ドリーム小説 35

 を連れて、ブチャラティは港へやって来た。話をしたいのならば、人の目につかない場所にしてほしい、と彼女から要求されたからだ。
 たどり着いた場所でブチャラティは辺りを見渡す。見えるのは海に浮かぶヨットだけだ。
 日陰になっている場所へ寄りかかったは、胸ポケットから煙草の箱を取り出した。
 喫煙者だったのか。少し残念な気持ちを抱いたままブチャラティが見つめていると、彼女は煙草の箱から一本を浮かばせ、ブチャラティへ差し出した。
「悪い。オレは喫煙者じゃあないんだ」
「煙草じゃあなくて、シガレットガム」
 ブチャラティは飛び出ている一本を摘んだ。
 はガムを噛まずに箱をしまった。「話があるなら、手短に終わらせて欲しいんだけど」
 呼び止めたときと変わらず、はつんけんとした態度で言った。どうやらかなり急いでいるようだ。
 あんたは――ここまで言いそうになって、ブチャラティは咳払いをした。
は日本人だな?」
「たぶん、そうだと思う」
 含みのある言い方にブチャラティは首を傾げたが、すぐさま次の質問へ移った。
「随分とイタリア語が上手いな」
「物心ついたときからイタリアにいたの。わたしを育ててくれた人がイタリア人だったからね」
 日本人を見たのは、今回が初めてではない。近年ではアジア各国からの観光客で最も多いのは中国人だが、その次に多いのは日本人といわれている。
 そしてこれはブチャラティ個人の観点だが、日本人は顔ではなく、後ろ姿を見るだけで見分けをつけることができる。というのは、イタリア人の女性はスカートをほとんど履かず、ジーンズパンツや、いまの季節だとショートパンツなどを履いている。それに対して日本人は、スカートといった所謂女性らしいファッションを好んで選んでいる。裏社会の情報では、そういったものを目印にスリや詐欺などを繰り返している者もいる。
「それで、用件はなに?」
 立ち話なら結構、とは組んでいた腕を解く。ブチャラティはそれを止めた。
 日本人といえば、慣れない環境にどきまぎとした様子で辺りを歩いているか、どんな理由があっても必ず最初に頭を下げる物腰の低い印象を抱いていた。
 しかし目の前にいるという女は、どちらにも当てはまらない。育ちゆえ、イタリアの女のようにどっしりと身構えているように見える。見た目も地味か派手かと問われれば、後者のほうだ。まだ成人に達していないようだが、身につけている服装は大人っぽい。
「どうして子供たちを助けたんだ。その鞄に入っている大金はどうやって手に入れた?」
「年下を助けるのは、年上の役目。鞄に入っているお金は、わたしが稼いだお金」
「年下なら、見境なく助けると?」
 勘違いしないで、とは首を振る。「わたしが助けたいのは小さな子供。特にさっきのような子供たちはどうしても放っておけないの」
 自分もまだ子供じゃあないか、と言おうとしたが、ブチャラティはその言葉を呑んだ。
「仕事は、いったい何をしているんだ」
 は鼻で笑った。「いつの時代の見合い話? どうしてわたしが、初対面のあなたに仕事のことまで話さなくちゃあならないの?」
 ごもっともな言葉だと思った。ブチャラティは考える素振りを見せ、次にこう言った。
「きみのことが気になる、というのはだめか」
 どうしてそんなことを口走ってしまったのか、自分でも分からなかった。他にも言葉はいくつか浮かび上がっていたのだが、自分の気持ちに最も近いものがこれだった。
 はガレットガムを口へ放り込み、音を鳴らさずに噛みはじめる。それはまるでブチャラティの言葉を反芻しているようだった。
「……そういう男は、この辺りに山のようにいる」
 どうやら今の一言で、ブチャラティは山の一角になってしまったようだ。
「あなたはルックスが良いし、お金もあるかないかと訊かれたら、あるほうだと思う。わたしに執着しなくとも、この辺りには良い女性がたくさんいるから頑張って」
 は壁から背中を離し、この場から立ち去ろうとする。
 その肩をブチャラティが掴んだ。「待ってくれ。オレはそういう意味で言ったんじゃあない」
「そういう意味じゃあなくても、わたしはあなたに興味もなければ、立ち話をする暇もないの」
 離してくれる? から無言に圧を食らったブチャラティは、掴んでいる肩を離した。
 ブチャラティに背中を向けて歩き出したは、ポケットから携帯電話を取り出して耳に当てた。電話をかけた相手とは、先ほどとは打って変わり、身なりに似合う明るい声で話しているのが聞こえた。
 段々と遠ざかっていくの姿を、ブチャラティはただ見つめていた。じりじりとブチャラティの首元を焼きながら、太陽の光もその光景をじっと見ていた。
 ブチャラティはその日、諦めて持ち場へ戻った。組織の者に身寄りのない子どもを助けている日本人女性のことを訊いたが、彼女を知る者は一人もいなかった。逆に「そんな女がどこかにいたのか」と興味を持ちながら訊かれたが、ブチャラティは何も答えなかった。
 それから町へ繰り出すたびに、ブチャラティは無意識にの姿を捜していた。明るい髪色の多いネアポリスであれば、彼女の濃色はとても目立つ。そう思ったのだが、はなかなかブチャラティの視界に入ることはなかった。初めてを見つけた路地裏へ行ったが、はおろか、地べたを寝床にしていた少年らの姿すら消えていた。その場にいたのはダンボールに身を包んでいる男と、中身が空になっているブランドバッグを抱えて眠っている酔っ払いの女だけだった。
 それから数日が経った。それまでの間、ブチャラティは変わらない日々を過ごしていた。その日は新しい任務を課せられ、目的地まで足を運ばせていた。相手は取引を無視したビジネスマンだ。組織に背く者は、たとえ家庭を持った男であっても許すことはない。
 正直なところ、今回の任務に関してブチャラティは罪悪感に駆られていた。自身で家庭を持ったことがないため、実際のところは分からない。しかし、家族というあたたかい居場所を作り上げている一人を始末するというのは、気が引ける。断末魔を聞いた瞬間、その者が愛している人物の顔や声が頭の中へ襲い掛かってくる。
 しかし、その凶器を握ることを選んだのは――自分だ。
 目撃証言のある場所で相手を捕まえ、スティッキィ・フィンガーズで文字通り口封じをする。あとは倒れている男を警察が見つけ、どこかの病院へ運ばれるだけだ。その先の関与は任されていない。ブチャラティはスーツについた血を拭い、靴裏で地面を蹴ってその場を後にする。
 狭い道を抜けたときだった。車道を挟んだ向かいの道で若い男女が言い争っている光景が目に入った。正確には男が一方的に騒いでおり、女のほうは黙っている。よく見ると、男から罵声を受けているのはだった。
 ブチャラティは立ち止まり、彼女たちの会話が聞こえるまでの距離まで近づいた。
「自分だけ助かろうなんて、やっぱりきみは姑息な考えを持っているんだな」
「僕は一人でなんでもできる、と言ったから、わたしはあなたを助けなかっただけ」
「それとこれとは話が違うだろう!」
「話が違う?」の組まれた腕が解かれる。
「そうさ。計画通りに話が進んでいたのに、きみの身勝手な行動のお陰ですべてが水の泡だ。僕はきみを信じていたのに、なんだか裏切られた気分だよ」
 男の言葉には何も言わなかった。
「すぐにそうやって黙るんだな。ああ、分かった。きみと僕はここで終わりだ。ただし、稼いだ金は僕の利益にさせてもらうからな。それで許してやろう」
「黙らせているのは誰なんだか」
「何か言ったかい?」
 はかぶりを振った。「自分は一人でなんでもできると思っているあなたが、約束通りにこんな女に助けられたかもしれない。そしてそんな信じていた女に裏切られた。あなたはどちらで後悔したかったのか知りたくて」
 男は顔をむっとさせた。
「グラッツェ。短い間でも十分楽しかった」
「最後の最後まで本当に嫌な女だな、きみは。僕の仲間にきみのことを全て話してやる」
 そう言うと、男は唾を吐いて踵を返していった。
 その場に残されたとはいうと、辺りの通行人から冷たい目で見られている。無理もない。こんな人の多い通りで男女の諍いをまざまざと見せつけられれば、嫌でも視線や耳がそちらを向いてしまう。ブチャラティもそのなかの一人だ。
 だが、男を見送ったあと、が一瞬だけ顔を歪ませたのをブチャラティは見逃さなかった。
!」ブチャラティは彼女を呼んだ。
 名を呼ばれたは、ゆっくりとブチャラティのほうを向いた。その表情は以前と変わらない。
 が何かを言おうと口を開いた。しかしブチャラティと彼女の間に、数台の車が通った。ようやく車が通り過ぎた頃には、向かいの歩道にの姿はなかった。
 また彼女を見失ってしまった。ブチャラティはその場でため息を吐いた。
 それにしても。いまの会話はなんだったのか。去っていった男は一見、の恋人のように見えたが、会話の内容では、あの二人はビジネスライクな関係にあったようだ。男がへ飛ばしていた言葉に、労いという情は一切こもっていなかった。
 姑息、裏切り、嫌な女。一人の女をここまで貶すことのできる姿勢にも妙な感心さえ抱く。
 そして自分は、男を裏切った姑息で嫌な女に興味を抱いている変人――といったところか。
「今回もまた、派手な喧嘩だったなあ」
 そんなときだ。ブチャラティの隣に見知らない老齢の男がやってきた。
「いや、失礼。わたしも先ほどの一部始終を見ていたもんでね」男が言った。
「今回もまた、とは?」
 ここだけの話だが、と男は持っている杖で指した。「さっきのお嬢さんは、色んな男を捕まえては、引っ掻き回しているんだ。噂じゃあ今回ので二十人目だと聞いたよ。巷での呼び名はじゃじゃ馬娘だ」
 随分な言われようだな、とブチャラティは思った。
「お兄さんは彼女の知り合いかな?」
「知り合いだと嬉しいんだがな」
「悪いことは言わない。あのお嬢さんとはあまり関わらないほうがいい。顔はそこまで悪いとは思わないが、お国柄なんだろうなあ。彼女とうまくいった男は一人もいないんだ。前回は中々の男前だったが、その男も次の日には違う女を連れて歩いていた」
「それはただの浮気じゃあないのか」
「そうかもしれないな」男は合点した。
 ブチャラティは気になっていることを訊いた。
「そんあ彼女を、あなたはなぜそこまで気に留めているんだ?」
「さっきも言っただろう。顔はそこまで悪くないと」
 そう言いながら笑う男の薬指には指輪があった。ブチャラティは呆れてものが言えなかった。
 ひとしきり妻の自慢話を聞かされたあと、男が去っていくのをブチャラティは見送った。悪い話を聞いた気分になったが、心境は決して曇らない。いまは少しでも彼女の情報が欲しいと思っていたからだ。
 ブチャラティは横断歩道を渡り、向かいの歩道へ出た。

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