ドリーム小説 40

 真っ直ぐと見つめられたの瞳に曇りはなかった。握られている手から感じる熱と、いままで体験したことのない胸の高鳴りに、ブチャラティの体が硬直した。
 信じる。はいま、オレを信じると言ったのか。
 気がついたときには椅子から立ち上がっていた。ベッドの上に片手を載せ、に向かって身を乗り出す。距離を縮めても、は以前までのように距離をおこうとはしない。決して目をそらさずにいてくれる彼女の視線が、これほどまでに幸福に思える。
「オレを信じてくれるのか?」
「寧ろ、あなたもわたしを信じてくれるの?」
 無論、答えは最初から決まっている。ブチャラティは握られている手に自分の手を重ねた。
「オレはを信じるよ」
「ブチャラティ……」
「最初からオレの全てを信じようなんてことは考えなくていい。少しずつでいいんだ」
「それでも、少しずつでもいいから、あなたのことを信じてみたくなったの」
 重ねている手を解放し、の頬に手を添えようとしたときだった。病室の扉が叩かれた。ブチャラティとは勢いよく手を放し、お互いにのけ反った。
 慌てて身を整えたが扉の向こうにいる人物に承諾の意を伝える。病室へ入ってきたのは、彼女の治療を担当した医師だった。彼はブチャラティが来ていることに微笑んでから、の様態をうかがった。現状は特に変わったところはない、とは医師へ伝える。彼も納得し、の表情を眺めてからブチャラティに向かって小さく手を挙げ、病室を去った。
 再び二人きりになり、気まずい空気が流れる。
 の頬へ向かって無意識に伸びていた手。あのまま邪魔者が入らず、彼女に触れていたら自分は何をしようとしていたのだろう。軽率な行動に鞭を打ち、ブチャラティは開いていた手を拳に変えた。
「なあ」
「あの」
 今度はブチャラティのほうが早かった。先を譲るようにが手のひらを差し出してくる。
「これは聞いた話なんだが、はいままで組んできたやつらと上手くいかなかったのか?」
「上手くいかなかったんじゃあなくて、わたしが相手に期待しすぎていたのがいけなかったの。男だから大丈夫だと思っていた人が情けなかったり、頼りなかったり。まあ実際、波長が合わなくて別れた人のほうが多かったけどね」
「最近になって別れたやつはどうだったんだ」
「自分の身は自分で守れるって言い張っていたんだけど、何だか危なっかしくてね。追っ手から逃げられるようにわたしが撒いてあげたんだけど、向こうがわたしだけ逃げたように捉えたみたいで。それからはもう非難轟々だった」
「だからあの時……」
 うん、とは頷く。「見方の問題って怖いの。釈明しても結局は言い訳になってしまうし、話し合おうにもわたしの言葉に耳を傾けてくれなかったから。でも、あなたは違う。こうしてわたしの話を聞いている間も、ずっとわたしの目を見て話してくれているもの」
 意識したことはないが、人の目を見て話を聞き、話をすることになったのは父親の影響でもある。父親は寡黙な人物だったが、こちらが一声かければ必ず目を見て応えてくれた。そんな些細なことの積み重ねが、ブチャラティの父親への信頼を高め、尊敬するようになった。
「わたしも今度からは自分の考えや気持ちを、ちゃんと相手に伝えられるようにしなくちゃ」
「その手伝いなら、いくらでも付き合おう」
「そういえば。ブチャラティが日頃から色んな人に隔たりなく優しいって話、本当なの?」
「誰から聞いたんだ。そんな話」
「さっきの看護師さん」
 ブチャラティは後頭部を掻いた。「あの看護師、そろそろきつく言うべきだな」
「それはだめよ。あの看護師さんは、ここの病院で一番怖いって言われてるんだから」
「ギャングに怖いもクソもあるか」
「じゃあブチャラティには怖いものはないの?」はブチャラティの顔を覗きこんだ。
「きみを見失うのが怖い」
 は目を丸くした。それから病室に響き渡るほどの声で大笑いした。大笑いしたお陰で脇腹の傷が開いたのか、横になりながらも笑い続けている。
「そんなに笑うところか?」
「ごめんなさい」
 は目尻に浮かんだ涙を拭った。
「本当におかしな人。今までにないタイプだし、例えるならびっくり箱みたいな人ね」
「これからもきみを驚かせるような男でありたいな」
「じゃあ、あなたが怖い思いをしないように、わたしがいる間はここへ来てくれる?」
 はシーツの隙間から片手を出した。ブチャラティはそれを握りしめ、もちろんだ、と頷いた。
 ブチャラティの応えに満足したは、握った手に力をこめてから手を引っ込めた。
「それにしても」
 は着ているワイシャツの袖を掴んだ。
「ここの病院、どこの洗濯用洗剤を使ってるんだろう」
「洗剤?」
「このワイシャツ、とっても良い香りがするから」
 袖を鼻に近づかせるをどんな顔で見たらいいか、ブチャラティには分からなかった。
 それからのこと。ブチャラティは仕事の合間をぬいながらの元へ通い続けた。見舞い品である果物の盛り合わせを持っていけば、は果物ナイフを使って器用にりんごを花や白鳥の姿に変え、またあるときはうさぎの耳のように皮を剥いて見せてくれた。
 病室の窓から涼しい風が入りこむと、はファッション雑誌が読みたいと言った。買ってきた雑誌を読みながら、はどんなものが好きなのか。どんな気持ちで服を選ぶのか。もし好きな男と出かけるのならば、どんな洋服を着たいのか。いろいろなことを訊いた。
 の話を聞いていると、彼女からも自分のことについていくつか問われた。それらはとてもありふれた質問ばかりだったが、彼女との会話に飽きは訪れなかった。
「ブチャラティが好きなものってなに?」
「好きなもの?」
「前はりんごが苦手だって言ってたでしょう? だから逆に好きなものはなにかなって」
 ブチャラティは頭の中で好物を思い浮かばせる。「カラスミソースのスパゲティーは好きだ」
「そうなんだ。それ以外は?」
「オレの好物なんて訊いてどうするんだ」
 は、ふふっと笑う。「それはナイショ」
 なんだそれは、と思ったが、そのあともブチャラティは他にも自分の好物を挙げていった。
 が入院してから二週間目。体調は回復し、深かった脇腹の傷も完治に近づいていた。包帯を外し、治しりつつある脇腹の傷跡をブチャラティに見せる。ブチャラティは医者と自分以外には決して素肌を見せるな、と言ったが、は理解していない様子だった。
 立って歩けるようになったを連れ、病院の周りを散歩していたときのことだ。大通りに新しくジェラテリアが建った話をすると、は大きく反応を見せた。
「もしかしてヴェネツィアが一号店の?」
「詳しいことは分からないが、最近は若い女性たちに人気なんだそうだ。聞いた話によれば、そのジェラートを買うまでに一時間はかかるらしい」
「一時間か。こんな炎天下でそんなに並んでたら、わたしたちが先にとけちゃいそうね」
 でも少し気になるな、と呟いたの小さな願いをブチャラティは聞き逃さなかった。
 次の日、ブチャラティは普段よりも遅れての病室を訪れた。病室で本を読んでいたはブチャラティの姿を見て、安心したように息をついた。いつもより来るのが遅いからとても心配していた。そう話すにブチャラティは謝罪する。
 しかし片手に提げている白い箱を見せた途端、暗かったの表情が、ぱっと明るくなった。
「これ、もしかして……」
「ああ。以前話していたジェラートだ」
「わざわざこんな時間まで並んできてくれたの?」はどこか申し訳なさそうに訊いた。
「いや、今日は列がそこまで長くなかったんだ」
 嘘だった。人気のジェラテリアは、開店からしばらく経った今でも変わらず行列を作っていた。
 しかしここで素直に「二時間も並んで買った」と言えば、は間違いなく怒るだろう。
 いいんだ。オレはこの反応が見たかったんだから。
「食べていいの?」からは今すぐにでもかぶりつきたいという勢いが滲み出ていた。
「ああ。医者には既に許可をとってある」
「グラッツェ、ブチャラティ。……あッ。わたしの大好きなピスタチオじゃない」
 箱の中身を見ながら、は子供のように喜ぶ。
「本当にジェラートが好きなんだな」
「うん、大好き。スプーンが二つあるからブチャラティもいっしょに食べましょう」
 渡されたスプーンを手に取り、ブチャラティはとジェラートのカップで乾杯した。
  
 が入院生活を続けて四週間。病室にはベッドのシーツを畳んでいると、同じく病室の片づけをしているブチャラティたちの姿があった。ひと月世話になった病室に別れを告げ、ブチャラティは荷物を持って病室を出た。
「忘れ物はないか」
「まるであなたはわたしのお母さんみたいね」
 病室を出た先には、の担当医と彼女の着替えの手伝いをしていた看護婦が待っていた。
 は二人に向かって深々と頭を下げる。「長い間お世話になりました」
「回復が思ったよりも早くて驚いたよ。若さのお陰もあるんだろうが、一番の特効薬はブチャラティか」
 担当医は白衣のポケットに手を突っ込みながら言った。
「彼には感謝しています」
「ブチャラティもよかったわね。さんが目を覚まさない間はいろいろ慌てて――」
 看護師の冷やかしをブチャラティが制す。
「その話はいいだろう」
「そんなに怒らないの。着替えを覗き見していたこと、さんに話されたくないでしょう?」
 耳打ちされた脅迫に、ブチャラティはこの病院内で最も怖い者が誰かを改めて感知した。半分は誤解だが、彼女なら色んな見方を変えてに話すに違いない。
 を連れて病院の出入り口へ向かう。病院の駐車場にはブチャラティの車が停めてある。
「それでは」は再び二人のほうへ振り返った。
「もうあんまり無理しちゃだめよ。この世で一番の幸せは健康であり続けることなんだから」
「はい。気をつけます」
 看護師は、そうだ、と奥から紙袋を持って戻ってくる。
「ブチャラティ、あなたから借りていた着替え。洗濯して干しておいたからね」
「わざわざ洗ってくれたのか」
「わたしみたいな年代の女はね、年下の若い男に世話を焼きたくなるものなのよ」
 ブチャラティは看護師からワイシャツなどの着替えの入った紙袋を受け取り、礼を伝える。
「あなたの着替えって?」が訊いた。
「あら、聞いてなかったの? さんに毎日着替えさせていたシャツは全部、彼の私物よ」
「えッ」
 看護師から明かされた真実に、は顔をみるみる真っ赤に染めていく。今にも爆発しそうなほど火照った頬をおさえながら、はブチャラティのほうを見た。
「じゃあ、あの時良い香りって思ってたのは……」
 ブチャラティは黙るしかなかった。それを肯定と受け取ったは、恥ずかしさの頂点に達した様子でその場に座り込んだ。彼女の肩を看護師が労わるように叩いたが、は顔を両手で覆い隠したまま、駐車場の向こう側へ逃げるように去っていってしまった。
「あらあら。あんなに早く走れる元気があるならもう大丈夫そうね。ねえ、ブチャラティ」
「また彼女にいらんことを……」
「幸運を祈っているわ。ブチャラティ」
「悩み相談ができたら、心療科を訊ねるといい」
の世話になったが、それは余計なお世話だ」
 二人の言葉を手で払いのけ、ブチャラティは駐車場へ向かったを追いかけた。は偶然にも自分の車の傍で佇んでいる。
 車のキーを取り出し、車の扉を開ける。
、乗ってくれ」
「あれ。これ、あなたの車だったの?」
 が助手席に乗り込み、ブチャラティは運転席へ座った。炎天下で待たせていた車内はすっかりサウナ状態になっており、ブチャラティは急いでエンジンをかけた。
「これからどこへ向かうの?」
「せっかく退院できたんだ。どこか景色の良い店で、美味い料理でも食べたいだろう」
「そうだ。わたし、医療費をまだ払ってない」
 慌てて病院へ戻ろうとするを止めた。
「いや、医療費ならオレが出した」
「ちょっと待って。そこまで世話をかけるわけにはいかないんだから。ちゃんと払わせて」
「その気があるなら、まずはシートベルトを締めてくれ」ブチャラティはアクセルを踏んだ。
 動き出した車内では急いでシートベルトを締める。
「そういえばブチャラティっていくつなの?」
「今年で十五になる」
「……運転免許は?」
 ブチャラティは無言でハンドルをきった。一気に青ざめたの長い悲鳴が車内に響いた。

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