ドリーム小説 56

 ホテル・ラ・ヴィータでは、宿泊者はもちろん、それ以外の者でも自由に食事をすることができる。
 はリストランテで遅めの昼食をとっていた。食後のジェラートを食べ終わり、胸の前で手を合わせたときだ。自分の座っているテーブル席から離れた場所で、何やら楽しそうな声が聞こえてきた。声のしたほうを向けば、そこには自分と同じように昼食をとっている家族の姿があった。生まれてまだ半年ほどだろうか。小さな赤子を抱きながら料理を食べている母親と、その様子を緩んだ表情で眺めている父親。向かいの席には少年がドルチェを頬張っている。見ていてとても微笑ましい光景だった。
「ごちそうさまでした」
 は会計を済ませ、店を出た。フロントの前を通り過ぎたとき、仕事をしているフロントクラークの姿が見えた。彼女はがこのホテルに宿泊したときから丁寧に対応をしてくれている者だ。
 週末にはこのホテルを去ることになる。
 宿泊客の対応をしていない今のうちに、何か一言伝えておこう。が近づくと、向こうは顔を上げていつもの笑みを浮かべた。
様、おはようございます」
「おはようございます。あの、もうご存知かもしれませんが、今週末に日本へ向かうんです」
「はい、存じております。この度は当ホテルをご利用いただきましてありがとうございます。差し支えがなければ、ご感想やご意見をお伺いしてもよろしいでしょうか」
 は、このホテルでスタッフたちから受けたすべてのサービスや迅速な対応の感想を伝えた。
 不快な点を見つけることのほうが難しいほどに素晴らしい対応だった。日頃の気遣いやルームサービス等はもちろんのこと、自分のためにパーティ会場の準備まで、ここのホテルの従業員が動いてくれていたということには感謝しても仕切れない――と。
 話を聞いたフロントクラークは満足げに頷き、礼の言葉を述べてから頭を下げた。次回もぜひ、当ホテルをご利用くださいませ、という言葉を付け加えて。
「それでは、出発の準備がありますので」
 失礼させていただきます、と言いかけたときだった。
「あの、様ッ」
 フロントクラークが控えめにを呼び止めた。は彼女のほうへ振り返る。相手は周囲を、きょろきょろと見回してからに小さく耳打ちを立てた。
様に、ひとつお伺いしたいことが……」
「なんでしょうか?」
「深い意味はないのですが、様はブチャラティ様とはどういったご関係なのでしょうか?」
「え?」質問の意味が掴めず、は首を傾げる。
「ブチャラティ様は様とお会いになる際、とても優しい表情をしておりました。わたくしはここに勤めて今年で七年目となりますが、あの方が一人の女性のために、あそこまで心を動かしている姿は見たことがなかったものですから、少し気になりまして……」
 話を聞きながらはこう思った。彼女はブローノ・ブチャラティという人間を、ただの客人としてではなく、かといってギャングスターとしてでもなく。ただ一人の男性として見つめていたのだろうな、と。
 はフロントクラークと向き合った。「わたしも彼とは長い付き合いなんです。長い付き合いと言っても、あなたがここに勤めた年月とさほど変わりませんが」
 ただ、とは言葉を続ける。
「彼は友人です。それ以上でもそれ以下でもありません」
「そう、なのですか?」の言葉を聞いて、フロントクラークは腑に落ちない顔を浮かべる。
「はい。大切な友人であることは事実ですけど……」
「分かりました。様の気持ちをお伺いすることができて、わたくしも満足いたしました。どうか突然のご無礼をお許しください」彼女は頭を下げた。
 はかぶりを振った。「謝らないでください。彼、ブチャラティは昔からこの辺りの女性からとても人気なんです。あなたが心を寄せてしまう理由も――」
 分かる、と言いかけたところで、フロントクラークの左手の薬指に指輪が嵌められていることに気がついた。が考えるよりも先に、フロントクラークが釈明する。
「誤解を招いてしまいまして申し訳ありません。確かにブチャラティ様は素敵なお方ですが、街の治安を守っていただいている方として敬愛しているだけなのです」
「そう、だったんですか」
様、少しご安心なされております?」
 普段の人柄にそぐわず、意地悪なことをするな、とは思わず微苦笑をしてしまった。
「そういえば、お名前は?」
「はい。わたくし『光田はな』と申します」
「えッ、コウダハナ?」
「日本とヨーロッパのハーフです」
 光田はな、と名乗ったフロントクラークはイタリア語ではなく、日本語で言った。
 まさか彼女に日本人の血が混ざっていたとは。どこからどう見てもヨーロッパ系の容姿をしているため、は言葉を失ったまま驚愕する。ホテルのフロントクラークを勤めている上では、イタリア語以外の言葉にも多少は対応しなければならない。しかし彼女の日本語に違和感はまったくなかった。違和感が残るのは、告げられた真実と外見だけだ。
「国籍はフランスなのですが、本名は光田はななんです。こちらではフィオと名乗らせていただいておりますが」
「それじゃあ日本語と英語、フランス語とイタリア語を話せるってことですか?」
「そういうことに、なりますね」
「すごい……。それだけ他国語を話せるのであれば、ホテルのフロントクラークは天職ですね」
「ありがとうございます。わたくしも様のお名前は、とても素敵だと思います」
 互いに互いの褒め合いをするところは、やはり日本人だな、と二人は顔を合わせて笑った。
「またこちらへお戻りの際には、ぜひ当ホテルをご利用ください。お待ちしております」
「はい。そのときはご一緒にお食事でも」
「大賛成です」
 が手を振れば、光田はなは頭を下げたあと、まるで友人同士のように手を振り返した。

56-2

 フロントを離れ、は部屋へ戻ってきた。リビングルームの片付けは既に済ませ、残りはベッドルームに置かれている洋服や化粧用品のみとなっている。日本へ持っていくものは最低限と決めている。
 ベッドルームには私物以外にも、パーティでもらったプレゼントもある。既に封を開けた中には最新の美容機器や音楽プレイヤー。有名店の菓子の詰め合わせなど、にとって嬉しいものばかりであった。
 そういえば――。
 はまだ開封していなかったプレゼントがあることを思い出す。手に取ったのはブチャラティ・チームの者たちから受け取ったものだ。四つの包みを腕に抱え、はベッドの上に腰を沈める。
 最初に封を開いたのは、アバッキオからのものだ。入っている袋の形と重さで大体の予想はついていたが、やはりワインボトルだった。それもイタリア製のとても有名な銘柄である。アバッキオはワインに詳しいのだろうか。
 今度おすすめのワインを選んでもらおう。そう考えながら、次の包み紙を破いた。中から出てきたのはジェラートのギフト券だった。これはフーゴからもらったものだ。パーティ当日に彼が言っていた言葉を思い出す。ギフト券は何十枚も入っている。束を広げて見てみると、一番後ろのものだけ柄が違うことに気がつく。はその一枚を抜き取った。その券には『ヴェネツィア高級店・二名様ご招待券』と記されていた。裏返せば、有効期限は無期限と判子が押されている。こういった類の招待券は大抵期限が定められているのだが、フーゴはいったいどんなコネクションを使ったのだろう。
 それにこの、二名様、というのも気になる。
 一人笑いをこぼしてから、三つ目の封を開ける。これはナランチャからのものだ。彼はいったいどんなものを選んできてくれたのだろうか。
 姿を見せたのはCDアルバムだった。それも見たことのあるアーティストのものだ。記憶が正しければ、これは確かブチャラティが好んで聴いているジャズミュージックだ。
 CDケースの裏に一枚のメモ書きが書かれている。
『ブチャラティがよく聴いてるヤツなんだ。正直オレの好みじゃないから分からないんだけど、はこーゆーの好きそうだなあって。ベストアルバムだから有名な曲も入ってると思うんだ。暇なときにでも聴いてくれよ』
 お世辞にも綺麗な字とは言えないが、懸命に書いた背景が見える。自分のためになるべく分かりやすいように字を書いている姿を想像すると、自然と笑みがこぼれた。
 このジャズアーティストならよく知っている。昔の話になるが、ブチャラティの車に乗っていたときによく車内で流されていた曲だ。先日のアマルフィ海岸での野外演奏でも、彼の好きな楽曲を調べるためにネアポリスの古い本屋で情報を集めていた。
 いつかは買おう、と思っていたが、いつかは必ずやってこない。という言葉で返された気分だ。あとで音楽プレイヤーに入れて聴いてみよう。
 最後の包み紙はとても薄いものだ。記憶が正しければ最後のプレゼントは、ミスタからのものとなる。彼は誰よりも自信満々に渡してきたが、いったいこの薄さにどんな楽しみが詰まっているのだろうか。
 胸を躍らせながら封を切ろうとしたときだ。リビングルームから携帯電話の鳴る音が聞こえた。は包み紙をサイドテーブルに置き、携帯電話を手に取る。
「ブオンジョールノ、です」
か? わたしだよ、マックスだ。きみが日本へ向かうと聞いて慌てて電話したよ)
 先ほどタクシーの中で、マックス宛てにメールを送ったことを思い出す。メールではなく、こうして電話で言葉を伝えるところから彼の律儀さを感じ取れる。
「それで、わざわざ電話をしてくれたの?」
(もちろんさ。昨夜のパーティも招待してくれて感謝しているよ。とても楽しい時間を過ごせたし、何よりテーブルの料理が美味しかったよ)
「主食もドルチェも、ブチャラティがお気に入りのお店なの。今度偵察に行ってみたらどう?」
 電話の向こうでマックスが一笑する。(そっちに行ったときには、そうさせてもらうよ)
 ああ、そうだ。とマックスは電話から顔を遠ざける。
(実は、腕のいいシェフが厨房にいてな。まだ若いんだが、あと一、二年で一人前になるんだ。なんでもネアポリスに店を構えるのが夢だ、と言っているから、日本から戻ってきたときには、ぜひきみも顔を出してやってくれ)
「分かった。でも日本に滞在するのは数週間だから、すぐに戻ってきちゃうと思うけど」
(それなら、またわたしの店へ来てくれ)
 あのいい男といっしょにな。そう言い残してマックスは通話を切った。は耳を携帯電話から離し、通話終了と表示されている画面に向かって笑みを浮かべる。
 マックスはアマルフィではもちろん、イタリアでも数多くの賞を獲得している腕利きのシェフだ。そんな彼が見込んでいる者とはいったいどんな人物なのだろうか。
 ネアポリスに戻ってきたときの楽しみがまたひとつ増えたところで、は、はっとする。
 曇ってきたネアポリスの空をカーテンで遮断し、窓にも鍵をかける。リビングルームの明かりを全て消し、遮光カーテンが外界からの光を覆い隠す。部屋は自分の手が見えるか見えないかの明るさになった。
 はダイヤルを押し、携帯電話を耳に当てる。「こんにちは。……いいえ、そうではありません。わたしの名前ですか? です。……はい。セキュリティコードは0321。……はい。お願いいたします」
 しばらくして呼び出し音が切れた。
(わたしだ)
「ご無沙汰しております。です」
(ああ、きみか。久しぶりだな)
「ご連絡が遅くなってしまって、申し訳ありませんでした」は通話をしながら頭を下げた。
(いや、気にしなくていい。それで。わたしに電話を寄越してくれたということは、例の件が?)
「はい。いまからパソコンでそちらへ情報を送信させていただきます」
 はローテーブルにノートパソコンを置き、画面を開いた。耳と肩で携帯電話を支える。立ち上がった画面にメールボックスを開き、指定されたアドレスに素早くキーボードで文章を打ち込む。
 打ち込んでいる間、相手から質問を投げられる。
(きみの仕事は順調なのか?)
「わたしの狙いはあなたからの依頼も含めて三人ですが、結果としては曖昧なところです」
(きみがイタリアへ向かうと聞いて、わたしは仕事を依頼したが、きみの目的はいったい?)
 はキーボードを打ち込んでいる動きを止めた。マウスを動かし、送信ボタンをクリックする。変な形で支えていた携帯電話を手に取り、改めて耳に当てる。
「情報を送信しました。確認をお願いします」
 電話の向こうからため息が叩かれる。(わたしの質問には答えてくれないのだろうか)
 はソファーの背もたれに背中を預ける。見上げても何も見えない天井を見たあと、再び体勢を戻す。
「わたしがネアポリスでやることは四つです」
 は片手で四本指を立てる。
「一つ目は実の父親を探し出すこと。二つ目はとある人から頼まれたことを実行すること。そして三つ目はあなたから頼まれた依頼をこなすこと」
(残りもう一つは?)
 はやがてゆっくりと表情を消した。
「この街でギャングスターをしているブローノ・ブチャラティという男です」

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