ドリーム小説 47

 三月二十一日、水曜日。午後二時半。快晴に恵まれた本日のネアポリスは、感じる者によっては普段より少々賑やかな雰囲気に包まれている。あるピッツァリアでは、何枚ものピッツァの生地が練られ、またあるトラットリアでは大量の生クリームと季節を彩る果物たちが、かごに詰められている。
 その人混みにブローノ・ブチャラティはいた。携帯電話を片手にあちらこちらで荷物を持って歩き回っている人間に指示を出している。荷物が運び込まれる先は、ホテル・ラ・ヴィータ。ネアポリ中で評判の良い四つ星ホテルであり、本日の主役であるの宿泊先でもある。既にホテルのパーティ会場では準備が始められており、現場ではフーゴをはじめとした他のメンバーが動いている――はずだ。
「ブチャラティ、ブオンジョールノ」
 後ろから肩を叩かれた。振り返った先にいたのは、花屋の看板娘であるエマだった。
「ブオンジョールノ、エマ。今日も朝から配達へ出ていたんだろう。あまり無理しすぎるなよ」
「いいのよ、気にしないで。こちらこそ素敵なパーティに招待してくれてありがとう」
「今日は最後までよろしく頼む」
 エマは耳打ちをたてている者が周囲にいないことを確認すると、顔を近づけてきた。「ミスタさんたちから聞いたわ。この間の女性と正式にお付き合いを始めたんだって」
「なんだって?」思わずブチャラティは聞き返した。
「そんなあなたにお花を用意したの。会場にこっそり飾っておくから持っていってちょうだいね」
「いや、エマ。そのことなんだが――」
「あッ、いけない。お客さんを待たせてるんだった。じゃあブチャラティ、またあとでね」
 釈明する前にエマは花を載せたワゴン車に乗り込み、配達先へ向かってしまった。その場に車の煙だけが残り、ブチャラティは思わず頭を掻きむしった。
 エマの言ったことが本当であれば彼女のことだ。パーティ会場には一際目立つ花が飾られているに違いない。今日は誰よりもが祝われる日だと言うのに、一日の始まりから自分が偽りを祝われてどうする。
 ため息をもらすと、手に持っていた携帯電話が震えた。着信の相手はアバッキオだ。
「アバッキオか? どうした」
(ピッツェリアの親父が、ホテルの厨房が借りられるのかどうか確かめたいそうだ)
「それならホテルの支配人に話をつけてみてくれ。オレの名前を通せば許可が下りるはずだ。他にも必要なことがあれば、その都度連絡してくれたらいい」
(了解。いまのところ問題なく進行中だ。話をつけていた演奏者も直に到着する)
「ミスタとナランチャはどうしている?」
 訊ねると、電話の向こうから二人のはしゃいでいる声が聞こえてきた。そのあとに耳が痛くなるほどのフーゴの怒号が聞こえ、状況を理解する。
「……頼んだぞ」
(了解)
 アバッキオの応答を最後に通話は切られた。一通りの指示を終えたブチャラティは、一度自宅へ戻ることにした。数日ぶりに戻ってきた家は、すこしだけ潮の香りがした。誰もいない部屋には、一人で座るには余りある皮のソファーがひとつ。テーブルの上には、二月のまま変えていない卓上カレンダーがあり、ブチャラティは指先で三月へ捲った。カレンダーの傍には、両手でようやく持てるほどの大きな箱が置かれている。それもただの箱ではない。丁寧に包装され、リボンが巻かれた箱だ。
 ふと、部屋の壁に設置している時計と目が合った。時刻は午後の三時を既に過ぎていた。パーティが始まるまでにはまだ時間があるが、三時といえばとの約束の時間でもある。
 ブチャラティはテーブルに置かれている箱を腕に抱え、自宅を出た。停めている車の後部席に箱を崩れないよう静かに置き、運転席へ乗り込む。
 ブチャラティは携帯電話でを呼び出した。呼び出し音はすぐに彼女の声へ変わる。
(ブオンジョールノ、です)
、オレだ。ブチャラティだ。いまから――」
(ただいま私用で電話に出られません。ご用件のある方はこのままメッセージをどうぞ)
 どうやら録音の声だったようだ。発信音が鳴る前にプッシュボタンを押し、携帯電話をしまう。電話に出られないということは、出られないほど忙しいということだ。最初から自分が主役だと分かっていれば、彼女もより一層めかしこんでいるに違いない。
 少し、遅れていくか――。
 ブチャラティは車のキーを差し込み、シートベルトを締めてエンジンをかけた。サイドミラーで車が走ってきていないことを確認してから、ハンドルを切る。
 渋滞につかまることなく、車はホテル・ラ・ヴィータに到着した。ブチャラティは車を停め、後部席から箱を持ち出してエントランスへ向かう。ロビー内は普段通りの空気を保っており、フロント前には宿泊客が数名並んでいる。ラウンジのソファーでは本や新聞を静かに読んでいる男が二、三名いるだけだった。
 ブチャラティが次に捉えたのは、オブジェの前に設置されている液晶パネルだ。そこにはリストランテの営業時間やメニュー内容、施設の利用時間などが細かく表示されている。最上階のパーティルームは『貸し切り』と記されており、その横にはの名前が並んでいた。
「ブチャラティ様」
 液晶パネルを眺めているブチャラティの元へ、一人の若いホテルマンが駆け寄ってくる。
「いらっしゃいませ。お荷物をお持ちいたします」 
 どうやら彼はベルボーイのようだ。ブチャラティは抱えている箱をベルボーイに預け、宿泊客がいなくなったところを見計らってフロントへ向かった。既に顔馴染みのフロントクラークの彼女は朗らかな笑みを浮かべたあと、礼儀正しく頭を下げた。
「いらっしゃいませ、ブチャラティ様。様のお部屋をお訪ねでしょうか」
「ああ。話が早くて助かる」
「かしこまりました。様から言伝をお預かりしております。こちらをどうぞ」
 フロントクラークの彼女は、両手で白い封筒をブチャラティに差し出した。黄金色のシールで留められた封を剥がすと、中から一枚の便箋が出てきた。二つ折りされた便箋を開いて文面に目を通す。
 『フロントにキーを預けたから、それで入ってきてください。入る前にノックをすること』
 思わず微苦笑してしまった。便箋を裏返し、文面をフロントクラークへ提示する。
 まさか中身を見せられるとは思わなかったのだろう。彼女は文面に目を通す前に、失礼いたします、と断りを入れてからの書いたメモを読んだ。読み終わると、ふふっと上品な笑みを作り、フロントカウンターに並んでいる棚から部屋のキーを取り出した。
「それでは、こちらのキーをどうぞ」
「グラッツェ。キーはに渡せばいいか?」
「はい。当ホテルは全てのお部屋がオートロック式ですので、ご使用後は様へお渡しください」
 分かった、とブチャラティはキーをポケットへしまった。
「本日は当ホテルをご利用いただき、誠にありがとうございます。様のお誕生パーティだそうですね」
「調べてみたら、ここのパーティ会場は最上階にあると知ってね。以前、彼女の部屋から眺めた景色がとても綺麗だったから、選ばせてもらった」
「左様でございましたか。その他にもご要望がありましたら、何なりとお申し付けください」
「それならきみもたまには休暇を入れて、今日くらいはパーティに参加するといい」
 フロントクラークは、えッ……、と目を丸くさせる。
「ただの偶然かもしれないが、オレが訪れるときはいつもきみが応対してくれるな。普段からあまり休みを取っていないんじゃあないか?」
 ブチャラティが顔を覗きこむと、彼女は視線を左右に泳がせた。どうやら図星のようだ。
「仕事のことに首を挟むつもりはないが、自分のために他人を頼ることも大切だ」
「そう、でしょうか」
「少なくとも、オレはそう考えている」
 フロントクラークは胸に手を添えたあと、決意を固めた眼差しで力強く頷いた。
「同僚にお願いしてみようと思います。ほんの少しだけ、持ち場を任せられるかどうか」
「ああ。きっと力を貸してくれるだろう」
「ありがとうございます、ブチャラティ様」
 ブチャラティは首を振った。「ただの独り言だと思ってくれ。では、また会場で会おう」 
「はい。心待ちにしております」彼女は今日一番の笑顔を浮かべたあと、頭を下げた。
 ブチャラティはフロントを離れ、エレベーターホールへ向かった。上の階へ向かうボタンを押したのと同時に「お待ちください。ブチャラティ様ッ」と慌てた声を聞き、ブチャラティは振り返る。振り返った先では、少々慌てた様子のベルボーイが預けていた箱を抱えていた。
 その姿を見て、ブチャラティは頬を掻いた。
「すまない、すっかり忘れていた」
「いいえ。こちらのお荷物はどうなさいますか?」ベルボーイは箱を軽く持ち上げた。
「そうだな。十五分後に最上階へ持ってきてくれないか。そこでオレが直接受け取ろう」
「はい。十五分後でございますね」
 ベルボーイは自身の腕時計を確認し、頷いた。
「かしこまりました。それでは十五分後に最上階のエレベーター前でお待ちしております」
 会釈をしてからベルボーイは去っていった。その背中を見届けたあと、タイミングよくエレベーターが到着し、ブチャラティはパーティ会場のある最上階へ向かった。エレベーターが最上階に到着し、開かれた扉の先にあったのは『パーティ会場はこちらです』と書かれている立て看板だ。看板の案内通り、ブチャラティは矢印と同じ方向へ足を進める。
 最初と二度目に訪れた際には静かな空間だったが、今ではたくさんの音が聞こえてくる。すれ違うのはホテルの従業員と、自分が準備の手配を頼んだ店の者たちだ。
 仲間と挨拶を交わしながら、パーティ会場へ入る。会場内は現在進行形で準備が進められており、招待客の人数に合わせてテーブル回りに椅子が並べられていた。テーブルの上には細工された花瓶が立てられており、美しい花が生けられている。エマが選んだものだろうか。
「ブチャラティ、来てたんですね」
 背後から呼びかけられる。振り返った先にいたのは、正装に着替えたフーゴだった。隣にはナランチャもいた。フーゴに着替えを手伝ってもらったのか、ナランチャも真新しいスーツを身に纏っている。髪型も普段とは雰囲気も変わり、とても紳士的だ。
「似合ってるじゃあないか、ナランチャ」
「ほんとかッ?」
「フーゴが着させてやったのか」
「ナランチャが一人でできると思うんですか?」フーゴは肩をすくめながら言った。
 確かにそうだな、と変に納得してしまった。
「アバッキオとミスタはどうした?」
「二人なら既に着替えて、演奏者のところへ行くと言っていましたよ。楽器を近くで見たいんだそうです」
「そうか。オレはこれからの部屋へ行く。準備ができたら連絡を入れてくれ」
「分かりました。僕たちもパーティの開始時間までは辺りを見て回っていますね」
 フーゴはナランチャを連れてパーティ会場の外へ去っていった。年齢はフーゴのほうが下だが、こうしてスーツに身を包んでいる二人を見ると、まるで兄弟のようだ。
 ブチャラティは腕時計を見た。そろそろベルボーイが荷物を持ってやって来る時間だ。会場を抜け、エレベーター前へ向かうと、既にベルボーイが箱を両手に抱えて待っていた。背筋を真っ直ぐと伸ばして佇んでいる姿は、まるで立派な立ち木のようだ。
 ベルボーイがこちらに気がつき、笑みを浮かべる。
「ブチャラティ様。お持ちいたしました」
「グラッツェ。時間通りだ」ブチャラティは彼から箱を受け取った。
「プレゼントですか?」ベルボーイは小声で訊いてきた。
「大きさのわりには軽いかと? ああ、そうだ」
「わたくしが言うのもなんですが、どのようなプレゼントが入っているのか気になりますね」
「それは、またなぜ?」
「ブチャラティ様は女性に人気ですから」
 それでは失礼致します、とベルボーイは頭を下げてから従業員用の扉を開いて去っていった。
 ブチャラティも箱を抱えなおし、の部屋へ向かう。
 601号室の前で呼吸を整えてから扉を三回叩き、相手の応答を待つ。部屋からの落ち着いた声が聞こえてきた。ブチャラティは片脚を上げて扉の壁で箱を固定させてから、ポケットから部屋のキーを取り出す。体勢を戻し、キーを使って部屋の扉を開いた。
 部屋には化粧台の前で髪型を整えているの姿があった。鏡越しにこちらと目が合い、は立ち上がって振り返った。
「いらっしゃい、ブチャラティ」
「めかし込んでいる途中に悪いな。出直そうか」
「いいの、気にしないで」
 の目がブチャラティの抱えている箱へ向く。
「すごく大きな箱ね。どうしたの?」
 やはり、嫌でもこの箱に目がいくか。
 ブチャラティは大きなテーブルの上に箱を置いた。「中身はあとで見せてやる。それよりまず髪をまとめてくるといい。オレは向こうで待ってる」
 は、あの……、とブチャラティの腕を掴んだ。
「ブチャラティに髪留めを選んでもらいたいの」
「髪留め?」
「今朝からずっと悩んでて……。ローテーブルに並べてあるから、選んでもらえない?」
 ブチャラティはソファーに腰を沈めた。ローテーブルには化粧箱が置いてあり、箱には様々な装飾品が並んでいる。中には本物の宝石を使用していると思われるネックレスもある。手にとって部屋の照明に反射させると、きらりという効果音が鳴りそうだ。
 が髪をまとめている間に、ブチャラティは髪留めとにらみ合いをする。どれも彼女に似合いそうだが、着目点を変えて観察してみるとひとつに絞られた。
 手に取ったのは、真珠とダイヤモンドが散りばめられている草花の形をした髪飾りだ。それを手のひらに載せ、化粧台の前で髪を整えているの元へ持っていく。
「もう決まったの?」
「ああ。選んだ特権として言わせて欲しいだが、オレがつけてもいいだろうか」
「うん。後ろ髪だと見にくいから、お願いしようかな」
 綺麗にまとめられた髪型を崩さないように、髪留めの金具部分を結び目に差し込む。
「これでいいか?」
「ディ・モールトグラッツェ、ブチャラティ」
 化粧台の鏡を動かし、は後ろを確認する。
「あッ。ブチャラティもこれにしたんだ。実はわたしもこれがいいかなあ、って思ってたの」
「なら、最初からそうすればいいじゃあないか」
「ブチャラティが来てから選ぼうと思って。面倒なことお願いしちゃってごめんなさい」
 申し訳なさそうに肩を縮めるに、ブチャラティは、気にするな、と首を横へ振った。
 化粧台から離れ、はクローゼットを開いた。中には彼女の私服が、ずらりと並んでいる。普段使いの服は端へ追いやり、パーティドレスを探している。
「ドレスでお困りのようだな」
「うん。何枚も持っているわけじゃあないから……」
 どうしようかな、とが考え込む。
「それなら、ドレスもオレが選んでいいか?」
 クローゼットの中を物色していたの手の動きが止まった。「どういうこと?」 
 ブチャラティはテーブルの上に置いていた箱を両手に持ち、へ歩み寄る。
「開けてみてくれ」
 箱のリボンを解くように促すと、は戸惑いながらリボンに手をつけた。静かに音を立てて解かれていくリボンが絨毯の上に落ちていき、箱を縛るものがなくなった。
 が箱の蓋を開けた。箱の中身と対面した瞬間、彼女の嬉々とした声が部屋に広がった。

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