傷を負ったを医者へ連れて行くと、病院の者たちは手早く彼女の処置を行った。手当てはその日の夜から明朝まで続き、ブチャラティは眠ることも忘れて病院の待合室でが出てくるのを待った。
病院の窓から太陽の光が差し込む頃。治療室からを載せたベッドが医者と共に出てきた。医者の話によれば、頭部や顔の傷は浅かったものの、やはり脇腹の出血が酷かったのだという。二週間ほど休養をとれば普段の生活に戻れるようだが、怪我のほかにも疲労や発熱が診断され、すべての体調が整うまでは入院を余儀なくされた。
ブチャラティは個室のベッドで眠っているの傍に椅子を置き、腰を下ろした。怪我の部分には包帯やガーゼが巻きつけられており、その姿は痛々しかった。頬にかけている髪をそっと撫でれば、は少しくすぐったそうに小さく身よじらせる。
と知り合ってまだ間もないが、彼女に惹かれてここへいるのは確かだった。初めてを見かけたときから彼女は他の者とは違い、自分に近い何かを秘めている者だと直感した。子供に麻薬を売る大人に注意を払う姿や、自分の力で生き抜こうとする生き方。どこか孤独を抱えている横顔はまるで自分を映す鏡のようだった。
少し前までブチャラティも自分と自分の両親以外を信じることができずにいた。唯一心を預けられるものはネアポリスを仕切っている裏の世界の人間のみ。力をつけてはいても、胸を張って仲間と呼べる人間がいないのは自分も同じだと、を見て改めて痛感した。
――自分とは、どこか似ているのだ。
それをへ伝えたら彼女はなんと言うのだろうか。呆れるだろうか。それとも怒るだろうか。彼女の反応を想像しただけで楽しくなってしまうのは『オレは彼女を分かりつつあるから』なのかもしれない。
「ブチャラティ」
病室の扉がノックされ、ブチャラティは振り返る。扉の前にいたのは看護師だった。
「そろそろ時間よ」
「ああ。わかった」
ブチャラティは椅子から立ち上がり、眠っているを一見してからその場を去った。
「彼女はあなたの知り合い?」
「まあ、そんなところだ」
「あなたとまだ歳も変わらないのに、随分と破天荒な人生を送っているみたいね」
あの傷を見れば普通の少女ではないということは、彼女の目で見ても変わらないようだ。
「そうだ、ブチャラティ。あなた着替え持ってる?」
「着替え?」
「さんの着替えよ、着替え。あの状態だとしばらくはここで寝泊りすることになるから」
そういうことか、とブチャラティは頷く。
「オレの着替えでも構わないなら、今日の仕事が終わった頃に持っていこうか」
「そうしてもらえると助かるわ。洗濯は病院がしてあげるから適当に何枚か持ってきて」
「分かった」
看護師の願いを聴き入れ、ブチャラティは一度持ち場へ戻った。その日の夕方からブチャラティはが回復するまでの間、仕事の帰りには病室へ通い続けた。が目を覚まさなくとも、女性が好みそうな食べ物や飲み物、週間雑誌もテーブルの上に並べた。
が目を覚ましたときに、いつでも彼女の傍にいてやりたい。その一心で動いていた。
そしてが眠りはじめてから三日後の早朝。朝日の光と共に、彼女は意識を取り戻した。
一台の車が猛スピードで道路を走っていた。黄色から赤色に点滅するまでの一瞬で車は信号を切り抜け、道路に跡が残る勢いで十字路を曲がる。その車は病院付近の駐車場におさめられ、運転席から出てきたブローノ・ブチャラティは殴るように病院の扉を開いた。
突然入ってきたブチャラティに、病院の者たちは目を丸くさせる。
「が目を覚ましたというのはほんとうか?」
受付の者は驚きながらも頷いた。「は、はい。様なら病室で休まれていますよ」
「?」ブチャラティは首を傾げた。
「・様です。さきほど担当医の診断が終わり、傷の回復も順調だと仰っていました」
どうやらのファミリーネームは『』というようだ。初めて聞いた名にブチャラティは一瞬戸惑いを見せたが、目を覚ましたというの元へ向かう。
病室の前へ行くと、扉が少しだけ開いていた。その隙間から中を覗いて見れば、看護師に着替えの手助けを受けているの姿があった。上半身を露出し、下着を外そうとしているところまで見てブチャラティは急いで目をそらし、壁に背中を張りつけた。
「いま、何か音がしませんでした?」病室からの声が聞こえる。
「そう? 気のせいじゃないかしら。ほら、さん。痛いだろうけれど、両腕を上げて」
ブチャラティは病室に耳を立てる。廊下を歩く病人たちの目が痛いが、気にせず目を瞑った。
「わたし、三日も眠っていたんですね」
「そうよ。傷が結構深かったし、熱もあったんだから。普段からちゃんと体調管理してたの?」
「はい。体調には気をつけています。その日は朝から調子が悪かったような気もしますけど」
「先生は疲労だと話していたわ。もう、若いからって油断しちゃあだめなんだからね」
「ごめんなさい」は小さく笑っていた。
どうやら少しは元気を取り戻したようだ。の明るい声にブチャラティも胸を撫で下ろす。
病室の中から着替えを済ませた様子が窺われたが、ブチャラティは看護師が出るまで待った。
「ねえ、看護師さん」
「なあに?」
「あの……彼はいまどこに?」
「彼ってもしかして、ブチャラティのこと?」
まさかの口から自分の存在が出るとは思わず、ブチャラティは、どきりとする。
「ブチャラティなら今日はまだ見てないわね」
「今日は?」
「さんは眠っていたから知らないでしょうけど、ブチャラティはあなたが目を覚ますまで毎日ここへ通ってくれていたのよ。テーブルに置いてある果物や雑誌なんかも、きっと彼が持ってきたんじゃあないかしら。彼はいつだって誰にでも優しいけど、ここまで親切なのもなかなか珍しいわ。きっとさんのことを気に入ってるのよ」
看護師が茶化すように言うと、は奇声を発した。
「今日もそろそろ来るはずよ。次の体温測定は夕方だからね。ゆっくり休んでおくように」
病室の扉が開き、出てきた看護師と目が合う。相手は何も言わずに後ろ手に扉を閉め、持っているクリップファイルで表情を隠した。それでも彼女の目は誤魔化せない。明らかに口元はにんまりと笑っているだろう。ブチャラティは思わず目をそらした。
「やっぱり来た。今日もお疲れさま。あなたも立ち聞きなんて悪趣味なことをするのね」
「中に入ろうとしたら、その……」
口ごもっていると看護師が小さく笑った。
「さん、いまなら面会できるわよ。でもまだ上手く起き上がれないから注意してね」
念を押してから看護師は去っていった。ブチャラティは軽く深呼吸をしてから病室の扉をノックする。どうぞ、との声が聞こえてからドアノブを捻った。例によってはベッドの上で横になっていた。とはいっても上半身を起こしている状態だ。数日前には頭に巻かれていた包帯やガーゼは取られていた。
「あっ」ブチャラティの姿には小さく声を発する。
ブチャラティは軽き手を挙げて挨拶をする。
ベッドの傍の椅子へ座るように促され、ブチャラティは無言で椅子へ腰を下ろした。
そしてよく見れば、が身につけている服はブチャラティが持ってきた着替えだ。何の変哲もないただのワイシャツだが、が着ているだけで印象がまるで違う。
は知っているのだろうか。身につけているワイシャツが、目の前にいる男の私物だと。
色々と考えている間に長い沈黙が流れる。が目を覚ましたら訊きたいことが山ほどあったはずなのだが、こうして本人を前にすると、なかなか言葉が思い浮かばない。
「あの」
「なあ」
ほぼ同時だったが、のほうがやや早かった。口に手を当てて、ごめんなさい、と謝っている。やはり日本人は意味もなく謝罪を告げる傾向にあるのだろうか。
苦笑を浮かべてからブチャラティは腰を浮かせたまま椅子を軽く持ち上げ、ベッドへ近寄る。
「気分はどうだ。少しは楽になったか?」
は深く頷いた。「大分ね。まだ脇腹が痛むけど、起き上がることはできるから」
そうか、とブチャラティは安堵の息をつく。
「あなたがここまで連れてきてくれたの?」
「覚えてなかったのか?」
頬に指を当てながらは唸る。「あの時は意識が朦朧としていたから……」
今回の傷以外にも疲労や発熱が診断された、という話を思い出す。どうやらあの時点での身体は外傷以外にも肉体的に相当なダメージが蓄積されていたのだろう。あの状況では記憶が曖昧になるのも無理はない。ブチャラティは、気にするな、とかぶりを振った。
「わたし、あなたにお礼を言ったっけ?」
「ああ」
「でもわたしが忘れちゃったから、もう一回言わせて。ディ・モールトグラッツェ」
そう。そして日本人はとても律儀な性格だ。
そういえば、とが両手を合わせる。
「わたしが目を覚ますまで、あなたがここにいたって看護師さんから聞いたんだけど……」
「あ、ああ」
あの看護師、余計なことを言いやがって。
「目を覚ましたとき、誰かが傍にいたほうがいいと思ったんだ。しかし、結局外れてしまったな」
「そのことは気にしなくていいの。ただ、その。気のせいじゃなかったんだなって……」
「なんだって?」
「ううん、なんでも。そうだ。ここに並んでいる果物や雑誌もあなたが持ってきてくれたの?」
はテーブルに並んでいる果物や週間雑誌を見やる。昨夜持ってきた果物は市場の者から譲り受けたものだ。ブチャラティは立ち上がり、りんごをひとつ手に取った。病室に設置されている流し台でナイフを使って皮を剥く。その様子をが見つめている。
「へえ、意外と上手ね」
「これくらいはできるさ」
「イタリアの男はマンモーニばかりだから、家事なんて全然できないと思ってた」
一口の大きさに切り分け、皿に盛りつける。は袖を押さえながらフォークを手に取る。そのまま口へ運ぶのかと思いきや、ブチャラティに向かってりんごを差し出した。ブチャラティは思わずのけ反った。
「のために剥いたんだぞ。きみが食べるんだ」
「ギャングからの差し入れなんて怪しいじゃない」
「毒入りりんごだって言いたいのか?」
「そういうわけじゃあないけど。あなたが食べてから食べたほうがいいって勘が働いたの」
やはり彼女はギャングを大きく勘違いしている。童話に登場する魔女ではあるまいし。
しかし、ブチャラティが差し出されたりんごと距離をとった理由は他にある。頬に汗を垂らし、目の前のりんごから目を背けると、は不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの?」
「いや……」
「やっぱり何か盛っていたの?」
本格的に疑いの声色へ変わったに、ブチャラティは冷静に釈明してかぶりを振る。
「毒は入っていない。ただ、その。苦手なんだ」
「なにが?」
「……りんごが」
しーんと、病室が静まり返った。りんごを差し出したままのが、呆気にとられている。
なぜ自分は最初にりんごを手に取ってしまったのだろうか、とブチャラティは後悔する。呆れてものが言えないに何と言葉をかければいいのか考えるよりも先に、が吹き出した。小刻みに肩を揺らすその様子は、ばかにしているように見える。
ブチャラティはため息をついた。フォークを握ったの手を握り、りんごを頬張る。これはほとんどやけくそに近かった。中心に蜜が密集し、歯ごたえの良いりんごだ。けれども、どれだけ質の良いりんごだとしても嫌いな触感に変わりはない。喉を鳴らして飲み込む様を見せれば、は頷いた。毒入りではないことは証明できたようだ。
「無理に食べなくてよかったのに」
「悔しかったんでね」
「すっかり忘れてた。イタリア男はマンモーニ以上に負けず嫌いで無駄にプライドが高いんだった」言いながらは切り分けられたりんごを頬張る。
「一人で食えないなら、オレが手伝おうか」
「そんな恥ずかしいことできるわけないでしょ」
「まったく、きみも頑固だな」
ブチャラティが肩を落とすと、は小さく笑った。
「医者は今回の傷以外にも疲労と発熱があると言っていたが、体調はもういいのか」
「うん。どうやら眠っている間に薬が効いたみたい。疲れも大分とれたから、あとは傷だけ」
「傷が治るまで、ゆっくり休むといいさ」
「あなたにも色々とお世話をかけちゃった。このお礼はいつか必ず返させてね」
「期待せずに待っているよ」
の返す、という言葉を聞いて、ブチャラティは大切なことを思い出した。
「そうだ、。これをきみに返そうと思っていたんだ」
ブチャラティはスーツのポケットを漁った。が目を覚ますまで片時も手放さなかったハートのブローチだ。それを手のひらに載せると、はブローチを凝視した。フォークに刺したままのりんごをシーツの上に落とし、酷く動揺する。
「どうしてそれを!?」
勢いよく起き上がったは、脇腹をおさえて顔を歪める。それをブチャラティが支えた。
「おいおい。さっきゆっくり休めと言ったばかりだぞ。傷が開いたらどうするんだ」
「ごめんなさい。でも、本当に見つけてきてくれるだなんて思ってなかったから……」
ブローチをの手のひらへ載せ、握らせる。
「いったいどこで?」
「サンタルチア港さ。が言ったんじゃあないか」
「確かに言ったけれど、わたしも散々探したのに……」
「ブローチは浅瀬のほうへ落ちていたんだ。海の中はさすがに探さなかっただろう?」
「あなたは探したの?」が驚き顔で訊いた。
「別に海の中へ潜ったわけじゃあない。タイミングがよかったんだ。まるで見つけてくれ、と言われているように海の中で光っていたのさ」
「まるで見つけてくれと、言われているように……」
呪文のように呟いたあと、は受け取ったブローチを抱き締めるように手の中へおさめた。
この様子を見ても分かる。見つけ出したブローチはにとってとても大切なものだと。
「これはね」
はブローチの表面を見せた。
「わたしを育ててくれた人から貰い受けたの」
「そうだったのか」
「肌身離さず持ち歩いていたんだけど、まさか落としちゃうなんて思わないじゃあない。ネアポリス中を探し回っても見つからないから、諦めかけてた……」
「見つかってよかったな」
「わたし、なんだか短い間であなたのことを随分振り回してしまって……。本当にごめんなさい」
「謝る前に、なにか言うことはないか?」
ブチャラティがに詰め寄る。は目を瞬かせながら見つめ返したあと、笑みを浮かべた。
「ディ・モールトグラッツェ。ブチャラティ」
「また、オレの名前を呼んでくれたな」
「また?」は首を傾げた。
「まさか、そのことも覚えてないのか?」
頷くに、ブチャラティは手のひらで顔を覆った。
「え、なあに。どういうこと?」
「いや、いいんだ。それよりもう一度呼んでくれないか」
「え?」
「オレの名前だよ」
ややあっては咳払いのあと、囁いた。
「……ブチャラティ」
「ああ、」
初めて路地で見かけたときとは違う。声を掛けても見向きすらしなかったが、こうして自分を見つめてくれる。悪漢に襲われ、自ら傷を負ったときも彼女は助けを求めるようなことはせず、逃げろと言った。自分の意思でを助け、彼女を医者へ連れて行くときも、決して目を合わせることはなかった。
そして閉ざされた目。次にその姿を見るときには、誰よりも先に自分を映してほしいと願った。誰よりも早くその目覚めた姿を見たいと思った。
三日ものあいだ閉ざしていた目は再び開き、太陽に反射して光を帯びた。それらを自分に向けて微笑んでくれることが、なにより嬉しかった。
見つめ合っているとが、はっとして目をそらす。ブチャラティは頭上に疑問符を浮かべた。
「あなたの目は、いつだって真っ直ぐね」
予想外の言葉にブチャラティは思わず目を瞬かせた。
その様子を見て、が笑う。「わたしと初めて会ったときもそうだった。あなたは相手の目をちゃんと見ながら話をする人だって思ってた」
「からはそっぽ向かれてばかりだったけどな」
「眩しかったの、ブチャラティが。どうしてそこまで真っ直ぐに生きていけるのかなって」
真っ直ぐに生きているわけがない、とブチャラティは心の中で自分を否定した。自分と自分の父親の身を守るためとはいえ、裏の社会に身を投じた立場だ。目の前にいると比べれば、自分がどれだけ黒く、抜けようのない色に染まっているのかが分かる。
そんな心中を察したのか。はかぶりを振りながらブチャラティの右手をそっと手にとった。
「自分の考えに疑問を持たず、自分の信じたことに真っ直ぐなところって意味よ。もしかしたらわたしはあなたに嘘を言うかもしれないし、あなたを見捨ててあの場を去ったかもしれない。それでもブチャラティはわたしを信じてくれた、助けてくれた。そうでしょう?」
一呼吸し、は顔を俯かせる。
「いままで考えたこともなかったけれど、あなたと接してみて少しだけ考えがまとまった」
「まとまった?」
「わたしは――ブチャラティ。あなたを信じてみたい」