ドリーム小説 28

 フィレンツェからの列車がネアポリスへ到着したのは、初更の月が薄っすらと浮かぶ頃だった。金曜日の夜ということもあり、駅前は大勢の人が行き交っている。
「行ったら行ったで、また謎が深まりましたね」
「話が余計にややこしくなってしまったな」
「やはりさんは二週間前、ここへ来る前にあの町にいたということになるんでしょうか」
「帰り際に町の住人に話を聞いたが、のような日本人が何度も行き来している姿は見ていないと言っていた。そうなると辻褄が合わなくなる」
「酒場の方から聞いた話でも、あの家に入る人の姿は見たことがないと言っていました」
「ムーディー・ブルースはの姿を明確にとらえていた。フーゴが目にした少年は、に似ている女が何度も家を行き来していると話した。しかし町の住人はあの古い家に行き来している人影を一度も見ていなければ、目撃していた少年は二十年前に亡くなっている」
「ナランチャが聞いたら頭が割れるな、これは」
「誰だって割れるぜ。こんな話を聞いたら」
 言葉として口に出してみても、やはり四つの要点が綺麗に交わることはない。古い家を出てから町の住人に訊き込みを行ったが、家の中へ人が入っていく姿を見た者は、誰一人としていなかった。
 二十年前に亡くなった少年を除いて。
 学校の教師をし、少年と親しかったピエラに訊ねてみても、やはり返答は変わらなかった。
 もしかすると姿を現すかもしれない、とブチャラティは逃げるフーゴの首根っこを掴み、坂道付近で数時間待機したが、少年は現れなかった。少年が幽霊だと断定できたわけではなかったが、ピエラの話に偽りはなかった。死んだ人間は生き返らない。非科学的だが、いまはあの少年が幽霊だと考えるのが賢明だ。
「それと、アバッキオが追跡していたが突然と姿を消した話もある」
「あの。まさかとは思うんですけど……」
は生きているぞ」
「ですよね」
 少年だけでなく、まで幽霊扱いされては困る、とブチャラティは思った。
「幹部の元へは行かなくていいんですか?」
「情報がまだ纏まってないからな。答えを導き出してから報告しても遅くはないさ」
「ポルポも慌てているんでしょうか。ネアポリスが襲われるか分かりませんからね」
「相手も出方を窺っているのかもしれない。ポルポの言うように、この街を通過する可能性だってある。待つんだ。相手の動きがあるまでな」
 ブチャラティとフーゴがたどり着いたのは本屋だ。ここは以前、ブチャラティがアバッキオに眼鏡を届けるように頼んだ店である。その前では、店じまいの準備を進めている店主の姿があった。彼はブチャラティたちの気配に気がついたのか、片付けている手を止めて朗らかに笑みを浮かべた。
「やあ、ブチャラティ。今日はどうしたんだ」
「折り入って、あなたに頼みたいことがある」
 ブチャラティは空き家から持ち出してきた日記を、店主に向かって差し出した。
「ページに書かれているすべての日本語をイタリア語に翻訳してくれ。一週間以内に」
 店主は眼鏡を掛け直したあと、ブチャラティから差し出された日記を受け取った。
「引き受けてくれるかい?」
 店主は頷く。「他でもないブチャラティからの頼みだ。暇つぶしにはちょうどいいだろう」
「グラッツェ。出来上がったら連絡を入れてくれ。すぐに取りに向かおう」
「分かった。それじゃあ、わたしはこれで」
 着用しているぼろぼろのエプロンの中へ日記をしまい、店主はシャッターの奥へ消えていった。その後ろ姿を見送ったあと、ブチャラティはフーゴの元へ向かう。
「用件は済んだんですか?」
「ああ。アジトへ戻ろう」
 ブチャラティが歩き出せば、隣をフーゴが歩く。
「遠くから見ていたんですが、空き家で見つけた日記を店の者に渡していたようでしたけど、よかったんですか?」
「いいんだ。彼は信頼できる。心配するな」
 意外そうにフーゴが首を傾げる。「へえ。ブチャラティの知り合いとかですか?」
「まあ、そんなところだ」
「それにしたって随分と古い本屋ですね。ブチャラティが気に入っていることは別として、客も入っていなさそうなのに、どうやって切り盛りしているんだろう」
 フーゴが疑わしい視線を本屋に向けているが、ブチャラティは気にせず大通りへ出た。
 数日前、団体からのドタキャンを受けたピッツェリアを通る。店内は普段よりも賑わっているようだ。肌着一枚でも十分な気温になったネアポリスでは、そろそろサマータイムが始まる。その影響も相まってか、テラス席で食事をしている者が目立つ。
 ふと、飲み物を運んでいるウエイターと目が合った。彼は客に一礼したあと、トレイを脇に抱えて駆け寄ってきた。
「ブチャラティさん。先日はどうもありがとうございました。オーナーから聞きましたよ」
「先日?」
「ドタキャンの件です」
 ブチャラティは人差し指を口に当てる。「あまり大きな声で言うんじゃあない」
 ウエイターは慌てて周囲を見渡し、空いた片手で口を塞いだ。「す、すみませんでした」
「彼には日頃から世話になっているからな。しかし、次からは何もしてやれないぜ」
「はい。団体での予約が入った場合には、前料金をいただくように改善いたしました」
「それが最善でしょうね」フーゴが頷く。
「オーナーに会っていかれますか?」
「いや、今日はいい。よろしく伝えておいてくれ」
「分かりました。ブチャラティさんとフーゴさんたちであれば、いつでも歓迎いたします」
 店の奥からウエイターを呼ぶ声が聞こえた。
「それでは、僕はこれで」
 会釈をしてから、ウエイターは仕事へ戻っていった。
「明日は晴れるといいですね」
「明日?」
 フーゴは咳払いをした。「さんからデートに誘われたんじゃあないですか」
 ああ、とブチャラティは空を仰ぐ。
「一日空けておいてほしいと言われたんですよね。余程のことがない限り、今度は僕からも連絡は寄越しませんよ。明日は楽しんできてください」
「連絡の判断は任せる。オレに気は遣うな」
「……気を遣わないほうが無理だと思います」
 交差点に差しかかったところで、車やバイクが渋滞している道を抜けていく。路面電車が通過して歩き出すと、向かいの道で男と歩いている女に目を奪われた。
 確認するまでもなく、その女はだった。春風に似合うベージュのトレンチコートをはおっており、隣を歩く男となにやら楽しそうに言葉を交わしながら横断歩道を渡っている。
「あれ。さんじゃあないですか?」
 フーゴも気がついたようで、視線をそちらに向ける。
「こんなところに一人で――」しかし彼女の隣を歩く男の姿を見て、言葉を詰まらせた。
 ブチャラティは思わず足を止めた。いや、本来ならば止める必要などなかったのだが、足が勝手にブレーキをかけた感覚に近かった。
 と男は横断歩道を渡り、道路沿いに並んでいるリストランテの前で立ち止まった。ブチャラティの記憶が正しければ、あの店は確か、事前に予約をしなくては来店できない場所だ。蝋燭が綺麗に灯る階段を上った先にある扉を男が開く。ドアノブを握っていないほうの手で、を導くようにエスコートしている。嬉しそうに店の中へ入っていくの背中へ男の手が回った。それを見た瞬間、ブチャラティは灰色の靄が胸の中で一気に広がっていくのを感じた。
「店の中へ入っていきました、よね?」
「ああ。そうらしいな」
 いま、自分の顔を鏡で見るのが恐ろしい。ブチャラティは思わず目を逸らした。
 女性をエスコートするのは、男として当たり前のことだ。決しておかしなことではない。
 言葉にできない心情を渦巻いていることも知らず、フーゴは気になる様子でと男が入っていったリストランテへ向かって歩き出した。ブチャラティは何も言わずにその後を追いかけた。どちらにしても、アジトへ戻るためにはリストランテの前を通らなくてはならない。
 店の前までやってくると、店の者は何も言わずに自分たちを招き入れた。店内は賑やかなピッツェリアとは正反対に、静かな空気を保っている。
 店内へ入ったところで、ブチャラティはようやく我に返った。たちが座っているテーブル席へ近付こうとするフーゴの肩を後ろから掴み、引き止める。
「おい、待つんだフーゴ。こんな事をしてどうする」
「だって、気になるじゃあないですか」
「お前が気にすることじゃあないだろ」
「僕『も』気になるんですよ。大丈夫。声をかけたりはしないし、遠くから観察するだけです」
 ブチャラティはかぶりを振る。「彼女はただ食事をしているだけだ。戻るぞ」
「とか言って。あの男がさんの背中に触れただけで、目が本気になってましたよ」
 ブチャラティは思わず片目を覆った。
「と、いうのは冗談です。まあ見るまでもなく、さっきのあんたには誰も近付きたくなかったしょうね。傍にいた僕もちょっとビビりました」
「……そこまで言うほどにか」
「ここ最近ではぶっちぎりで」
 テーブルにも座らずに、ただ立っているだけでは目立ってしまう。ブチャラティはフーゴへ手招きをし、一度店の外へと回った。店の外には店内が覗ける小窓がある。フーゴは中腰になりながら小窓を眺め、小声でブチャラティを呼んだ。それに従って身を屈める。なんだか悪い事をしている気分だが、今はどうでもいい。フーゴが指差すほうを見ると、テーブル席でと男が歓談している。どうして歓談だと分かるのか。二人が笑い合っているからだ。
 運ばれてきた食事を見て、二人はそれぞれナイフとフォークを手に取った。何を話しているかは全く分からないが、双方の表情を見れば、楽しい話なのだろう。の肩が微かに揺れているのが見える。
「誰だ、あの人。ここいらじゃ見ない顔だ」フーゴは小窓から顔を離した。
「彼女とは随分親しい関係のようだな」
「僕からすれば、最初にさんと食事をしたときのあんたのほうが親しそうでしたけど」
 気休めならやめてくれ、とブチャラティは思った。
「しかし、さんもなにを考えているのかさっぱり分かりませんね。自分からブチャラティへデートを申し込んだっていうのに、前日に別の男と食事をするなんて」
「彼女だって、オレ以外の男と食事くらいするさ」
「もしもの話ですけど。ブチャラティがさんと会う前日、違う女性と食事をする場合、わざわざこんなお洒落な店を選んだりしますか?」
 場合によっては、それもあり得る。だが余程の理由がなければしない、というのが答えだった。
 何も言わずにいると、フーゴはと男の姿が見える小窓から顔を離し、立ち上がった。
「でも、面白いものが見られたから良いとします」
「面白いもの?」
「ブチャラティもああやって、妬いたりするんですね」
「誰がどいつに妬いてるって?」
 抑揚のある声で訊くと、フーゴは笑った。
さんのことを話しているときのあんたは、僕らの知らない顔になる。それが悔しくもあり、嬉しいんです」
 戻りましょうか、とフーゴは階段を下っていった。
 フーゴからその言葉を聞くまで、ブチャラティは一度も考えたことがなかった。
 彼女の事を話しているときの自分の顔は、彼らからどう思われているのだろう、と。そう考えたとき、なぜか頬を撫でる冷たい風が心地よかった。

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