人生というものは全てタイミングでできている、といつかの随筆家が呟いていた。
ハートの形をしたブローチを見つけ出す。から頼まれたことをブチャラティはその日から行動に起こそうと考えていたが、突然になって本業の仕事が波のように襲い掛かってきた。ブチャラティへ任務を課したのは、他でもないポルポだ。最近になってから人使いが荒くなったと思っていたが、その逆らしい。信頼しているからこそ任せているのだ、と彼は言った。
一日目は結局、夜まで仕事が長引き、探しに出ようと思った頃には体力の電池は切れていた。
そして二日目。との約束の日にブチャラティは改めてサンタルチア港に出向いていた。真夏の港は空からの暑さよりも、アスファルトからの照り返しのほうが何倍も激しい。ブチャラティは頬に流れる汗を拭い、スーツが皺にならないように腕まくりをした。
から聞いた話によれば、港を出てからバールの並んでいる道沿いでハートのブローチを落としたことに気がついたのだという。現在ブチャラティがいる場所は、そのバールが並んでいる道沿いだ。この辺りはちょうど港の入り口に位置するところにあり、海の景色を眺めようと地元の者や観光客で人が集まっている場所でもある。
はここで海を眺めていたのだろうか。そんなことを考えながらブチャラティは辺りを捜索した。堤防の隙間から花壇の中。碇泊しているヨットまでくまなく探したが、やはりそう簡単には見つからない。
そもそも、ハートのブローチとはいったいどの程度の大きさなのだろうか。
詳しく話を聞くべきだったな、と後悔の念を抱きつつ、別の場所を探そうとしたときだった。
「ブチャラティ。今日は港の散歩か?」
後ろから、ぽんっと肩を叩かれた。振り返った先にいたのは、ピッツェリアの店主だった。彼はブチャラティがギャングの世界へ入りたての頃、初めてピッツァをご馳走してくれた男だ。気前の良さは出会った当初から変わらず、ブチャラティのことをまるで自分の甥のように接してくれている。今ではギャングと店主という線を乗り越え、友人とも呼べる存在だ。
散歩のようで散歩ではないが、何と答えるべきか分からなかったため、適当に頷いた。
「そういうあなたは、こんな朝早くからどこへ?」
「これだよ」
店主は片手に提げているバケツを持ち上げて見せた。中には新鮮な魚が泳いでいる。どうやら港で魚を仕入れてきた帰りのようだ。
こうしてバケツに泳いでいる魚を見ると、漁師だった父親と魚料理を作ったことを思い出す。
「今日は活きのいい魚がとれたんだ。サーモンのマリネにしたら美味そうだと思わないか?」
そうだ、と男は顔を上げた。
「ブチャラティ、きみは魚料理が好きだろう。よかったら今夜の晩飯を作ってやろうか」
「グラッツェ。嬉しい誘いだが、今晩はちょいと用事があるんだ。また今度もらうことにするよ」
「そうなのか? まッ、まさか…デートか?」
「そんなんじゃあないさ」
「昨日もきみを探しに若い女の子がたくさん店へやって来たよ。これで五回目だ」
「オレのせいで店が繁盛しているのか」
店主は哄笑した。「そういう意味で言ったわけじゃあない。ブチャラティも最近は街の人気者だからね。わたしとしてはとても嬉しいんだよ」
ところで、と店主は持っているバケツを置いた。
「さっきからなにやら地面ばかり見て歩いていたが、ここで落し物でもしたのか?」
店主からの質問に、ブチャラティは思わず口を結んでしまった。からハートのブローチに関する情報は他言禁止だと釘を刺されている。
ここで迂闊に口外してしまうとまずい――。
そんなこちらの心境を読み取ったのか、店主は詮索を加えずに話を続けた。
「何とは訊かないが、この辺りで落としたのならば、工事の者が知っているかもな」
「工事?」ブチャラティは首を傾げた。
「セメント工事さ。港には毎日来ているから知っているんだよ。あそこに工事の跡が思っているだろう」
指差す方向には、確かに工事の跡が残されている。
「終わったのは三日前だったから、もしかすると業者の者が拾ったか、気付かずに地面の下に埋まっているかもしれない。そうなると探し出すのは難しいかもなあ」
「拾ったか、地面の下か……」
「小さなものなら転がって海に落ちたかな。この辺りは人がよく通るからね。まあ……わたしは実際にものを見ていないから、いい加減なことは言えないが。それよりも今日は暑いから水分補給をこまめにとるんだぞ。ほら、これ」
店主はペットボトルの水を差し出した。
ブチャラティはそれを受け取った。「グラッツェ。ちょうど喉が渇いていたところだった」
「それじゃあな、ブチャラティ」
店主はバケツを持って去っていった。残されたブチャラティは受け取ったペットボトルの水を口に含み、額に浮かんでいる汗を拭った。店主の言ったとおり、今日はやけに暑い。太陽もそこまで頑張ることはない、と労わりの言葉をかけてやりたいくらいだ。
ブチャラティは店主から聞かされた話を思い返す。たったいま立っている通りは、三日前までセメント工事が行われていた。がブローチを落としたのは一週間前。そうなると、が落としたブローチは工事の最中、セメントに埋もれてしまったかのように思えてくる。
――そんなことが本当にあり得るのか?
これは以前聞いた話だが、組織の情報を外部に漏らした者への始末に、セメントを使用したという。体中を縄で縛り、生きたままセメントの中に沈めて殺したのだというのだ。人間とは思えない所業に痙攣したように身体が震えたことは今でも忘れない。
地面の下を探ることができないわけではない。ブチャラティのスタンド、スティッキィ・フィンガーズはどんな場所にでもジッパーを縫いつけ、その先の空間へ潜り込むことが可能だ。ただし、地中では呼吸がそう長くはもたない。二酸化酸素濃度も地上と比べて高く、常に息を止めている状態で探し回らなければならない。のブローチを見つけ出す前に、自分が見つけ出してもらう側になってしまうことだけは避けたい。
――わたしも血眼になって探したんだから。
思わず、ふっと笑いがこぼれた。ブローチをなくした本人が血眼になって探したのだ。それでも見つけられなかったのならば、それ以上を超えなければならない。
ブチャラティは人目につかない場所へ移動した。辺りに人がいないことを確認してから、スティッキィ・フィンガーズで地面に空間を開く。中は真っ暗闇だ。持っていた携帯用ライトで照らし、体を地中へ滑り込ませた。これまでこの力を買われ、様々な場所へ潜入した経験を持つブチャラティであったが、地中へ潜るのは初めてのことだ。
どれだけ困難な状況に陥ったとしても、この後の人生で地中に潜ることは二度とないだろう。
ブローチが地面の下にある、という確証はない。それでも『あるかもしれないではないか』という漠然とした可能性に賭け、ブチャラティは先へ進んだ。時々地上へ戻り、肺に酸素を溜める反復行動は、海や深いプールへ潜るときとよく似ていた。
「……ない」
だが、結局ブローチは見つからなかった。へとへとの身体で地上へ戻り、思わずその場にしゃがみ込んだ。不規則な呼吸をゆっくりと正常に戻していき、店主からもらったペットボトルの水をがぶ飲みする。最後の一滴まで舌の上に垂らし、今度は長いため息をついた。
気がつけば、辺りは暗くなりつつあった。腕時計を見ると、時刻は既に四時を過ぎていた。
ブチャラティは立ち上がり、思い当たるだけの質屋や流し屋を訪ねてみることにした。ハートのブローチとは訊かず、ここ一週間で金目になるようなものは入ってきていないか。もしくは似たようなものを目にしたことはないか。時間の限り探し回ったが、店の者は揃って首を横へ振るだけだった。最後の店でかぶりを振られたとき、思わずブチャラティも同じ仕草をとった。
重い足取りで再び港付近へ戻る。辺りはすっかり暗くなり、バールやトラットリアの灯りに照らされながら食事を楽しんでいる者が優雅な時間を過ごしている。
ぐうーっとブチャラティの腹の虫が鳴った。ブローチ探しに夢中なあまり、昼食をとることを忘れていた。こうなることが分かっていれば、ピッツェリアの店主の誘いを受けておくべきだったかな、とも思ったが、ブチャラティは後悔を振り払った。
空いているベンチへ腰を下ろし腕時計へ目を落とせば、時刻は七時になろうとしていた。
との約束の時刻は夜の九時。残された時間はあと二時間しかない。どうしたものか。
「ねえ。歩き疲れたからバールで一休みしましょう」
「ああ、そうしようか。それより今夜はきみの部屋にお邪魔してもいいのかな?」
「勘違いしないでよ。わたしはまだ、あなたの浮気を許したわけじゃあないんだからね」
考えあぐねているときだった。海を眺めているカップルたちの会話が聞こえてきた。
「あっ。ねえ、ちょっと待って」
「どうしたんだい」
「何か海のなかで光ってなあい?」
「月の光が反射して光ってるだけじゃあないのか?」
「違うわよ。宝石みたいにきらきらって光ってるように見えたの。ほら、あそこを見てみて」
女の指は海の底を指していた。ブチャラティもそちらへ目を向けたが、海面が揺らいでいてよくは見えない。見えるのは連れている男と同じ月の光だ。
「気のせいかしら」
「それよりも早く店へ行こう。段々冷えてきた」
「ええ、そうね。ごめんなさい。変なこと言って」
カップルは腕を組むと、近くのリストランテへ入っていった。
ブチャラティはスーツについた埃を払い、先ほどの女が覗き込んでいた海を眺めた。目を凝らして見てみれば、確かに浅瀬にはひときわ輝きを放っている固体物が見える。しかし、辺りが既に暗くなっているこの状態では、なにが光っているかまでは分からない。
ブチャラティは海を眺めているカップルたちが去っていくのを見兼ね、海面にジッパーを作り出した。ナイアガラの滝のように海面が左右にぱっくりと開く。
海中で輝いている正体を見て、ブチャラティはひどく驚いた。小さな石ころの間に赤いブローチが月の光に反射して輝いている。手元の携帯ライトで照らしてみれば、それは確かにハートの形をしていた。ブローチを掴もうと腕を伸ばすが、もう少しのところで手が届かない。
「スティッキィ・フィンガーズ」
伸ばしている腕をジッパーで開き、更に伸ばした手でブローチを掴む。掬い上げるように手のひらへ転がし、ブチャラティは軽く上へ飛ばしてそれをキャッチした。それは間違いなく、から教わったハートの形をしたブローチの特徴と同じものだった。
ようやく見つけることができた。ブチャラティは安堵の息をつき、ブローチをスーツのポケットへしまった。
現在の時刻は七時三十分。約束の時間まで、まだ少し余裕がある。腹ごしらえのため、ブチャラティは一度断ってしまったピッツェリアの店主の元へ向かった。店の前へ行くと、テラス席は既に埋まっており、店内では釜から出てきたばかりの焼きたてのピッツァを運んでいるウエイターたちの姿が見える。
忙しいときに来てしまったかな、と踵を返そうとしたときだった。厨房のものだと思われる窓が開いた。窓から顔を出したのはピッツェリアの店主だった。彼はブチャラティの姿を見つければ嬉しそうに笑顔を浮かべ、手招きをする。ブチャラティは導かれるよう歩み寄った。
「来てくれたんだな、ブチャラティ」
「すまない。一度断っておいてこんなことを言うのも何だとは思うんだが……」
「謝ることはないさ。よければ裏手から回ってきてくれないか。表は既に席が埋まっているから、従業員用の粗末なテーブルになってしまうが」
「グラッツェ。ご馳走になるよ」
ブチャラティは店の裏手から回り、店主の用意した従業員用のテーブル席へ座った。席へ座ったのとほぼ同時にテーブルへ料理が並べられる。焼き立てのマルガリータピッツァと、シーザーサラダ。そしてサーモンのマリネだ。サーモンは恐らく、今朝の港で仕入れてきたものだろう。
「こんなにたくさんいいのか?」
「もちろんだとも。それにブチャラティは育ち盛りなんだから、たくさん食べなくちゃあな」
「しかし、よくオレの分が残っていたな」
店主は料理の手を止めた。「ブチャラティ。料理を作るうえで大切なものはなんだと思う?」
ブチャラティはかぶりついたピッツァを飲み込んでから答えた。「素材の味か?」
「確かにそれも大切だが、わたしが一番大切にしているのは料理が出てくる前のことさ」
食べることに夢中になっているブチャラティは、首を傾げることしかできなかった。
店主はにっこりと笑った。「料理は常に多めに作る。予定にはなかった突然のお客さんが来るかもしれない。普段よりも多く食べるかもしれない。そんなときに料理が少なかったら申し訳ないだろう。店に来る人はみな、腹を空かせてやってくるんだからな」
わたしが見たいのは寂しい背中より、膨れたお腹だよ。自身の腹を叩きながら店主は笑った。