病院から車を走らせて十五分ほどのところ、長い坂道を抜け、小さな広場の傍にその店はあった。助手席に座ったまま戸惑っているを連れ、ブチャラティは店までの階段を上って入り口まで向かう。店のウエイターに人数を訊ねられ、ブチャラティが、二人だ、と答えると、店の奥へ案内される。
案内された席は窓際だった。ブチャラティはを先に椅子へ座らせる。着席したは洒落た店にやって来たのが久しぶりだからだろうか。店内の雰囲気に胸を躍らせているようだった。
ウエイターからメニュー表をもらい、注文可能な料理と飲み物について説明を受ける。どうやらいまの時間はランチタイム扱いのようだ。
「、退院祝いだ。好きなものを頼むといい」
「いいの?」
「きみもオレに遠慮するようになったか」
メニューを見ながらブチャラティが言うと、は不機嫌そうに頬を膨らませた。
「それじゃあご厚意を受け取らせてもらいます」
は強めの口調で言い、メニューを眺める。
「やっぱりマルガリータかな。生ハムのサラダも美味しそう。あと、飲み物はミネラルウォーターがいい」
「ミネラルウォーター?」
はメニューを閉じた。「昔からミネラルウォーターだけを飲んで過ごしてきたから、それがもうくせになっちゃって。ジュースや炭酸も嫌いじゃあないんだけどね」
人にはそれぞれこだわりがあるんだな、と思いながらブチャラティはカッフェを頼んだ。
注文を受けたウエイターは二人からメニューを回収し、恭しく頭を下げてから去っていった。
「ここはブチャラティのお気に入りのお店?」
「いや、来たのはオレも初めてだ」
「そうなんだ。でも、女の子を相手にお洒落なお店を選べるところはモテる男って感じね。こんな風に、いつも色んな女の子から誘われてるんでしょ」
「……妬いてるのか?」
「はあ?」
なにを言っているんだ、この男は――は口にこそ出さなかったが、唯一口からこぼれた呆れた台詞に先ほどの言葉が詰まっているように見えた。
なんでもない、と誤魔化してから、ブチャラティは己を戒めるように咳払いをする。
「最近できた店らしい。丁度窓際だ。観てみろ」
ブチャラティは窓辺に視線を送った。窓の向こうにはネアポリスの海が広がっており、海以外にもいままで歩いたことのある道や、先ほど車で走ってきた道路などが見える。まるで空の上から眺めているような景色に、も歓喜の声を上げながら窓に両手をつけて見入っている。
ほんとうは――が間もなく退院できる、という話を聞いてから店に予約を入れたのだ。この店が営業を始めたのは、いまから二週間前。まだに傷痕が残っている頃だ。仕事の帰りにピッツェリアの店主から『近いうち、景色の良い場所に新しい店ができる』という話を聞き、ブチャラティはこの店に連絡を入れた。パッショーネの者だと伝えずとも、店の者は快く引き受けてくれた。電話の対応を受けてくれたのは、最初にこの店へ訪れたとき、そして注文を訊きにやって来たウエイターがそうだ。彼はこの店でウエイターとして働いているが、実際はこの店を仕切っている責任者でもある。
どうやら、こちらの企画にはまったく気がついていないようだ。今もネアポリスの景色に夢中だ。ブチャラティは隠れて小さく笑みをこぼした。
テーブルへ料理が運ばれてきた。最初は前菜として、が注文した生ハムのサラダだ。二人分の取り分け皿が置かれ、フォークやナイフなどが並べられる。
前菜といえども、一ヶ月もの間、病院食だったにとっては立派なご馳走だ。ジェラートのように躊躇わず口へ運ぶと思っていたが、今回はそうでなかった。
「それじゃあ、いただきます」
は胸の前で手を合わせた。その不思議な構えにブチャラティは思わず目を凝らす。
視線に気がついたは構えを直し、目を瞬かせる。
「もしかして、あなたも初めて見た? これ」
「これ、というのは、その手合わせか」
やっぱり、とはフォークを手に取った。「これは東洋の文化みたいなものでね。食べる前にこうしてお祈りをするの。イタリアでも似たような風習があるけど、わたしも知ったのは最近なの」
「ずいぶんと不思議な構えだな」
「詳しいことは分からないけれど、日本人でも食べる前に合掌しない人はいるにはいるみたい」
話を聞きつつ、ブチャラティもフォークを手に取る。「の両親はどちらも日本人なのか?」
「ううん。両親はいない」
「いない?」
「いないって言い方はおかしいか。一度も会ったことがないって言ったらいいかな。物心ついたときには既にイタリアにいたからね」は感情を込めない口調で言った。
ブチャラティはから聞いた話を思い出す。ハートのブローチを貰い受けた人物は、人物はてっきり彼女の両親のことだろうと思っていた。
そうではないと分かったいま、ひとつの疑問が浮かぶ。
ならば彼女をここまで育てたのは――誰だ?
その疑問に加え、もうひとつの事実が浮上する。は生まれてから両親の顔や、両親との記憶がないままここまで育ったということになる。両親の記憶がないまま、両親からの愛情を受けないまま幼少時代を送ってきたことを考えても、ブチャラティには想像もつかない。
正直な気持ちをいえば、がいままでどう過ごしてきたのか気になる。情報屋になった機縁も聞きたい。しかし先ほどのの口調ぶりを見ると、あまり入り込んだ話をするのは地雷を踏む恐れがある。ようやくが閉ざしていた心を自分へ向かって開きはじめたのだ。無理な詮索は避けたほうがいい。
ここ数日で学んできたではないか。こういったことを最初から踏み込んではいけない、と。
「ブチャラティは?」
「オレ?」
「あなたには……両親がいるの?」
に質問はとても自然なものだった。訊かれた質問を同じように返すのは予想していた。ブチャラティはフォークを皿の上に置き、景色を一見する。
「両親は離婚したんだ。オレが七つのときに」
「七歳のときに離婚……」その言葉の意味と重みを感じるように、は小さく呟く。
「母さんは暮らしていた家を出て、オレは父さんといっしょにその家へ残ったんだ」
「でも、あなたはいま」
ギャングをしている――はそう言いたげだ。
眺めていた景色からを見て、横へそらす。「きみと同じさ。オレも色々とワケありなんだ」
それだけを言うと、も心中を察してくれたのか、その先は何も訊いてこなかった。
思えば、最後に母親に会ったのは十二の頃だ。自分がギャングの世界に入る前のこと、母親はクリスマスには必ず会いに来てくれたが、いまではそんなことができる立場でもなければ、できる状況でもない。
気丈な母親ならば大丈夫だろう――そう思いながらも、会いたくないわけではなかった。
考えている間に焼き立てのマルガリータが運ばれてくる。念願のご対面に、目の前のは欣然として目を輝かせる。ウエイターは新しい取り分け皿を並べ、辛味を効かせるオリーブオイルの入った瓶を置いて次のテーブル席へ向かった。
ピッツァに切り込みを入れ、ブチャラティとは同時に口の中へ運んだ。久々のピッツァにはこぼれ落ちそうな頬に手を添えながら唸っている。
「わあ、とっても美味しい」
「気に入ってもらえたようでよかった」
「やっぱりピッツァはマルガリータね」
続いては二枚目のピッツァを手にとる。
「ごめんなさい。わたしばかり食べちゃって」
「気にするな。好きなだけ食べたらいい。余らせてしまったらオレが食ってやるから」
「こんな風に誰かと向かい合って食事をするのも久しぶりなの。グラッツェ、ブチャラティ」
ピッツァを食べながら時折景色を眺め、嬉々とした表情を浮かべる。そんな彼女を見つめながら、ブチャラティはあることを考えていた。が入院生活を送っている間、ブチャラティは毎日のように彼女の元へ足を運ばせていた。苦痛はなかった。寧ろ、拒絶を示していたが自分へ少しずつ心を開いてくれるようになってからの毎日は、ギャングの世界へ身を染めた自分にとって光のような存在だった。ギャングと分かっていながらも、自分と対等の目線で接してくれる。
おかしな話だが、そんな彼女に母性を覚えたのだ。幼い頃に家を出て行き、別の男と再婚をした実の母のことを憎んでいるわけではない。母親から一切の愛情を注がれなかったわけでは決してない。
それでもブチャラティは無意識に重ねていた。自分の母親の姿との存在を。
が退院すれば、二人でいる必要もなくなる。は情報収集のために各地へ。ブチャラティは組織のために任務をこなし、今まで通り金を集める。それぞれ出会う前の行動に戻るだろう。それだけはどうしても避けたかった。
許されるのならば、もう少しだけでいい。二人でいたいと願うようになってしまった。
だからこそ考えた。いまのように、を自分の傍においておくためになにをすればよいか。
「ブチャラティ、全然食べてないじゃない。食べないならわたしが食べちゃうけど……」
「なあ、」
「なに?」
ブチャラティは軽く深呼吸をする。「きみに話しておきたいことがあるんだ」
「わたしに、話?」
はくわえたピッツァをかじり、飲み込んだ。
「もしかして、財布を忘れちゃったの?」
「違う。そうじゃない」
ブチャラティは組んでいる脚の上で両手を固めた。
「きみとオレとで組まないか?」
ピッツァに伸びかけたの手が止まった。
「恥ずかしい話なんだが、オレはこの街のギャングといってもまだ駆け出しのしたっぱなんだ。行動範囲には制限がある上、権力も小さい。その反面、単独行動のできるきみは誰よりも自由を利かせることができるし、なによりその情報網だ。オレが知りたくても知ることのできないことをこれからもたくさん手にするはずだろう。きみにオレの手助けをしてもらいたいんだ」
こちらの話を聴き入れるように、は姿勢を正して体を前のめりにさせた。
「ここで話を戻そう。が入院していた際の医療費は確かにオレが全額支払わせてもらった。つまり、きみはオレに返すべき金があるってことは分かるな?」
ここまで話せばも気がついたようだ。鼻で笑われたが、依然として状況は変わらない。
「あれは前払いだ。返すのはいくら時間がかかっても構わない。ただし、一括払いは認めない」
「直接あなたに渡さなくちゃだめってこと?」
「そういうことだ。返すものはなにも金限定とはいわない。金額に似合うものであればいい」
「それがわたしの集めた情報ってことね」
「情報以外にも、オレが欲しいと思えるものがあればその都度教えてくれ。オレも必要であれば、の情報収集の手助けをさせてもらおうと考えている」
「その際の手数料は?」
気のせいだろうか。の頭上で素早い手捌きで電卓が叩かれている光景が透けて見えた。
ブチャラティとはまるで密談のように、自然と互いの距離を縮めていた。先ほどよりも前のめりになっているに対して、ブチャラティも体を前へ倒す。
「きみがオレの傍にいる」
はこちらを見たまま、目をそらさない。
「オレといれば、以前のように悪いやつらから追われることもなくなるだろう。だが、あまり二人で固まって行動していたとなれば、組織の目に止まる場合もある。そういった面倒ごとにを巻き込まないよう、オレは全力を注ぐつもりだ」
「なるほど。わたしにも得があるってことね」
は姿勢を直し、椅子の背もたれに背中を預けた。
「交渉上手ね、ブチャラティ。やっぱり慣れてる」
「きみに褒められるのは悪い気分じゃあないな」
正直、とは腕を組んだ。「わたしは完全にあなたを信頼できているわけじゃあない。どこか裏があるんじゃあないかって思っている節もあるから」
実際に『下心』という名の『裏』があるからな、ブチャラティは心の中で呟く。
「でも不思議なことに、その裏を信じてみてもいいと思っている自分もいる。そうさせてくれるのはブチャラティの見えない力の影響なのかもね」
だから、とは続ける。
「わたしは、あなたをもっと知りたくなった」
は椅子から静かに立ち上がり、ブチャラティに向かって手を差し出した。
ブチャラティも椅子から腰を浮かせた。自分に向かって差し出された手を掴む。その時、背後に浮かんでいたスティッキィ・フィンガーズの手のひらが、ブチャラティとの手を包むように自らの手を重ねた。ふと自身の分身を見れば、その口元は僅かに弧を描いているように見えた。
握手を交わしたブチャラティとは手を離し、互いの手のひらをぱちん、と打ち合った。
交渉成立のようだ。二人は再び着席する。
「それにしても汚い手口。もしかして先に医療費を払ったのは、この話を持ちかけるため?」
「何度も言うようだが、オレはギャングだ。ギャングの手段に綺麗もなにもない」
「厚意じゃあなかったんだ」が白い目を向ける。
「はオレに借りを作ったままでいられるような人間ではないと思ったからそうしたんだよ」
確かにそうだけど、とは言う。
「そうだ、。きみは携帯電話を持っているか?」
「え? 持ってるけど……」
「これからなにかと連絡を取り合うことになるだろう。きみの連絡先を教えてくれないか」ブチャラティはポケットから携帯電話を取り出した。
しかし、はかぶりを振った。
どうしてだ。ブチャラティが問うたとき、彼女から返ってきた答えはたった一言だけだった。
「ごめんね」
このときのブチャラティは、何か教えられない事情があるのだろうか。訊いたタイミングが悪かったのか。様々なことを考えたが、そのようなことを考えることもできなくなると、今後の出来事で思い知るようになる。
そうだ。結局はその日から一度も、ブチャラティへ連絡先を教えたことはなかった。幸いにも連絡を取れずにいても困ったことはなかった。
やがてブチャラティとは、直接会って話し合う機会が増えていった。ブチャラティは街の者たちからの信頼を得ながらから情報をもらい、組織に納めるための金目のものを見つけ出した。幹部のポルポからも以前よりも大きな任務を課せられ、スタンド使いに関わるものはブチャラティがすべて受けることになった。
に感化されたのかは定かではないが、この街ではありがちな報道や事件の隅々にまで目を通した。なかにはの知らない情報もあった。そのことに彼女はとても悔しそうにしていたが、そのことを責め立てるようなことは一切してこなかった。ブチャラティは既にできあがっている情報を探し、かき集める。一方は未完成な情報を確実なものとして見つけ出していく。それはお互いにとって、ある意味正解だとブチャラティは思っていた。
ブチャラティがギャングとして勤しむなか、は変わらず情報収集で各地を回っていた。本拠地はネアポリスであるため、取引相手とは通信機器を使用して交渉を行い、報酬は宝石やブランドバッグ、現金などで手元へ届けてもらうようになった、という話を彼女から聞いた。送られてきた金目のものは半分を自分の利益に加え、もう半分をブチャラティが譲り受けていた。
時にはがやむを得ずネアポリスを離れ、国外へ向かう期間もあった。その際には行き先と目的、戻る日付をブチャラティへ必ず伝えていた。
「フランスだから、三日以内には戻れるかな」
「ああ、分かった」
「寂しい?」が悪戯のように訊いた。
「その言葉が欲しいなら、いくらでも言うぜ」
「じゃあ、本当は寂しかったって泣きついてくるあなたを想像して帰ってくる」
それでもは、ブチャラティと連絡を取り合う最善の手段を提案することはなかった。ブチャラティは何度も連絡先を訊いたが、断られるたびに虚しくなり、次第にその話題を口にする回数は少なくなっていった。
時には厄介ごとに巻き込まれ、ある時には不可解な事件へ繰り出し。そして気付けば、ブチャラティとは三年ほどの時間を共に過ごしていた。
ブチャラティはやや急ぎ足である場所へ向かっていた。人を掻き分け、先の階段を上る。
「いらっしゃいま――ああ、ブチャラティ様」
店の前に立っていたウエイターがやって来る。彼とも既に三年以上の付き合いだ。
「お連れ様は、もうご到着されておりますよ」
「そうか。席はどこだ?」
「お言葉ではございますが、それは野暮な質問かと」
ブチャラティは一笑した。「それもそうだな」
ウエイターが別のテーブル席へ向かい、ブチャラティは店の奥へ足を進める。窓際の席ではノートパソコンのキーを打ち込んでいるの姿があった。グラスの水を一口飲むと、こちらに笑顔を向けてきた。
わたしのほうが一足早かったね、ブチャラティ」
「待たせてすまなかった」
「大丈夫、気にしないで。時間が余って早く来すぎちゃっただけだから」」
ブチャラティはの向かいの席に座り、注文を訊きにきたウエイターにカッフェを頼んだ。
「今更言うことでもないが、例のごとくこの席を選んだな」ブチャラティが言った。
「もちろん」
は窓の外を眺めた。
「ここは特等席だから」
二人が見つめる先にあるのは、ネアポリスの街並みと夕焼け色に染まる海の景色だった。