ドリーム小説 46

 例によって、アジトにはブチャラティを除いた四人だけが集まっていた。扉の閉まる音が聞こえ、その場にいた全員が視線を向けると、そこにいたのはブチャラティだった。各々自由に行動を取りながらもテーブルを囲んでいる四人を眺め、ブチャラティは椅子に座る。
「ポルポから新しい話を聞いてきた」
 ブチャラティの深い声に四人の動きが止まる。
「ローマのギャングが襲われてから約二週間が経過した。が、相手がネアポリスを攻めてくる気配は一向にない」
「情報収集チームは?」アバッキオが訊いた。
「何事もない。敵の目的がギャングの回収している情報ということは変わらないようだが、はっきりとした目的は未だ分からないままだ。ただ新しい報告としては、今年に入ってからイタリア国内で最初に被害にあったのはミラノだったそうだ」
「ミラノ?」
「ミラノではギャングの襲撃はなく、航空会社の情報が盗み取られていたと話している」
「航空会社の情報だァ?」ミスタは首を傾げた。
「他にも鉄道や宿泊施設、あらゆる場所でハッキングの被害を受けたのがミラノ。その次に銃撃戦の被害を受けたのが、あの田舎町だ。以前、ポルポから受けた指令でオレたちはその場所へ向かい、調査を進めたのは覚えているな?」
 四人は何も言わずに頷いた。
「まずはこれを見てほしい」
 ブチャラティはテーブルに日記を置いた。それは先日、本屋の親父に日本語からイタリア語に翻訳してもらったものだ。それと同時にこの日記は、ブチャラティとフーゴがフィレンツェの田舎町――が生まれた家で発見したものでもある。あくまで彼女の家に置いてあっただけであり、彼女に関わる人物が執筆したものだと決まったわけではないが。
 最初に興味を示したアバッキオが日記を手に取り、ページを開いた。しかし、彼の表情は難しそうに歪んだ。それもそうだ。すべて日本語で記されているのだから。
 ブチャラティはアバッキオから日記を渡してもらい、イタリア語に翻訳されたメモを取り出す。ブチャラティ自身もしっかりと目を通すのは、これが初めてだ。
「改めて説明しておこう。これは銃撃戦が起きた町の空き家に残されていた日記だ。後にそこにはが訪れていたことが分かり、の証言で彼女自身が生まれた家だということも判明した。つまり、彼女の両親が暮らしていた家ということになる。それに加え、事件の合間に住人だった二名がその空き家に向かったという目撃証言をアバッキオとフーゴが聞いている」
 ブチャラティは日記を手の甲で叩いた。
「もしかすると、この日記にはあの町だけが襲われた秘密が隠されているかもしれない」
「それはつまり、犯人はさんの家を探していたってことか?」ミスタが訊いた。
「もし仮にそうだとしても、最初に航空会社の情報をハッキングした理由や、ローマのギャングたちを襲撃する動機が分からなくなる」フーゴが答えた。
「確かにそうだな」ミスタは合点する。
「でも、まさかの家がそんな田舎町にあるとは思わなかったよ。偶然ってやつなのかな」
 偶然――ナランチャの言葉は稀に心臓を貫くような鋭い感覚を覚える。
 どこからか視線を感じ、そちらに目を向けると、アバッキオと目が合った。アバッキオは沈黙を貫いている。もしかすると一度は沈殿した黒色が、これまでの会話を聞いて再び浮上し、の潔白を完全に認めるわけにはいかないと感じているのかもしれない。
 アバッキオから視線を逃れ、ブチャラティは翻訳のメモを数枚に分け、テーブルに並べた。
「ここにイタリア語に翻訳されたメモがある。オレが一枚ずつ読み上げていこう。何か気になる点や、言葉のミスに気がついたときには遠慮なく言ってくれて構わない」
 四人が頷いたのを見て、ブチャラティは日記と照らし合わせながらメモに目を落とす。

『日付:××月○○日
 フィレンツェのパスタは美味しい。次はミラノのパスタと食べ比べてみたい。
 今日はとても天気がいい。生まれて初めて白い鳩を見たが、実はわたしは鳩が苦手である。どこかの国では鳩にえさを与えると、罰金が課せられるようだ。とても怖い』

『日付:××月○○日
 ミラノのパスタは少しだけ味が濃かった。ジェノヴァには素敵な店がたくさん並んでいる。
 今日はすこしだけ曇り空だ。けれど、曇り空でもミラノの景色はとても美しい』

『日付:××月○○日
 あり得ないほど不味いイタリア料理に当たった。果たしていけないのは料理なのか。それともわたしの舌がイタリアの料理に麻痺してきているからなのか。
 今日はとてもいい天気だ。所謂快晴だ。空がとても高く見える。宇宙に行ってみたい。宇宙でパスタを食べたら、パスタの麺はどこまで飛んでいくのだろうか。宇宙飛行士の友人がいたら話を聞くことができるのだろうか』

「ちょっと待ってください」
 右手を挙げたのはフーゴだ。
「なんですこれ。二つ目までは我慢していましたけど、ただのグルメ日記じゃあないですかッ」
「まだ二ページだぞ」ブチャラティが言う。
「まあ落ち着けよ、フーゴ。しばらく読み続けて進展がなかったら止めりゃあいい」
 ミスタが宥めるようにフーゴの肩を叩く。
「続きを読むぞ。この先は所々に読みづらい部分がある。その部分は間を開けて読もう」

『日付:××月○○日
 ここで暮らし始めてから半年が経った。はじめは慣れない環境、風習に戸惑いもあったが、いまはここへ来てよかったと心から思っている。なにより彼女の作る料理が好きだ。生まれ育った故郷を思い出させてくれる。
 今日はとてもいい天気だが、午後**は雨が降るのだという。洗濯は午前中に済ませよう。
 もうすぐ**が***る。イタリアで暮らしはじめてから初めての体験になる』

『日付:××月○○日
 彼女の**は山奥に暮らしている。以前**に向かお**したときがあったが、彼女に止められてしまった。詮索はしなかったが、深い事情があるようだ。
 聞いた話によれば、彼女には妹がいるらしい。彼女もまた日本人でとても**なのだという』

『日付:××月○○日
 **から連絡があった。***だそうだ。
 わたしも**になるのだと思うと、これからの毎日が***で仕方がない。
 今のうちに**を考えなくては。確か書斎にそういった本が並んでいたような気がする。彼女が帰ってきたらいっしょに調べてみよう。きっと**に違いない』

『日付:××月○○日
 今日から三日間、わたしは留守番を任された。**はこちらで仲良くなった友人と会うために、ネアポリスへ向かった。なんでも友人の**を見に行くのだという。
 彼女は自分が**とも限らず、自慢のバイクでネアポリスまで向かった。わたしは大丈夫なのか、と必死に引きとめようとしたが、彼女は聞く耳を**なかった。わたしは彼女のことを**してはいるが。ああいう向こう見ずなところは若干**である』

 陽気なグルメ日記から日常を綴る内容へ変わったが、依然として町を襲撃するほどの情報とは思えない。文章を聞いている四人たちも、少々興味を失いはじめている。ナランチャに至っては鼻ちょうちんを膨らましながら、頭をゆらゆらと揺らしている始末だ。
 ブチャラティは次のページを捲った。インクの滲みに加え、まるで雨に打たれたあとのように文字たちが虫食いになっている。これではたとえイタリア語で書かれていたとしても、正確には読み取れないだろう。翻訳された文章が書かれているメモにも、対象のページだけが翻訳されていない。
 読めるのは七割。本屋の親父が翻訳することのできなかった三割は、どうやらこのページのようだ。読めない文章を眺めていても仕方ない。ブチャラティはメモが翻訳されているページまで捲る。中間部分に差し掛かったが、ほとんど飛ばしてしまった。ブチャラティの親指が栞をつけたのは、後半部分だった。
 また穏やかな毎日でも綴られているのだろうか、と思ったが、ブチャラティはメモに書かれている一文を流し読みした瞬間、背筋が瞬時に凍りついた。
「ブチャラティ?」
 一目散に異変に気がついたのはアバッキオだ。
「どうした、ブチャラティ。読まないのか」
「あ、ああ。すまん……」
 ブチャラティは口を結んでから、文章を読み上げた。

『日付:××月○○日
 SS-01、**を基に開発中。
 ヤツらの言いなりなるわけではないが、いまはこうするしかない。愛おしい家族のために。
 このままでは、わたしたちの命が危ない』

 これまでの和やかな日記とは一変し、不穏な空気を醸し出す文面に、その場の空気が変わった。先ほどまで嫌気が差していたフーゴも、目をひん剥いている。ミスタは顔を片方の手のひらで覆いながら頬に汗を流しており、ナランチャはまだ状況がはっきりと理解できていない様子だ。最も冷静なのはアバッキオだった。
 ナランチャが身を乗り出した。「なあ、最初になんて言ったんだい? よく聞き取れなかった」
 ブチャラティはメモへ目を落とす。「SS-01、なにかを基に開発中、と書かれている」
「突然になって内容が一変したな」アバッキオが言う。
「全体の文面はもちろんですが、ヤツらの言いなりという言葉も気になりますね。日記を書いていた人物は誰かに開発を強要されていたんでしょうか」フーゴが言う。
「いまはこうするしかない、ということは開発に対して本人の意志は皆無ということだ。強要されているという線は間違っていないと思うぜ」アバッキオが答えた。
 ミスタは眉間に皺を寄せながら首を捻る。「そもそもその『エスエスゼロワン』ってのは?」
「それが分かれば苦労しないだろ」
 最初はイタリア各地を回り、気ままに料理を食べているだけの文面だったが、ページの後半部分になると、まるで別の物語を読んでいるようだ。
 『SS-01』とは、この日記を書いていた本人が開発している名称のようだ。それがどのようなものなのかは、現段階では不明である。しかし、他者から開発を強要されているということは、あまり好ましくない関係に絡んでしまったと考えていいだろう。
 ブチャラティは次のページを捲った。どうやらこれで最後のページのようだ。メモも残り一枚となっている。

『日付:××月○○日
 今日、妻が娘を連れて家を出て行った』

 初めて出てきた明確な単語にアバッキオが反応する。ブチャラティも同様だった。無理もない。なにせ、この日記の持ち主が不明だとしても、見つけた場所は『彼女』の両親が暮らしていた家なのだから。
 から聞いた話では、母親は失踪宣告を受けた上での死亡扱いとされている。その生死は未だ明らかになっていないが、日記に書かれている妻が仮に彼女の母親であれば、日記の著者は一人しか存在しない。

『日付:××月○○日
 彼の話は本当なのか。疑うことも信じることも、いまの***には許されないことだ。
 だが、もし本当であれば、***は嘘でもすがり付きたいと思う。ヤツらよりはマシだろう。
 ここまで作ってしまったのだ。後戻りはできない。先に進むために、***は選択する』

『検査結果:SS-02には望み有り』

『日付:××月○○日
 この日記も終わりが近い。新しい日記を買いたいところだが、ろくに買い物へは行けない。
 これからは***に残すことになるだろう。
 今日、ヤツらから逃れる方法を彼が考えてくれた。非常にありがたく思っている。
 しかし、なぜ彼は見ず知らずの***に力添えをしてくれるのだろうか。少しだけ疑問に思ったが、疑うことは彼からの信頼を失うことになる。口には出さないが、日記には残しておきたいと思った。彼がこの日記を読むことはないと思うが……』

『日付:××月○○日
 ひとつだけ希望が生まれた』

『わたしは最後まで、彼を信じよう』

 日記に記されている文章はこれで最後だった。ブチャラティはメモから顔を上げ、息をつく。
「以上だ」
「なんだか……この日記は結局なにを意味していたのか分からなくなってしまいました」
 フーゴは、くしゃりと前髪を掴む。
「この日記を見つけたのはあの空き家。途中にあった妻と娘という単語も気になります」
 ブチャラティの手元からメモを手に取り、アバッキオは考え込むように顎を撫でる。「冒頭には残されていた天気のことが、途中からは書かれていない。これは天気が確認できない場所で日記を書いていたことになるな」
「地下室とかか?」ミスタが訊いた
 ブチャラティはかぶりを振る。「いや、あの家に地下室なんてものはなかった。そもそも、日記を書き残していた場所が日記を見つけた場所と同じだったとは限らない」
 日記から読み取れる情報といえば、日記の著者は開発者であり、妻子持ちということだけだ。途中には愛おしい家族のため、と書かれているが、間を空けてから妻が娘を連れて家を出ている。夫婦の間になにかしらの亀裂が入ったのは確かだ。
 も父親が残していたという日記を持ち出している。それはきっと、この日記に繋がるものだろう。 やはり間違いない。日記を書いていたのは、妻に見捨てられた不甲斐ない夫だ。それもただの男ではない。ここからは憶測になるが、他の四人も同じ意見のようだ。
「お前たちも既に浮かんでいるとは思うが、この日記の著者はの父親である可能性が高い」
 四人の視線がブチャラティに集まる。
「日記には妻と娘のほかに、彼とヤツらという不特定な人物像もある。これらとオレたちが追っている犯人が合致していると決まったわけじゃあないが、日記の著者であるの父親が悩まされているのは間違いないだろう」
「現段階では、僕たちが調査している敵と関係があるのか見当がつきませんね」
「あとはエスエス、とかいうヤツな」
「SS-01とSS-02、だろ」
「そうそう。ソレソレ」苦笑を浮かべるミスタはフーゴに向かって人差し指を向けた。
 仮説として家が浮上したことによって、今回の事件や謎が解決に進んだわけではない。これまでの話の流れで、彼女の存在が再び上がってきたこと自体が、ブチャラティにとって大きな不安を煽るのだ。
 からネアポリスへ戻ってきた理由を訊いたとき、彼女の疑いは晴れたものだと思っていた。実の父親を見つけ出すことが目的の彼女に、自分の両親が暮らしていた家を襲う理由もなければ、ギャングを襲う理由もない。
 イタリアの各地で起きた情報の略奪。
 パッショーネへの傷害騒動。
 被害に遭った土地で情報が盗み出されていないのは、フィレンツェの田舎町のみだ。敵が求めていたものがその町に見当たらなかったのか。それとも見落としていただけなのか。どちらにしても、が生まれた町が襲われたのは事実として残されているのだ。
 全てを踏まえた上で、今回の件に彼女が関与していない可能性がゼロとは言い切れなくなった。
 それでも――。
 自分は彼女を信じると心に決めている。
「明日と会っても、彼女にはいま話したことを伏せておくんだ。まだ確かな情報だと決まったわけじゃあないからな。日記のことも絶対に言うな」
「もしかすると、僕らが勝手にさんの過去に触れてしまったようなものですからね」
「そういうことだ」ブチャラティは頷いた。
「もしかしたら、オレたちの一件とは全ッ然関係なかったことかもしれないしな」ミスタも頷く。
「せっかくの誕生日なんだし、明日くらいはいまのことは忘れようぜ」
 言いながらナランチャが最初に席を立ち、テーブルから離れていった。
「そういえばさ、ブチャラティ。へのプレゼントはもう買ったのか? オレ、プレゼントをもらうのはもちろん嬉しいけど、考えるのも好きなんだよな~~」
 言った傍から切り替えの早いナランチャにブチャラティは思わず苦笑を浮かべる。
 答えはもちろん決まっている。
 頷いてみせると、ナランチャはまるで自分のことのように嬉しそうに笑った。彼はとは一度しか会った事がないはずだが、こうして彼女を案ずるようになったのは先ほどの会話があったからなのだろうか。
 ナランチャを機縁に他の三人もテーブルから離れ、それぞれ好き勝手にアジトに陣地を作りはじめる。
 ブチャラティはアバッキオから何か言われると思っていたのだが、彼はいつもと変わらぬ仏頂面を湛えてソファーに身体を沈ませ、ヘッドフォンをつけて目を閉じた。
 このまま何事も起きなければいいのだが――ブチャラティは、そう願わざるを得なかった。

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