ドリーム小説 52

 の部屋の前に到着し、ブチャラティが部屋のキーを取り出す。開いた扉の奥へを促し、その後にブチャラティが入った。部屋の扉は閉まれば内側から自動的に鍵がかかるようになっているが、ブチャラティは念のためもうひとつの鍵も施錠した。
 はヒール靴を脱ぎ、スリッパに履き替えた。そのままキッチンスペースへ向かう。
「なにか温かいもので飲む?」
「そうだな。それなら前に飲んだ紅茶をもらおうかな」
「わたしが淹れてくるから、ゆっくりしてて」
 ポットの湯を沸かしながら紅茶の準備をはじめるを背にし、ブチャラティはネアポリスの景色を眺める。この部屋からの景色はいつ観ても綺麗だなと思う。以前訪れたときはどちらも昼間だったが、夜景になると更に美しさが増している。
 景色に夢中になっていると、背後からいい香りが漂ってきた。誘われるように振り返れば、ローテーブルに紅茶の入ったティーカップを並べているの姿があった。
 が椅子に腰を掛けた。上目遣いでブチャラティを見て、向かいの椅子へ座るように目配せする。
「グラッツェ、」ブチャラティは椅子に座り、紅茶の入ったティーカップを持つ。
「熱いから火傷しないようにね」
 からの忠告通り、紅茶はとても熱かった。一口含んだところで、息をつく。
「夜の景色は初めてだったっけ」
「ああ。分かっていたが、夜の景色は格別だな。まるで天国からの景色のようだ」
「随分素敵な例えね」は笑みをこぼす。
「目の前に可愛い天使がいるからだろうな」
 が小さく吹き出す。「そうやって息するように恥ずかしいことが言える精神は、さすがのイタリア魂ね」
「きみは言われ慣れているんじゃあないのか?」
「あなたからの口説き文句は死んでも慣れないでしょうね。唐突すぎて心臓に悪いんだもの」
 そう言ってもらえるのは嬉しいが、喜んでいいものなのか甚だ疑問なところではあった。
「改めて、今日は本当にありがとう。こんな素敵な気分を味わえるなんて思ってなかった」
「素敵な気分?」
「柄じゃあないけど、まるで一日だけお姫様になったような気分だった。このドレスのお陰ね」
「さしずめオレは、きみにとっての魔法使いか」
「実際、あなたは魔法使いでしょう? 高いところから落ちても不死身なんだから」
 そんなこともあったな、とブチャラティはかつての出来事を思い出していた。
「本当に、今日は夢のようだった。あと一時間で終わってしまうのが勿体ないくらいに」
「あと一時間もある。そう思えばいいさ」
 は瞬きをしたあと、笑顔で、そうね、と頷いた。
、話というのは?」
「え?」不意を突かれたようにが首を傾げた。
「階段のところで言っていただろう。オレの話とは別に、きみからも話したいことがあると」
 ああ、とが思い出したように呟く。
「オレの話はあとで構わない。聞かせてくれないか」
 しばらく考える素振りを見せたは、なんと言って伝えようか熟考しているようだった。それほどまでに言いにくいことなのだろうか。それとも、言うべきか迷っているのだろうか。
「わたしが実の父親を捜しにネアポリスに戻ってきたことは、前に話したよね」
 ブチャラティは頷く。「家に残された日記を頼りに、ネアポリスへやって来たんだろう」
「そう。その日記だけが唯一の手がかりだった」
 自分で呟いた日記、という単語に、先日調査したもう一冊の日記のことを思い出す。やはりあの日記はの父親が書き残したものだろうか。筆跡を確かめれば、本人であるかの判断ができるのだろうが、鍵のかかった家から勝手に持ち去ったため、無闇に訊けない。それにアジトにある日記に関わることは、には黙っておくべきだと決めたばかりだ。
 自分でも知らない過去を他人に覗かれれば、誰だって嫌悪感を抱くだろう。相手がならば尚更だ。ここにきて怪訝な念を抱かせることだけは避けたい。
「昨日までずっと捜してたんだけど、やっぱり父の消息を掴むことはできなかった」
「見つからなかったのか」
 うん、とは消沈して頷いた。
「贅沢を言えば、昨日までに見つけたかったの」
「どうしてだ?」
「今日がわたしの誕生日だったからよ。それでもし会えたら、運命みたいで嬉しいじゃあない」
 確かにそうだ、とブチャラティは心の中で頷く。
「日記に残された最後の日付が、いつのものなのかは分からない。けれど、わたしがネアポリスに到着してからそろそろ三週間になる。ネアポリスを含めた周辺を探しても頼りになるような情報はひとつも掴めていないし、目撃証言も見当たらない」
「それで、オレに頼りたいということか?」
 はかぶりを振った。「前にも話したとおり、今回の件に関しては自分の力で見つけたい」
「そうか」
「ブチャラティが頼りないわけじゃあないの」
「分かってるさ。きみの性格は理解しているつもりだ」
「だから、ね。わたし――」
 間をおいてから、は窓辺の景色を眺めた。一度目を閉じてから視線を変え、真っ直ぐとブチャラティの目を見つめて、は言った。
「近いうちにもう一度ネアポリスを離れて、今度は違う場所を捜してみようと思ってるの」
 身体の体温が一気に上昇し、息が止まっていることに気がつくまでに数秒かかった。ブチャラティは口を開きはしたが、そこから言葉が出てくることはなかった。
 どうやらこちらが予想通りの反応をしたようで、はあくまで冷静に両手を胸の前で掲げる。彼女の言葉には、まだ続きがあるようだ。
「でも、今度は以前のように何年も離れて捜すようなことはしないって決めてるから」
「そうなのか?」
「離れるといってもほんの数週間くらい。捜す目処が絶たれたら、ここへ帰ってくるつもり」
「そうか……」
 の話を聞きながら相槌を打つ自分に嫌気が差した。
 また彼女が自分の傍から離れていってしまうのか。そう思うと、最初に心に浮き出てきたのは、自分よがりな都合ばかりだった。今度はどんな方法で繋ぎとめればいい。ようやくネアポリスへ戻ってきた彼女を、再び見失うのは御免だ。まるで母親に甘える子供のような感情が今も尚、自分のなかにあるのだと思うと、頭を抱えたくなった。
 しかし正直なところ、短い期間で戻ってくると聞いて、ブチャラティは胸を撫で下ろした。安堵した瞬間、自分はこんなに一人の人間に執着するような男だったかな、と自分で自分を嘲笑いたくもなった。
 出会った頃から、には彼女なりの使命がある。それはブチャラティも同じことだ。彼女と進むべき道のりは違えども、たどり着く場所は同じだと信じている。
 そんな彼女へ伝えられる言葉はひとつしかない。彼女へ贈るべきものはひとつしかない。
 そう。最初からひとつだけなのだ。
「ごめんなさい。さっきあんな話をしたばかりなのに勝手なことを言ってしまって……」
 ブチャラティはかぶりを振った。「気にするな。が自分で決めたことだろう」
「でも、わたし……」
「同じだな」
「え?」
「二年前、帰りの車でネアポリスを離れて旅をすると言い出したときと同じ顔をしている」
 ブチャラティに指摘され、は窓に映った自分の顔を見ながら、ぺたぺたと触り出した。
「あの時もはオレに言ってくれただろう。必ずネアポリスに戻ってくる、と」
「そう、ね」
「だからまた、ここへ戻ってきてくれるな?」
 は、そのつもり、と頷いた。
「だったら、きみには帰る場所が必要じゃあないか」
 椅子から立ち上がったブチャラティは、の前へ移動する。突然立ち上がったブチャラティにが不思議そうに見つめてくる。ローテーブルの脇でブチャラティはに向かい合い、片膝をつけて跪いた。
「ぶ、ブチャラティ?」
、少しだけいい。目を閉じてくれないか?」
「目を、閉じればいいの?」
 戸惑いながらも、は言われたとおりに目を瞑った。が目を閉じ、視界がなくなったこと確認するため、ブチャラティは彼女の目の前で手を振った。うっすらと目を開けていれば気がつくが、相手は反応を示さない。どうやら視界は完全に遮られているようだ。
 ブチャラティは一息つくと、スーツのポケットに手を忍ばせた。取り出したものをの手へ握らせる。突然目に見えないなにかを握らされたは、うわっ、と気持ち悪いものを触ったような声を上げる。
「な、なにッ?」
「大丈夫だ。なにも変なものではない」
「なんだか冷たくて、ごつごつしてる……」
 は手探りで握っている何かを当てようとする。
「もう、目を開けていいの?」
「いや、だめだ。手も開いちゃあだめだぜ」
 の手を離したあと、ブチャラティは音を立てないように立ち上がった。部屋の明かりを全て消し、窓辺から差し込む月の光と、街の明かりだけがの顔を優しく照らしている。言いつけを守り、無防備に目を閉じてくれているの頬を撫でたい気持ちを、ぐっと堪えながら、再び彼女の前で跪いた。
 頬に流れる髪を耳にかけ、ブチャラティは握らせたままのの手を優しく取った。聞こえないように深呼吸をし、自分の手がの手の下になるように裏返す。
「ブチャラティ。なんだかくすぐったい」
「すまんな。もう少し我慢してくれ」
 なにをされても決して目を開けないに、ブチャラティは心の底から感謝した。
、あの時の約束を覚えているか?」
「約束?」
「きみがネアポリスへ帰ってきたとき、オレにある言葉を言って欲しいと言ったことだ」
 はややあってから、もちろん、と言った。
「それじゃあ、ゆっくり目を開けてくれ」
 ブチャラティの合図で、の目がゆっくりと開かれていく。こちらと目が合うと、は目を丸くさせながら戸惑いの色を見せた。の視点から見れば、自分の手を握りながら跪いているブチャラティの姿が見えているのだろう。
 ブチャラティはへ握ったままの手を開くように促した。はブチャラティを一見したあと、まるで蕾が花びらを咲かせるように手のひらを開いていった。手のひらに載っているものと目が合った瞬間、は空いている手で口元を覆った。
 ――ああ。オレは二年間、その反応が見たかった。
「ブチャラティ、これはいったい……」
「オレからのプレゼントだ」
「プレゼントって……。ブチャラティからはこんなに素敵なドレスをもらったじゃないッ」は身に付けているスレンダードレスを掴んで言った。
「誰が誕生日のプレゼントだと言った? オレは単にドレスに迷っていたにぴったりなものがあると言って渡しただけじゃあないか」
 宥めるように言えば、の顔がくしゃりと崩れる。
 ブチャラティはの手と自分のものを重ね合わせた。「これはオレの家の鍵だ。ここから少し離れた郊外にあるんだが、とてもいい場所だ。周りにはきみの好きそうな店があるし、小さいが美味い飯屋もある。歩いてすぐのところに海辺もあるんだ。休みが重なったときには、オレと二人でそこへ行こう」
 重なっている手に、ぽたりとあたたかいものが落ち、ブチャラティはを見つめた。
「これがオレの答えだ、
「ブチャラティ……」
「オレをきみの帰るべき場所にさせてほしい。きみをオレの帰るべき場所にさせてほしい。だからどうか、この鍵を受け取ってくれないだろうか」
 想いを伝えるために、重ねた手に力を込めた。
 は俯いたあと、手の甲で目を擦った。指の隙間からこぼれ落ちる涙が、のドレスを濡らす。
 とめどなく溢れてくる彼女に涙には、一体どんな意味が込められているのか。ブチャラティには半分は分かっていて、もう半分は分からなかった。嬉しいのか。それとも悲しいのか。初めて涙を見せたに、ブチャラティは胸を痛めた。
 泣かないでくれ――目を擦るの手を退け、ブチャラティは指先で涙を拭った。目が合えばは目の奥を熱くさせてしまったのか、再び目尻に涙を溜めてしまう。

「ブチャラティ」
 ほぼ同時に互いの名を呼び合った。生まれてから何度も耳にした自分の名に胸を熱くさせたのは、これが初めてのことだった。
 頬に流れた涙を拭い、ブチャラティの手をの両手が包み込んだ。彼女の手は柔らかく、そしてどこか懐かしさを覚えた。それはまるで生まれる前から、この手に何度も触れてきたかのように。涙が溢れ出しそうなほど懐かしかった。
「ありがとう、ブチャラティ」
 は、ぎゅっと鍵を握りしめた。
「ごめんなさい。まさか、こんなことをされるなんて思わなかったから。びっくりして」
の涙を見たのは初めてだな」
「あ、あんまり見ないで」泣き顔を見られてしまったは、恥ずかしそうに顔を俯かせる。
「これからは帰る場所が同じなんだ。泣き顔くらい、見せてくれてもいいじゃあないか」
「そういう問題じゃなくて……」
「そう不安がるな。どんなきみを見たとしても、今以上にきみに夢中になる自信しかない」
「あなたのそういう言葉に毎日付き合っていけるほどの自信が、わたしにはないのッ」
 はああ、とは長いため息をついた。
「……やっぱり、あなたはずるい」
「ずるい?」
「前もわたしがこう言ったら、あなたがまったく同じ反応をしたってことは覚えてない?」
 ブチャラティは二年前の記憶を巡らせたが、特に思い当たるものはなかった。
「そういうところは変わらないのにね」
 は肩をすくめ、目尻に浮かんだ涙を拭った。
「ねえ、いまからそのお家に行ってみてもいい?」
「ああ。それはもちろんだ。だが、その前にいまここでやりたいことが一つだけある」
「え?」
 抱き締めさせてくれ――その言葉の前に、ブチャラティの腕には既にの体がおさまっていた。

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