ドリーム小説 53

 ホテル・ラ・ヴィータから車を走らせ、ブチャラティとの二人は、ネアポリスの郊外に位置するブチャラティの家へやって来た。これから自分の帰る場所となる家を目の前にし、は手に持っている鍵を早く使いたくて堪らないようだった。お望みどおり、に鍵を開けるように促す。音を立てて開いた扉に、彼女の肩が小さく跳ねた。
「そんなに驚くことじゃあないだろ」
「本当に開くとは思わなくて……」
「端から見たら怪しい空き巣にも見えるぞ」
「なんだかどきどきする」は呼吸を落ち着かせるように、高鳴る胸に手を添えた。
「外は冷える。早く中へ入ろう」
 ブチャラティはの肩を添え、家の中へ入いった。中は今朝出てきたままになっており、窓から差し込む外からの光だけが空間を照らしている。ブチャラティは部屋の電気をつけようとしたが、がこのままでいい、と言った。
 ネアポリスの郊外に家を持ち始めてから、もうすぐ三年になる。最近はあまり帰ることができていなかったが、この家を買った理由は当初二つあった。
 一つ目はアジト以外にも自分にとって帰るべき場所が欲しかったからだ。仲間たちと共に過ごす時間も大切だが、時には一人で静かに物事を考えたいときもある。そう思ってこの家を買った。
 もう一つの理由は父親にあった。入院生活を送っていた彼が無事に退院できたとき、以前のように海の近くで暮らしてほしい、という願いがあったからだ。父親を守るためとはいえ、自分の息子がギャングになったと知れば、優しい彼は傷つき、きっと涙を流すだろう。それでもブチャラティは、父親が平穏な生活を送れることを願っていた。
 結局――その願いは叶うことなく失ってしまったが、もうひとつだけ理由が生まれた。
 物珍しそうに部屋を見渡しているは、リビングルームから続いている一つの部屋へ入っていった。その先はブチャラティの寝室になっている。
「普段はここで寝てるの?」
「家へ戻れたときにはな。最近はあまり使ってないが、なかなか寝心地がいいんだ」
 教えると、は早速ベッドの上に座った。
「ほんとう。ホテルのベッドと同じくらい柔らかい」
「これからはいつでも使うといい。きみのために部屋の鍵は常に開けておいてやる」
「いいの?」
「勿論だ」
 こっちだ、との手を引く。やって来たのはキッチンスペースだ。普段からあまり料理をしないためか、随分と真新しく見える。いずれは必要になるだろうと購入したフライパンなどの調理器具はほとんど使われていない。
 そんな日頃の偏った食生活を察したから鋭い視線を向けられる。ブチャラティは逃れるように目を逸らした。
は料理が得意だろう。ある程度の道具は揃っているが、必要なものがあれば勝手に揃えてくれて構わない」
「得意ってわけじゃあないけどね」
「だが、きみの作った料理がとても美味しかった」
 はキッチンスペースの中を見渡した。「冷蔵庫や電子レンジも置いてるんだ」
 は続いて引き出しのなかを開けた。
「オーブントースターもあるじゃあない。これならここで焼き菓子も作れそうね」
「情報屋から菓子屋に転職する気か?」
 は小さく笑った。「それもいいけど、ずっと家にいても退屈しちゃうかもね」
 それでも焼き菓子を作り、港で商品として売り出しているも、とても似合うと思った。
 キッチンルームを出て、バスルームや洗面台などの水回りを説明する。シャワールーム関して、は相槌だけを打っていたが、洗面台を見た途端に首を捻った。今後二人で暮らす上で、化粧品や整髪料を並べるにはスペースが少々狭すぎるのだと言う。それは三年間、男一人で暮らしてきたブチャラティには理解するのに難しい悩みだった。
「きみは少し物が多いんじゃあ――」
 ないか、と言おうとしたが、ブチャラティは口を結んだ。
「なにか言おうとした?」
「いや、なんでもない」
 それはいずれ改善するとして、今度は寝室と向かい合った先にある扉の前へ向かう。ブチャラティは奥に向かって扉を開いた。中は完全な空き部屋となっている。
「ここをきみのスペースにするといい。服を収納するクローゼットがあるし、風当たりもいい」
「わたしの部屋にしてくれるの?」
 そうだ、とブチャラティは頷く。
「それはとてもありがたいけど、そしたらあなたの部屋がなくなってしまうんじゃ……」
「オレはリビングだけで十分だ。女性はなにかと物が増えるんだろう? それにオレ自身がに使ってもらいたいと願っているんだ。気にすることはない」
 はしばらく考えた末、こちらの提案を受け入れた。いまはまだなにも置かれていない部屋にこれからなにを飾り、なにを揃えるのだろうか。のことだ。無駄なものは買わず、必要なものだけを買い揃えるのだろう。その時々に、なにをどこへ置いたらいいのかと相談してくるに違いない。これからの生活を考えれば考えるほど、とても幸せな気持ちが募っていく。
 クローゼットを確認し、合点した様子で頷いているを、ブチャラティは後ろから抱き締める。突然抱き締められたは突拍子もない声を上げる。
「すまない。驚かせてしまったか」
「突然こんなことをされたら、誰だって驚くと思うけど……」の手がブチャラティの腕に添えられる。
「きみがオレの家にいるのだと思ったら、なんだか急に堪らない気持ちになってな」
「聞いても無駄でしょうけれど、わたしも家賃や光熱費を出したほうがいいの?」
「そんなものを払った覚えはない」
「やっぱり」はため息をついた。
 ブチャラティはの背中と膝の裏に腕をまわし、身体を持ち上げた。慌てるを静かにさせてからリビングルームへ向かい、ドレスが皺にならないようにソファーに座らせる。ブチャラティはその隣に腰を下ろした。
が普段から宿泊しているホテルと比べれば、やはりこの家では不服だろうか」
 はかぶりを振った。「そんなことない。わたしには勿体ないくらいに素敵な場所よ」
「洗面台のことは頭に入れておこう」
「我が儘言っちゃってごめんなさい。荷造りの前に物は減らしておくから、心配しないで」
「それなら、その鍵を受け取ってくれるな」
 手に握られたままの鍵を見て、は笑顔で頷く。それがまた堪らなく嬉しくなり、ブチャラティはを抱き寄せた。自分の背中にまわしてくれる手があたたかい。ずっと求めていた彼女を確かに手に入れたのだと、身をもって感じることができる。
 くすぐったそうに肩を縮めたが、思い出したように顔を上げた。立ち上がったと思えば、ホテルの部屋から持ってきていたクラッチバッグを手に取った。
「すっかり忘れてた。わたしからもブチャラティへ渡すものがあったんだった」
「そういえば、そう言っていたな」
 拍子抜けの会話にブチャラティは悶々としてしまうが、なるべく顔には出さないように努めた。
「まずはさっきの焼き菓子ね」
 から焼き菓子の入った包み紙を渡される。それはフーゴたちが受け取ったものよりも一回り大きかった。
「最初からあなたには個別で渡そうと思っていたの」
「そうだったのか」
「それともう一つ。わたしからもお願いがあるの」
「お願い?」
「少しの間でいいから、目を閉じてくれる?」
 胸の前で手を合わせるに、ブチャラティは頷いて目を閉じた。先ほど自分が彼女にしたことを、今度は彼女からされるようだ。すぐに感化されるのことを、可愛らしいな、と考えていると、真っ暗になった視界の隅でなにかを開く音が聞こえた。どうやらがクラッチバッグを開いたようだ。
 不意に手を掴まれ、なにか小さくて硬いものを握らされた。さきほど受け取った包み紙よりも若干重く、感触も異なる。自分がに同じようなことをしておいてこんなことを思うのはおかしいが、目に見えないなにかを触れるというのは恐ろしいことだ。
、もういいのか」
「うん。ゆっくり目を開いて」
 明るくなった視界で最初に見えたのは、微笑んでいる。目を落とした先は自分の拳だ。
 に向かって拳も開いてもいいのか、と目配せをする。は、どうぞ、と頷いた。
 ブチャラティは拳を開放させ、手のひらを見た。手のひらに載っていたのは、赤色に輝くハートのブローチだった。ブチャラティは驚き顔でを見る。
、これは……」
「覚えてる? このブローチ」
「覚えてるもなにも……」
「そう。わたしとあなたが出会った頃、あなたに探させてしまったハートのブローチ」
「それだけじゃあないだろう。このブローチをオレが受け取るわけにはいかない」
 返そうとするが、に押し切られてしまう。
「受け取って。あなたが持つことに意味があるの」
「意味?」
 その先を乞うたが、は何も言わずに、ぎゅっとブチャラティのスーツを掴んだ。
「それともこんなブローチ、いらない?」
 とても意地悪な言い方だと思った。そんなことを言われて、素直に頷ける人間はいないだろう。
 このハートのブローチは、ただの装飾品ではない。それはブチャラティも承知のことだ。これはの恩人が彼女へ贈ったものであり、本物の宝石を使用している。手のひらに転がっている小さなブローチを売るだけで、数億という金が返ってくるのだ。そんな大切なものを渡すの心中を、ブチャラティははっきりいって理解できなかった。こちらの気が変われば、組織に納める金に代えることもできると知っている上で渡したというのだろうか。いや、彼女はそんなことをしないはずだ。
「これをオレに持っていてほしいんだな?」
「そう。肌身離さず、ずっと持っていてほしい」
 どうやら一時的な貸し借りではなく、本気で自分に寄越そうとしているようだ。
「本当に、いいんだな」
 は迷うことなく頷いて見せた。
「分かった。それならば受け取ろう」
 ブチャラティはブローチを握りしめた。
「きみの心だと思って、大切にさせてもらう」
 満足げに微笑んだあと、はブローチを指差す。「よかったら付けさせてくれない?」
「それは遠慮しておく。失くしたら大変だ」
「お願い。今だけでいいから」
 にお願いだ、と言われると、ブチャラティはどうも断れない。折れたブチャラティはにハートのブローチを手渡した。クラッチバッグから指先ほどの当て布を取り出したは、ブチャラティのスーツの襟を掴む。ブローチを当て布の上から針を通して金具で留めた。
「はい。どうぞ」
「グラッツェ、
 から渡された手鏡でブローチを確認する。いまのスーツには合うが、果たして普段身に付けているスーツに合うのかどうか、正直不安なところではある。
「やはり、オレには少々可愛すぎやしないだろうか」
「大丈夫。ブチャラティはハートが似合う男だから」
 なんだそれは、と思ったときだった。部屋の中で携帯電話が鳴り響いた。ブチャラティはポケットに触れた。自分のものではないようだ。だとすれば残りは一人しかいない。
 はクラッチバッグの中で震えている携帯電話を取り出した。ブチャラティは電話に出るよう促す。は頷いてプッシュボタンを押し、耳に当てた。内容は聞き取れないが、電話をかけてきた相手は、彼女が宿泊しているホテルのようだ。はソファーから立ち上がり、窓際に向かいながら相槌を打つ。
 しばらくしてから通話が終わり、がブチャラティのほうへ振り返った。電話の用件は『ルームサービスとは関係ないことだが、パーティ会場に置かれたままのプレゼントは全てフロントで預かっている』というものだった。
「わたし、ホテルへ戻るね。プレゼントの中身も確かめたいし、出発の準備もしなくちゃ」
「思い立ったらすぐに行動、か」
「うん。土曜日にはここを発つつもり」
 ブチャラティは立ち上がった。「次に向かう場所はもう決めているのか?」
「もう一度日本へ戻ってみようと思って。情報がまったく見つからないことも気になるし……」
「確かに、の情報網をしても父親の情報だけはまともに手に入らなかったんだったな」
 ブチャラティは自分で言った言葉を、どこかで聞いたことがあるな、と思った。
「日本でも手がかりがなかったら、わたしはこれまでの全てを受け入れて戻ってくる」
 あなたのいる、この家にね。その台詞を聞いて、ブチャラティは小さく頷いた。
「ホテルへ戻るなら、オレも行こう」
「えッ。どうして?」
「オレの着替えが、きみの部屋にあるからさ」
「ああ、そういうことね」
 ブチャラティはと共に家の外へ出た。いつもの癖で鍵を掛けようとしたが、今回はに出番を譲った。家の鍵を閉めたを連れ、車に乗り込む。運転席にはブチャラティ、助手席にはが座る。
、寒くないか?」
「少し寒いけど、平気」
 そう言いながら腕を擦っているを見て、ブチャラティは自分のスーツを羽織らせた。
「ホテルまで数十分かかる。羽織ってろ」
「でも、それじゃああなたが……」
「風邪をひいたらオレが看病してやるが、オレはできる限り元気なきみを見ていたんだ」
 それに、と車のエンジンをかける。
「好きなんだろう? オレの匂い」
 は過去の記憶を思い出したのか。真っ赤に染まった自身の顔を両手で覆い隠した。

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