「パーティの準備といえども、今まで受けた注文の資料と写真を長時間見比べるっているのは、さすがに参っちまったぜ。でもよォ。花っつーのは同じような形をしているようで、種類や色によって使い方も違うんだってな」肉料理を頬張りながらミスタが話す。
「同じ種類の花でも、本数や色で意味合いが変わってくるって言うぜ」アバッキオが言った。
「しばらく花は見たくねーな。アレだ。同じものを長時間見ていると起こる現象。なんだっけアレ。シューベルト。いや、そんな名前じゃなかったな。ベルモント……」
「ゲシュタルト」フーゴが横入れする。
「それだ、それ。ゲシュタルト崩壊」
「げしゅたるとほうかいってなんだ?」難しい言葉にナランチャは首を深めに傾げた。
四人は普段通っている店ではなく、初めて訪れる店へ来ていた。この店は以前、フーゴとブチャラティが見知らぬ男と並んで歩いていたをつけてやって来たリストランテだ。外観の煌びやかさに劣らず、天井にはシャンデリアが施されており、テーブルクロスは全てシルクで作られている。食事に使用されているフォークやナイフ、皿に至るまですべてが高級ブランド製だ。
そんな優雅なリストランテにも、プライベートルームというものが存在する。四人が座っている席は、他の客たちと接しない完全個室の空間にあった。
最初にこの店へ訪れたのは、フーゴとミスタの二人だった。ブチャラティから教わった店へたどり着いたとき、フーゴは思わず苦笑した。店内へ入ると、まずは予約の確認をとられた。フーゴがブチャラティの名を伝えると、店の者は、にこりと微笑み、空いているテーブル席には向かわず、壁と一体化している個室へと続く扉を開いた。その数分後にはアバッキオとナランチャが部屋を訪れ、いまに至る。
言うまでもないが、フーゴが電話を寄越したあとにブチャラティがこの店に予約の連絡を入れたのだろう。予約が取りにくいリストランテでも、彼からの一報があれば店側は断れない。それは圧のかかった脅迫ではなく、信頼という名のもとにあると、フーゴは分かっていた。
「ブチャラティ、まだ来ないな」フーゴが言った。
四人が集まっているテーブルには、一席だけ空席が残っている。無論ブチャラティの席だ。
「着いたやつから先に飯を食っとけって言われたんだろ。あの人のことだから、すぐに来るさ」
ミスタの言葉にフーゴは、それもそうだな、とワイングラスを手に取った。
「アバッキオはピッツェリアに行ったんだよな。なにか良い案はあったのか」ミスタが訊いた。
「いまここでネタばらししてもつまらねえだろ。パーティ当日までのお楽しみってやつさ」
「そうそう。ここで話して、お前たちがビビッちゃあ後々が勿体ないからな」
ナランチャが椅子の背もたれに背中を預けた。
「アジトの便所掃除以外に、風呂場の掃除免除も追加してもいいくらいだぜ」
「おッ。賭け金上げていくか?」ミスタが乗った。
「おお、望むところだ」
「お前たちは一度だって掃除をしたことはないだろ」フーゴとアバッキオが異口同音する。
ミスタからの勝負を買い、テーブルに身を乗り出したナランチャがフーゴの後方に目をやり、表情を明らめた。フーゴが振り返ると、そこには店の者に案内されながら個室へ入ってきたブチャラティがいた。
「ブチャラティッ」
「遅かったじゃあねーか、ブチャラティ。いままでどこへ行ってたんだ」アバッキオが訊いた。
「ああ、ちょっと野暮用でな。遅れてすまなかった」
ブチャラティは空いている席に座り、ワインを頼んだ。
「お前たち、料理はもう済んだのか?」
「はい、先にいただきました。ここの牛肉をつかったタリアータ、美味しかったですよ」
それはよかった、とブチャラティはナフキンを膝の上に掛けながら満足げに頷く。
「どうしてまたここを選んだんですか?」
「前から気になっていたんだ。たまにはこういう店で飯を食べるのも悪くないだろう」
「さんの一件は関係ないと?」
「そんなんじゃあないさ。アマルフィの料理人が選んだ店と聞けば、オレだって気になる」
本当にそれだけかな――という言葉を呑み込み、フーゴはそれ以上の詮索をしなかった。
「そういえば、誕生パーティってどこでやることになったんだ?」ナランチャが訊く。
「が宿泊しているホテルだ。ホテルの最上階にパーティルームがある。そこで開く」
「話は既につけてきたんですか」
「ああ。昨日のうちに手配は済ませている」
フーゴは昨日のブチャラティを思い返す。とのデートの話を聞き、ナランチャの一言で彼女との出会いの経緯を聞きだそうとしたが、上手くかわされてしまった。かわしたあと、ブチャラティは用事があると言ってアジトを後にしたが、そういうことか。
どこまでも抜け目がないな、と運ばれてきた料理に手をつけるブチャラティを見つめる。
「にはそのこと伝えたのか?」ナランチャが訊く。
ブチャラティはかぶりを振った。「まだだ。今日はもう時間も遅い。明日連絡するつもりだ」
ふと、フーゴはミスタと目が合った。意識して視線を交わしたわけではない。彼がこちらを見てきたのだ。しかしミスタが見ているのはフーゴではなく、フーゴの隣で食事をしているブチャラティだった。
――いけ、セックスピストルズ。
ミスタが小さな声でスタンドたち呼び、彼らをテーブルの下に潜り込ませたのを、フーゴは見ていた。何をするつもりなのだろうかと考えているときだった。ブチャラティの携帯電話がピストルズたちによって奪われ、主人であるミスタのほうへ飛んでいく。携帯電話を奪われたブチャラティは「あ」となんとも情けない声を発した。
「ミスタ。お前、なにやってる」
「すんません。こいつらが勝手に……あッ。おめーら勝手にダイヤル回してんじゃあねーよ!」
「おい、お前まさか――」
「フーゴ、パス!」
「ぼ、僕に渡すなよッ」ミスタから飛び火にも似た携帯電話を受け取り、フーゴは焦る。
受け取った携帯電話からは、呼び出し音がしている。ミスタが電話をかけたのは明らかだ。
「……ブチャラティ、どうぞ」
呼び出し音が鳴っている携帯電話を受け取ったブチャラティは、ため息をついて席を離れた。彼が去ったあと、フーゴはミスタからハイタッチを交わされた。
発信した相手の正体は、誰もが分かっていた。
呼び出し音が鳴り続ける携帯電話に耳を当てたまま、ブチャラティは店の外へ回った。並んでいる一人掛けの椅子を見つけ、そこへ腰を下ろす。
まさか――このタイミングで彼女に連絡を入れることになるとは思わなかった。
幸いにも、電話をかけた相手はまだ応答しない。現在の時刻は夜の九時。眠るにはまだ早い時間だが、遅めの食事をとっているとも考えられる。このまま留守番電話になるか、出ないと判断した上でこちらが切るのが先かどちらだろうな、と考えているときだった。呼び出し音がぷつりと切れ、突然無音になる。
切れたか。そう思ったが、電話の向こうでは微かに風の音が聞こえている。近くではないが、車のクラクションや賑やかな街の音楽が流れている。
「……?」
まるでその場に彼女がいるように呼びかけた。しかし相手からの反応はない。しばらくして、がさがさと雑音交じりの音が近づいてきた。
(ブオナセーラ、です。遅くなってすみません)よそよそしい口調でが応えた。
初めて電話越しで聴く彼女の声に、ブチャラティは柄にもなく息を呑む。
(あの、どなたでしょうか?)
ブチャラティは、はっとする。「ブチャラティ、だ」
(えッ。ブチャラティ?)
電話越しのは驚いていた。それからしばらく彼女の声が遠ざかる。頼れる情報は音のみのため、香電話の向こうでどのような動作をしているのかは分からない。どうやらは耳から携帯電話を離し、相手がブローノ・ブチャラティであることを確認しているようだ。
(ごめんなさい。画面も見ずに出ちゃったから、誰がかけてきたのか分からなくって……)
「忙しいときにかけてしまったか?」
(ううん、大丈夫。少しびっくりしちゃっただけ)
「……そうか」
ブチャラティはひとまず、安堵の息をついた。しかし、肝心なのはここからだ。自分から電話をかけておいて、何も言葉が出てこない。なにか話題を挙げなくてはならないのに。伝えなくてはならないことがあったはずなのに。頭の中で考えをめぐらせているのだが、まるで錠を掛けられたように言葉が詰まってしまう。もこちらの様子を窺っているのか、沈黙を続けている。
そんなときだ。ブチャラティの後ろで、小さな鈴の音が聞こえた。その音の正体は、リストランテのドアベルだった。十分に腹と気分を満たした様子の老夫婦が、店内に向かって頭を下げたあと、腕を組みながら蝋燭が灯っている階段をゆっくりと下りていく。
(ブチャラティ。いま、どこかのお店にいるの?)
情けないことに、先に話題を切り出してきたのはのほうだった。
「ああ。フーゴたちと夕飯を食べにな」
(えッ。いいの? わたしと電話なんかして)
「いいんだ、気にしないでくれ。そういうは何をしていたんだ。ホテルにいるのか?」
(ううん、いまは外にいるの)
確かに、先ほどからの話し声と混ざって、車の音や街中の様々な音楽が聞こえている。
(用事が終わったから、これから帰るところ)
の履いている靴だろうか。かつん、とヒール靴がその場で立ち止まったような音がした。
「なんだか、とても新鮮だ」
(新鮮?)
「とは何度も会って話しているはずなのに、まるで初めて話しているように思えるんだ」
(言われてみれば、確かにそうかもしれないね)
「電話で聞いても、の声は綺麗だな」
(もう、またそうやってからかうんだから)
「からかってなんかない。本当のことだ」
(グラッツェ、ブチャラティ)
この態度は、本気にしていない声だ。
「なあ。この際だから訊きたいんだが、どうしていままで連絡先を教えてくれなかったんだ?」
(ええ?)は焦っているように窺えた。
「なにか問題でもあったのか」
(別にそういうわけじゃあないんだけど……)
はしばらく黙り込んでから言った。
(実は言うと、深い理由なんてなかった)
「なかった?」
(あなたが言っていたように、連絡先を知っていたほうが楽だって分かってた。でも……)
歯切れの悪いに、ブチャラティは首を傾げた。
(笑わないで聞いてくれる?)
もちろんだ、とブチャラティは頷く。
は微かに深呼吸をした。まるでこちらに緊張の色を悟られないようにしているようだ。
(ブチャラティの声を聞くと、安心するの)
考えもしなかった言葉に、ブチャラティは硬直する。
(安心して声を聞いていたら、軽はずみな気持ちで会いたいって言ってしまいそうだった。わたしが会いたいって言ったら、ブチャラティはどこへでも会いに来てくれるでしょう? わたしの身勝手なわがままであなたを振り回したくなかったし、なにより……あの時は、あなたとあのお店で直接会うことに意味があると思ってたから)
落ち着いた口調で話すの言葉に、ブチャラティは思わず手のひらで口元を覆い隠した。
――この女は、電話越しになんてことを言うんだ。
これが電話を通した会話でよかった、とブチャラティは心の底から思った。もしも目の前にがいる状況でいまの話を聞いていれば、自分に逃げ場はなかった。
もしかすると、も電話口だからこそ伝えることができた話だったのかもしれない。
気のせいだろうか。握っている携帯電話から伝わる熱が、彼女の赤らんだ頬のように感じる。
「今はオレに会いたくないのか?」
(え?)
「オレの声を聞いたら、会いたくなるんだろう」
(だから、それは……)は焦っていた。
「が願わなくとも、オレはいつでもきみに会いたいと思っている。ああ、の言葉が痛いほど分かるんだ。オレもこうしてきみの声を聞いていたら、会いたくて堪らなくなる。やっと手に入れることができた『電話』というひとつの手段が、ちっぽけに思えてくるほどに」
(ブチャラティ……)
「、これからはたくさん会おう。少しずつでいい。きみの時間をオレに分けてくれないか」
ややあってからは、うん、と言った。たった二文字の言葉で胸の中に喜悦の海が広がる。
あとから照れくさそうに笑うの声を聞いて、ブチャラティもつられて笑みをこぼした。
そしてようやく、に電話をかけた当初の目的を思い出す。
「そうだ。明後日のことなんだが、パーティはが宿泊しているホテルを借りることになった」
(もしかして、最上階にあるパーティルーム?)
ああ、とブチャラティは頷く。「当日はオレが迎えに行く。それまでは気軽にしていてくれ」
(うん、わかった。その日は朝から支度を始めるつもりだから、三時以降ならいつでも平気)
「さすがに準備が早いな」
(自分の誕生パーティなんて初めてだし、慣れないことだから早めに準備しなくちゃなって。あとはわたしからも出し物があるの。それの下準備も兼ねて)
「楽しみにしてるよ」
(こちらこそ)
電話越しでも伝わるほどに、はパーティ当日に期待に胸を膨らませていた。
「それじゃあ、また明後日連絡する」
そろそろ通話を切ろうかというとき、が「ああ、待ってッ」とこちらを引き止めた。
「どうした?」
(あの。電話してくれてありがとう)
「礼を言われるほどのことはしてないぜ」
(でも、本当に嬉しかったから)
きみがそんな風に喜んでくれるなら、オレは何度だってかけるさ、とブチャラティは思った。
(それじゃあ、また)
「ああ、ブォーナ・ノッテ」)
向こうから通話を切られ、ブチャラティは液晶画面を見てから携帯電話をスーツのポケットへしまった。