メイン料理を済ませ、食後のドルチェが運ばれてくるまでの間、二人で景色を眺めていた。
「どれも美味しかった」
「良かった。このあとのドルチェもびっくりするくらい美味しいから楽しみにしていて」
そう話すの様子は、母親から食後のデザートの許しを得た子供のようだった。
それから数分後。チョコレートによる飾り付けの美しいドルチェが運ばれてきた。はブチャラティよりも先にスプーンを手に取っている。よほどこの店のドルチェに心奪われたのだろう。
歓喜の声をあげるを見てから、ブチャラティもスプーンを口へ運んだ。舌当たりが良く、その辺りの店では決して味わえない上品な味だ。これなら世間の女性たちが甘いものに夢中になる気持ちも分かる。
「は本当に甘いものが好きだな」
「そうね。どちらかといえばドルチェよりジェラートのほうが好きだけど。味は特に――」
「ピスタチオのジェラートか?」
自分で言ったあと、しまった、と思った。
反対にはにやりとした。「そういえば。フーゴくんと夕食を食べたときがあったでしょう」
ああ、やはりそのことを掘り下げてくるか。
「あの時は遮られたけど、あのお店でよくピスタチオのジェラートを食べていたってフーゴくんが言ってたじゃあない。あれってもしかして、わたしのため?」
意表をつく問いかけだった。ブチャラティは白を切ろうと考えたが、目の前で微笑んでいるを見て、これ以上は誤魔化しきれないと悟った。
そうだ、と頷けば、は満足げに口角を上げる。
「別に隠さなくてもいいじゃあない」
「隠していたわけじゃあないさ」
「へえ。あなたもそうやって照れるときがあるんだ」
「おいおい。それ以上オレを茶化すようなら、こっちにも考えがあるぜ」
少し脅せば、は大人しく身を引いた。
「でも、ありがとう。わたしのために色んな場所のジェラートを食べ比べてくれて」
「礼を言うのはこっちのほうさ。今日一日だけ、違う自分になれたような気がする」
ドルチェの最後の一切れをスプーンで掬いあげたとき、テラスの扉が開かれた。入ってきたのは先ほどまでの給仕ではなく、白い調理服に身を包んだ中年の男だった。
ブチャラティは思わず目を凝らした。この男は昨夜、と共に夕食をとっていた者だ。
なぜこんなところに? そう思いながら何も言わずにいると、が席を立った。
「マックス」が男のことをそう呼んだ。
「やあ、。今夜は楽しめただろうか」
「もちろん。料理もとても美味しかった。随分と迷ったけど、ここに決めて正解だった」
二人は抱擁を交わし、男はブチャラティに向かって頭を下げた。
「お初にお目にかかります、ブチャラティ様。この店の料理長を務めているマックスと申します。本日はご来店いただきまして、誠にありがとうございます」
戸惑っているこちらの心境を察したのか、は男の隣に並んだ。
「今回は彼に協力してもらって、このテラス席とジャズミュージックの演奏を準備してもらったの。あとはわたしがあなたに作ったお弁当もマックスから教わってね」
「それはきみが作ったんじゃあないか。わたしはただ隣でを眺めていただけだよ」
「でも、マックスの助言がなければあんな風に上手く作れなかったから」
は、そうだ、と胸の前で手を合わせた。
「演奏者の方々にもお礼を言わなくちゃ。ごめんなさいブチャラティ。少しだけ待っていて」
はブチャラティの肩に手を置き、颯爽と扉を出て行った。店を飛び出して坂を下り、向かいのテラスまで走る彼女の姿を眺めてから、ブチャラティは残された男を見やる。マックスは失礼いたします、とが座っていた椅子に腰を下ろした。
演奏はいつの間にか消えていた。途端に海風と波の音が辺りを支配する。
何を話せばいいのか考えていると、向かいの席で小さく笑う声がした。ブチャラティは眉を上げる。
マックスは微苦笑を浮かべて頬を掻いた。「あなたと初対面のはずなのに、なんだか随分と前に会っていたような気がしてならないんです」
「それはまた、どうして?」
「今回の話を受けるまでに、あなたの事をたくさん聞きました。とてもいい男なのだと」
車を借りたマリアーノからも聞かされた言葉だ。ブチャラティの頬にわずかな熱が集まる。
「昨夜もあなたのために手作りの料理を準備したいと、わたしの元へ訪ねてきたんですよ」
「料理というと、弁当のことか?」
「日本へ行ったときに食べたものを作りたいと言っていたので、輸入品が揃っている店へ行った帰りだったのでしょうね。随分と慌てていました」
「そのためだけに、ここまでわざわざ?」
そうです、とマックスは頷いた。
「遅くなること考えて、ネアポリスで夕食をとってから、彼女が宿泊しているホテルの厨房を借りて作りました。夕食の間も料理をしている間も、さんはあなたのことを嬉しそうに話していましたよ。よほど今日が楽しみだったのでしょう」
ブチャラティは話を聞きながら、自然と口元を隠していた。
――そう、だったのか。
昨夜、がこの男を連れていた理由がようやく分かった。目の前にいるマックスという男は、をたぶらかしたわけではなく、彼女のために――否正しくは自分のために、アマルフィからネアポリスまではるばる料理を教えにやって来ていたというわけだ。だというのに、自分とフーゴは憶測でのことを深く疑ってしまった。店までわざわざ覗き見るようなことをしていた自分を殴りたかった。
マックスがしげしげとブチャラティの顔を覗きこんでいる。ブチャラティは何も言わずに目を逸らし、口元を覆っていた手の平を下へ滑らせた。
「どうやら、大成功のようですね」
「お陰さまでな」
「もしかして、誤解を招いてしまいましたか?」
「見かけによらず、随分と意地の悪い人だな」
マックスはすみません、と笑う。
「だが、とあなたのお陰で心から楽しい時間を過ごすことができた。ありがとう」
「さんもきっとそう思っていますよ。是非また当店へお越しください。いつでも歓迎いたします」
マックスが立ち上がったとき、息を切らしたがテラスへ戻ってきた。すれ違いざまにマックスと握手を交わし、感謝の言葉を述べた。マックスは会釈をすると、静かに扉を閉めて姿を消した。
向かいのテラスの明かりも消え、天井からの僅かな光だけが互いの存在を照らしている。
が椅子に腰を落とす。ジェラートの皿はいつの間にか消えており、代わりに淹れたてのカッフェが置かれていた。
「」
名前を呼ばれたは何も言わずに首を傾げた。
「マックスから話は聞いた。オレのために色々と準備を進めてくれたのだと」
「喜んでくれた?」
「もちろんだ。ディ・モールトグラッツェ」
「よかった。それだけが気がかりだったから」は安堵の息をこぼした。
「が傍にいてくれるだけで、オレは嬉しい」
ブチャラティはを見つめる。
「きみだけなんだ。こんな気持ちにさせてくれるのは」
見つめる先で、の喉が動いたのが見えた。
程よい沈黙のあと、わたしも、とが言った。
「わたしも、ブチャラティと同じ」
「オレと同じ?」
「あなたのことを考えていると、自分を好きになるときもあれば、嫌いになるときもあるの。わたしってこんな気持ちになれるんだ。こんなことを考えているんだ、って。自分では見つけられないものを見つけさせてくれる。そんな不思議な力をあなただけが持ってる。それはきっと、ブチャラティがわたしに抱いてくれている気持ちと同じ」
自惚れかもしれないけど、とは微苦笑する。
「ねえ、ブチャラティ。時間はまだ平気?」
「今日一日は、きみの傍を離れないと約束した」
「そういえばそうだったね」
は背筋を伸ばし、深呼吸をした。瞬いた目に甘い匂いはなく、鋭く光っている。
見なくとも分かる。肌で感じる。いままで陽気に話していたとは雰囲気が違う。
「ブチャラティ。あなたは気付いているんでしょう」
ブチャラティは眉を動かした。
「わたしがネアポリスに戻ってきた理由を、あの時全て話していたわけじゃあないってことに」
まさかのほうからその話を持ち掛けられるとは思わず、ブチャラティは内心驚いた。がネアポリスへ戻ってきた理由。初めてに問うたとき、彼女は言った。
『わたしは旅行帰り。二年間も各地を回っていたら、ネアポリスの風が恋しくなるときだってある。今回は長旅で疲れたから、ここへ戻ってきただけ』。
あの言葉が嘘だとは思えない。しかし、やはり真の理由は『別』にあるということだ。
「最初に釈明させて。あの時に話したのは全部本当のこと。ただ、他にも理由はある」
「それを聞かせてくれるんだな」
はしっかりと頷いた。目を逸らすこともない。真実を告げようとしている顔だ。
ブチャラティはいつの間にか胸に溜まっていた空気を静かに吐き出した。
いつかは聞かせてもらおうと思っていた。しかし、それがまさかこんな形で実現するとは考えもしなかった。これから全てを話そうと構えているも、いずれはこうなることを分かっていたように見える。
これが先ほどまでワインを酌み返し、食事を楽しんでいた男女を包み込む空気だろうか。
いや、オレたちは最初からこうだったはずだ。
「……分かった。話を聞こう」
淹れたてのカッフェから、湯気が消えた。