イタリアでは誕生日の当日、主役である本人から「今日は自分の誕生日なのだ」と伝えることからパーティを開く事が多い。主催するのも本人、主催したパーティの費用を負担するのも本人である。サプライズという名目で祝うことが珍しいというわけではないが、基本的には自分から他人にアピールをするものなのだ。他の国の者から見れば、自己顕示欲が強いと思われるかもしれない。しかし、イタリア人は他の国と比べて家族は勿論、友人関係を誰よりも大切に思う。そのことを咎める者は、きっとパーティには呼ばれないだろう。
の誕生日が二日後にさしかかった三月十九日。飛行機雲が描かれている空の下で、フーゴはミスタと共にネアポリスの外れを歩いていた。フーゴがスーツのポケットから取り出したのは、一枚の紙切れだ。紙面にはブチャラティの字でとある住所が書かれている。
住所と建物を見比べながらしばらく歩き進んでいると、フーゴの足がぴたりと止まった。
「あった。この店だ」フーゴが言った。
フーゴの声で隣を歩いていたミスタも立ち止まる。二人がたどり着いた場所は花屋だった。店の前にはいくつもの花壇が並んでおり、つい最近水を浴びた形跡がある。
ブチャラティに手渡された紙切れをポケットへ突っ込み、店へ入る。店内には若い女が一人と、椅子に腰を掛けている老齢の男がいた。若い女の名前はブチャラティから聞いている。彼女の名前はエマだ。
エマは店主だと思われる男とカウンターを通して、何やら楽しそうに会話をしている。
「あッ」
エマはこちらに気がつくと体勢を直し、途端に従業員の顔つきになった。
「お待たせしました。ご注文ですか?」
「ブローノ・ブチャラティから頼まれてやって来ました。僕は彼の部下のフーゴと申します」
彼の名を聞き、エマは表情を和らげた。「ブチャラティのご紹介ですね。はじめまして。ここの従業員をしております、エマと申します」
「オレはミスタだ」
エマのほうへ顔を突き出し、ミスタは親指を立てた。
「ふ~~ん。女はやっぱり年上だと思ってたけど、年下の女の子も結構いいかもなあ」
まじまじとエマの顔や体を眺めるミスタに、エマは腹の前で両手を組みながら苦笑する。
「あの、大変申し訳ないのですが。わたくし、もう既に恋人がいますので……」
「ぬあんだってえ!!」
まるで銃弾を受けたように後ろへ吹き飛んだミスタを無視し、フーゴが話を続ける。
「ええと……今回はパーティに使用する花と、とある女性へ贈る花束についてご相談があって伺いました。ブチャラティから、花のことならエマさんに聞くのが一番良い、と」
「ブチャラティがそんなことを?」
エマは今にもこぼれ落ちそうな嬉々な思いを抑えるように、頬に両手を当てた。
「かしこまりました。立ち話もなんですし、お店の奥の小部屋へご案内いたします」
エマの案内でフーゴとミスタは奥へ向かう。途中でカウンター付近に座っていた老齢の男と目が合い、軽く会釈を交わす。相手は何も言わなかったが、口元に優しい笑みが浮かべ、ゆっくりと頭を下げた。
奥の部屋には、店内には並んでいない花が何本も飾られていた。小道具から家具まで、すべて花を基調としたものばかりだ。さすがは花屋といったところだろうか。
適当に置かれた丸椅子に座り、大きなテーブルの上にエマが何枚もの資料を並べる。どうやら過去に注文を受けた花束や花飾りの写真と詳細のようだ。フーゴは並べられた資料を手に取り、目を通す。誕生日はもちろん、結婚式やプロポーズを目的とした写真たちは、見ているだけで身も心も花たちで覆いつくされそうだ。
「へえ。花にも相性があるんだなあ」フーゴが言った。
「これなんて一生枯れない花束だぜ」
「ああ、プリザーブドフラワーって言うんだっけ。最近じゃあこっちも中々人気らしいよ」
「さすがに詳しいな、お前」
「おいおい。こんなことで驚いていたら、いつかブチャラティから呆れられるぞ」
フーゴとミスタの前に紅茶が並べられる。立っている湯気からは微かに薔薇の香りがした。
「うちの店で採れた薔薇の紅茶です」エマが言った。
「ディ・モールトグラッツェ」
いただきます、と紅茶を一口もらったところで、エマは向かいの椅子へ座った。
「早速ですが、詳しい話をお聞かせください」
「実はブチャラティのこい――」
咳払いをひとつ、フーゴがこぼす。
「失礼しました。ブチャラティのご友人の誕生日に使用する花の提案をお願いしたいんです」
「もしかして、相手は女性ですか?」
口調が明るくなったエマにフーゴは頷く。
「やっぱり! 実は数週間前、ブチャラティが花束を買いに来たんです。その時にとびっきり素敵な花束をお願いしたい、と言ってきたから」
話を聞きながら、の元へパスポートを届けに行ったときのことだろうな、と合点する。
再会した女性に腕いっぱいの花束か。イタリアではそう珍しくない話だが、ブチャラティが女性のためにそこまでする人物は一人しか思い浮かばない。
やはりこういった話は女性から聞くのが一番楽しいな、とフーゴは心の中で含み笑いをする。ブチャラティ本人からこういった話は中々聞けないのだ。上司の弱みを握るわけではないが、聞いて損はない。
「今回は誕生日なんですね。それならパーティに飾る花と、相手に贈る花束を考えましょう」
あ、でも……とエマが首を傾げる。
「どうしてブチャラティ本人ではなく、フーゴさんやミスタさんにお願いしたんでしょう。普段の彼なら、こういうものは自分で選びたいだろうに」
「まあ、女に贈るものを他人に任せるような人じゃあないけど、ブチャラティはブチャラティで何か準備があるんじゃあねえのか? 今日は他に用事があるっつって、オレたちにここへ行くように言ったんだよ」ミスタが答えた。
「さんの誕生日は明後日だからな。さすがにブチャラティ一人では手が回らないよ。花以外にも当日の料理やプレゼントもあるだろうし。それに、さんの誕生日パーティを提案したのは僕だから。ブチャラティは僕に力添えしているようなもんだ」
ブチャラティがいまどこで何をして、なにを考えているのかは知らない。しかし全ての準備を部下である自分たちに任せ、着々と進んでいる準備の手助けをしないような男ではないということだけは知っている。ミスタが言うように彼には彼の考えがあって行動を始めているはずだ。それは必ず、の幸せと笑顔に繋がることなのだと、確信さえ持てる。
「へえ、そうだったのか。今回のパーティはブチャラティが考えたもんだと思ってたぜ」
「どうして?」
「だってよォ。アバッキオはまださんを百パーセント信じてるって感じじゃあなかっただろ。そういった状況であいつがこの話に乗ったってことは、ブチャラティから言われた以外に考えられなかったんだ。なんだ、お前。あいつを説得できたのか?」
「……まあな」
の誕生日を祝うパーティを開くことをチームへ話したのは、ブチャラティではなくフーゴだった。騒ぎ好きのミスタとナランチャは喜んで受け入れたものの、アバッキオは最初こそあまり乗り気でない様子だった。
理由は簡単だ。先ほどミスタが説明したように、前回の一件で彼女への疑いは晴れたものの、完全に白と決まったわけではないからだ。アバッキオはブチャラティに対して疑問を抱くことはないが、彼が抱いているのはあくまでにある。その考えを聞いたフーゴはアバッキオを説得し、協力まで扱ぎつけることに成功した。
――アバッキオから『ある条件』と引き換えに。
「ちなみに、そのさんというのがブチャラティのご友人なんですか?」エマが訊いた。
「はい。そうですよ」
「なるほど。お花のイメージもありますし、どのような女性なのか訊いてもいいでしょうか」
あのブローノ・ブチャラティが夢中になるほどの女性がどんな人なのか聞いてみたい――エマの表情から滲み出る本音にフーゴは気がついていたが、何も言わずに答えた。
「ただシンプルに素敵な女性です。女優並みに綺麗と言ったら大げさですが、綺麗か可愛いかと言われたら、綺麗なほうだと僕は思いますよ」
フーゴの話を聞きながら、エマは何度も頷く。
「そういえば、さんに会ったことがないのは、僕らのなかでミスタだけじゃあないか?」
「えッ。アバッキオも会ったのか?」ミスタは自身の顔を指差しながら言った。
「ああ。この間、ブチャラティから頼まれてフィレンツェに行っただろう? その帰りに」
「おいおいおい。オレも誘えよ!」
「いや、そういう話じゃあないだろ」
この男は女のことになると、いつもこうだ。フーゴは思わず頭を掻きむしった。
「ブチャラティはいつも自然体ですけれど、彼が一人の女性に対してここまで露骨にアピールをしているっていうのは珍しいですよね」
フーゴとミスタは、確かにそうだ、と頷く。
「これは女としての見解ですが、ブチャラティって基本的に真面目な性格だから、恋愛か仕事、どちらのほうが大切かと訊かれたら、仕事を選ぶ人だと思うんです。それに日頃から女の子に言い寄られているし、自分で異性に人気があるっていう自覚もあるんじゃあないでしょうか。それに彼は自分の立場も気にしているでしょうし、自分からいくぞ、ってなったとき、とっても奥手そう」
エマの言葉を聞き、フーゴは目頭を指の腹で押さえながら天井を仰ぎ見、ミスタは顔を両手で覆った。エマという少女がブチャラティと以前から交友関係にあることは知らされて来たが、まるでフーゴたちが感じている感想をそのまま代弁したような台詞だった。
ブローノ・ブチャラティという男の性格を完全に把握しているわけではないが、ここ数週間の彼の行動の数々を目撃してきたからこそ分かる。彼は中途半端に物事を考える性格ではなく、全てに対して隔たりなく注意を払える人間だ。一つに絞ることもなければ、一人に絞ることもない。
そんな器用な男にもできないことはある。意中の女には中々踏み込めず、どこか消極的だ。彼ほどの男であれば、どんなに守りの堅い女でも振り返るだろう。しかし、という人物はブチャラティにとって厄介な存在らしい。それは、いままで友人として接してきた長い時間があるからなのかもしれないが。
「――って、ごめんなさい。つい話し込んじゃいました」
「いえ。こちらこそ」
フーゴとミスタは体勢を整え、紅茶を一口飲んだ。
「わたしはただ純粋にブチャラティを応援したいだけなんです。彼は日頃からこの街のために頑張ってくれていますから……。今回のパーティでそのさんって方と、ぐっと距離が縮まってくれるように、精一杯協力させてください」エマは両手を丸めて意気込みを伝えた。
「分かりました。僕たちも料理チームに負けるわけにはいきませんからね」
「料理チーム?」エマは首を傾げる。
「僕らはブチャラティに役割分担を任されたんです。飾りつけは僕たち。もう二人は料理です」
「へえ。そうだったんですか」
「そいつらと勝負してるんだよ。どっちがさんを驚かせることができるかをな」ミスタが言った。
勝負を持ちかけたのはミスタだが、それを買うような相手が向こう側に一人だけいる。フーゴと向こう側にいるもう一人はあまり乗り気ではなかったが、ミスタが他人に話したことによって不思議と闘志が燃え上がった。
どうせやるのなら、勝って終わりたい。
ミスタの固めた拳にエマも何度も頷いている。どうやら彼女も負けん気が強いようだ。まんまと彼らに感化されてしまったフーゴも資料を手の甲で叩く。
「さあ、考えましょう。料理の味に負けないほど、とびきり素敵な花の海を見せるために」