ドリーム小説 33

 からの話を聞く前に、ブチャラティは店の者にしばらくテラスへ入ってこないように頼んだ。快く受け入れられ、扉の前に札を提げてくれた。
 これで邪魔をする者はいない。ブチャラティはの待つテーブル席へ戻った。
 はハンドバッグからスケジュール手帳を取り出し、栞を挟んだままテーブルの上に置いている。どうやらこれから話す内容に必要な事項が記されているようだ。
「準備はできた」
「そこまで大袈裟にする必要はないと思うけど」は苦笑を浮かべた。
「口を挟まれるのは御免なんでな」
 そう、とは椅子から背中を離した。その動作で髪の毛が前へ流れる。は髪を耳にかける仕草をとったが、それよりも先にブチャラティの手が伸びた。
「ブチャラティ?」
「……ああ、すまん。無意識だった」言いながらブチャラティはの耳に髪をかけた。
「突然腕が伸びてきたからなにかと思っちゃった」
 気を取り直して。は咳払いをした。
「わたしがネアポリスへ戻ってきたのは、ある人物を見つけ出すためだったの」
「ある人物?」
「わたしの、実の父親」
 の口から肉親のことが出てきたのは初めてだ。寧ろ知らなかったのが自然だと思える。
「前に話さなかった? 物心ついた頃には両親の顔も名前も知らなかったって」
「すまない。さすがに覚えていない」
 は気にしない様子で言葉を続けた。
「わたしも両親について詳しいことは知らなかったし、気にしたこともなかった。でもある時、突然思ったの。わたしの両親は既に亡くなっているのか、それともまだこの世界のどこかで生きているのか、って。それまで考えたこともなかった事が、一気に頭の中を支配して……。気になって眠れないときもあった」
「それがネアポリスを離れた理由か」
 は頷いた。「わたしが最初に向かったのは日本。わたしの両親が日本人である確証はなかったけど、まずは生まれた国籍を調べることから始めてみたの」
「なにか見つかったのか?」
 は手帳を手に取り、広げた。「わたしの両親はほぼ間違いなく日本人。その他に分かったことは、法務局には母親の死亡届が出されていた」
 ブチャラティは口を挟まず、黙って話を聞いた。
「でも、ただの死亡届じゃあない。ブチャラティは失踪宣告って言葉を聞いたことはある?」
 そこまで法律に詳しいわけではないが、聞いたことはある。しかしイタリアと日本では法律がまるで違う。ブチャラティは首を横へ振った。
 は次のように話した。日本の法律では親族を初め、身内の者が行方不明になってから七年が経過すると、その者は死亡扱いを受ける。そのことを『失踪宣告』と呼ぶのだという。七年というのは、行方不明者と最後に連絡を取った日から七年を数え、事故などに巻き込まれた際には更に一年が経過すると、その宣告が下されるシステムとなっている。
「きみの母親は、失踪宣告を受けた上での死亡扱いにされていた――ということか」
「そう。そして、母親の失踪宣告の届けを出したのは、その妹。つまりわたしの叔母さんね。いまはイタリアで暮らしているみたいだけど、さすがに居場所までは分からなかった。妹は住所を転々としていて、自由気ままな生活を送っているみたい。七年間も見つかっていないんだもの。母親のことは早々に諦めて、今度は父親を調べてみた。彼は日本の大学を卒業したあとに結婚している。結婚後は二人でイタリアへ渡り、小さな町で暮らしていたの」
 口が渇いてきたのか。は冷めかかっているカッフェを多めに含んだ。
「けれど、その後の詳しい生活は分からなかった。暮らしていた家の住所、特徴。全部真っ白。けれど自分は日本ではなく、イタリアで産まれたことだけは分かった。わたしはイタリアの小さな町という情報だけを頼りに、その家を一年半かけて探し回った」
 途方もない話だと思った。イタリア国内だけで住居はいくつあるのだろうか。しらみつぶしに探したとしても、根気と情報がなくては無謀なことだ。それでもは長い時間をかけてイタリアの隅から隅まで探したのだろう。
 家族――そう聞いて蔑ろに出来ない感情が、ブチャラティにも確かにあった。
 父親と母親の記憶は今でも覚えている。父は優しさをそのまま形にしたような男だった。母も同様で、自分が幼い頃はよく公園まで手を繋いで散歩をしたし、手料理はどれも美味だった。最終的に父親との別れを選択し、自分と離れて暮らすようになってしまったが、決して悪い母親ではなかったと思っている。
 両親が離婚してから、人生の歯車は徐々に狂い始た。父のせいではない。母のせいでもない。ごく普通の漁師の息子として育てられた自分がこうしてギャングの道を選んだのは、誰でもない父の為。父を守るためにギャングになったのだ。
 そして目の前にいるも。母を亡くしたことを改めて知り、そして今は父の行方を必死に捜している。それには深く同情した。
の情報網をもってしても、難しいことだったのか」
「おかしなことにね。母親の書類関係は受け取ることができたんだけど、父親に関する情報はほぼ皆無。日本人を見かけたか、と訊いても、いま目の前にいるじゃあないか、なんておかしなことを返してくる人ばかりだったから」
 ここへ来て日本とイタリアの仁義に差を感じた。
「一年半経って、わたしはようやく見つけた。父親がまだ生きている証拠もね」
「なんだったんだ?」
「日記よ。父親は日記を家に残していた。日記の文末には『ネアポリスへ向かう』とだけ書かれてあった。その筆跡はまだ新しくて、最近のことだということも分かったの。わたしはその日記を読んでネアポリスに向かった。どこかにいる父親と会うために」
 は辺りに誰もいないことを確認してから、ブチャラティに顔を近づけさせた。
「でも、まだ見つからないの。ブチャラティは何か知らない? 何でもいいの」
 の声には微かに震えが含まれていた。その震えの正体は恐怖と不安だろう。ようやく見つけた手がかり。行方をくらませたまま姿を見せない父親。そしてネアポリスを縄張りとしているギャングの自分へ僅かな情報でも欲しい、と乞うはいままでになく孤独に見えた。
 ブチャラティは冷静に答えた。「もし、ネアポリスで小さな騒動、殺人が起こればオレたちの耳にすぐに入る。一ヶ月以内にそのような話はない。日本人男性が関わる出来事や目撃証言もだ」
 の表情から不安の色が少しだけ消えた。
「きみの両親は日本人だったんだろう」
「母親の名字がだったから間違いないと思う」
「……いや、やはりそんな情報は入ってきていないな。もしかするときみの父親はネアポリスでの目的を果たし、既に別の場所へ移っているかもしれない」
「その可能性も考えたの。でも……」
「でも、なんだ?」
 はかぶりを振った。「ううん、なんでも。確かにブチャラティの言う通りかもしれない。最終日付が何日だったかは分からないけど、わたしが日記を見つけたときから少なくとも数週間は経っているわけだし。どこかですれ違っている可能性も考えられる」
「オレたちが調べてみようか?」
「グラッツェ。でも構わないで。ここまでやったら、最後まで自分の力で捜し出したいの。一度も会ったことのない人でも、実の父だから。気持ちだけ受け取っておくね」
 ブチャラティはそれ以外なにも言えなかった。余計なことをすれば、は怒るだろう。いままで自分の足を使い、金を使い、築き上げてきた関係を使い、様々な方法でようやく生存している父の状況まで辿りついたのだ。組織の力を使えば、男一人の情報など簡単に暴くことができるが、それをやってはの努力が水の泡だ。
 ブチャラティは、分かった、とだけ言った。
「ただ、ひとつだけ言わせてくれ」
「なに?」
「きみがこの先で見つける真実がどれだけ悲しいことだったとしても、オレがの傍にいる」
「ブチャラティ……」
「許してくれただろう。オレがきみの味方でいることを。それなら、いつでも頼ってくれ」
 いいな? ブチャラティが念を押すように身を乗り出せば、は頷いてみせた。
「ありがとう、ブチャラティ」
 全てを話し終えたあとのは、どこか清々しい顔をしていた。ブチャラティ自身も以前から胸の奥に溜めていた疑問の靄が晴れたような気分だった。彼女のことを知るたびに、やはり胸の中であたたかいものが広がっていく。
 それでも、二つだけ気になることがあった。
 一つ目は、なぜ最初に訊ねたときに話すことを躊躇したのか。父親を捜していることをそれほどまでに隠したかった理由はなにか。ブチャラティはへ投げかけた。
 気まずそうには目を横へ流した。「あなたに、借りを作りたくなくて」
「借り?」
「きっとあの場で話していたら、わたしはブチャラティを頼ってしまっていたと思う。それが嫌だったの。あなたは優しいから、きっと協力するって言うはずだって」
 それはそうだ、とブチャラティは答えた。
「正直あの時は戸惑っていて、どう話したらいいか分からなかったの。だから考えがまとまってから話そうと思っていて……。心配かけてごめんなさい」
「それは構わないが、借りとはなんだ。オレに話したら組織へ借りを作るとでも思ったのか」
 はなにも答えなかった。それを肯定と捉えたブチャラティは盛大にため息を吐いた。
 オレが今まで悩みに悩んできたことは、いったいなんだったんだ。そんな気分になった。
「……どうしてそういうところは臆病なんだ」
 うっ、とは肩を縮め込ませた。
「実はネアポリスに来る前に、あなたの組織が最近になって力をつけているって聞いて。前のように迂闊に話を持ちかけるべきじゃあないと思ったの」
「その程度の話でわざわざ借りなんぞ作らん」
「でも、あなたはギャングでしょう?」
「それ以前に、オレたちは友人だろう。他者の言葉を鵜呑みにするなんて、きみらしくない」
 は目を瞬かせたあと、ため息をこぼした。
「ごめんなさい。噂に惑わされるなんて、わたしも随分余裕がなくなっちゃってたみたい」
「その別の話に、オレもに訊きたいことがあるんだが」
「訊きたいこと?」
 ブチャラティは先ほどから既に違和感を覚えているが、はまだ気付いていないようだ。
。きみの両親が暮らしていた家というのは、いったいどこにあったんだ?」
「どこって、ただの小さな町だったけど……」
「それを教えてはくれないのか」
「教えるも何も、本当になんでもないところだったから」
「フィレンツェにある小さな田舎町」
 の目が大きく見開かれた。
「こっちの仕事でな。仲間がそこできみの姿を見たと言っているんだ」
「きっと人違いよ。フィレンツェには小さな町なんてたくさん並んでるし、そもそもわたしはイタリアへ戻ってきてからはまっすぐネアポリスに……」
「これを見てもまだ白を切るつもりか?」
 ブチャラティは握っている拳を手のひらへ変えた。ブチャラティの手のひらに乗っているのは桜の花。それもただの花ではない。ブチャラティがにプレゼントした桜型のピアスだ。現れたピアスの姿に、は慌てて自分の耳に触れた。片方だけがなくなっていることに動揺しているようだ。
「このピアスが、そこに落ちていた」
「そんな、どうしてそのピアスが……」
「どうして?」
「……いや、そんなことあるわけがない。わたしがあの場所に訪れたのは、ブチャラティと会う前のこと。そのピアスが落ちているわけが――」
 の言葉はここで止まった。慌てて口を覆い隠しても、もう取り返しはつかない。
「ピアスが落ちていたか? そうだ。そんなことはあるはずがない。そうだというのに、どうしてきみはそんなに慌てる必要があるんだ」
 動揺を隠しきれないは、髪を耳にかける仕草をとる。そのあと、はっと顔を上げた。
「まさか、さっき髪をかけるふりをして?」
「話はこれだけじゃあない」
「ブチャラティッ!」
 はテーブルを叩き、勢いよく立ち上がった。その表情には怒りの色が含まれており、頬には流れ落ちてきた汗が浮かんでいる。
 ブチャラティは静かに腰を上げた。テーブルに置いたままのの手を取る。は咄嗟に振り払ったが、ブチャラティはそれを逃さなかった。片手を捕まえたまま距離を縮め、そのまま壁まで追いつめる。
「二週間前、田舎町でギャングチームが襲われたという話を聞いたことはないか? 説明すると長くなっちまうんだが、オレの仲間にきみの二週間前の行動を知ることができるやつがいるんだ。そいつがきみがとある家から出てきた、と言っている。その家というのは、まさに探していた家なんじゃあないのか」
 は抵抗を示した。それでも男と女だ。力の差ははっきりしている。
 諦めるようにの抵抗する力は弱まっていったが、ブチャラティは決して力を緩めない。
「きみはいつ父親の本を手に入れた?」
「……三月に入る前よ」
「日付を言うんだ」ブチャラティは手に力を込める。
「二月二十六日、火曜日」は睨み返した。
 やはりそうだったか。これでムーディー・ブルースの捉えた彼女が本人であることが立証された。
「それがなんだっていうの? わたしは確かにあの小さな田舎町で産まれた。家に訪れたことも認める。でもギャングを襲ったのはわたしじゃあない!」
「オレが訊きたいはそういうことじゃあない」
 ブチャラティは掴んでいる力で圧した。
「きみは嘘を吐いた。オレは訊いたはずだ。ネアポリスへ戻る以前、どこにいたのか」
 返す言葉が見つからないは目を逸らした。
「覚えていないなら教えてやろうか。きみはヴェネツィアから真っ直ぐネアポリスへ戻ってきたと言っていたんだ。それに最近だとカントゥッチという菓子をワインに浸したものが美味しかった、とも。あの焼き菓子はフィレンツェ北西部の郷土菓子だ。いまはどこでも買えるが、きみは本場で食べたと言ったな。そしてきみを目撃したのは北西部に位置する田舎町。これは単なる偶然か? 偶然じゃあないよな」
 ネアポリスへ戻ってきたの理由や経緯を聞きながら、分かったことがある。フーゴとアバッキオの証言が正しかったこと、同時にから嘘を吐かれていたことにも気がついた。それはブチャラティしか解らない痛みだ。
 あの時のは迷っていたのだろうか。フィレンツェに居た、と話すことを。彼女がそれを打ち明けていれば、自分は深く追究していただろう。それらを避けるために偽りを貫いたとしても、信じている者に一度でも裏切られた痛みは簡単には癒えない。相手が彼女だからこそ、尚更だ。
「謝ってほしいわけじゃあない。オレはただ、のことを信じていたいんだ。きみに疑念を抱いたまま接するのは、さすがに堪える」
 拘束していた手を離し、ゆっくりとを抱き締める。今この瞬間、この傷を癒せるのはこれだけしかないのだと、ブチャラティは何も言わずにに乞うた。
「ごめんなさい、ブチャラティ」
 は両手をおずおずとブチャラティの背中へ回した。指先に力を込め、スーツに皺を作る。肩口に顔を埋めながら何度も謝罪の言葉を呟いている。
 ――すこし言葉が強すぎたかもしれないな。ブチャラティはの頭を優しく撫でた。
「今回は目を瞑るが、次はこうはいかないぜ」
「肝に銘じておく。本当にごめんなさい」
 すっかり意気消沈してしまったに、ブチャラティはバツの悪い顔をする。これではまるで自分が彼女をいじめているみたいではないか。
 何か話題を変える術はないだろうか。頭の中で浮かんだのは、フーゴのあの言葉だった。
、このまま聴いてくれ」
 抱き締めたままブチャラティは訊いた。
「来週の三月二十一日を、オレにくれないか」
「え?」
「その日はの誕生日だろう」
 は状態を保ったまま、こちらを見た。「どうしてわたしの誕生日を知っているの?」
 ブチャラティはに誕生日を知ったときのことを聞かせた。ネアポリスへ出掛けた際、が占い屋で記入していた生年月日を見ていたことを。
 その話を聞いたあと、は合点したように頷いた。
「日本じゃあパーティを開くんだろう? それをしようと考えている」
「わたしのために?」
「まあ、一部の連中はきみの誕生日というのを口実に騒ぎたいだけだと思うんだが……。もし予定が詰まっているのなら話はつけておく。きみ次第だ」
 は考える仕草を見せた。考えるということは、その日に何か決まった予定があるのだろうか――などと、この一瞬で様々な可能性を考えてしまう自分を嘲笑したくなる。
 一転、は笑顔で頷いた。どうやら大丈夫のようだ。これでフーゴらに良い土産話を持って帰ることができる。
「けど、当日までは予定が詰まっていてあなたと会えないと思うの。それでも大丈夫?」
「ああ。準備はオレたちに任せてくれ。のほうからパーティに招待したい者がいれば、勝手に連絡をとってくれて構わない。人数は多いほうがいい」
「うん、分かった」
「それと、もうひとつ頼みがある」
 きみの連絡先を教えてほしい――そう伝えようと思ったのだが、口にする前に言葉が消えてしまった。
 に連絡先を訊くのはこれで何度目だろうか。今回で断られてしまえば、いくらなんでも脈がないのだと打ち負かされてしまう。それでも今回に関しては、互いに連絡が取り合わなければ何かと不都合だ。
 そう、不都合なのだ。
 は不思議そうにこちらを見つめている。ブチャラティは悟られぬように深呼吸をした。
「連絡先を教えてもらえるとありがたいんだが」
 気のせいだろうか。どこかで大きな太鼓を叩くフーゴたちの姿が頭に浮かび上がった。
 は一瞬面を食らったような顔をしたが、ポケットから灰色の携帯電話を取り出した。
「わたしにも」
「え?」
「わたしにも、教えてくれる?」

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