ドリーム小説 55

「日本までの航空券を一枚、お願いします」
「パスポートとこちらで取得した運転免許証をお持ちであれば、合わせてご提示願います」
 はハンドバッグからパスポートと運転免許証を取り出し、係員に手渡した。搭乗予定の航空会社と時刻を伝えると、座席が空いていることが確認される。手続きを済ませ、パスポートと運転免許証と共に航空券が手渡された。落とさないように航空券をパスポートの間に挟んでから、はその場を離れる。
 市内のネアポリスから車で二十分ほどのところに、カポディキーノ空港はある。週末に日本へ帰国する航空券を購入しに、は単身で空港を訪れていた。宿泊しているホテルにも既にチェックアウトの手続きを済ませ、残りは三週間もの間、世話になった部屋の片付けと出発の身支度をするだけとなる。
 は腕時計を確認した。時刻は間もなく十二時を回ろうとしている。そろそろ空腹の音が鳴る頃だが、空港付近に彼女の好む店はあまり並んでいない。
 大人しくネアポリスまで戻り、ホテルのリストランテで食事でもしよう、と空港を出たときだった。空港のタクシー乗り場の前には長蛇の列ができており、思わず後ずさりをしてしまう。ホテルから空港まではホテルの送迎車でやって来たのだが、帰りの車までわざわざ手配するわけにもいかない。
 かといって――この長い列を律儀に並ぶのも癪だ。
 どうしようか、とあぐねていると、タクシー乗り場から少し離れた場所で佇んでいる一人の少年と目が合う。少年はこちらを見ると、ぱっと顔を明るくさせ、寄りかかっていたタクシーから背を離して歩み寄ってくる。
「もしかして、タクシーで困ってますか」
 目の前にやって来た少年の髪は金色に輝いており、瞳の色はネアポリスの海のように青く澄んだ色をしている。誰もが認める美形だ。
 問われた質問に対しては素直に頷く。少年はまるでその返事を待っていたかのように口角を上げた。
「それなら僕のタクシーに乗っていきませんか。いまならすぐに乗せてあげられますよ」
 虫のいい話には疑念を抱く。「これだけ並んでいる人の前で、そんなことはできないな」
「それなら、あちらの列に並びますか。今日はこれから人が増えていきますよ。乗れるのはもしかしたら一時間後。いや、もしかしたらもっとかかるかも」
 不安を煽るような言い草には問うた。「どうしてわたしに声をかけてくれたの?」
 甘い誘いになかなか上手いように乗ってこないことに苛立ちはじめたのか、少年は一瞬だけ顔をしかめた。しかしすぐに大きな目は細く、優しい笑みを浮かべる。
「あなたはイタリアへ来たばかりですか? 女性を親切に扱うのは男として当然のことです」
「なるほどね」は頷いた。
「いや、でも初めて訪れるにしては随分と軽装ですね。それにイタリア語もお上手だ」
「ディ・モールトグラッツェ。確かにわたしは日本から来た外国人だけど、イタリア語もこの通り問題なく喋られるし、イタリアでの生活は今年で二十年目よ」
 そう言うと少年は面を食らったような顔をし、深くため息をついた。
「なーんだ。そうだったんですか。せっかくいい客を捕まえられたと思っていたのに」
 やはりこの少年――自分をお人好しの日本人と捉え、嘘の運賃で金を巻き上げようと企んでいたようだ。計画が打破されてしまい、少年はさきほどまで浮かべていた優しげな表情を崩し、唇を鋭く尖らせている。どうやら完全に拗ねてしまったようだ。
 身格好からしてまだ学生だろうか。イタリアでは車の免許を取得することができるのは満十八歳からとなっているのだが、彼は果たしていくつなのか。そんなことを考えてもまったく得にもならないが、はひとつ提案する。
「ねえ。タクシーには乗せてもらえるの?」
「え?」
「あなたが言ってくれたんじゃあない。いまならすぐに乗せてあげられますよって」
「確かに言いましたけど、正規の料金で乗せたって意味がないんだ。こっちもそれで稼いでますからね」
 そのことについてはも反論できなかった。やり方は少々異なるが、自分もこの少年と同じような商売で金を稼いでいる。例えそれが他人の目から見て汚いやり方だとしても、手段を選んでいては、経済不調のイタリアでは生きていけないのだから。
 それならば、とは財布を取り出す。中から現金を数枚少年の手に握らせ、加えてチップも渡した。少年は驚き顔でこちらを見ている。
「それなら、それでわたしをネアポリスにあるホテルまで乗せていってくれないかな」
 少年は握らされた現金を数えたあと、顔を上げた。「……こんな虫のいい話があります?」
「その言葉、そのままそっくりきみに返すよ」
 少年は、ぷっと吹き出した。「なるほど。あなたみたいな外国人には久しぶりに会いました」
「それじゃあ、乗せてくれるの?」
 が提げているハンドバッグを手に取り、少年はタクシーまでを促した。
「どうぞ、お姉さん。乗ってください」
 後部席の扉が開かれ、はタクシーへ乗り込む。乗り込んだあとにハンドバッグが傍に置かれ、少年は運転席に回った。エンジンがかかり、間もなくタクシーは空港を離れる。羨ましそうにこちらを眺めているタクシー乗り場の列からの視線を浴び、は少しだけ優越感に浸った。
 駅から空港までは約二十分。ホテルまでは三、四十分ほどで到着する距離であるが、いまの時間は渋滞に巻き込まれる可能性が高い。
 バッグミラーには少年の顔が映っている。見た目にそぐわず、丁寧な運転をしてくれている。それはさきほど渡した金額のお陰なのか。定かではないが、運転免許も持たずにネアポリスの町を何度も車で連れまわした彼よりはましだろう、とは思わず笑みをこぼす。
「どうしたんですか。急に笑ったりして」
「いいえ。ちょっと思い出し笑いしちゃって」
「失礼ですけど、お姉さんはおいくつですか」
「実は昨日でちょうど二十歳になった、って言ったら信じてくれる?」
 少年は顔を和ませながらハンドルを切った。「それはおめでとうございます」
「グラッツェ。きみはいくつなの?」
「僕は今年で十六になります」
 無免許か、とは心の中で呟いた。少年も自分で言った意味を理解しているようだが、慌てる様子はない。寧ろ涼しい顔でハンドルを握っている。
 案の定タクシーは渋滞に捕まった。ゆっくりとブレーキを踏み、少年は両腕をハンドルに乗せて気を抜いている。
「きみはまだ学生でしょう。法律を破ってまでお金を稼ぐ特別な理由があるの?」
「ええ。それはもちろん」
 少しずつ前へ進む渋滞に、少年はアクセルを踏みながらハンドルに腕を置いた。
「僕にはこの町でやりたいことがある。それには莫大な金が必要なんですよ」
 そう話す少年の目にはこれまでに見たことのない輝きを放っていた。青色の奥に潜む黄金色というべきか。自分より年下といえども、バックミラー越しに見えた気高い眼差しに、は不覚にも胸を打たれた。
「詮索はしないけど、この町ではあまり目立つ行動をしないほうがいいと思う。きみがまだ学生だとしても、この町の悪い人たちに目をつけられたら大変よ」
「それってつまり、ギャングってことですか」
「そういうことになるのかな」
 ギャングといっても一括りにしてもらっては困る。中には根の良い人間もいれば、職業に似合った面構えで子供に麻薬を売りつけるような人間もいる。それぞれの生き方に対して、自分は文句をつけられるような立場ではない。しかし、未来ある子供たちに麻薬を売るような大人だけは決して許してはいけない。
「知り合いにこの町のギャングでもいるんですか?」
「わたしの知り合いにギャングが? そんなまさか」はおかしそうに笑う。
 少年は息をついた。「そうですよね。あなたみたいな人が裏の世界の人と関わっていたら、僕は驚きのあまり、このまま橋の下に突っ込んでしまいそうだ」
 例え話だとしても、このまま橋の下に沈没するのは避けてもらいたい。
 ようやく長い渋滞を抜け、タクシーはネアポリス地区へ入った。しかしホテルまではもうしばらくかかりそうだ。
 少年も運転に集中しているようで、はハンドバッグから携帯電話を取り出す。昨晩の誕生パーティに参加した招待客からの連絡が溜まっていたのだ。仕事で繋がりのある者からはもちろん、パーティを通じて知り合った者からも来ている。受信したメールのなかに車会社に勤めているマリアーノからのものもあった。日本へ帰国する、という話はブチャラティより前に彼には話をしていた。マリアーノはとても残念そうにしていたが、不謹慎にもそれが嬉しかった。イタリアへ戻ってきたときにはまたドライブでもしよう、と約束をし、は返事を打つ。
 送信完了の画面からアドレス帳へ切り替わる。最近連絡先を交換した者の名前が上部に表示されるようになっているのだが、その中でも目につくのはブチャラティの名前だ。指先で彼の名前をなぞり、昨晩のことを思い出す。
 は鍵を取り出した。鍵から顔を上げると、バックミラー越しに運転席の少年と目が合った。
「随分大切なものなんですね。それ」
「そんな風に見えた?」
「まるで宝物のような目で見てましたよ」
 少年に言われると恥ずかしくなり、は携帯電話と共に受け取った鍵をバッグへしまった。
「そういえば、イタリアで暮らし始めてから二十年と言っていましたよね。それじゃあお姉さんは生まれも育ちもイタリアってことですか?」
「まあ、そういうことになるのかな」
 は曖昧な返事をした。自分でも詳しい出世については分からない。父の日記や自分が集めた情報が確かなのであれば、自分はフィレンツェの外れにある小さな町で生まれた。自分を産んでくれた母親の顔を知らなければ、父親の顔も知らない。日本に届けられていた母親の死亡届には写真はなく、唯一知っているのは下の名前だけだった。
 その他に覚えていることといえば、自分を育ててくれた“あの男”のことだけだ。いまはの判断により、ブチャラティに渡してしまい手元にはないが、ハートのブローチを託してくれたあの彼のことは決して忘れないだろう。
「お姉さんは日本人、ですよね」少年が訊いた。
「うん。髪も黒いし、目もこげ茶色よ」
「別に日本人をけなしているわけじゃあないんですが、純日本人にしては顔立ちがはっきりしてるなあ、と思って」少年は頬を掻きながら言った。
「褒めてくれてありがとう。でも詳しいことはわたしでも分からないの」
「分からない?」
「わたしは両親との記憶がまったくないの。だから自分が何者なのかどうかも分からなくて」
 は自分で話をしたあと、見ず知らずの少年にとても恥ずかしいことを口走ってしまったことに気がつく。どうして初対面の少年にこのようなことが話せたのだろうか。それは自身も分からないことだった。
 慌てて謝ったが、少年は首を横へ振った。間もなくタクシーがネアポリス駅前を通り過ぎる。
「実は僕も似たようなものなんです。親の顔を見たことがないわけじゃあないんですが、まともに接した覚えがないというか。父親に関しては写真だけで、母親は蒸発した父親とは別に他のイタリア人の男と結婚したんですが、その義父がまあ……サイアクだったもので」
 少年は笑いながら話をしているが、よほど長い間に痛い目を見てきたのだろう。話を聞いていても想像もつかない内容には思わず沈黙してしまう。
「いまはこうして自分の生き方を見つけて自由に暮らしてます。お姉さんもそうなんでしょう?」
「え?」
「さっきのやり口、おしとやかな女性が咄嗟に出来ることじゃあない。それに鞄のなかには盗聴器やトランシーバーが入ってる。空港に航空券を買いに来ただけの人がそんな物騒なものを持ち歩いているはずがないですからね」
 少年の言葉には思わず動揺する。もしやタクシーに乗り込もうとする際、ハンドバッグを持たせたあの一瞬ですべてを見抜いていたということなのだろうか。
 一目見たときからこの少年には、他の人間にはない特別な何かを感じていた。それは漠然としたものだが、彼はただ者ではない。それだけは分かる。いままで様々な人間と取引を交わしてきたが、最初の段階でここまでしてやられたのはブローノ・ブチャラティ以来だ。
「それならわたしを警察に突き出すつもり?」
「まさか。あなたは僕の大切なお客さんです。目的地までしっかり送り届けますよ」
「そう言ってもらえると助かるな」
「……あ。この辺りでいいですか」
 タクシーは目的地に到着した。はハンドバッグを手に持ち、少年が後部席の扉を開く。
 車を降りる前に、は頭にひとつのことが思い浮かんだ。メーターをゼロに戻している少年の肩に手を置き、顔を近づけさせる。
「ねえ、きみの名前を聞いてもいい?」
 少年は一瞬目を見開いたあと、こう言った。
「初流乃です。汐華初流乃」
「……シオバナ?」
「ああ、ここでは逆ですね。初流乃・汐華です」
 初流乃・汐華――は頭の中で復唱する。
「お姉さんは?」
「わたしは
「……?」初流乃は首を傾げた。
「どうかしたの?」
「い、いえ……」
 明らかに様子の変わった初流乃だったが、は特に詮索を入れなかった。タクシーから降り、自動的に閉まった扉を見届ける。空港に向かって発進したタクシーの運転席側のパワーウインドウが開き、初流乃が片手をこちらに向かって振っているのが見えた。

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