ドリーム小説 38

 ピッツェリアの店主に食事の礼と別れを告げたあと、ブチャラティは路地裏に向かった。到着したのは約束の時間の五分前だった。辺りを見渡すが、の姿はまだ見当たらない。
 路地の壁に背中を預け、ブチャラティはポケットからハートのブローチを取り出す。手のひらサイズのブローチはとても軽かった。月に向かって照らしてみれば、確かに本物の宝石に似合う輝きを放っている。指先で回転させるたびに星が瞬いているようだ。
 はどんな反応をするだろうか。工事の波に流され、海の彼方まで消えてしまったブローチの行方を諦めていたに違いない。これを手にしたときの彼女の顔を想像するだけで、顔がほころぶ。
 ――これで少しは信用を得られるといいんだが。
 ブローチを見つけたことは良しとして、ブチャラティにはもう一つ気がかりなことがあった。がブローチの話を持ちかけたときの台詞だ。
 ――実はわたし、この街であるものを探しているの。一つはわたしにしか見つけられないもので、正直ここにあるのかさえ分からない。
 はブローチ以外にも、この街で何かを探しているようだった。自分自身にしか見つけられることのできないものといえば、将来の夢や目標などといった青臭いことしか思い浮かばない。実際にそういった類のものだとすれば、確かにそれは自身にしか見つけることができないだろう。
 ブローチを見つけ出した報酬として訊いてみるのもいいかもしれないな、との姿を待っているときだった。近くで銃声が聞こえた。この辺りでの銃声は珍しくはない。警察が発砲でもしたのだろうか、とも思ったが、そんな浅はかな出来事ではないとすぐに分かった。
「ちくしょう。どこへ行きやがった」
「いたぞ。あそこだッ」
「待ちやがれ、クソアマがァッ」
 聞こえたのは数名の大人の声だ。それもただの大人の声ではない。薄暗い裏通りに似合う声だ。
 妙な空気を感じたブチャラティは身体の向きを変え、声のしたほうへ駆け出した。
 その時だ。路地裏へと続く向かいの階段から、白色のショートパンツを履いた女が必死の形相で下りてきた。目を凝らしてみれば、姿を見せたのはだった。は階段を駆け下りず、その場で大きくジャンプをした。その瞬間、その場に銃声が響き渡った。ジャンプをしたの脇腹から血しぶきが飛び散り、彼女は悲痛の声をあげる。
 放物線を描きながら地面に着地したは、撃たれた脇腹を押さえながら立ち上がった。辺りが暗がりのせいか、ブチャラティがいることには気がついていないようだ。
 は辺りを見渡すと、ブチャラティとは違う方向へ駆け足で去っていく。その後を追うように、階段から数人の男たちが現れた。彼らの手にはナイフやピストルといった凶器が握られており、その顔に浮かんでいる色は憎悪に満ちている。を追いかけているのは一目瞭然だった。
 男たちは二手に分かれ、一方はが走り去っていた道を行き、もう一方は逆の道へ行った。
 ブチャラティは考える前に脚を動かしていた。逆のほうへ駆けていった男たちの後を追い、を追うことに夢中になっている彼らの背後から攻撃を仕掛ける。ぐあっ、と唸り声をあげ、男は地面へ落ちた。朦朧とした意識のなか、男はブチャラティのほうへ襲い掛かる。振り上げられたナイフをスティッキィ・フィンガーズで両断し、驚き戸惑っている隙を見て、顔面に拳を食らわせる。
 一瞬のことで何が起こったのか分からなかったのだろう。前を走っていたもう一人の男が、倒れている仲間の姿を見て、ひえっ、とその場で尻餅をついた。
「お前もやるか?」ブチャラティは指の関節を鳴らした。
 男は激しくかぶりを振り、更に後ずさる。
「そこを退いてもらおうか」
「は、はいイィッ」男は壁に背中を預け、道を開けた。
 道を開けた男に蹴りを入れてから、ブチャラティはその先の路地を曲がった。角を曲がった先に人影が見えた。ブチャラティは壁に背をつけ、片目だけを覗かせる。壁の向こうには、片手にピストルを構えているスーツ姿の男が一人。その男は空いている手での首を絞め、壁に体を押さえつけている。その手から逃れるようにはもがいているが、びくりとも動かない。
 今すぐ駆けつけてやりたいが、下手に出て行こうとすれば、男の握っているピストルが暴発し、傍にいるに当たりかねない。ブチャラティはしばらく出方を窺った。
「オレの仲間とよろしくやったそうじゃあねえか。男が乗りたいのは車だけじゃあなく、女の体の上ってか。餓鬼のくせに随分と世渡り上手だな」
「勘違いしないで。わたしはあなたたちの仲間とそんな関係になったことはない」
「だったらなんだ」
「あんな弱腰な男、こっちからごめんだって言ってるの。男のくせに女を盾にして、挙げ句の果てには逆恨みなんてして。本当にサイテーな男だった。一番サイテーなのは、そんな男だと見抜けなかったわたしの目利きだけどね」
 そう話すの横顔には憂いが含まれていた。ブチャラティの目には、相手を傷つけた側であるが、誰よりも傷ついているように見えた。
 そんなときだ。の首を押さえつけていた男が彼女の体を地面に放り投げた。開放されたは咳き込みながらも一目散に逃げ出そうとするが、その先に待っていたのは男の仲間たちだ。彼らもまた、ナイフを構えながらにじりじりと歩み寄っていく。逃げ場をなくしたはその場に座り込み、負傷した脇腹を庇いながらその場に倒れ込んでしまった。
「もう逃げ場はねえ。観念しろ」
「……わたしをどうする気?」
「安心しな。殺しはしねえ。お前はまだ若いからな。こっちの世界ではいい商売になるだろう」
 男はピストルをしまい、に手を伸ばした。
 ――今だ。
 男がブチャラティへ背中を向けた隙に、ブチャラティは駆け出した。足音に気がついた男がに伸ばしている手を引っ込め、ピストルを構えようとポケットに手を忍ばせた。その手を狙い、ブチャラティはスティッキィ・フィンガーズの拳で撃ちつけた。
「な、なんだッ。オレの手が真っ二つに――」
 なっちまったじゃあねえか、という言葉をブチャラティの拳が打ち消す。遠くへ吹き飛んだ衝撃で男の手からピストルが手放され、地面にこぼれ落ちた。
 すかさず残りの仲間が立ち向かってくると思ったが、彼らはブチャラティと目が合うと後ずさりをした。威嚇するようにブチャラティが一歩でも近づけば、男たちは握っているナイフを折りたたみ、リーダーだと思われる男を置き去りにしてその場を後にした。
 ブチャラティは地面に落ちたピストルを回収し、倒れているを抱きかかえる。
。おい、!」
 は、うっ……、とその唇から声を漏らす。
「大丈夫か。しっかりしろ」
「わ、分かったから。あんまり揺らさないで……」は表情を歪めながら言った。
 はっとしたブチャラティは、すぐさまの傷口にジッパーを縫いつけて出血を止めた。
 不規則な呼吸を繰り返すが、ブチャラティのスーツを弱々しく掴む。表情を隠している前髪を退けると、彼女の目尻から痛みの涙がこぼれ落ちる。顔には何度も殴られたような痕が残っており、ブチャラティは胸を痛めた。
 は咳き込んだ。「どうして、あなたがここへ?」
「やつらに追われているきみの姿を見たんだ」
「ばかね、もう。せっかくあなたがいる方向とは違う方向へ逃げてきたっていうのに」
「オレのことに気がついていたのか?」
 は首を横へ振った。「あなたなら約束の時間に遅れずに来てくれると思って。だから、あなたはそこにいるんじゃあないかって勝手に思いついちゃったの」
 余計なお世話だったかな、とは苦笑する。
 の頬についている土埃を拭ったとき、先ほど殴り飛ばした男の呻き声が聞こえた。そちらを向けば、男は水を浴びたあとの犬のように体を震わせ、ブチャラティとに殺意の眼差しを向けてきた。懐から取り出されたのは鋭利な形をしているナイフだ。
 ブチャラティのスーツを握るの手に力がこもった。しかしその力はすぐに弱まり、ブチャラティの胸元を押すように叩いた。まるで、逃げろ、と乞うように。
?」
「あなただけでも先に行って。この先の道を曲がれば大きい通りに出るから」
「きみを置いて逃げるなんてことはできない」
「彼は凶器を持ってる。無関係なあなたを巻き込みたくないの。わたしは平気だから、早く」
 の台詞にブチャラティは、ふっと笑った。
「な、なに?」が顔をしかめる。
「いいや。ただ、そういうことは自分の意思を相手に証明してから言うことだと思うぜ」
 スーツのポケットからハンカチを取り出し、の唇から浮き出る血を拭う。そのままハンカチをの手へ握らせ、彼女の体を壁にもたれかかさせる。
 が不思議そうに見上げてくる。その目をじっと見つめたあと、ブチャラティはスティッキィ・フィンガーズを背後に浮かばせ、ナイフを構えている男の元へ向かった。後ろから自分を呼び止めるの声が聞こえたが、聞こえていないふりをした。
 ブチャラティが男の前までやって来ると、相手は口元から流れる血を拭い、にやりと笑った。ナイフを握りしめている手は小刻みに震えている。武者震いとも思ったが、そうではない。男の右腕には麻薬に染まっている痛々しい痕が残されていた。
 そちらに気をとられている隙に、男が声をあげながらナイフを勢いよく振りかざした。
 背後からが叫び声を上げた。しかし、その声がブチャラティにとっては随喜に繋がる声に聞こえた。彼女が痛みに苦しみながらも、自分を案じて声を振り絞ったのだと。
 ナイフを掴んでいる手を軽く捻り、相手の腕を背中まで回して関節を外した。そのまま力を加えて肩の骨を折る。男は痛みのあまり絶叫した。それでもブチャラティは動きを止めない。男の体を地面にねじ伏せ、くたびれた手のひらに釘を打つようにナイフを突き刺した。
 身動きが取れなくなったところで、男の首元にジッパーを作り出す。突然自分の頭が重くなった感覚を覚えた相手は、情けないほどに涙を流して助けを乞うた。ブチャラティは無表情のままジッパーの輪を作り上げていく。あと数センチ進めれば、頭と首が真っ二つに割れるところだ。
「や、やめてくれッ! お、オレが悪かった。オレが悪かったから命だけは助けてくれッ」
 お決まりの台詞にブチャラティは無言で圧する。
「知らなかったんだよォ~~。あんたみたいな兄ちゃんがあいつの仲間になっていたなんてよォ」
「もう二度と彼女に近づくな」
 男は揺れる頭をさらに揺らして頷いた。
 ブチャラティは首元のジッパーを開放した。元の状態に戻った男は安堵の息をもらし、自力でナイフを抜いた。そのままとんずらしようとする相手をブチャラティの手が拒む。顔に大量の汗をふき出しながら振り返った男に、ブチャラティは拳を固めた。
「待てよ。話はまだ終わってないぜ」
「まだなにか……?」
「てめえは女の顔に傷を作っておいて、ただで帰らせてもらえると思ってるのか。ん?」
 ブチャラティは拳を開放させる。その些細な動作に恐怖を覚えたのか、男は涙を浮かべながら更なる助けを乞うようにブチャラティの胸倉を掴んだ。
「待ってくれ。命だけは……命だけはッ」
「自ら掴んだな。射程範囲内に」
「えッ」
 ブチャラティはスティッキィ・フィンガーズの拳の連打を男へ食らわせた。もはや叫ぶことすらできない男は体中から血を吹き出して辺りに赤い雨を散らす。何百発目の最後の一撃でばらばらになった男の身体は壁へめり込み、完全に意識を失った。
 ブチャラティは一息つき、スティッキィ・フィンガーズをしまった。まだまだ殴り足りないのだが、今はの傷の手当てが最優先だ。壁に体を預けたまま座り込んでいるの元へ駆け寄ると、彼女は目を丸くさせながらこちらを凝視していた。
「どうした?」
「いまのはいったい……。人の体がばらばらに」
 ああ、そういうことか。
「あなた、本当は何者なの?」
「言ったはずだぜ。オレはただのギャングだってな」
 放心状態のを他所に、ブチャラティは辺りに散らばっている彼女の私物をかき集めた。女性は荷物の多い印象を持ち合わせていたが、の私物は至ってシンプルだった。財布と手帳。手鏡とリップクリームとハンカチ。すべてをハンドバッグへしまい、それを手に持った。
 すっかり座り込んでしまっているの膝の裏に腕を回し、背中を支えながら抱き上げる。
「ちょ、ちょっとッ」は脚を揺らした。
「おいおい、暴れるんじゃあない。傷が開くぞ」
「ちゃんと自分の足で歩くから……!」
「そう言いながら、座り込んでいたのは誰だ?」
 は顔をむっとさせた。「もう、下ろしてッ」
「だめだ」
「離しなさいッ」
「だめだ。絶対に離さない」抱える手に力を込め、暴れるを自分のほうへ抱き寄せた。
 路地を抜け、ブチャラティは医者の元へ向かった。歩行者とすれ違うたびに不思議な視線を送られるため、少々遠回りだが人目につかない道に変えた。
 先ほどまで抵抗を示していたも徐々に大人しくなり、スーツの襟元を掴んできた。
「痛むか?」
「そりゃあね。でも、まだ少しは平気」
 閉じていく瞼を見て、ブチャラティは胸を貸す。は何も言わずに頬を肩口にすり寄せた。
「あいつらはどうしてを?」
「前に組んでいた人が危険な仕事をしていてね。泥を塗られた仕返しってところかな。こういうことは初めてじゃあなくて、時々あるの。逆上してわたしに恨みを売るような人たちがね。普段ならなんとか切り抜けられるんだけど、今日はなんだか朝から調子が悪くて」は咳き込みながら、途切れ途切れに話す。
「無理に話そうとしなくていい。訊きたいことはあとでじっくり聞かせてもらうからな」
「わたしもあなたにひとつ、訊いてもいい?」
「うん?」
「どうしてわたしを助けてくれたの?」
 変なことを訊いてくるな、とブチャラティは思った。
「助けたいと思ったから助けた。それではだめか?」
「わたしが親しい友人ならまだしも、見ず知らずの人のために危険を冒してまで助ける?」
「そんなことを言ったらも同じじゃあないか。あの路地裏にいた子供たちは、きみにとって何の関わりもない子供だったんだろう」
 は黙り込んだ。
「きみが少年たちを助けた思いと、オレがきみを助けた思いは、きっと同じだと思うんだが」
 そう話したあと、は、そうかもね、と呟いた。
「とにかく傷を治すんだ。綺麗な顔が台無しだぜ」
「わたしの傷が完治したら、助けてもらったお礼にあなたの組織の元で売り飛ばされるの?」
 彼女のなかでギャングのイメージはどんな姿をしているのだろうか。訊きたいところではあるが、ブチャラティは何も言わずに首を左右に振った。
「もう無駄に喋るな。身体がもたないぞ」
「先に話しかけてきたのはそっちじゃあない」
「いいから大人しくするんだ」
「……おかしな人」
 は微苦笑を浮かべ、目を閉じた。
「こんな風に誰かに助けてもらったのは初めて」
 ブチャラティの足が止まった。腕の中でが苦しそうに息を繋いでいる。しかしその表情には母親に抱かれる赤子のようなあたたかい委ねの色が含まれていた。
「安心すると眠くなるっていうのは本当みたい」
「え?」
「ううん、なんでも」
 グラッツェ、ブチャラティ。
 まるで寝言のように囁かれた彼女の台詞に、ブチャラティは心に情を宿した。

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