ドリーム小説 43

 花屋でフーゴたちが団結している頃、アバッキオとナランチャはピッツェリアへ訪れていた。昼食を過ぎた時間帯ということもあり、人気のテラス席や店内のテーブル席には余裕がある。
 アバッキオが手の空いているウエイターを呼び止め、店主に顔を出すように伝えた。
 テーブル席に座りながら待っていると、顔に生クリームをつけたままの店主がやって来た。アバッキオとナランチャの姿を見て、彼は驚き顔を浮かべる。
「どうしたんだ。アバッキオとナランチャの組み合わせなんて珍しいじゃあないか」
「……ブチャラティに頼まれたんだ」紙布巾を差し出しながらアバッキオが答える。
 紙布巾を渡された理由が分からない店主に、アバッキオは顎で窓ガラスを示した。店主は窓ガラスに映っている自分の顔を見たあと、頬についた生クリームを拭った。その様子をナランチャが口元に手を当てながら笑っている。
 アバッキオが咳払いをこぼす。生クリームの化粧をとった店主と向き合い、話を進める。
「明後日にパーティを開くことになった。主役はブチャラティの女だ」
「エッ。ブチャラティとって恋人同士になったんだっけ?」ナランチャが訊いた。
「あれはもうなってるようなもんだろ」
「エエ~~~~ッ、そうだったのかァ? オレなんにも聞いてねーよォ~~」
 頭を抱えながら騒ぎはじめるナランチャを無視し、アバッキオは店主との話を続ける。
「イタリアのパーティにピッツァは、誕生ケーキに立てる蝋燭のように必要でなくてはならない。料理を頼む店は他にもあるが、ピッツァに関してはここがいい、とブチャラティから言われて来たんだ」
 なるほど、と店主は嬉しそうに頷く。
「引き受けてくれるかい」
「それは勿論。他でもないブチャラティときみたちからの頼みだ。断る理由が浮かばないよ」
「グラッツェ。ブチャラティに伝えておこう」
「ちょっと待っていてくれ。きみたちと相談しやすいように過去の写真を持ってこよう」
 店主は厨房の奥へ姿を消したあと、いくつかのファイルを持って戻ってきた。テーブルに置かれたファイルを、アバッキオとナランチャは手に取る。中身はこれまで引き受けた特別な注文の写真とその概要だった。写真の隣には店主の字だろうか。日付から客の名前までが丁寧に手書きで記されている。とても几帳面な性格のようだ。
 アバッキオは目を通していた写真から店主へ視線を移す。目が合うと、にこりと微笑まれた。彼はファイルの一冊をテーブルの真ん中で広げ、こちらの興味を誘う。
 最近になってようやく常用文字を読めるようになったナランチャは、目を擦りながら見ている。
「わたしの店はピッツァが売りだが、それ以外なら地中海料理が特におすすめだ」
「魚料理はブチャラティが好きだな」アバッキオが写真を眺めながら言う。
「ああ、そうなんだ。きみたちが仲間になる前は、よく食べさせていたもんだよ。あの時から利口な少年だとは思っていたが、ここまでたくましくなるとはなあ」
「親戚のじいさんみてーな言い方」ナランチャが笑う。
「わたしにとって彼は、それと変わりないよ」
 店主はファイルを捲った。
「ドルチェは他の店で頼むんだろう?」
「ああ。いい店をブチャラティが知ってるらしい」
「それなら主食を我々で考えるということか。アバッキオたちは何か考えがあるのかい?」
「人の誕生日をこちら側から祝うってことが、いままでなかったからな。オレはって女のことをどうこう思ってるわけじゃあねーが、誕生日を祝うというなら、派手なほうがいいとは思う」
「水臭いこと言うなよ、アバッキオ」
 ナランチャがアバッキオに横肘を入れる。
「スッゲー美人なわけじゃあないけど、でまあまあケッコーいい女だと思うぜ」
 まあまあケッコー、とはどういう意味なのか。
「もしかするとブチャラティの女というのは、以前ミスタが話していた彼女のことかな」
「ミスタが話していた? ――ああ」
 店主の話を聞き、アバッキオは瞬時に理解する。最近ミスタがブチャラティと行動を共にしたといえば、この店が団体のドタキャン被害に遭ったときだけだ。
 アバッキオが本屋の前で拾ったのパスポートをブチャラティに預け、夜明けと共に朝食を彼女と共にするためにミスタが張り切っていた姿を思い出す。その際にブチャラティがこのあとに女と会う約束をしている、などと口を走らせたのだろう。想像するだけでやってやった、と笑うミスタの憎たらしい顔が浮かび上がる。
「ぜひ会ってみたいなあ。あのブチャラティの心を射止めた女性なんだろう?」
「フツーの日本人だぜ」ナランチャが答えた。
「ナランチャはその女性と会ったことがあるのか?」店主は視線をナランチャへ向けた。
「ああ、一度だけあるよ」
「アバッキオはその様子だとないようだね」
「オレは……」
 会ったことがないというのは嘘だ。彼女とはフーゴと共にフィレンツェへ向かった帰りに一度だけ会っている。まともな視線と会話は交わさなかったが、印象的な出来事があったため、あの時のことは今でもよく覚えている。
 だからと一度しか会ったことがない――実はそう言い切れないのだ。アバッキオが彼女のパスポートを拾い、の顔写真を見たときに思ったことがある。
 彼女とは以前、どこかで会ったことがある気がする。
 最初にそう思ったのは、ブチャラティの口から初めて彼女の名前を聞いたときだ。イタリア暮らしが長いアバッキオにとって、日本人の名前は中々に珍しい。それがただ単に珍しいという捉え方ならばよかったのだが、何故か初めて聞いた名前とは思えなかった。手元での顔写真を見たとき、頭の中で記憶が小さく叫んだ。前職の癖だろうか。人の顔と名前を合致させて記憶するのが得意だったため、改めて彼女の名前と顔写真を見て、確かに思ったのだ。
 という人物を、自分はどこかで見たことがあるのだと。
 それもそこらの道端で見かけたわけではない。面と向かって対話した覚えがあるのだが、肝心なところが今の今まで思い出せないままでいる。気のせいかとも思ったが、嫌なことと余計なことはすぐに忘れる質のため、悪い記憶ではないことは確かなのだ。
 この件に関して、ブチャラティには何も言わなかった。いや、言えなかったというほうが正しいだろう。彼に気を遣っているわけではないが、変に混乱を招くのは好きではない。自分の中で確証を得てからでも遅くないと考え、アバッキオは一人でそのことを胸に秘めていた。
「前に、一度だけある」
「えッ。そうだったのか?」ナランチャが言った。
「ああ。お前とミスタが涎垂らして寝てるときにな」
「じゃあ、オレたちのなかでに一度も会ったことがないのはミスタだけか~~」
 この話を聞けば、ミスタは間違いなく、オレだけかよッ、と叫ぶだろう、とアバッキオは思った。
「あんたはないのか」アバッキオが店主を見る。
「わたしが?」店主は自分を指差した。
「ブチャラティから聞いたんだが、という女としばらく行動を共にしていたんだ。あんたはブチャラティと関係が長いんだろう? それなら、ブチャラティがこの店に女を連れてきて二人で飯を食っていた、なんてことはなかったのか」
 店主はしばらく記憶を巡らせるように唸った。しかし、ややあってから首を左右に振るう。どうやら彼もアバッキオと同じように記憶が混雑しているようだ。
「昔はそれこそ、彼を目当てに若い女の子たちがわんさか店へやって来ていたけどなあ。そんな子を連れてきていたら忘れるはずがない」
「やっぱりブチャラティ、昔から人気だったんだ」心なしかナランチャが鼻高々に言った。
「覚えてないんならいい。それより話を戻そう。料理を提供してくれるのなら、派手に頼むぜ」
「そうそうッ」
 ナランチャがテーブルに勢いよく身を乗り出す。
「オレたち、ミスタたちと勝負賭けてんだからな。勝ったらアジトの便所掃除、半年間免除!」
 そういえばそんなくだらない勝負があったな、とアバッキオはため息をついた。
 勝負を持ちかけたのはミスタ。その勝負を勝手に買ったのはナランチャだ。アジトの掃除は日頃から気付いた者がやっているが、ミスタとナランチャが掃除をしている姿をアバッキオは今まで見たことがない。だからこそあまり乗り気にはなれなかった。
 しかし勝負は勝負だ。報酬内容はともかく、男として簡単に負けるわけにはいかない。勝負に勝って便器を掃除する破目から一時的に逃れられることができるのであれば、割合良い話に思えてくる。
 こちらの取りとめのない話を聞いても、店主は嫌な顔を浮かべるどころか大笑いしている。
 随分笑った店主が落ち着き、息をつく。「分かったよ。それならとびっきりのものを考えよう」
「なんかさァ。人の誕生日をこうして祝ってやるっていうのは、新鮮でワクワクするよな」
 言いながらナランチャは写真を手に取った。
「そういえば、ブチャラティはどこ行ったんだろ」
「さあな。野暮用があるとか言ってたが」
「まあ、ブチャラティのことだから大丈夫だろ。オレたちはオレたちのことを進めようぜ」
 アバッキオが一枚の写真を手に取ろうとしたときだ。先ほど店主が鏡代わりにしていた窓の外から話し声が聞こえてきた。アバッキオは条件反射的にそちらを向いた。
 窓の外にいたのはだった。グレーのピーコートを羽織りながら耳に携帯電話を当てている。どうやら店の外壁を背にしながら、誰かと通話をしているようだ。
 隣で写真を眺めているナランチャを見たが、店の外にがいることには気がついていない。これがブチャラティの声だったら気付くんだろうな、と思いながら、アバッキオは写真とファイルを眺めるふりをしつつ、の声に聞き耳を立てる。
 しかし彼女の口から紡がれる言葉を、アバッキオが聞き取ることができなかった。最初はただ単に聞こえないだけだと思っていたが、そうではないとすぐに分かった。
 なぜなら彼女はイタリア語ではなく、日本語で会話をしていたからだ。
 程なくしては通話を切り、白い息を吐いてから去っていく。一瞬だけ窓に映った横顔に笑みはなく、どちらかといえば曇り空のように沈んでいた。
 その横顔を見て、アバッキオは一瞬でも椅子から腰を浮かせようとした自分を疑った。
 ――何故、オレが立ち上がる必要がある?
「アバッキオ、なに見てんだ?」
 ようやくナランチャが異変に気がつき、アバッキオと同じように窓の外を見る。
「なんだよ、なんもねーじゃん」
「……ああ。なんでもねーよ」
 しかし、アバッキオがの灰色に染まった横顔を忘れることはできなかった。
 彼女の異変をブチャラティに教えるためか――いや、そういう考えではない。
 本当に自分は、過去に彼女と会ったことはあるのか。靄のかかった疑念がアバッキオの脳内を駆け巡る。
 ただ、このときは思い出すことをやめた。その記憶が呼び起こされるのは、三日後のことだった。

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