三月十八日、日曜日。時刻は十二時を回っている。アジトにはブチャラティを含め、他の四人もテーブルに集まって食事をとっていた。普段ならば任務のないこの時間は、それぞれ思うままに行動しているのだが、今日はテーブルに輪を描いてピッツァやパスタを食べている。ブチャラティの隣に座っているアバッキオはフーゴの話に耳を傾けながらカッフェを飲み、その隣ではミスタとナランチャが珍しく皿を分け合って料理を食べている。
異様な空気を感じるなか、ブチャラティの携帯電話が震えた。それとほぼ同時に各々行動をとっていた四人の動きが止まった。視線はブチャラティに向けられているのだが、正確には彼のポケットで震えている携帯電話にある。
四人の視線を受けながらブチャラティは震えている携帯電話を止めた。ボタン操作をしてから画面を閉じると、向かいに座っているミスタが立ち上がって腕を伸ばした。
「あ、おい」
ミスタによって奪われたブチャラティの携帯電話を他の三人は集まって見つめる。
奪われた画面に表示されているのはメール文章だ。メールの内容にはこう記されてある。
『返事が遅くなってごめんなさい。招待客は以下の通りです。わたしにできることがあれば、その都度連絡してください。誕生日パーティ、楽しみにしてるね』
「ブチャラティ――ッ!」ミスタが叫ぶ。
「嗚呼、ようやくここまでこぎつけたんですねッ」フーゴがミスタの肩を叩いた。
ブチャラティは眉の横を掻いた。「一々騒ぐことじゃあねえだろ。おいミスタ、早く返せ」
「あッ、待て待て。さんからのメールは全部保護するように設定しておくからよォ~~」
「そんなことはしなくていい」
こちらの阻止も虚しく、ミスタは上機嫌で携帯電話を操作し続けている。どうやら本気でから送られてきたメールをすべて保護するために設定しているのだろう。彼はこういうことに関しては、とことんやる男だ。ブチャラティも諦めて食事を続けた。
騒いでいる三人を除いて、アバッキオはメールの画面を見てからブチャラティと同じように料理に手をつけた。しばらく見ていることに気付いたアバッキオはなにも言わずにブチャラティのグラスにワインを注いだ。テーブルの上に赤い染みを残してボトルを置く。
「とりあえず飲もうや」
「お前は納得してないんじゃないのか」
アバッキオは返事をせず、ワインを飲んだ。
「があの家に訪れたことは本人が認めた。お前のムーディー・ブルースが彼女の姿を捉えたんだからな。最初からそうだったことに変わりはない」
「フーゴからあの時に会った餓鬼が実は幽霊だったかもしれない、という話を聞いたが、幽霊と生きた人間の言葉なら、オレは後者を信じるだけだ。まあ、少なくともオレはこの世に幽霊がいないとも思わねーけどな」
「何度も空き家を行き来しているという言葉か?」
「オレのスタンドがって女を捉えたのは一度だけだ。だから自分の見たものを信じる。それだけだ。納得もなにもない。ただ、あんたの女を疑ったことは詫びておく」
アバッキオとの会話を聞き、ブチャラティはこれまでの出来事を反芻した。が最初に銃撃戦の起きた町に訪れた理由は、物心ついたときからいないと思っていた父親の手がかりを見つけ出すため。結果として、あの空き家は日本から越してきた夫妻が暮らしていたものだったということが判明された。
ムーディー・ブルースは銃撃戦が起こる前日にの姿を捉えていた。の証言と合わせてみれば、彼女が父親の手がかりである日記を家から持ち出したのはこの時ということになる。このことに関しては本人からも証言をもらっているため、間違いないだろう。
ここで浮上してくるのは、フーゴとアバッキオが見たという少年の存在だ。少年が描いた絵の人物は、確かにとそっくりだった。しかし住人の話によれば、日本人女性はおろか、空き家を行き来する者は見かけていないと話している。それに加え、少年は二十年前に既に亡くなっている。スタンドの可能性も考えたが、スタンドは人間やその者の精神を形にするものだ。魂だけの少年がスタンドである可能性は極めて低い。他に考えられるのは幽霊という存在のみだ。
仮に少年が幽霊だったとしても、彼が彼女の存在を知る機会は二つだけある。一つはがあの家で生まれてから間もない頃に少年が出会っていること。しかしそれでは少年が描いた絵と姿が異なってしまうため、一つに絞られてしまう。
が自宅から本を持ち出す瞬間だ。
そうなると、少年が発言した二週間前というのは一体どの期間をいうのか。ただ大雑把に二週間と言っただけのだろうか。考えても明確な答えは出てこなかった。更に、この謎が解けたとしても、ブチャラティたちにはまだ問題が残っている。ギャングチームや町を襲う正体と目的を暴かなくてはならない。
そう考えているなかで、ブチャラティはアバッキオの発言に違和感を覚えたのをようやく思い出した。
「待ってくれ。はオレの女になったわけじゃないぞ」
「これからなる予定なんだろ?」
「……そうと決まったわけでもない」
「そういうのは嘘でもなんでも言っといたほうがいい。嘘も方便っていうだろ」
何と返すべきか考えていると、携帯電話をテーブルに置いたミスタが顔を近づけてきた。
「そうだぜ、ブチャラティ。ここまで来たらあとは突っ走るだけだろッ!」
このアジトはいつから恋愛相談所になったのだろうか。唾を飛ばすミスタの顔を押しのけ、携帯電話をしまう。落ち着きを取り戻した三人は椅子に着席した。
「日本人の女性を相手にしたことがないので分かりませんが、ここまで好意的に接しているんです。僕なら自惚れなしでも脈有りだと思いますよ。それにさんとはいまに始まった関係じゃないでしょう? 敵なしじゃあないですか」フーゴが軽く身を乗り出して言った。
「敵がいるかいないかの問題じゃあない」
「そういえばさァ~~」
オレンジジュースを飲み干したナランチャは、グラスの底をストローで吸ってから言った。
「ブチャラティはとどうやって知り合ったの?」
アジトが静まり返り、ブチャラティを含む全ての男たちの目がナランチャに注がれた。ストローでグラスの底を鳴らしているナランチャは頭上に疑問符を浮かべている。
しかし、今度はブチャラティとナランチャを除いた三人の視線がブチャラティへと向いた。
「詳しく聞かせてもらおうか」アバッキオが言う。
「僕も是非聞きたいです。ブチャラティが僕たちと出会う前の話も兼ねて」
「聞かせてくれよ、ブチャラティ」
「さっきから浮かれてんじゃねえぞ、お前ら。料理が冷める前にさっさと食え」
「大丈夫だって。ブチャラティの話を聞いてたら料理もほっかほかに熱くなるからよォ!」
いいやミスタ、その理屈はおかしい。
「ナランチャ、たまにはいいこと言うじゃあないかッ」フーゴがナランチャに横肘を突く。
「え? アッハハ。だろ? だろォッ?」
「冗談抜きで、これから用事があるんだ」
ブチャラティは椅子から立ち上がった。
「だから悪いな。その話はまた次の機会としよう」
「ええ~~~~ッ!!」アバッキオを除く三人が駄々をこねる子供のように嘆いた。
「アバッキオ、こいつらを頼んだ」
報道陣のマイクやカメラから逃げる芸能人のように、ブチャラティはその場を後にした。
ナランチャからの問いかけに、ブチャラティは歩き慣れた道を進みながら考えた。と出会ったのは空の高い真夏の日のことだった。
ブチャラティは数年前の記憶を辿った。ギャングとして裏の世界へ身を投じて約三年。パッショーネの入団試験を受け、スティッキィ・フィンガーズという自身の精神と出会ってしばらく経った頃のことだ。
幹部のポルポに気に入られ、ギャングとしての生き方に慣れ始めたブチャラティは、街の住人からの信頼を得るために毎日人々と会話を交わしていた。子供には学校での出来事を聞き、主婦からは旦那の悪口を聞き、早くに妻を亡くした老年の男からは何度も同じ話を聞いた。
ギャングとしての生き方も学んだ。見た事のある道具から、映画の世界の話と思っていた凶器の使い方まで、名も知らぬギャングに教わった。彼とはそれを境に顔を合わせなくなったが、気には留めなかった。
ある日。ブチャラティはいつものようにトラットリアの介護金を回収し、ネアポリスの細い道を歩いていた。そこは暗い雰囲気が漂い、家や親を持たない子供が集まっている路地裏として認識していた。それでも通ってしまうのは何故だったのか。漠然とした思いだったのか、自分と同じように暗い世界で生きている子供がいることに目を背けられなかったからだろうか。
そんな念を抱いているだけで、このときのブチャラティは子供たちに何かをしてあげることができなかった。ただ、通り過ぎていくだけだった。
しかし、その日の路地裏には普段見かけない姿を見た。自分と同じくらいの女だ。女は路地裏で座り込んでいる少年に歩み寄った。少年たちは睨むように彼女を見上げた。女が少年たちの前にしゃがみ込むと、少年はポケットからナイフを取り出した。
「きみ、ひとり?」女はそう言った。
少年は凶器を握ったまま黙っている。
「ひとりなの?」
「だったらどうなんだよ」
「もし友達がいるのならここへ呼んできて。友達がいないのならいますぐ作って連れてきて」
女の言葉に少年は一瞬戸惑いを見せた。凶器をしまうとすぐさま立ち上がり、路地の奥へ走っていった。
戻ってきた少年は数人の子供を連れていた。みな頭から足の先まで泥をかぶり、身につけている衣服は破かれた布のような状態だ。少年に連れてこられた子供たちは不思議そうに女を見上げているが、その目に光は一切見当たらない。ブチャラティはそれを静かに見ていた。
「この辺りの友達はこれで全員?」女が訊いた。
少年は、うん、と頷いた。
女は少年を見下ろしてから路地の奥を見やった。「あそこにいる男の子は違うの?」
女の視線の先には一人の少年がいた。彼女の周りにいる少年少女たちとは一回り小さい子供だ。彼の顔には複数の傷があった。服もぼろぼろだ。
少年は異を表した。どうやら彼は『友達』と呼べる存在ではないようだ。
何も言わずに女は、少年たちを連れて路地裏を出た。
いったいどこへ向かうのだろうか。ブチャラティは足音を立てず、彼女たちを尾行した。たどり着いた先は、街の一角にあるグロッサリーストアだった。少年たちは目の前にそびえ建つ大きな建物に圧倒されて、口をぽかんと開けている。
女は子供たちを連れて店へ向かう。買い物へやって来た主婦たちが怪しそうに彼らの背中を見ていた。
ブチャラティが続いて入ると、女は少年たちにかごを渡していた。そしてこう言ったのだ。
「お金は気にしなくていいから、自分が一瞬でも欲しいと思ったものを入れてきていいよ」
ブチャラティは驚いた。少年たちも驚いていた。
女の言葉に少年たちは互いの顔を見合わせていた。無理もない。顔も名前も知らない人間から好きなだけものを買っていい、などと言われれば、誰だって戸惑うだろう。
それでも彼らは救いの手にしがみつきたくなったのか。辺りの果物をかき集め、かごのなかに好きなものを詰め込みはじめた。焼き菓子、飲み物、下着、香水、週間雑誌。彼女の言いつけ通り、心に一瞬でも欲望を抱いたものを隙間なく詰め込み、彼女の元へ戻ってきた。
「これでいいの?」
「欲しいものはみんな詰めたよ」
「それならかごを貸して」
女はレジへ向かい、かごをカウンターへ置いた。レジ打ちの男は驚き顔で彼女を見たが、彼女はなにも言わずにハンドバッグから現金を取り出した。その札束は数えなくとも、数十万を超える厚さはあった。
会計を済ませ、破けそうなほど詰め込まれた袋を持り、女と少年たちはグロッサリーストアを出た。ブチャラティは再び彼らを追いかけた。
路地裏に戻ってきた女と少年たち。少年たちは地べたに座り込み、袋から果物を取り出してかぶりつこうとした。しかしそれを女の手が制した。
「どうして食べちゃあだめなんだよ」少年の声は怒りよりも疑問を多く含んでいた。
「わたしの話を聞いてくれたら食べていいから」
少年たちは渋々ものから手を離した。
「この街にはあなたたちのような小さな子供に麻薬を売る大人がいる。そういう大人には絶対に近付いちゃだめ。どんなに誘惑されても、断る勇気を持ちなさい」
麻薬、という言葉にブチャラティは奥歯を噛んだ。父親と自分を地獄のどん底に突き落とした白い粉。それを今でもどこかで誰かが売りさばいているという事実に、改めて心の中に怒気が渦巻く。
女は少年の胸倉を掴み、ポケットからこぼれ落ちた凶器を取り上げた。
「あッ、なにするんだよッ」少年は女にがっついた。
「子供がこんなものを振り回してちゃあだめ」
「持ってるのはオレだけじゃあない!」
「だったら、あなたたちも服の中や靴の底に隠している凶器を寄越しなさい」
女の言葉に子供たちは渋々ポケットや靴下の裏から凶器を取り出し、彼女へ渡した。ナイフを奪われた少年も唇を噛みしめ、静かに地面に尻をつける。
「どうしてこんなものを持っていたの?」
「オレたちには必要なものなんだ。誰もオレたちを守ってくれないから、自分で身を守るしかないだろ」
女は合点のいった様子で頷き、目線を合わせるために膝を折った。
「そうでしょう? これは人を傷つけるためじゃあなくて、あなたたちを守るための武器。簡単に人に突きつけたりしたらだめ。争いのもとになる」
少年たちは、うっ、と言葉を詰まらせ、顔を俯かせた。そんな彼らの頭に女の手が載る。その手つきは遠目から見ても、深い優しさを含んでいると分かった。
女は取り上げた武器と共に、グロッサリーストアで購入した袋を彼らに渡した。
「それじゃあ、これをみんなで分け合って生きていきなさい」女は詰められた袋を見ながら言った。
「全部なくなったら、どうしたらいいの?」
「学校へ行くの」
「学校ォ?」
「学校へ行けば色んなことを教えてくれる。色んなところへ行ける。あなたたちが叶わないと思っていた夢だって、きっと見つかると思うから」
女はそれだけを告げると、路地裏から立ち去った。少年たちは彼女の背中を見送ったあと、袋に詰め込まれた果物をむしゃむしゃと食べはじめた。ブチャラティが彼らを見たのはそれが最後だった。
ブチャラティは女の後を追った。彼女はいったい何のためにあんなことをしたのか。訊きたいのはそれだけには留まらない。
しばらく走った先で彼女を見つけた。一瞬だけ女と目が合ったが、すぐに逸らされてしまう。横断歩道を渡ろうとする彼女の前に立ちふさがり、足を止めた。
「あなた、誰?」女は眉間に皺を寄せた。
「オレの名前はブローノ・ブチャラティ。あんたに訊きたいことがあるんだ」
「ごめんなさい。急いでるから」女はブチャラティを押し退けて歩きはじめる。
ブチャラティはその横を歩いた。「失礼だが、さっきあんたがしていたことを見ていたんだ。あんなことをする人ははじめて見た。とても衝撃的だったんだ」
こちらの言葉に耳を貸すことなく、彼女は淡々と横断歩道を渡る。
「あれだけのことが当たり前のようにできるんだ。あんたはいったい何者なんだ。教えてくれ」
「あのね」
横断歩道を渡った先で、ようやく彼女は立ち止まった。
「さっきから女性に対してあんたあんたって、失礼な男ね。それでもイタリア人なわけ? わたしには、ちゃんとっていう名前があるの」