ドリーム小説 36

 の背中はすぐに見つかった。人気の多いところを避けて歩くのが好きなのか、は大通りから外れた道へ曲がった。あの先には古い本屋がある。以前から気になっているのだが、店主の親父がかなり無愛想なのだ。今日も辛気臭い顔で、カウンターで煙草を吸って新聞を眺める姿が見える。その本屋の前を通り、の後を追いかける。すると突然彼女の足が止まった。
 気付かれたか? ブチャラティは咄嗟に壁にジッパーを作り、その中へ身を潜めた。ジッパーの先は幸いにも空き家だった。埃の被った窓からはの後ろ姿と、彼女と向かい合っている男の姿が見える。ブチャラティはなるべく物音を立てないように近づいた。
「お嬢さん、若いね。いくつ?」
 ここの家の壁は薄いようだ。窓を開けずとも聞こえる会話にブチャラティは耳を澄ます。
「今年十四になったばかりですけど」
「若いねえ。そんなお嬢さんにぴったりな仕事があるんだ。なあに、怪しい仕事じゃない。わたしのようなおじさんたちに飲み物を注ぐだけの簡単な仕事だよ。その年頃では何でも欲しくて、パパやママにねだってもなかなか買ってくれないことがあるだろう。それが山のように手に入るんだ。どう? 悪い話じゃあないだろう?」
 ネアポリスの悪い空気を感じる者なら、男の誘いがどんなものなのかは分かる。ブチャラティは一瞬助けに出ようと思ったが、の言葉を聞いて身を引いた。
「そんなことよりも、お金を稼げる方法なんていくらでもあるんですよ」
「なんだって?」
 はバッグから手帳を取り出した。「あなたのことは知っています、レオポルドさん。二、三年前からネアポリスを中心に売春商売をしているそうですね。被害者の約八割が十六歳以下の若い男女。彼らには確かに高額な給料を渡しているそうですが、そのお金はいったいどこから運ばれてきているんでしょう」
「どッ、どうしてそんなことを……」レオポルドの声色には焦りが含まれていた。
 は手帳をしまい、携帯電話を取り出した。「かけてあげましょうか。あなたのお金の出所に」
 レオポルドは、やめろッ、と言いながらに掴みかかった。これにはも驚いたようで、襲い掛かるように掴みかかってきたレオポルドに抵抗した。
 どん、と鈍い音がした。ブチャラティが慌てて外へ出ると、レオポルドが地面にキスをしていた。彼の上にはが乗っており、両腕でねじ伏せている。あれではまともに身動きがとれないだろう。
「これでもまだ、わたしに酒を注がせたいですか?」
 レオポルドは降参の意を表すように、地面を叩いた。
 からの拘束から解放されたレオポルドは、何も言わずにその場を去っていった。去り際にこちらと目が合ったが、相手は気恥ずかしそうにすぐに目を逸らした。
 その場にとブチャラティだけが残り、必然的にの目がブチャラティを捉える。
「あなた、さっきの……」
「また会ったな」
「覗き見なんて、あなたも随分と悪趣味ね」
「そんなつもりはなかったんだ。下手に手を出せば、きみを怒らせてしまうと思ってね」
 は気にしない様子で、先ほどの一件で落ちてしまったバッグと手帳を拾った。
「あれから随分と捜したんだぜ。どこへいたんだ?」
「別にどこだっていいじゃない。そんなことをあなたが気にして、なんの得があるの」
「きみのことを少しでも知りたいんだ」
 はため息をついた。「まさか、あなたの仕事はわたしのストーカーをすることなの?」
「そうじゃない」
「じゃあ一体なんなの。もしかして、あなたもわたしから情報を買いに来た噂好きのお客さん?」
「きみから情報を買う?」
 は、しまった、と口に手を当てた。
 守りが堅そうな彼女からこんなぼろが出るとは思わず、ブチャラティは拍子抜けする。
「もしかすると、は情報屋をしているのか」
 は口を結んだ。どうやら当たりのようだ。これにはブチャラティも笑いがこぼれる。
「きみは意外と顔に出やすいんだな」
「わ、わたしはまだなにも言ってないでしょう」今度は唇を尖らせて前のめりになった。
「ならばその口、黙らせてみようか」
 ブチャラティはスティッキィ・フィンガーズでの口をジッパーで閉ざした。は突然になって自分の口が開かなくなったことに対して非常に動揺している。もごもごと口を動かし、閉ざされている口を必死に開こうとしているが、小さな呻き声だけしか漏れない。
 そろそろ可哀想だ。止めてやろう、とブチャラティはジッパーの引き手を横へずらした。口からも酸素が取り入れられる状態になったは、はあっと息を吐いた。
「驚いたか?」
 は呼吸を整えている。
「おいおい。大丈夫か?」
「い、いったいどんなマジックを使ったの?」
 マジックか、とブチャラティは心の中でにやける。
「それは追々教えてやろう。それよりも、情報屋について詳しく訊かせてくれないだろうか」
 は考える素振りをしたあと、大通りに面しているバールのテラス席を指差した。
「喉が渇いたから、一度あそこへ座りましょう」
 ブチャラティは頷き、と二人でテラス席へ座った。は運ばれてきたグラスの水を飲み、ブチャラティはカプチーノを一杯注文した。
「きみはなにも頼まなくていいのか」
「それなら、これを」
 が指差したものはジェラートだった。ウエハースが添えられた写真には『人気商品』と記されており、辺りを見渡せば写真に載っているジェラートを食べている者が多く見える。
 ウエイターは注文を聞き入れて去っていった。
「きみもやっぱり女の子だな」
「ジェラートが苦手な人なんていないと思うけど」
「確かにそうだ」
 は一度水を飲み、テーブルの上で腕を組んだ。
「あなたの言ったとおり、わたしは情報屋をしてる」
「前科はあるのか」
「それはナイショ。でも、この仕事を始めてから警察のお世話になったことは一度もないかな」
「主な取引相手を訊いても?」
「それもナイショ。ただ言えることといえば、取引相手はネアポリスだけじゃないってこと。わたしがネアポリスに来たのはつい最近で、少し前まではローマにいたの。この辺りの治安が年々悪くなっているって聞いたから、何かあるんじゃあないかってね」
 イタリアで最も多い被害はスリ。その被害が多く出ている街といえば主にネアポリスだ。
「情報は提供してもらうものもあるけど、ほとんどはわたし自身がかき集めてる。だから手に入れた情報を売る相手には、同時にリスクも払ってもらってるの」
「リスク?」
「わたしは仕事に関して絶対に嘘をつかない。けれど、場合によっては情報が変化することだってある。ざっくり言ってしまえば、天気予報みたいなものね。だから交渉が成立した場合、その後の問題には一切関与しないのがわたしのやり方」
「なるほど。情報や秘密を手に入れるまでの過程も代金に含まれているというわけだ」
「できる限り動きのない情報を提供することを心がけているけどね。株価は別だけど……」
 注文していたカプチーノとジェラートが運ばれてきた。ブチャラティはカプチーノを一口飲み、は備え付けのスプーンでジェラートを食べた。ひとかけらを含んだとき、が一瞬だけ、ほうっと幸せそうな表情を浮べたことをブチャラティは見逃さなかった。
「この間の大金を見れば、きみは相当のやり手のようだな。他に仲間はいるのか」
「さっきの場面を見てそれを訊いてくるなんて、あなたも中々図々しい性格ね」
 は、そっとスプーンを置いた。
「仲間と呼べる人は一人もいない。信じられるのは、やっぱり自分の目と耳だけだから」
 とても寂しいことを言っていることに、本人は気がついていないのだろう。
 信じられる相手がいない、という不安と恐怖をブチャラティは少し前に味わった。それを目の前にいる彼女が感じているのかと思うと、やはり他人事とは思えない。
 ――どうしてだ?
 どうして自分は、一人の人間のためだけに、ここまで気を留めているのだろうか。最初に目撃した出来事があまりにも衝撃的だったから。それもあるかもしれないが、からは自分と同じ匂いがするのだ。良い香りのほうの匂いではない。所謂、人間としての匂いだ。
 どこか彼女のことが気になる。最初に口にした感情は、やはり間違いではなかったのか。
「なあ、
 は首を傾げた。「あなたにわたしの名前を教えた覚えはないと思うんだけど?」
 名前を名乗ったことすら忘れているということは、のなかでブチャラティという存在は本当の意味で興味のない対象なのだろう。
「オレを信じる気にはなれないか?」
「なんですって?」
がオレに自分のことを話してくれた礼だ。安い情報だが、こちらもきみに情報を売ろう」
 情報、という言葉にの目つきが変わった。
「オレはこの街を仕切っているギャングだ」
「えッ」は驚き顔でブチャラティの身格好を見た。
「この街のギャングの話は聞いたことはないか」
「――名前は確か、パッショーネ」
 ブチャラティは、そうだ、と頷いた。
「名前だけは耳にしたことがある。ネアポリスを中心に、イタリア全土の裏社会を仕切っているって。まさかあなたが、そのうちの一人だったとはね」
 情報屋となれば、ギャングの話も視野に入るものなのか。それともイタリア全土に及ぼしている組織の力が、勝手に彼女の耳に入っただけなのか。ブチャラティにとってはどちらでもさほど変わりはなかった。組織の力は絶大だ。幹部のポルポも自分がパッショーネに入団したとき、既に刑務所にいたが、なに不自由のない生活を今でも送り続けている。たとえ自分たちが警察の世話になるようなことをしても、すべて組織の力でどうとでもなる。
「まさか、あなたがわたしに近づいているのは、ギャングとして利用するため?」
「いいや、それは違う。これはオレの意思だ」
 は心なしか、安心したように息をついた。
「オレの情報はいくらになるかな」
 そうね、とはとある方向へ視線を送る。
「あなたのファンには、高く売れるかも」
 の視線の先を辿れば、ブチャラティに向かって手を振っている数人の女の姿が見える。そのうちの何人かは以前、デートの約束を押し付けてきた女たちだが、他は見たことがない。自分の名前を黄色い声で呼びながら去っていく姿は、ここ何年で何度か目にした光景だ。
 自分で思うのもおかしな話だが、ギャングになってからこういうことは年々増えている。
「やっぱりモテるんだ、あなた」
「褒めているようには聞こえないな」
 はおかしそうに笑った。「あなたがギャングだろうがなんだろうが、わたしの知ったことじゃあないから。生意気なことを言わせてもらうけど、そういうことは自分の意思を相手に証明してから言うことだと思うの」
 そう言うと、は何かを思い出したように手のひらを合わせた。
「あなたがそこまで言うなら、いい話がある」
「いい話?」
「実はわたし、この街であるものを探しているの。一つはわたしにしか見つけられないもので、正直このここにあるのかさえ分からない。けれどもう一つの探しものなら、あなたでも見つけ出せるかもしれない。いまから話すことを信じて、わたしが探しているものをあなたが見つけてきてくれたら、さっきの話を考えてもあげてもいい」
 の説明にブチャラティは瞬きをした。これは話というより頼みではないか。
「言っておくけど、わたしも血眼になって探したものだからね。見つけてきてくれたら、それなりにお礼はさせてもらうし、なんならお金でも構わない」
 金はいい、とブチャラティは手で制した。「全てにおいて重要なのは信頼だ。きみが言うことを最初から疑ってしまっては、信頼を得ることはできない」
「あなたはさっきの話を聞いていたはず。わたしは一部の人から姑息な女だと思われている。それでもやるの?」
「言葉を返すようで悪いが、先ほどはオレにこう言ってくれたな。仕事に関して嘘は絶対に言わないと。それにオレはきみのことをまだよく知らない。周りの言葉に踊らされるほど、オレは安い男じゃあないぜ」
 ブチャラティとは、しばらく睨み合うようにお互いの目をじっと見つめ合った。ブチャラティは目を逸らさなかった。は一瞬たりとも瞬きをしなかった。
 先に折れたのはのほうだった。小さく笑みをこぼして視線を横へずらす。その笑みにどんな意味が込められているのか。いまはまだ分からない。
 分からないからこそ、楽しいんじゃあないか。このときのブチャラティはそう思った。
「分かった。この話はまだ話したことがないから、絶対に誰にも言わないと約束して」
 ブチャラティは無言で頷いた。
 は周りで聞き耳を立てられていないことを確認すると、ブチャラティに耳打ちした。
「ネアポリスでハートの形をしたブローチを失くしてしまったの。落とした日付は、いまから一週間前の夕方。ブローチはすべて本物の宝石でできているから、地面に落ちても簡単には砕けないはず。落とした場所は、恐らくサンタルチア港。あの時は港でバザーが開かれていたから確かだと思う。もしかしたら既に誰かに拾われているかもしれないし、どこかで売られているかもしれない。そのブローチを見つけることができたのなら、二日後の夜九時に初めて会った路地で会いましょう。あそこはわたしがよく仕事の約束で落ち合う場所になっているから」

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