ドリーム小説 44

(預かっていた日記の翻訳が終わったよ)
「随分と早かったな」
(三日もあれば十分だ。いつでも取りに来るといい)
 本屋の親父から連絡をもらったのは、つい先ほどのことだった。フーゴたちがパーティの下準備のために指定した店へ訊ねている一方で、ブチャラティは本屋の親父の元を訪ねていた。店内は相変わらずがらんとしており、客人は一人としていない。そろそろ営業崩壊してもおかしくない本屋だが、潰れないのには色々と理由がある。
 カウンターでいつものように新聞に目を通している親父の前へ向かう。彼の前に立ってから数秒後、相手はこちらに気がつき、眼鏡を動かして睨みつけてくる。ブチャラティであることを認識すると、親父は朗らかに笑みを浮かべた。読んでいた新聞を折りたたみ、立ち上がる。
「座ったままで構わない」
「いや、たまには足腰を鍛えねばならない。それに、お前の目の前でボケジジィの真似をする必要もないだろう」親父は、はきはきとした口調で言った。
 親父は一度、カウンターの奥へ姿を消した。奥から咳き込む声と戸棚をいじる音が聞こえる。程なくして、埃の帽子を被った親父が戻ってきた。手に携えているのは、ブチャラティが以前渡した例の日記だ。ブチャラティは日記を受け取り、カウンターに金を置いた。親父は何も言わずにそれを懐にしまい、ポロシャツの胸ポケットから煙草の箱を取り出した。
「翻訳できたのは七割だ。他のページはインクが滲んじまってほとんど読み取れんかった」
「七割か……」
 ブチャラティは適当なページで日記を開いた。日本語で書かれている文章の間に、イタリア語へ翻訳された小さなメモが一枚ずつ挟まっている。彼が言うように、所々虫食いになっている部分もあるが、パズルのように組み立てていけば読めるように構成されている。文体は親父らしい乱雑な字ではあるが、読めないことはない。
「一文字一文字がミミズのように繋がっている部分があるだろう。そいつは一昔前の書き方だ」
「日記を縦に書くというのも珍しいな」
「昔から日本人は手紙も日記も縦書きよ。今は横書きが一般的になりつつあるけどな。世話を焼くような言い方になるが、これからはグローバル社会だ。他国語を理解できることに越したことはねえぞ」
「コンニチワ、くらいは言えるんだがな」
「向こうだってブオンジョールノくらいは言える」
 親父の言い草に、ブチャラティは思わず苦笑する。日記を閉じ、持っていた鞄へしまった。
「グラッツェ。非常に助かった」
「礼はいい。それより訊きたいことがある」
「訊きたいこと?」
 まあ、とにかく座れ、と親父はブチャラティに背もたれのある椅子を用意した。
「まだこの椅子があったんだな」椅子に座りながらブチャラティが意外そうに言う。
「そいつはおれのお気に入りだからな」
「それで、訊きたいことというのは?」
 親父は煙草に火をつけた。ふう、と深い煙を吐き出す横顔は、どこか神妙な面持ちだった。
「ブチャラティ。お前はその日記をどこで手に入れた?」
 親父の口から出たのは、意外な言葉だった。
 ブチャラティはややあってから答えた。「フィレンツェ北西部の小さな町だが。それが?」
「いや、ちょっとな」親父は灰皿に煙草を押し付けた。
「何か気になることでもあるのか」
「訊いただけだ」親父はあっさりとした口調で言った。
 誤魔化しや演技ではなく、本心からそう言っているのだろうなとブチャラティは解釈した。
「そうだ。前に眼鏡を届けにやって来た男は、お前の部下だってな。やつは元警官か?」
 アバッキオの身なりを一目見ただけで、前職を当てた親父に、ブチャラティは驚かない。寧ろさすがだ、と言わんばかりに口元を緩めた。
「視力は悪くなっても、目利きは現役だな」
「そういう場所に所属していたからな」
「いまのイタリアの裏社会は、あなたが現役だった頃と比べて、やはり変わったのだろうか」
「がらりと変わったというところはないが、格段に増加しているのは麻薬取引だろうな」
 麻薬、という言葉にブチャラティの胸の中で灰色の靄が急速に集まりはじめる。時を重ねるに連れて裏社会は変わりつつあるが、麻薬という忌々しい呪いが簡単に消えることはない。親父の話を聞きながら、ブチャラティは一瞬だけ過去を思い出していた。
「麻薬は随分前から商売道具として使われていた。安く仕入れることができれば、その分利益も増えるからな。おれも過去に麻薬と一切関わっていないとは言い切れない。ただ、いまのイタリアの裏社会――パッショーネには、昔にはない何か大きな力を感じる。それはまるで人知を超えるような不思議な力だ」
 親父は知らない。その不思議な力を、目の前にいるブチャラティが携えていることを。
 ブチャラティがスタンドという概念を知ったのは、それこそ組織に入るときだ。ポルポから矢の試験を受けた際、そこで初めてスタンド能力である『スティッキィ・フィンガーズ』に目覚めた。
 試験終了後、ポルポに訊いたことがある。もしも矢に選ばれなかった場合は、どうなるのか。
 その答えは簡単なものだった。どんな試験にも合格者と不合格者がいる。矢に選ばれた者は生を進み、選ばれなかった者は死へ戻る。表社会で生きてはいけなくなった者にとって、パッショーネへの入団は生と死の狭間だった。
 パッショーネが二十年以上もの間、イタリアの裏社会の頂点を走り続けている裏側には、少なくともスタンドという存在が関わっているだろう。全ての構成員を把握しているわけではないが、ポルポから入団試験を受けたものは全員スタンド使いであることに間違いはない。
「それに最近では、妙な噂をよく耳にする」
「妙な噂?」
 親父は二本目の煙草に火をつけた。「一週間前だ。世間には報道されていなかったが、ネアポリスで奇妙な事件があった。五歳の少年が遺体として発見された事件だ。少年に主な外傷はなく、脳死と判断されたそうだ。しかし不思議なのはここからだ。正式な解剖記録では、死因を判別できなかったんだそうだ」
「死因を隠蔽したのか?」
「脳死は家族を納得させるためだったらしい。例え心臓が動いていても脳死判定が下された場合、それは既に死んでいるということになる。難しいことは分からないが、これは国によって判定が異なるらしい。まあ、脳死と言われても自分の息子が死んだことに対して、素直に納得する親子はいないだろうが」
 確かにそうだ、とブチャラティは相槌を打つ。
「一週間前というと――」
「三月十三日の火曜日だ」親父はカウンターに置いている卓上カレンダーを指差した。
 その日は確か、フーゴとアバッキオが調査のためにフィレンツェへ向かった日だ。
「ネアポリス以外でも、イタリア各地で死因不明の遺体がいくつか発見されている。麻薬が原因かとも思ったが、それなら必ず痕跡が残るはずだ。それこそ、お前のところが売りさばいている麻薬のようにな」
 ブチャラティは言葉に詰まった。
「この件には、何か裏がありそうだ。ブチャラティ、お前も用心しておけ。特に最近になってから自分の身のまわりで接触してくるような人物には」
 親父の忠告を聞いたとき、ブチャラティは無意識に彼女の顔を思い浮かばせてしまった。
 ――馬鹿が。そのことはもう終わったことだろう。
「おれが所属していた組織に限った話じゃあないが、裏切り者は常に身近にいると思えよ」
「……肝に銘じておく」
 素直に納得できないまま、ブチャラティは続ける。
「そういうあなたはどうなんだ。ずっとここで身を隠すつもりなのか?」
 親父は煙を吐き出した。それはまるでため息のようにブチャラティには見えた。
「娘さんとは、まだ会えていないんだろう」
「もう十年以上経ってるからな。今更会えたとしても、向こうにとっちゃあ、ただのジジイだ」
 それに、と親父は続ける。
「娘を守るためとはいえ、形としておれは家族を捨てたんだ。どこかでいい男と付き合って、どこかで幸せに暮らしていれば、それでいいと思っている」
 煙草をくわえながら新聞を読み始めた親父にブチャラティは、そうか、と息をついた。
 実の父親を探している娘がいる。過去に見捨てた娘を探している父親もいる。身内は何かと探し物をしている者ばかりだな、と思った。
 壁にかかっている時計の鐘が五回鳴った。時刻は午後五時。ブチャラティは席を立った。
「そうだ。これを渡しておこう」
 ブチャラティはカウンターに一枚の紙切れを置いた。風で吹き飛ばされないように灰皿を重りにし、親父の注意を向けるように、とんとんと指先で叩く。
「今週の水曜日、ここでパーティがある。オレと交流の深い友人の誕生日を祝うパーティだ」
「パーティ?」親父はブチャラティを見る。
「料理と酒もたらふく出る。金はとらない」
「そんなところに行ってどうするんだ」
「たまには羽を伸ばすのも悪くないだろうと思ってな」
「おれにパーティに着ていく服なんてねえよ」ため息をついたあと、新聞へ視線を変える。
「なら、奥で眠っているスーツでも着てくるんだな。派手なほうが会場では目立たないぜ」
 あとは本人の判断に委ねよう。長居はせずに、ブチャラティは本屋を出た。大通りの横断歩道に差しかかったところでスーツのポケットが震えた。ブチャラティは歩きながら携帯電話のプッシュボタンを押して耳を当てる。
「オレだ」
(フーゴです。今朝に頼まれていた件ですが、エマさんと相談してなんとか決まりました)
「そうか、ご苦労だった。エマへは改めてオレから礼を伝えるが、よろしく伝えておいてくれ」
(わかりました。それと、もうひとつ相談が)
 電話の向こうで紙が刷れる音が聞こえた。
さんへのプレゼントですが、ブチャラティはどうするつもりなのかな、と)
「お前が彼女に渡したいものでいいんじゃあないか。心配するな。オレと被ることはない」
(へえ、結構な自信ですね。まッ、まさか……)
 ブチャラティは唇を舐めた。「今日の夕飯はオレがご馳走しよう。ミスタたちが戻ってきたら、直接店へ向かうように伝えておいてくれ。頼んだぞ」
 通話を切り、携帯電話の電源を切ったブチャラティは次の目的地へ向かって歩き出した。

戻る