「、この黄色いのは?」
「それはたまご焼き。溶いた卵に牛乳と砂糖を入れて、専用のフライパンで巻いて焼くの」
「この柔らかい芋のようなものは?」
「それは筑前煮。日本の郷土料理」
「こいつには花が咲いている……」
「それは蓮根ね」
「豆は苦手だが、この豆は柔らかくて甘いな」
「甘納豆は砂糖で煮込ん……って、ブチャラティ。りんご以外にも苦手なものがあったんだ」
弁当を食べながら、ブチャラティは見たことのない料理について訊いていた。昔から豆だけは苦手だったが、の料理はまるで魔法にかけられたかのように口のへ運んでしまう。自分の舌はもしかすると、日本食に向いているのかもしれない。そう思うと、本場の料理も食べてみたいと思えた。
車が走り出してから一時間。ブチャラティはランチボックスを空にした。もブチャラティの手助け付き(本人は頑なに拒否を示したが)で昼食を取り、いまは腹を満たした状態でハンドルを握っている。ランチボックスを元の形に戻し、ハンドバッグへ戻した。
「、ごちそうになった。本当に美味かった」
「こちらこそ。綺麗に食べてくれてありがとう。どうだった? 日本食は味が薄かったかな」
「確かに最初は薄いと思ったが、食べていると優しい味へ変わっていく不思議な料理だった」
「じゃあ今度日本へ行く機会があれば、ぜひ本場の料理を食べてみて。わたしが作った料理はほとんど輸入品を使っているから、味がいまいちなの」
「それでも美味かったんだ。また作ってくれ」
「それは、もちろん」はにんまりと笑った。
海だけの景色の向こうに、街が見えてきた。ネアポリスとはまた異なり、色彩が豊富なパステルカラーの街並みにはどこか見覚えがある。
そうだ。先ほど適当に手に取って見ていた雑誌の景色とそっくりではないか。
アマルフィ海岸。ジェノバ、ピサ、ヴェネツィアと並ぶ四大海運共和国の一つで、世界で最も美しい海岸として世界遺産に登録されている。夏の入り江にはたくさんのビーチパラソルが並び、世界各国から観光客が訪れている。その数は年を重ねるごとに増え続けているのだそうだ。
車の脇を観光バスが通過した。あの観光バスもアマルフィ海岸へ向かうようだ。ブチャラティとが乗っている車も街へ到着し、しばらく走った先にあるホテルの前を通る。
「なぜホテルなんだ?」
「アマルフィは道が狭くて駐車場も少ないの。今の季節はどちらかといえば閑散期だけど、それでもきっとどこも満員。だからここのホテルに宿泊費を払うから車だけ停めさせてください、ってお願いしたの。だって面倒じゃない、せっかくいい景色を観に来たのに、車を停めるためだけに数十キロも歩くなんて」
それは確かにそうだが。駐車をするためだけに高級ホテルの宿泊費を払う、という話をホテル側に持ちかけたはかなり強気だな、とブチャラティは思った。
従業員に導かれ、駐車場に車を停める。エンジンを切り、キーを抜いたが先に降りた。従業員から駐車券をもらう様子を眺め、ブチャラティもシートベルトを外して車を出る。外の空気は清々しく、高く昇っている太陽がとてもあたたかい。絶好のデート日和というわけだ。
話を終えたが駆け寄ってくる。
「運転で疲れていないか」
「大丈夫。心配してくれてありがとう」
「ここはアマルフィで合っているな?」訊きながらブチャラティは辺りを見渡した。
「そう。前から一度来てみたかったの。ブチャラティは仕事か何かで来たことはある?」
「いや、オレも機会がなくてな」
「お互いに初めてなんだ。それなら気になる場所や景色をゆっくり観て回りましょう」
ホテルの入り口を抜け、観光バスや海岸沿いの景色を眺めながら車道へ出た。首にカメラを提げている者や、レモンジュースを片手に歩いている者が多く見える。休日ということもあり、大通りは少々混雑している。隣を歩くもすれ違う者とぶつからないように肩を避けている。
「」
ブチャラティはの手を取った。は驚き顔で見上げてくる。
しかしブチャラティは、そのように驚いていることに対して逆に疑問を抱いた。
「そんなに驚くことじゃあないだろう。が言ったんだぜ。今日はデートだってな」
は、あっ、と頬を赤らめた。
「デートならデートらしいことをしよう。それとも腕を組んだほうがいいか?」
ブチャラティの問いには目を伏せたあと、握られた手を一度離し、指を絡めた。
「デートなら、こうやって繋ぐものじゃあない?」
正直、これには負けた、と思った。
ブチャラティはその手を離さぬように強く、そして優しく握り返した。
最初は歩行者の流れに沿って歩いた。広場から枝分かれになった道を真っ直ぐに進む。しばらく行くと、縦に長い建物が並ぶ狭い道に出た。ロレンツォ・ダマルフィ通りだ。比較的人が少なく、パステルカラーの似合う様々な種類の店が建ち並んでいる。
ブチャラティはに手を引かれた。向かった先は雑貨屋だ。小さなものから大きなものまで、様々な商品が飾られている。やはり女性はこういった細々としたものを眺めるのが好きなのだろうか。
店内はまるで子供部屋のようだ。天井には鳥のモニュメントがぶら下がっており、壁には何枚ものタペストリーが並んでいる。店の奥では数人の店員がそれぞれ手作りで皿の模様を描いている姿がある。
「あ、このお皿。前にどこかで見たことがある」が一枚の皿を持ち上げた。
「前にと行った店で使われていたものだな」
「ここのお店で揃えていたんだ」
「アマルフィは釜戸の多い街でして。ここに並んでいるもの以外でも、陶器ほとんど我々が作っています」
先ほどまで筆を取っていた店の者が歩み寄ってきた。とても穏やかそうな男だ。
「観光の方ですか?」男が訊いた。
ブチャラティとは同時に頷く。
「そうですか。お嬢さんは日本人かな。とても綺麗な肌をしているね。まるで、そう、陶器のようだ」
「グラッツェ。こちらに並んでいる品々には負けます」は照れくさそうに笑う。
「イタリア語も随分とお上手だなあ」
お構いなしにへ言い寄る男に、ブチャラティは、失礼、と軽く手を挙げる。
「オレが隣にいることをお忘れなく」
「これは大変失礼いたしました」男は頭を下げた。
そのあと、男は姉だと思われる女に首根っこを掴まれて仕事へ戻った。
ブチャラティたちが次に向かったのは、店の外にたくさんの貝殻が飾られている装飾品店だ。
「すごい。ここにあるのは全部、アマルフィの浜辺で取れる貝殻なのかな」
「夏になるからな。こういったアクセサリーを身につけてビーチへ行くんだろう」
「ブチャラティはみんなとバカンスには行かないの?」
「男だけでバカンスに行ってもつまらないだろう」
「そう? 楽しそうじゃない。悪くないと思うけど」
「それなら、その時はを誘おうか」
「わたしが行って邪魔にならないかな」
「そんなことはないさ」
男というのは単純な生き物だからな。
「じゃあ、考えておく」微苦笑を浮かべるは、冗談半分に聞いているようだった。
眺めていた店を離れたとき、どこからか柑橘系の香りが漂ってきた。匂いに誘われるように先へ進む。人が集まっている店を見つけて歩み寄ると、周りにはたくさんのレモンが籠の中に積まれていた。そこはレモンの量り売りをしている店だった。店内には数々のレモン商品が陳列されており、並んでいる瓶は全てレモンを使用したリキュールだ。
そういえば。先ほど大通りでレモンジュースを片手に歩いている者たちを多く見かけた。
「アマルフィはレモンで有名ね」
「ああ。さっきの店にもレモンの香水や、レモンが描かれた皿が置いてあった」
「せっかくだからレモンジュースを飲んでみない? 甘酸っぱくて美味しそう」
「。この先の店には、ジェラートもあるぜ」ブチャラティは遠くの店を指差した。
「ジェラートッ?」は目を輝かせる。
「きみが決めたらいい」
「もちろん。どちらも買うに決まってるでしょう」
購入したレモンジュースを片手に、ジェラートを売っている店へ向かった。双方のレモンの酸味で、口の中が海になってしまうのではないか、と思ったが、酸味はそこまで強くはなかった。甘みを帯びた味にはもちろん、ブチャラティも感激した。
空いているベンチに座り、レモンジュースとジェラートの味を交互に比べる。ブチャラティが、昼食の弁当のようにジェラートをの口元へ持っていけば、彼女は至極嬉しそうに、ぱくりとそれを頬張った。先ほどまでは恥ずかしがっていたというのに、この変わり様だ。
今度はがジェラートを手に取り、ブチャラティの口元へ運ぶ。ブチャラティはかぶりを振ったが、は一向に引かない。強い押しに負け、ブチャラティは差し出されたジェラートにかぶりつく。
やられた者にしか分からないことだが、これが思っていた以上に恥ずかしい。
「さっきのお返しね」
しかし楽しそうなを見て、こういうことも悪くないな、とブチャラティは思った。
小腹を満たし、ブチャラティはの手を引きながらドゥオーモ広場にあるアマルフィ大聖堂へ向かう。建物前には記念写真を撮る者や、付近に設置されているテラスへ座り、スケッチブックを片手に景色を描いている者がいる。特に多いのは見学者のようだ。
「写真で見るのとは迫力が違ね。わたし、地下礼拝堂にある画が観てみたいの」
「行ってみよう」
一度手を離し、階段を上る。階段では段差を椅子代わりにしている者もいた。
「ブチャラティはこういう歴史的建造物とかは好き?」
「特別詳しいわけじゃあないんだが、興味深いとは思う。いま自分の前に建っているものがどう造られたのか。その工程を知ると、なかなか面白いからな」
「絵画なんかでは今でも証明されていない事柄がたくさんあって、色々な解釈が飛び交ってるみたい。誰が描いたものなのか、画に描かれている人物とはどういった関係にあったのか。他にも使われている絵の具を解析するだけで、どの年代に描かれたものなのか分かるっていうことには驚いちゃった」
入場料を払い、建物へ入った途端、賑やかな町の音が消えた。まるで別世界へやって来たようだ。
進んだ先に白を基調とした回廊が見える。手入れの行き届いた中庭を眺めていたがこちらを見て、小さな花を指差す。とても可愛らしい花々が咲いている。
昼下がりの光がの髪を優しく包み込む。白に囲まれた回廊で自分へ微笑みを向けるは、まるで天国から降りてきたかのように見えた。
「……綺麗だ」
「うん。とっても綺麗な場所。向こうは美術館かな」
「いや、きみがとても綺麗と言ったんだ」
自分でも何を言っているのか分からないが、今はそれ以外の言葉が出てこなかった。も突然口説かれてさすがに戸惑っている様子だ。
「、日に日に綺麗になっていっていないか?」
「ぶ、ブチャラティ、突然どうしたの。こんなところで恥ずかしいこと言わないで」
「天使かと思っちまった……」
「ブチャラティ」抑揚のある声でが言った。
はっとして周りを見れば、若い女性たちがこちらを見ながら控えめに黄色い声を上げている。目の前にいるといえば、耳まで真っ赤になっていた。
それでもブチャラティは自分の言ったことに後悔はなかった。本当に彼女が天使のように見えたのだ。だから言った。ブチャラティの胸の中にあるのはそれだけだった。
気を取り直して、回廊の先にある地下礼拝堂へ向かう。は天を仰ぎ、天井画を観た。ブチャラティも同じように首を持ち上げる。壁に描かれているのは全てフレスコ画だ。フレスコ画と聞いてすぐに頭に浮かぶのは、ミケランジェロの『最後の審判』である。小さい頃、学校の見学会でシスティーナ礼拝堂へ行ったことは今でも覚えている。鑑賞能力がまだ出来上がっていないあの頃でも、壁に描かれた画には圧倒的な力を感じた。
「、椅子があるぞ」
「ううん、立って眺めたい。ありがとう」
は再び画を見つめる。
「月並みな言い方になってしまうけど。さっきから『すごい』の一言しか出てこないの」
「確かにそうだな」
ブチャラティも画を見上げる。
「画家は、滴り落ちてくる絵の具を顔に受けながら天井画を描いていたそうだ」
「あんな高いところへ上ってまで、描かければならなかったのはどうしてなのかな?」
「雇い主の命令には逆らえなかったんだろ。オレたちだって組織の言葉は絶対だ」
と目が合えば、自然と歩幅を合わせて歩き出した。
「さっきから思っていたんだけど、ブチャラティはこういう場所が似合うね」
「神聖な場所にチンピラが?」
「佇まいかな。天井画や壁画を前にしたブチャラティを見ていたら、素直にそう思ったの」
「少なくとも、オレみたいな人間は天国にはいけないだろうな」ブチャラティは嘲笑した。
はかぶりを振った。「もう、そんな悲しいこと言わないで。あなたなら大丈夫よ」
「なるほど。天使であるきみが、オレを天国まで連れて行ってくれるっていうんだな?」
ブチャラティが問うと、は一瞬目を見開き、それからすぐに吹き出した。
「わたしが天使になれたのならね」
「ああ。期待して待っていよう」
「本当、あなたってやっぱり変わってる」