三月十六日、金曜日。午前七時。携帯電話に送られてきたミスタからのメールを確認したあと、右から左へ移りゆく景色をブチャラティは列車の窓から眺めた。
ネアポリス駅を離れて約一時間。街並みはすっかり緑が広がる景色へと変わっており、向かいの席ではフーゴが携帯電話を構えながら同じ景色を眺めている。
フィレンツェの田舎町へ向けて走行する列車から眺める景色は、確かに早朝の太陽に似合うものがあった。遠くで見える青く高い空と、ネアポリスの海のように広がるぶどう畑やハーブ園の色彩が映えている。このまま北上していけばフィレンツェに到着し、更に乗り継けばミラノやヴェネツィアにたどり着く。一度も行ったことがないわけではないが、観光というお気楽な旅が出来る立場ではない。いつかは心を落ち着かせて自分の生まれた国を周ってみたい、という小さな夢をブチャラティは胸に芽生えさせていた。
列車が目的の駅に到着すると、フーゴは進むべき道を覚えているようで、地図も見ずに足を進ませた。
駅から離れれば、途端に一面が草原になった。本当に何もない場所なんだな、と感じる。
「町まではしばらく歩きますよ」
「どうせなにもないんだ。ゆっくり歩こう」
辺りを見渡しても、自分たちのようにスーツ姿で歩いている者は見当たらない。その代わりではないが、遠く離れた場所では田園の世話をしている者や、小型バイクでどこかへ向かう親子の姿も確認できる。子供たちの楽しそうな声を聞くだけで、この辺りが長閑で平和であることが分かる。
「そういえば。前にアバッキオとここへ来たときは、特に会話もなかったんですよね」
「オレから見ても、お前たちは話の合う二人だと思っていたんだが。違うのか?」
フーゴは頬を掻く。「苦手なわけじゃあないんです。話をもたせなくちゃあならない相手でもないんですけど。アバッキオの雰囲気が変わったのかな」
「昔と比べれば多少は丸くなったからな」
「誰かの影響ですね。きっと」
「誰か?」
フーゴはおかしそうに笑った。「思えば、ブチャラティからこの世界に誘われて二年、いや三年かな。薄々感づいていましたけど、僕の情報もさんから?」
「直接ではないがな。が寄越した情報にはスカもあったんだが、その先でお前のことを知った。頭の切れる少年と聞けば、嫌でも興味が沸く」
「覚えてますよ。留置所にあんたがやって来た日のことを忘れたことはありませんから」
「それだけ印象深い出来事だったと?」
フーゴはかぶりを振った。「その逆ですよ。それくらいしか思い出したくないんです。あの時のことは」
歩けど何も見えてこない景色を眺めながら、ブチャラティとフーゴはひたすらに進む。
「先日はすみませんでした。根拠もないのに、さんを疑うようなことを言ってしまって」
突然の深謝にブチャラティは足を一度止めそうになったが、すぐに前へ出る。肩を落としているフーゴの背中を軽く叩き、スーツのポケットに手を入れた。
「気にするな。オレのほうこそすまなかった。お前の言葉を分かっていながら、遮ってしまった」
「謝らないでください。誰だって身内が疑われたら気を悪くしますよ。冷静なあんたでもね」
「だからこそ真実を確かめなくてはならない。が今回の一連に関わっていると分かったのならば、オレは彼女をどこまでも追究してやるさ」
一時間が経とうとする頃。大きな丘を越えた先に小さな町並みが姿を現した。先を歩くフーゴの後にブチャラティが続き、町の入り口へ向かう。辺りを見渡せば、フーゴの報告通り、銃撃戦の跡は残っているものの住人は普段の生活を取り戻しているようだ。傍では元気よく走り回る子供の姿が見える。
フーゴは誰かを探しているようだった。左右に動く視線を頼りに、ブチャラティも町の様子を観察する。
しばらく歩いたところでフーゴが、あッ、と声を出した。向かった先は片手にかごを提げている若い女だった。向こうはフーゴが近付いてきていることに気がつくと、同様に控えめに声を上げた。どうやら顔見知りのようだ。
「こんにちは。覚えていらっしゃいますか」
フーゴが訊くと、若い女は微笑んで頷いた。
「ハンカチを渡してくれた方ですよね。もしかして、この間のことでなにかまた訊きたいことでも?」
はい、とフーゴは頷いた。「ここにいる子供を集めてはもらえませんか? 訊きたいことがあるんです」
女は快く了承の意を表した。聞いた話によれば、彼女はこの町で学校の教師をしているのだという。小さな町ということもあり、町で暮らしている子供たちの顔と名前はすべて認知していると言った。
程なくして、彼女は数人の子供を集めてやって来た。連れてこられた子供たちは、いまから何が始まるのか楽しみでたまらない、という瞳をブチャラティとフーゴに向けているが、彼らにとって楽しいことはこれといって始まらないのが気の毒でならなかった。
集まった子供は数十人。学校の授業が始まる前になるべく手短に済ませよう。そう考えていたブチャラティであったが、隣に立つフーゴは腑に落ちない表情を浮かべている。
「フーゴ。どうしたんだ?」
不思議に思い、ブチャラティが耳打ちをすると、フーゴは首を捻らせた。
「あ、いえ……。見当たらないんです。僕たちに絵を描いてくれた少年が」
ブチャラティは子供たちの顔を見たあと、女に尋ねた。「子供たちはこれで全員だろうか?」
「はい、全員です。今日は病気で休みの子はひとりもいませんから、間違いありません」
「少年を探しているんです。絵がとても上手で、この先の坂道でよく遊んでいる少年を」
フーゴが当時の少年の特徴を述べると、女は見て分かるほどに顔色を悪くさせた。
「絵が上手で、坂道でよく遊んでいる男の子ですって?」
「何か問題でも?」フーゴが訊いた。
女はみるみる血色を悪くさせた。子供たちへ先に学校へ向かうように伝えると、子供たちはブチャラティたちの姿を気にしながら学校までの道を小走りで去っていく。
その場に残った彼女は、ブチャラティとフーゴの顔を交互に見たあと、何も言わずに場所を移動した。連れて行かれた場所は少年が遊んでいたと思われる坂道の手前だった。坂を上った先にはフーゴから見せてもらった絵に描かれている古い家が建っている。
ブチャラティとフーゴ、そして女の間に妙な風が吹いた。彼女は閉ざしていた口を開く。
「わたしの名前はピエラと申します。失礼ですが、お二人の名前をおうかがいしても?」
「失礼しました。僕はフーゴといいます」
「ブチャラティだ」
「フーゴさん、ブチャラティさん。あなたたち二人は確かに見たのですね。坂で遊ぶ男の子を」
「この目で見たのは僕だけです。この坂を上った先に建っている家を調べていたら、声をかけられたんです」言いながらフーゴが坂の先の家を見やる。
「それは、なんとも奇妙なことですね……」ピエラは悩ましげに表情を歪めた。
「というのは?」ブチャラティが訊いた。
「その男の子は、二十年前にこの坂で亡くなっています。当時、わたしがよく遊んでいた友達でした」
「亡くなっている?」
ブチャラティの呟いた台詞に、隣にいるフーゴの身体が硬直したのが見てとれた。
「とても絵の上手な子でした。わたしにもよくこの町から見える景色や、似顔絵を描いてもらいました。死因は坂道からの転倒です。その事故以来、この坂を無闇に上ることは禁止されているんです」
ブチャラティは再び坂道を眺めた。とてつもない急斜面というわけでもないが、上から受け身もとれずに下まで転げ落ちたとなれば、小さな子供は勿論、身体ができあがっている大人でも大怪我は免れない。打ちどころによっては死に至ることも十分有り得るだろう。
しかし、問題はそれだけではない。少年が二十年前に亡くなっていたとなれば、フーゴとアバッキオの前に現れた少年はいったい誰なのか。
「わたしの家に当時の写真があります。フーゴさんが目にした男の子と合致するか確認しましょうか」
「そうしたいところですが、授業のほうは大丈夫なんですか? 遅れてしまいますよ」フーゴが自身の腕時計の時刻をピエラに向かって見せた。
「問題ありません。子供たちへはわたしが授業を始めるまで、決まった問題集を解いてもらうように伝えていますから。お気遣いありがとうございます」
「よくできた生徒なんだな」ブチャラティが言った。
「はい。とてもいい子たちなんです」
ピエラは嬉しそうに頷いた。
「わたしの家はすぐそこです。ご案内しますね」
着いて来てください、と家路を歩くピエラを横目にブチャラティはフーゴに近寄った。
「フーゴ、お前は彼女の家へ行くんだ。オレはこの先の家を調べてくる。終わったら来てくれ」
「分かりました」
ピエラの後を追うフーゴを見届け、ブチャラティは坂道を上っていく。意識していれば急勾配に思えてくるが、上までやって来れば見晴らしの良い場所だった。
目の前で静かに建っている古い家を見上げる。雨風をしのぐだけで精一杯なその建物は、イタリアではあまり見かけない形をしている。木造建築だろうか。
扉の前までやって来ると、フーゴが話していた通り、扉にはドアノブが付いていなかった。ブチャラティもいままで色んな建物に赴いたが、ドアノブのない扉を見たのは生まれて初めてのことだった。
しかしドアノブだろうか鍵穴だろうが、スティッキィ・フィンガーズの前では重大な問題ではない。扉にジッパーを作り出し、家の中へ侵入する。家の中は一般家庭の間取りと差ほど変わりはない。若干だが、家族と暮らしていた頃の海辺の家に似ている。
一歩進んだだけで床が音を立てた。相当痛んでいるようだ。奥へ進むと、リビングルームへ出た。備え付けのキッチン以外は何も見当たらず、がらんとしている。見渡す限りでは変わったものは見当たらない。視線を横へずらすと、ふたつの扉が離れた場所にあることに気がつく。
一つ目の扉を開く。鍵はかかっていなかった。中は洗面所とバスルーム。長い間使われていないからだろうか。形の良いバスタブには汚れが目立っている。洗面台の鏡のなかにいる自分と目が合った。特に驚きはしない。ブチャラティは扉を静かに閉めた。
次にもう一つの扉のドアノブを捻った。しかしどうやら鍵が掛かっているようだ。ブチャラティは再びスティッキィ・フィンガーズで扉にジッパーを作り出す。
扉の向こうは暮らしていた者の私室だろうか。机と椅子がひとつずつ置いてあり、反対の壁際には本棚があった。部屋の中へ入り、観察する。本棚には隙間なく本が陳列されている。適当な一冊を人差し指で掴むと、埃が舞った。思わずブチャラティは咳込む。
手に取った本は動物図鑑だった。隙間のできた両隣を見れば、やはり動物図鑑が並んでいる。
「これは、鳥の図鑑か?」
ページを捲るたびに様々な鳥の写真が掲載されている。しばらく捲っていると、とある場所でページが大きく見開いた。これは本を開いた際、真ん中を強く押し込むことによってできる癖跡だ。
開かれたページには白い鳥が湖で、その翼を大きく広げている写真が載っている。
「……ハ、ク、チョウ。白鳥か」
見出しにはローマ字で白鳥と記されていた。その横には複雑な線で出来た文字が載っているが、ブチャラティには読めなかった。どうやら漢字のようだ。
この部屋の主は、白鳥を調べていたのだろうか――。
考えてもはっきりとした答えは見つからない。他に何かないか、とブチャラティは本を隙間におさめた。
机の上は何も置いていなかった。しかし、違和感を覚えた。
何かが置かれていた形跡が残っている。机はまさに一面が埃だらけの地図のようになっており、その中に四角い島が浮かんでいる。埃が被っていない部分があるのだ。
つまり――最近までは何かが置かれており、それが何者かが持ち去ったと考えるのが妥当だろう。島には多少の埃は被っているが、まだ新しい。
引き出しに手を伸ばしたときだった。部屋の窓が何者かによって小突かれた。これにはブチャラティも驚いた。窓の外を見ると、そこにはフーゴがいた。スティッキィ・フィンガーズで入り口を作り、フーゴを部屋の中に入れる。部屋へ入ったフーゴは充満する埃に咳込んだ。
「こんな部屋があったんですね」
「裏手だからな。気付かなかったんだろう」
「なにか分かりましたか?」
「最近になって何かが持ち去られたような形跡がある。それも最近のことだ」
フーゴは痕跡を見た。「この大きさですと、一般的な本かなにかでしょうか」
ブチャラティは本棚に視線を向ける。「この部屋にあるのは図鑑のようだ。棚が隙間なく埋まっているとなると、持ち去られたものが本だと仮定しても、ここから取り出したものではないと考えていいだろう」
「引き出しの中は見たんですか?」
「これから調べる。そっちはどうだったんだ」
答えにくそうにフーゴは言う。「どうやら僕が見た少年は、人間じゃあなかったみたいです」
引き出しを開けようとしたブチャラティの手が思わず引っ込んだ。
フーゴのポケットから取り出されたのは一枚の写真。それもかなり古いものだ。手に取って見ると、小さな少年と少女が仲良く手を繋いで笑みを浮かべている。背景はぶどう畑だ。右下の日付は確かに二十年前のものだった。
顎を引き、上目遣いでフーゴを見る。フーゴは眉間に皺を寄せながら頬に汗を流していた。
「お前とアバッキオが見た少年は先ほどの彼女が言うように、二十年前に死んでいたと?」
「僕が見た少年と同じ姿です。頭のてっぺんから足の先まで。思わず背筋が凍りましたよ」
「この世界にはいるようだな。幽霊というものが」フーゴに向かって写真を返す。
写真を受け取りながらフーゴは渋い顔をする。「思い返してみれば、少年の背中を押したときに感覚がなかったような気がします」
参っているフーゴを椅子に座らせ、ブチャラティは机の下の棚を調べた。上から三つ重なっている引き出しを上から順に開けていく。しかし出てくるのは空の音だけだ。一番下には使用された鉛筆が何本か転がってたが、他に変わったものは見当たらなかった。
諦めて立ち上がろうとしたときだ。ブチャラティの靴の先が何かに当たった。
「なんだ?」
床の隙間になにかが挟まっている。指が埃まみれになるのを覚悟で、ブチャラティは隙間に手を入れた。
手に取って出てきたのは分厚い日記だった。
埃を払い、日記を開く。中身はイタリア語でもなく英語でもない。日本語で記されていた。それも最近書かれたものではない。随分と古い日記のようだ。時間の経過が原因かは定かではないが、所々の文字が潰れて読み取れない。それ以前に、言語の壁があるのだが。
「フーゴ、日本語は読めるか?」
「日本語ですか?」
ブチャラティはフーゴへ日記を渡す。フーゴは中身を開き、ページを捲っている。
「随分と古い書き方のようですね。残念ですが、僕でもまともに読めそうにないです」
すみません、とフーゴは日記を返した。
ブチャラティはもう一度部屋を見渡す。天井には電気の通っていない照明が下がっている。床は虫かねずみなどが食べ物を食い荒らした跡しか残っていない。
「他には何もなさそうだな」
「どうしてあの少年は、さんの姿を絵に起こしたんでしょうか。それに二十年前と言ったら、まだ僕たちが生まれていない頃の話ですよ」
「それは幽霊に訊いてみないと分からんな。夜までこの家で待とうか。出るかもしれんぞ」
「やッ、やめてくださいよ」
フーゴは椅子から立ち上がり、尻についた埃を払った。
「とにかく出ましょう。なにもないのならいいんです。ここはただの空き家ということだ」
そそくさとフーゴは部屋から退散した。
あいつ、幽霊が苦手なのか――。
ブチャラティは日記を持ち出し、フーゴの後を追う。
部屋を出たときだった。先に部屋を出てきたフーゴが血相を変えてこちらに歩み寄ってきた。出てきたばかりの部屋の扉のジッパーをくぐり、中を見渡している。
「フーゴ?」
「ブチャラティ。いま、何か音がしませんでした?」
「音?」
数秒間だったが、怪しい気配は感じなかった。
「気のせいじゃあないか」
「本当ですか?」
「この家は建て付けが悪い。風の音と間違えたんだろう」
「そう、ですね。気のせいですよね……」