三月二十二日、木曜日。時刻は午前十時。ネアポリスの空は青く、とてもいい天気だ。
昨夜のの誕生パーティを終えてから、アジトでひとしきり酒を浴びた四人。日が高くなった今も尚、ソファーや床の上ではフーゴたちの寝転んでいる姿があった。
その中で既に身を起こしている人物が一人。手洗い場から出てきたのはアバッキオだ。床に散乱した空のワインボトルを拾い上げ、壁のほうへ並べる。テーブルに置かれたままの菓子や酒のつまみも冷蔵庫の中にしまい、ソファーに腰を沈めた。
アジトの扉が開く音がした。アバッキオはそちらに目をやる。入ってきたのはブチャラティだ。
「朝帰りか、ブチャラティ」
「すまん。昨夜は自宅で休ませてもらった」
「あのまま二人で寝たのか」
「いや、なら泊まっていかなかったぞ」
「はあ?」
向かいの椅子に座ったブチャラティを、アバッキオは呆れた様子で見つめる。せっかく自分が気を利かせてやったというのに。この男はどこまで奥手なのだろうか。
いや、それを言うのであれば、も同じだ。あの様子を見れば、彼女がブチャラティに想いを寄せているのは明白だった。想いの男の家に上がり、夜も遅い時間にのうのうと宿泊しているホテルへ帰ろうとする女心はいかがなものだろうか。
しかし、これまでのことを踏まえれば、ブローノ・ブチャラティとはお似合いなのかもしれない。互いに一定の距離を保つのは昔から変わらないのだろう。そんな一存をアバッキオは静かに胸の内から消した。
「それじゃあ、あの後はどうなったんだ?」
「あの後?」
「オレたちが帰った後だよ。アンタ、って女の部屋へ行ったんだろう」
「ああ……」ブチャラティは視線を外した。
そのブチャラティのほんの些細な動作で、アバッキオはほぼ理解することができた。
「次のパーティは決まったな」
「頼む、ミスタたちには伏せておいてくれないか。自分でもまだ整理がついていないんだ」
言いながら片手で顔を覆うブチャラティは、今まで見たことがないほどに緊張していた。それほど彼にとって大きな決断だったのだろう。
アバッキオは席を立ち、ワインセラーから一本のワインボトルを取り出した。静かに音を立てながら深みのある紫色に染まっていくワイングラスを、ブチャラティに向かって滑らせる。ブチャラティは覆われていない片目でそれを見たあと、ステムを摘んだ。
寝ている三人に気付かれないように、二人はワイングラスを鳴らした。先ほどまで腹に溜まっていたアルコールはいつの間にか消えていた。たったいま飲み干した赤ワインは、普段とはまた違う格別の味がした。それはブチャラティも同じだったようだ。ワイングラスを傾けたブチャラティに小さな変化にアバッキオは目を光らせる。
アバッキオはブチャラティの襟元を指差した。「随分綺麗なブローチじゃあねーか」
「ああ。からもらった」
「よく似合ってるぜ」
「お前に褒められると、なんだかむず痒い」
「気をつけな。それを見た瞬間、フーゴたちはきっとアンタに質問攻めをするはずだ」
「それなら、今のうちにコイツらを誤魔化す言い訳を考えておくとしよう」
この三人を相手にどう対策を練るのか見物だな、と考えた直後だった。テーブルに置かれているノートパソコンにメールが受信された。ブチャラティが画面を立ち上げに向かい、操作を進める。しばらく画面と睨み合いをしたあと、ブチャラティが息を呑んだのをアバッキオは見逃さなかった。
立ち上がってノートパソコンの前へ向かい、同じように画面を覗き込む。メールの送信者はポルポからだった。
『相手の身元が確認されていない今、既にこのネアポリスに潜伏しているとの情報有り。新たな情報が入り次第、追って連絡をする。そのまま待機せよ』
本文を読んだあと、アバッキオにも緊張が走った。
既に敵がこの街に潜伏している――そう聞いても、はっきりとした実感は沸いてこない。しかし上からの情報が確かであれば、やはりネアポリスも相手の標的として定めされたのだろう。横目でブチャラティを見れば、彼は静かに『了解』と打ち込み、返信した。
椅子の背もたれに背を預け、ブチャラティは胸に溜めたままの空気を吐き出した。これからどう行動するかはボスや幹部からの指令、そしてこの男の判断にかかっている。
ブチャラティは時計を見た。「一時間後にミスタたちが起きなかったら、手伝ってくれるか」
「今すぐじゃあなくていいのか?」
「ああ。オレも個人的に調べたいことがあるんだ」ブチャラティは早速調べに取り掛かった。
先ほどまで自分で自分に参っている状況だった彼が、一通のメールを受け取った瞬間に人が変わったように手や頭を動かしている。
幸せの余韻に浸っている場合ではない。自分たちが暮らしている世界で、最も大切なことは信頼と忠誠。その鎖に縛られている限り、ブローノ・ブチャラティという男は、どんな状況でも先陣を切って歩くのだろう。
だからこそここにいる誰もが、この男について行きたいと思うようになったのだ。自分たちを谷底から救い上げてくれた男のために、自分たちはここにいる。この男と共にいることがいまある最善の選択なのだと、アバッキオは心の中で呟いた。
そしてアバッキオにも、ひとつの考えがあった。それが既に始まっていると知っているのは、アバッキオの他にもう一人だけいる。パンナコッタ・フーゴだ。