ドリーム小説 31

 大聖堂の美術館を出る頃、空の色は徐々に変わりつつあった。腕時計を確認すると、短針は十六時を示そうとしている。
 これからどこへ行こうか話し合った結果、アマルフィの海を眺めることになった。ネアポリスから二、三時間弱の位置にあるとはいえ、世界で一番美しい海辺と評されている場所へ来て、海を見ないまま帰るわけには行かない。ブチャラティとは細い道を歩き、天へ続く階段を上った。
 もう何段上ったかわからないところで、ブチャラティは後ろを振り返る。少々疲れた様子で着いてきているの手を引いてやり、背中を支える。
「グラッツェ。もう少し体力つけなきゃあだめね」は苦笑を浮かべた。
「きみは足元に気を遣っているから仕方ない」
 上った先に展望台のような場所を見つけ、ブチャラティとはそちらへ向かった。高台ということもあり、心地のよい海風が互いの髪を揺らす。
「風が気持ちいい」
「寒くないか?」
「平気。気を遣ってくれてありがとう」
「風邪をひかれては困るからな」
 展望台から眺めるアマルフィの海は、とても美しかった。世界中からサファイアとエメラルドをかき集めて清純な水に融かせば、このような透き通った色になるのだろうな、とブチャラティは思った。
 複雑に入り組んだ岩肌に建ち並ぶ家々。ランプが灯りはじめたリストランテ。先ほどの大聖堂。まだ泳ぐには早い海の近くでは、恋人たちが寄り添って景色を眺めている姿が小さく見える。
 もし、いまの自分たちを傍の他人が見れば、恋人同士に見られるのだろうか。それともただの親しい友人同士の観光旅行だと思われるのだろうか。
 隣を見れば、海を眺めるの横顔がある。徐々に沈みゆく太陽の光に反射して、きらきらと輝く目がと眩しい。先ほどの雑貨店の男が言っていたが、の肌は陶器のように綺麗だ。それはいまに始まったことではなく、再会してからのはいっそう美しさに磨きがかかっている。そう感じてしまうのは、目には見えないフィルターのせいなのかもしれない。
 そんなブチャラティの目を捉えたのは、自分たちと同じように天文台へやってきた家族だ。父親と子供は目の前に広がる景色に歓喜の声をあげ、母親は二人の後を追いつつポラロイドカメラを取り出している。家族で海を背景に記念写真を撮ろうとしているようだが、カメラを置けるような場所が見当たらず、困っているようだ。
「記念写真ですか?」
 ブチャラティよりも先に、が声をかけた。
「わたしでよろしければ、お撮りしますよ」
「ほんとう? とっても助かるわ」母親が言った。
 はカメラを受け取り、操作方法を細かく聞いている。ブチャラティはその様子を柵に背中を預けて眺めることにした。一通りの説明が終わると、子供を挟んで父親と母親が両端に並んだ。
 はファインダーを覗き込み、オーケーサインを作った。家族は各々ポーズを決める。
 最初のシャッターが切られる。写真を取り出したはそれを一度ポケットへしまった。が「もう一枚だけ撮ります」と言えば、家族は更に距離を縮めて寄り添った。その光景は美しく、あたたかい。
 再びシャッターを切ったは、二枚の写真を揃えてカメラと共に差し出した。
「逆光になっていなければいいんですけど」
「ディ・モールトグラッツェ、お嬢さん」
 父親が、ブチャラティを見る。
「よかったら、きみたちも撮ってあげようか。ポラロイドだからすぐに写真が渡せるしね」
「えっ」
「さっき階段を上っているときに、きみたちの姿を見ていたんだ。とてもお似合いだよ」
 ブチャラティはのほうを見た。自然と視線が絡み合い、なんともいえない空気になる。
「それなら、お願いしてもいいですか?」最初に申し出たのはだった。
「もちろんさ。さあ、お兄さんも並んで並んで」
 子供に腕を引っ張られ、ブチャラティはの隣へ並んだ。は髪型や服の皺を直している。
、嫌じゃあなかったのか?」
「え?」
「……いや、なんでもない」
 カメラが自分たちを見つめている。男はもう少し距離を縮めるように手のひらを中心に寄せて指示した。お望み通り、ブチャラティはの肩を抱こうと手を伸ばす。しかしなぜだろうか。一度肩まで伸ばした手を下ろし、腰を抱いてしまった。
 ――今日、この時だけでいい。
 腰を抱いた瞬間、の体が硬直したのが分かった。それでも彼女は嫌がる素振りは見せない。その小さな積み重ねが、いかに自分を煽るかも知らずに。
 考えている内にシャッターが切られた。男が言うにはどちらも良い顔をしていたそうだが、定かではない。できたての写真を受け取り、は一礼した。ブチャラティも続けて感謝の言葉を述べる。
「時間もらっちゃってごめんね」が待ちぼうけをくらっている少年に言った。
「いいんだ。僕たちの思い出を撮ってくれたお礼だよ。父さんたちもすごく喜んでる」
「随分と利口そうな子だな」ブチャラティが言った。
「そうかな? そう言ってもらえると嬉しいや。将来は学校の先生になろうと思ってるから」
「へえ、もう夢が決まってるんだ。素敵ね」
「うん。僕の父さんが学校の先生をしていて、とってもかっこいいから憧れてるんだ」
 遠くから我が子を呼ぶ父親の声が聞こえた。
「あ、ごめんね。そろそろ行かなくちゃ。じゃあね、お姉さんにお兄さん。よい旅を」
 少年は両親のところへ駆けていき、二人の間に入って両手を繋いだ。去り際にこちらへ手を振る父親の姿に、が同じように手を振り返って見送った。
「素敵な家族だったね」が呟いた。
「あれは親の育て方がいい」
 確かにそうね、とが隣で頷く。
「さっきの話を聞いて思ったんだが、はこれからも情報屋を続けるつもりなのか?」
「それが、実はね」
 は景色のほうを向いた。
「最近は情報屋の仕事はめっきりなくて、近々辞めようかなって考えてたところ」
「辞める?」
「状況が変わったの。数年前は目に見えて伝達方法が少なかったけれど、今は急激にネットワークが普及しつつある。その場へ行かなくても、自分で調べなくても簡単に情報が手に入る――そんなことが当たり前になる。裏の犯罪にも目が行き届くようになって、色んな情報が飛び交うようになる」
 だからね、とは髪を耳にかけた。その耳には以前プレゼントした桜が咲いている。
「また新しい人生を創っていこうと思ってるの。わたしはあの子みたいに明確な夢があるわけじゃあないけど、これから見つけていこうかなって」
 の話を聞きながら、ブチャラティは今まで考えないようにしていたことを思い出した。
 は情報屋、自分はギャング。世間一般ではあまり無難とはいえない職業だが、ブチャラティは表の社会で暮らしていけない立場に置かれている。がどういった経緯でこの仕事を選択したのかは不明だが、分かっていることが一つだけある。
 彼女は自分とは違う。情報屋を辞めたとしても、白い線から新しい道を歩くことができる。その権利を彼女は持っているのだ。こうして当たり前のように隣に立っているは、自分とは違う世界にいる。限りなく黒に近い自分と、限りなく白に近い彼女。その事実をブチャラティは改めて思い知った。
 ――オレはいつから、夢見ることを忘れていた?
「ごめんなさい。青臭いこと言っちゃって」
「誰かに聞いてもらいたかったんだろう?」
 は頷いた。「最初に聞いてもらえたのがブチャラティでよかった。あなたは聞き上手だから、こういった恥ずかしい話も話しやすくって」
 自分がの友人であること。がブルーカに嫉妬心を抱いていたこと。嫌でも自惚れたくなる要素はいくつかあるが、この距離だけはどうしても縮まらない。そんな自分が今、確かめることができるのはひとつしかない。
。オレからもいいか?」
 なに? というようにはブチャラティを見た。
がどこで何をしていても、オレがきみの味方でいることを許してくれるだろうか」
 自分で訊きながら情けなく思った。女の前だと途端に臆病になるような男だな、と。
 は笑顔を返してくれた。まるで何も気にする必要なんかない、と慰めているように見えた。
 そうだ。自分はこの笑顔に無意識に甘えていたのだ。彼女が笑ってくれるだけで、すべてが許されるのだと勘違いしてしまうほどに。
 ――本当に、という人物には適わない。
「グラッツェ。それを聞いて安心したよ」
「こちらこそ」
 どこかで携帯電話が震えた。ブチャラティは自分のポケットへ手を突っ込んだが、震えているのはのハンドバッグからだった。も自分が呼び出されていることに気付き携帯電話を取り出すと、着信を知らせるランプが点滅している。
 はブチャラティを見た。何も言わずに頷いてやると、はプッシュボタンを押してその場から少し離れ、通話を始めた。その背中を見てから、一息ついて景色へ視線を戻す。もうすぐ日が暮れる。昼間は太陽の光で暖かかったが、三月の終わりでも夜は薄着一枚では冷える。
「ごめんなさい。もう大丈夫」
「仕事か?」
「あなたに一日空けておくようにお願いしたのに、わたしが仕事を入れちゃあ意味ないでしょう。今のはちょっとした業務連絡。気にしないで」
 は携帯電話をしまった。
「それより、そろそろ夕食にしない? 近くにいいお店があるんだって」
 の提案にブチャラティも同意した。アマルフィの海に太陽が沈んでいくのを見届けてから、ブチャラティはに連れられてリストランテへやって来た。店は昼に駐車したホテルのすぐ近くにあった。
「何名様でしょうか」ウエイトレスがやって来る。
「これを」はなにかを提示した。
 ウエイトレスはそれを見ると、笑みを浮かべて会釈した。
「お待ちしておりました、様。お席へご案内いたします」
 なぜかブチャラティとは待つことなく、すんなりと店内へ案内された。
 白を基調とした店内の窓には枠がなく、その一つ一つがアマルフィの海岸を描いた絵画のようだ。見上げれば高い天井。わずかな光だけが席を照らしているが、外からこぼれる灯りのほうが眩しいくらいだ。
 従業員とすれ違うたびに会釈をされる。確認したわけではないが、店内で既に食事をしている者たちも、なにか物珍しそうにこちらを見ているような気がした。
 案内されたのは景色を楽しむ窓際の席でもなければ、大きなテーブルでもない。ウエイトレスが開いた扉の先には、賑やかな店内を打ち消すような静けさと、アマルフィの景色が一望できるプライベートテラスがあった。引かれた椅子に座り、もハンドバッグ置いて向かいの席に座った。
 ふと目が合うと、は悪戯が成功した子供のように小さく笑った。
「アマルフィは初めてと聞いていたんだが」
「デートでは初めてってこと」
 人はそれを屁理屈と言うのではないだろうか。
「ごめんなさい。別にあなたを騙していたわけじゃあないの。ここを下見するために一度来ただけだから。でもいい眺めだと思わない? 料理も美味しいの」
「言っておくが、金はオレが払うぞ」
「それは残念。予約は前払い制」
 今日はどこまでも抜け目がない、とブチャラティは思わず深いため息を吐いた。
「そんな顔しないで。ブチャラティに喜んでもらいたくて選んだお店なの。今日くらいは、ね?」
 悩む暇もなく、ブチャラティは折れた。自分のためにあれこれ考えてくれたのならば、今日はその厚意を受け取る以外にすることはない。
 飲み物のオーダーを訊かれ、ブチャラティとは料理に合うようワイングラスを頼んだ。テーブル脇に小さな紙が二枚置かれる。コース料理の品名が、前菜から食後のドルチェまで記されている。いったいどこまでが一つの料理なのだろうか。並んだ文字を眺めるよりも、運ばれてくる料理を見たほうが早い、とブチャラティは思った。
「さっき店員に見せていたものは?」
「ああ、あれね。あれは予約票」
「どうりですんなり案内してくれたわけだ。いつからこの店の予約を?」
「一週間くらい前、だったかな」
「一週間前といったら、と二人でネアポリスへ出掛けたときじゃあないか」
 は片手を左右へ振った。「それよりももう少し前。あなたと再会してから間もない頃」
「そんな前から考えていたのか」
「二年間も離れていたし、ブチャラティとはゆっくり話もしたかったからね。オーケーをもらうつもりで色々と準備してたけど、あなたを誘ったときに断られたらどうしようって後から慌てちゃった」
 ブチャラティは試しに訊いてみた。「もしオレが断っていたらどうするつもりだったんだ」
「そうね。他の人を誘っていたかも」
 最初からデートの誘いを断るつもりはなかったが、そうならずに済んでよかった。
「予約制だったからコースはこっちで勝手に選んじゃったんだけど、いい?」
「きみが選んでくれたものに文句をつけるとでも?」
「そう。それなら、料理を楽しみましょう」
 仕切り扉が再び開かれた。ワイングラスがテーブルに並び、ボトルも開けられて二人のグラスにワインが注がれる。別の者が前菜を丁寧に配し、磨かれたフォークとナイフを置いた。ウエイトレスたちは会釈をしてその場を去る。
 がグラスを手に持った。ブチャラティも同様に持ち上げ、互いにかちんと合わせ鳴らした。その音と共に天井の照明が落ち、外の景色の一点に光が集まる。何事かと目をやれば、道の反対側にある建物のテラスには楽器を持った数人の男女が座っている。
 静かにピアノの音が流れ出す。その次はベースだ。徐々に軽快なリズムに変わっていき、そこでブチャラティはようやく気がついた。この曲は自分が昔から聴いているジャズミュージックだ。トランペットの高鳴る音が胸を揺さぶった。
 偶然だろうか。いや、偶然にしては出来すぎている。
 はっとしてブチャラティは視線を戻した。この趣深いイベントを仕掛けた犯人は、優雅にワイングラスを傾けている。熱い息を吐くと目が合った。
「言ったでしょう。食事を楽しみましょうって」
 ブチャラティは二度目のため息を吐いた。しかしそれは先ほどは違い、笑いを含んでいた。背もたれに預けていた体を伸ばし、ワインを口に含む。グラスを置いたところで、音楽は一度止まり、次の曲へ移る。これもまた、ブチャラティがよく耳にするものだった。
「予想以上の反応で思わずにやにやしちゃった」
「いったいどんな魔法を使ったんだ」
「ここへ来る前にわたしの電話が鳴ったでしょう? あれは準備完了の合図だったの」
 ブチャラティは鼻の横を掻いた。「普通は逆だぜ。こういうサプライズをするのは」
「驚いた?」
「驚いていないように見えるのか?」
「やった。大成功」
 は嬉しそうに笑い、控えめに拳を固めた。
「もうしばらくしたら次の料理が来るから、その前に前菜を食べましょう」
 色とりどりのアマルフィの夜景。海の香り。ジャズミュージック。すべてを感じながらブチャラティはとの時間を楽しんだ。
 運ばれてくる料理はどれも美味で、地中海料理はまさに生命の味がした。湯気の立っている器に手を伸ばし、熱のこもった貝がの口の中で踊る様をブチャラティは笑いながら見ていた。
 ピッツァの次に運ばれてきた肉料理は、口の中に入れるだけで噛む必要もなく溶けていった。ワインの色も、料理に合わせて変わる。三杯目を飲んだところで視界が微かに歪んだが、テラスを吹きぬける海風がそれを和らげてくれる。
 ――久しぶりだ。こんな時間を過ごすのは。
 演奏も、まるで二人の会話を聞いているかのように曲調を変化させた。がなにか操作をしているのではないかと疑問を抱いたが、目の前の彼女はワイングラスを片手に頬を赤らめている。そんな事をしている余裕がないのはすぐに分かった。
、今日は随分飲むな」
「そういうブチャラティもそれで何杯目?」
「これで四杯目だったかな」
「少し前までワインは苦手だったんだけど、最近になって飲めるようになったの。最近だとカントゥッチをワインに浸したものが美味しかったな。本場で飲んだけど、やっぱり一味違うの」
「オレの仲間にワイン好きがいるんだ。今度飲みやすいのを紹介してもらえばいい」
「ねえ、もしかしてその方って、わたしのパスポートを拾ってくれた人?」
 そうだ、とブチャラティは頷いた。
「そうなんだ。あの人がね……」
「なんだ。会ったことがあるのか?」
「実は前に、ネアポリス駅でフーゴくんとばったり会ったの。その時隣にいた人が、わたしのパスポートを拾ってくれたって事をフーゴくんが教えてくれて」
 ここ最近でフーゴとアバッキオが行動を共にしていた日といえば、火曜日のことだ。まさしくブチャラティがブルーカと歩いていた現場をに目撃され、修羅場に陥ってしまったときだ。はあのあと、駅でフーゴたちと会っていたのか。初めて聞く情報に、ブチャラティは少々驚いた。
「また今度、機会があったら改めてお礼をさせて」
「ああ、もちろん」
 は上機嫌でワインを飲み干したが、ブチャラティは彼女の言葉を聞き逃さなかった。
 やはりは、自分に嘘を吐いている。

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