誕生ケーキはとても豪華なものだった。大きな四角形のスポンジの上に生クリームが丁寧に重ねられ、上部に季節の果物が微塵の崩れもなく並べられている。チョコレートプレートには誕生日に相応しい文字が描かれていた。
ケーキに刺さっている年齢と同じ数の蝋燭にシェフが火を灯す。ケーキの前までやって来たは、とても歓心を得ている様子だった。彼女の傍に立っているアバッキオとナランチャが火を吹き消すように促し、は、ふっと息を吹きかける。蝋燭に灯った火は一度だけで消えた。
会場内に拍手が起こり、ブチャラティも四方へ頭を下げているに向かって手を叩いた。
会場の明かりが点灯し、ケーキの切り分けが始まる。招待客のなかには子供も参加しており、子供たちの皿へ優先的に渡すようにシェフが呼びかけている
皿を持ってケーキの元へ走っていく子供たちの姿を見たあと、ブチャラティは一度パーティ会場を出た。祝い事ということもあり、少しばかり酒と人混みに酔ってしまった。会場を抜けて向かった先は、外へ通じる階段だ。柵で覆われた階段には、休憩用の小さな椅子が二つ置かれている。ブチャラティはそこへ座り、外の景色を眺めた。
ふう、とアルコールを含んだ息をついたときだ。
「ブチャラティ様?」
かつんとヒールの底が鳴る音が聞こえた。声のしたほうを向くと、フロントクラークの彼女と目が合った。彼女は途中の階段を上がり、立ち止まった。こちらに向かって頭を下げたあと、仕事では見えなかった年相応の笑みを浮かべる。
「こんばんは。もしかして、パーティはもう終わってしまいましたか?」
「いや、これからケーキを切り分けるところだ」
「そうなんですね」
よかった、と彼女は胸を撫で下ろした。
「その様子だと、上手く話が進んだようだな」
「今回はどうもありがとうございます。同僚も喜んで引き受けてくださいました。ブチャラティ様から言われたとおり、もう少し周りを頼るようにも言われてしまいました」
「そうか」
「今後は気をつけたいと思います」
彼女は廊下へ通じる扉に手をかける。
「ブチャラティ様は、ご参加されないのですか?」
「いや、オレは酒に酔っちまってね。ここでしばらく頭を冷やそうと思ってるんだ」
「左様でございますか。わたくしは会場へ向かわせていただきます。これから美味しいケーキが食べられるとのことですので」彼女はこぼれそうな頬をおさえた。
それでは、失礼いたします。フロントクラークは会釈をしたあと、扉の向こうへ去っていった。それから間もなくして再び階段の扉が大きく開かれた。現れたのはだった。ブチャラティは思わず椅子から立ち上がる。
「いいの。座っていて」
に制され、ブチャラティは椅子へ座りなおした。
隣の椅子にが腰を下ろす。「さっきフロントクラークの方とすれ違って、あなたがここにいるって聞いたの」
「いいのか? 主役のきみが抜け出したりして」
「いまはアバッキオさんたちがケーキの取り分けをしてくれているから大丈夫。それにさっきミスタくんが急に暴れ出しちゃって。四がどうとか言って……」
どうやらケーキの切り分け方に問題があったようだ。落ち着くまではパーティ会場に向かわないほうがいいな、とブチャラティはのほうを見る。彼女の手元にはケーキがのって皿があった。は皿の裏側で支えていたフォークを取り出し、ナイフのように一口大に切り分けた。太ももの上に皿を置き、ケーキを口へ運ぶ。
「わあ、美味しい。これって前に男の子といっしょに夕食を食べたお店のケーキ?」
「ああ。アバッキオとナランチャが手配してくれた」
は一口大に切り分け、ケーキの刺さったフォークをブチャラティへ差し出した。
「な、なんだ」
「ブチャラティも食べてみて」
「おいおい、これくらい自分で食べられるぜ」
「今日はわたしの誕生日なのに?」
言い返す言葉を失くしたブチャラティは、黙って口を開けた。フォークの先がそろそろ口へ到達するというとき、はフォークを引き返して自分でケーキを頬張った。あまりの所業に口を開けたままブチャラティは呆気にとられた。は笑いながらケーキを食べている。
やられてばかりでは腑に落ちず、ブチャラティは一考してからの口の端に指を当てる。
「、生クリームがついてるぞ」
は、はっとして口の端に指を当てた。
「というのは嘘だ」
「あ……もう。ブチャラティったら」
「先に仕掛けたのはじゃあないか。それにいまのは半分嘘であって、半分本当だ」
自分が指差した位置とは逆の場所に指の腹を滑らせる。指についた生クリームをに見せたあと、ブチャラティはそれを舐めとった。目の前のは、明かりの少ないこの場でも分かるほどに顔を真っ赤に染めた。それは以前、パスタのトマトソースを指摘したときと同じように。
ブチャラティは満足して笑いをこぼした。どうやら仕返しはできたようだ。は持っていたハンカチで口元を拭ったあと、自分でおかしくなったのか、小さく笑った。
「今日はありがとう。ブチャラティ」
「礼を言うならオレだけじゃあなく、準備を進めてくれた彼らにも伝えてやってくれ」
そうね、とは頷く。
「他のみんなも、きみのことを褒めていたよ。とても綺麗な友人だな、と」
「このドレスのお陰ね。パーティに来ていたマックスやマリアーノにも褒められちゃった」
の様子を見るだけで、彼らがどのような表情や口調で彼女を綺麗だ、と崇めたのかが目に浮かぶ。
「ブチャラティは、やっぱりすごいな」
「突然だな」
「突然なんかじゃない。これだけの大人数を動かすには単なる力だけでは無理よ。周りからの厚い信頼があって、みんながブチャラティを慕っているからできたことなんでしょう? 会場にはあなたの話をしている人たちもたくさんいたもの」
はフォークを皿の上に置いた。
「二年前までは、ブチャラティはわたしと同じ位置にいると思っていたけど、この二年でブチャラティはいつの間にかわたしよりも、うんと前へ進んでいるんだって、今日のパーティで改めて思った。自分で決めたことに後悔があるわけじゃあないの。でも、あのまま二人でいっしょにいたらどうなっていたのかなって、今でも時々考えちゃうの」
「……」
嘲笑気味に笑ったは、ブチャラティを見る。「ブチャラティはこの二年間、どうだった?」
の問いにブチャラティは考えた。がネアポリスを離れてからの二年間の出来事を。
この二年間は、とても濃いものだった。
まずはパンナコッタ・フーゴを初めての部下として勧誘し、自分だけのチームを結成した。それからナランチャ・ギルガが加入し、フーゴから勉強を教わるようになってからのアジトは、賑やかを通り越してとても騒がしくなった。次に警官として前科を背負うことになったレオーネ・アバッキオを迎え入れた。彼の素性を知る者はフーゴとブチャラティだけだったが、アバッキオは誰よりも組織に深い忠誠を捧げるような男であった。チームのなかで最後に入団試験に合格したグイード・ミスタは、新聞に掲載されていた小さな事件を見通し、組織の力を使って入団させた男だ。フーゴとミスタが入団した陰には、直接的ではないがの影響も含まれている。情報屋として力を貸してくれた彼女の情報と、些細なことにも一切の逃しを許さない偵察力で、彼ら二人を見つけ出すことができたのだから。
彼らと出会ってから、ブチャラティは道を見失わずに前へ進むことができた。前を向けば様々な光と闇が自分の視界を惑わせてきたが、振り返った先にフーゴたちがいてくれることが、これほどまでに頼もしく、そして心強いと思ったことは今までにはなかった。
父親を亡くし、母親と疎遠になり、信じていた組織が麻薬に手を染めていることに気付かされ、自分以外に信じられる者がこの世にあるとすれば、やはり彼らだけだった。
しかし、もう一人だけいた。ブチャラティにとって信じるべき存在がもう一人だけ。
だ。彼女だけが、二年間という時間のなかで綺麗に抜け落ちていた。フーゴたちと過ごしていく毎日で忘れかけていた彼女も存在も一人になれば、ふと頭に浮かんでいた。胸の中にある真っ白なパズルは、常にひとつだけが欠けていた。
「充実していた、と言っていいのか分からないが、頼りになる仲間も増えたんだ。良いことばかりではなかったが、あいつらのお陰で毎日飽きないよ」
「そう。それはよかった」
「しかし、きみだけがいなかった。この二年間、だけがオレの傍にはいなかった」
ブチャラティはの視線をとらえた。
「いまきみの目に映っているブローノ・ブチャラティは、周りから慕われている良い男でもなければ、聞き分けのいい真面目な男でもない。ただのつまらない男さ。そんな男の我が儘を、きみの優しさでひとつだけ叶えてはくれないだろうか」
「あなたの我が儘?」
ブチャラティは、そっとの手を取った。
「。もうオレの傍から離れないでくれ」
の目が丸くなり、握っている手に力がこもった。
「オレはもう、きみを見失いたくない」
「ブチャラティ……」
「パーティが終わったら話したいことがある。あとできみの部屋へ行っても構わないだろうか」
その場に沈黙が流れ、は何も言わずに手のひらを返し、ブチャラティの指と自分の指を絡め合わせた。その指先は微かに震えているが、俯いたままのの表情を見ることはできない。
階段の分厚い扉の向こうからパーティ会場の演奏が微かに聞こえるなか、がゆっくりと顔を上げた。その顔には朗らかな笑みが浮かばれていた。
「わたしも」
「え?」
「わたしもあなたに話したいことがあるの。部屋のキーはあなたに預けたままだっけ?」
ブチャラティはスーツのポケットを叩いた。
「それなら、パーティが終わったらわたしといっしょに部屋へ行きましょう。今回も二人きりで話したいから、ルームサービスも断っておくように伝えておく」
「そうしてもらえると助かる」
「それじゃあ、そろそろ戻ろうか」
先にが椅子から立ち上がった。持っているケーキの皿を受け取り、ブチャラティも腰を上げる。階段の重たい扉を開き、を連れてパーティ会場へ戻った。