑を浮かべた。
「大丈夫。わたしはこれを届けに来ただけですよ」に向かってパスポートを差し出した。
「えッ。ど、どう。え? ……どうしてッ?」
「映画館の通りに落ちていました。こちらはあなたのもので間違いありませんね?」
 は何度も頷いてからパスポートを手に取った。「はい。ありがとうございますッ」
 彼女の笑顔を見て、アバッキオは人に感謝されることは、これほどまでに嬉しいものなのか、と感じた。お礼を言いたいのは自分のほうだ。彼女の笑顔にはそう思わせてくれるものがあった。
 喜びに浸っていると、彼女からハンカチを渡された。右下にはブランドロゴが刺繍されている。
「これは?」アバッキオが首を傾げる
「すごい汗ですよ。よかったら使ってください」
 車内は空調が効いているとはいえ、外に出た瞬間に汗が一気にふきだしてしまう。知らぬ間に汗だくになっていた顔回りを見て、気を利かせてくれたのだろう。
「グラッツェ。お借りいたします」
 アバッキオはハンカチを受け取り、額に溜まっている汗を拭った。汗をよく吸い取ってくれる綿生地ハンカチは、アバッキオの汗でべっとりと濡れてしまう。返そうにも返せないアバッキオには一笑し、ハンカチをアバッキオの胸に返した。
「構いません。あなたに差し上げます」
「いえ、しかし……」
「親切にパスポートを拾ってくれた上に、こんな暑い空の下でわたしを探してくれたお礼です。もう使わないのであれば、そのまま捨ててくれて構いませんから」
 そうは言われても、とても質も良いハンカチだ。易々と捨てられるものではない。アバッキオはそのままの意味の通り厚意を受け取り、額の前で敬礼をする。
 も満足げに頷き、見つかったパスポートをハンドバッグへしまった。改めて深々と頭を下げた彼女は、頭を上げたあとに訊いてきた。
「そうだ。おまわりさんのお名前は?」
「自分ですか?」
「わたしの名前は、といいます」
 は自分で名乗ったあと、あっ、もうわたしの名前はご存知なんですよね、と笑った。
「わたしの名前は――」
 アバッキオの記憶はここで停止した。まるで自身のスタンド攻撃を受けている感覚だった。
 目の前には懐かしいものを見るような目でこちらを見つめている
 ああ、そうか。本屋の前で彼女のパスポートを拾ったとき、アバッキオは確かにこう思った。
 ――どこかで聞いたことのある名前だ。
 それはブチャラティの話を聞いてからではない。ネアポリス駅で出会うまでに、の顔を実際に見たことがないわけではなかったのだ。
「レオーネ・アバッキオ」
 が呟いた。
「やっぱり、あなただったんですね。わたしのパスポートを拾ってくれたのは」
 アバッキオのロングジャケットのポケットから、綺麗に折りたたまれたハンカチがベッドの上に落ちた。そのハンカチは、ネアポリス駅での涙を拭うために彼女へ手渡したあのハンカチだった。

戻る